「じゃ──真田明宏の後を尾《つ》けてるんですか?」
と、亜由美は訊いた。
殿永刑事は、亜由美の方を見ずに、黙って肯《うなず》いた。別に亜由美のことを無視したわけではない。車を運転していたのである。
殿永刑事は、亜由美とは浅からぬ仲で──といっても、このシリーズをお読みの方はご存知だろうが、別に「恋人同士」などというわけではない。なぜかいつも亜由美が事件に首を突っ込み、殿永が冷汗をかいている、という間柄なのである。
殿永の車の少し前を、真田明宏の運転するポルシェが走って行く。昼間なので、見失う危険はないのだが、何しろ向うはポルシェ、こっちはいささかくたびれた中古車。
下手をすると、アッという間に引き離されてしまう心配があるので、殿永もかなり真剣だったのである。
「でも──どうして?」
と、亜由美は、殿永の気持など気に留めずに訊《き》いた。「真田明宏に何かあるんですか?」
「まあね」
「隠さないで教えて下さい。城之内ゆかりとは古い友だちですし、真田明宏はそのフィアンセなんですよ。友人として、訊く権利があると思いますけど」
「話さないとは言ってません。ただ、もう少し待って下さい。もう少し行くと、道が混んで、ポルシェもゆっくり走らざるを得なくなるでしょう」
殿永の言葉に、亜由美はさすがに少々赤面した。
「せっつくつもりじゃなかったんです。ただ──せかしただけで」
自分でも、どう違うんだろう、と首をかしげたりした……。
やがて尾行される方もする方も、道が混雑して来て、ゆっくりと走らせることになった。
「──そのお友だちは、かなりいいお家の娘さんですか」
と、殿永は口を開いた。
「ええ。うちとは大分違います」
そばに母親がいたら、文句をつけたかもしれない。
「いや、実は、匿名の投書というやつがありましてね」
と、殿永は言った。 「本当は、他言してはいかんのですがね」
「私は特別でしょ。殿永さんの可愛い人ですもの」
「こらこら」
殿永は、その大きな体で赤くなった。 「大人をからかっちゃいけません。──しかし、どうしたってあなたは話を聞き出すでしょうからね」
「体を張っても」
言うだけは気楽である。
「真田明宏は結婚詐欺師だというのです」
「詐欺師?」
「それだけでなく、新婚早々に花嫁を殺して、財産を手に入れるのが目的だ、と……。城之内ゆかりを狙っている、と名前をあげての投書だったんです」
「まあ」
「もちろん、真田に前科はありません。今、過去に付合った女性のことなど、調べさせていますが、差し当り本当だとして、相手の女性を確かめておこうと思ったんです。まさか塚川さんのお友だちとは──」
「また何かやらかすんじゃないか、と心配なんでしょう?」
と、亜由美は先回りして訊いた。
「あなたがやらかすことぐらい、たかが知れています」
と、殿永は言った。 「せいぜい留置場から請け出してくれば、それでいい。しかし、あなたが、やられたら、これは困りますよ。世の中から、有能な美女が一人、失われることになる」
亜由美は別に照れもせずに、
「いつからそんなにお世辞がうまくなったんです?」
と、訊いてやった。
「それに、お宅の母上に絞め殺されないとも限りませんしな」
と、殿永は付け加えた。 「おや、高速へ入るようだ」
ポルシェがウインカーを出して、高速入口へと車線を変えている。殿永もそれにならったが──。
「困ったな。スピードを出されると、追いつけない」
と、殿永は顔をしかめた。
しかし、二人の心配は無用らしかった。
「高速道路」は、その名を恥じて赤くなる(わけはないが)くらい、混んでいて、ノロノロと走る車がつながっていたのである。
「──変ってますな、あなたのお友だちも」
と、殿永は言った。
「私の友だちだから、変ってる、と言いたいんですか?」
「絡まんで下さい。いくら塚川さんでも、三人の男とは結婚しないでしょう」
「どうせ一人もいませんからね」
と、亜由美はムッとした。
「いや、そんな意味では──」
「どうせもてないんです。ええ、そうなんです。私なんか、もう──」
大人げなく、むくれていたが……。 「重婚罪になります?」
「届を出せば、確かにね。しかし、式をあげただけでも、相手から訴えられる可能性はありますよ」
「ゆかりに話していただけません? 何しろあの子、本当に、三人に同情して、結婚すると言ってるんです」
「ご両親は? 何も知らんのですかな」
「父親はずっとヨーロッパです。母親は……いると思うんですけど」
「気が付いてないんですかね。──ま、金持ってのは、往々にして変っているもんですが」
「でも、分ってれば、何か言いそうなものだと思いません?」
「同感です。──おっと、空《す》いて来たな」
車の流れが良くなって、ポルシェがぐんとスピードを上げた。その力強さといったらない。
あわてて殿永はスピードを上げたが、見失わないのがやっと。
「どんどん郊外の方へ出て行くと、引き離されそうだな」
と、殿永は言った。
「紐《ひも》でもつけときます?」
犬じゃあるまいし。 「──でも、不思議ですね」
「城之内ゆかりさんのことですか?」
「いいえ。混んでた道が、どうして急に空くんでしょう?」
殿永は、目をパチクリさせただけだった。
──心配は現実となって、やがてポルシェの姿は、見えなくなってしまった。
「どうします?」
「さて……。高速ですから、どこからでも下りられるわけじゃない。しかし、どの辺まで行く気なんですかなあ」
殿永もお手上げである。
「もう少し高い車にしたら?」
「上役に言って下さい」
かくて、 「尾行」はいつの間にやら、殿永と亜由美のドライブということになってしまったが……。
「──何かあったな」
と、殿永が言った。
車の流れが悪くなった。前方で何かあったらしい。
「殿永さん……。煙が」
と、亜由美が指さすまでもなく、前方に黒煙が上がっているのが見えている。
「事故らしい。起ったばかりですな」
殿永が肯《うなず》く。亜由美は、目を見開いて、
「ゆかりかもしれない! ね、殿永さん、急いで!」
「は?」
「ゆかりたちの車だわ、きっと」
「どうしてそんなことが──」
「勘です! ともかく他の車を追い越して。上を飛び越えてもいいから!」
「無茶を言わんで下さい」
ともかくクラクションを派手に鳴らし、車の間を縫って、殿永は先を急いだ。
道がカーブしている、その曲った辺りに車が──ポルシェが、火に包まれているのが目に入った。
「やっぱり……。ゆかり!」
亜由美は青ざめた。
「こりゃいかん」
殿永が車の無線を取る。亜由美は、少し手前で車が停《とま》ると、外へ出た。
「塚川さん! 気を付けて下さいよ!」
殿永が呼びかけるのなんか、耳には入っても頭には入らない。
燃える車の方へと駆け寄ったが……。とてもそばまでは行けない。今から火を消しても、中の人間を助け出すことは不可能だ。
「ゆかり……」
亜由美は肩を落として、 「可哀そうに……」
と呟《つぶや》く。
「本当ね」
「あの若さで……。世間知らずの子だったけど」
「車が?」
「え?」
亜由美は振り向いて──そこに当の城之内ゆかりが立っているのを見て、唖《あ》然《ぜん》とした。
「いや、全くわけが分りません」
真田明宏は、まだ興奮のおさまらない様子で言った。顔は血の気がひいていて、頭もめちゃくちゃに乱れている。
プレイボーイも、さすがに気どっている余裕がないようだ。
目の前には、 「かつてポルシェだった」ものが、哀れな姿で横たわっている。火はもう消えているが、もちろん、 「消した」というより「消えた」という方が正確かもしれない。
「──すると、ブレーキが急に効かなくなった?」
と、殿永が訊いた。
「そうなんです」
真田は身震いした。 「こんなことは初めてですよ。相当スピードが出ていたし。──急にブレーキが効かなくなって。カーブを曲るのも必死でした」
「よく無事に出られましたね」
「幸い、エンジンを切って、勢いが弱まるまで何とか操れたので。──しかし、このカーブはとても曲れない、と思って、とっさに彼女を車から突き落としたんです」
「よくけがしなかったわね」
と、亜由美は呆《あき》れて言った。
「スカートが破れたけど」
と、ゆかりはのんびりしたものだ。
「で、車を壁にこすりつけるようにして……。何とか停りましたが、やはり照明灯の支柱にぶつかって。あわてて飛び出したら、火が……」
「ムチ打ちの検査をお受けになった方がいいですな」
と、殿永はおっとりと言った。 「私の車で送りましょう。オンボロですが、ブレーキは効きます」
「それが何よりです」
真田の言葉には実感がこもっていた。 「しかし、君が無事で良かった」
「私って運が強いの」
ゆかりがたぶん一番落ちついていただろう。のんびりと微笑《ほほえ》んで、いつもとちっとも変らないのである。
真田とゆかりが殿永の車に乗る。亜由美は、殿永をつかまえて、
「どう思います?」
「何とも」
と、首を振って、 「ブレーキの効かないふりをして、彼女を突き落とすこともできたでしょうが、それじゃ意味がない」
「そうですね。まだ結婚しているわけじゃないんですものね」
「車に誰かが細工をしたか……。ともかく、鑑識が調べますから、その結論を待ちましょう」
「誰かが二人を殺そうとした?」
「何とも言えませんね」
と、殿永は首を振った。 「問題は、我々がどうして後を尾けていたか、説明することです」
ゆかりはきっと気にもしてないだろうけど、と、亜由美は思った……。
「まあ、ゆかりが? そんなことがあったんですの。ちっとも存じませんでしたわ。何しろうちでは親も子も、互いに干渉しない主義なものですから」
城之内ゆかりの母親は、殿永や亜由美が目を丸くするほどの早口で言った。 「で、ゆかりがどうしたんですって?」
「つまり──事故にあわれて──」
「死にましたの?」
「いや、そうじゃありません」
「じゃ、大けがでも?」
「いえ、ちょっと膝《ひざ》をすりむいたくらいですが──」
「良かったわ。それなら入院の必要はないわけですのね」
「まあ……確かにその必要はないと思いますが……」
「じゃ、ゆかりに用心しなさい、と伝えて下さいませんか。私、もう出かけませんと」
「お出かけですか」
「ちょっとこれからパリへ。夕食の約束をしていますの」
「パリというと……フランスのパリで?」
殿永が呆《あつ》気《け》にとられて訊く。
「そうですわ。他にもあるのかしら? ともかく飛行機に乗り遅れてしまいますので」
「ちょっと待って下さい」
と、亜由美があわてて引き止めた。 「ゆかりが──ゆかりさんが、三人の男性と結婚式をあげるの、ご存知ですか?」
「三人? もう離婚したんですか?」
「いえ、そうじゃなくて、同じ日に三人の男性とです」
「あら、それは初耳ですわ。一応日が決ったとは聞いていますけど……。じゃ、ゆかり、誰とハネムーンに行くんでしょうね」
「問題はですね、三人がそれぞれ、自分だけがゆかりさんと結婚できると思っていることなんです」
と、殿永は言った。 「トラブルになることは避けられませんよ」
「あの子は大丈夫。何があっても気にしませんもの。──じゃ、本当に飛行機に乗り遅れてしまいますわ。パリから電話を入れて、ゆかりと話してみます」
「しかし……」
ゆかりは今、同じ屋敷の中にいるのである。
「では失礼します。友永さん。それから塚田さんでしたわね。じゃ、また」
──アッという間にいなくなってしまう。
殿永と亜由美は、唖然として顔を見合せたのだった。
「ごめんなさい」
と、ゆかりが居間へ入って来た。 「母、出かけた?」
「ええ。──今しがた」
「だと思った。彼女の香水が廊下に匂ってたから」
「パリでお食事ですって」
「いつもあんな風なの」
と、ゆかりは言った。 「それで、真田さん、ムチ打ちの方は大丈夫だったのかしら」
「検査していますよ」
と、殿永は言って、 「しかし、もし、あれが車に細工されたせいだとしたら……」
「ポルシェはホッとするでしょうね」
ゆかりの発想も相当なものだ。
「誰かが、あなたたちの命を狙った、ってことなのよ」
と、亜由美が言うと、ゆかりは、目をパチクリさせて、
「TVの二時間ドラマの撮影だったのかもしれないわね」
と、言った。
亜由美と殿永は、もう何も言わないことにしたのだった……。