「課長」
と、八代紘一が言った。 「私の婚約者、城之内ゆかりさんをご紹介します」
品川はあわてて立ち上がった。
「おい! そんなこと何も言わなかったじゃないか」
と、八代をにらんでおいて、 「こりゃどうも」
と、その娘に頭を下げる。
「初めまして、城之内ゆかりと申します」
おっとりした口調で、その娘は言った。 「よろしくお願いいたします」
「いや、どうも。こちらこそ」
と、品川はまた頭を下げた。 「──ま、かけませんか」
会社の入っているビルの一階。喫茶室があって、たいていは、来客との話に使っている。
昼休みがあと十分というとき、品川課長は、八代に請われて、ここへ下りて来たのである。
「お前の話だけ聞くより、こうして彼女にお目にかかれて良かったよ」
と、品川は笑って言った。
「時間がありませんので、早速ですが」
八代がパッと手帳をとり出して開く。 「披露宴の際、課長にはぜひスピーチをお願いしたいと存じまして」
「俺に?──まあ、断るわけにもいかんだろうな」
と、品川は肯《うなず》いた。「少しは悪口を言ってもいいか?」
「どうぞ」
八代も少し笑顔になった。
「しかし──ゆかりさん、でしたか。八代みたいのと付合ってると、予定、予定で、うるさくて大変でしょう」
品川は、からかうように言った。
「いいえ」
と、ゆかりは言った。 「八代さんは、先の先まで、ちゃんと分ってらっしゃるので、安心ですわ」
「なるほど。しかし、人間、予定通りに行くもんじゃないってことを、少し八代にも教えてやって下さい。仕事の上じゃ申し分ないが、一緒にいると息がつまる」
「私が並外れて呑《のん》気《き》ですから」
と、ゆかりはおっとりと言った。 「八代さんと一緒だと、ちょうどいいかもしれませんわ」
「なるほど」
と、品川は笑った。 「いや、そうおっしゃるのなら、こっちがご忠告する必要もなさそうだ」
「課長」
と、八代が少し改まって、 「予定にはありませんでしたが、午後、早退してもよろしいでしょうか」
「早退?」
「式場の打ち合せに参りますので」
「ああ。──構わんよ」
と、品川は肯いた。 「お前の早退か。入社以来、初めてじゃないか?」
「初めてです」
と、八代は言った。 「早速、届を出しますので」
「分った」
品川は、席を立った。 「ま、ゆっくりしてろ。せっかく来ていただいて、一時になったからさよなら、じゃ失礼だぞ」
「はあ」
「じゃ、お嬢さん、ごゆっくり」
「どうも……」
ゆかりが頭を下げる。
八代は、手帳を見ながら、
「十五分、待っててくれるかい? それから式場へ行って、少しはゆっくりできると思うんだ」
「ええ、構わないわ」
と、ゆかりが肯く。
その喫茶室の様子を──やはり亜由美が眺めている。
真田明宏、宇野良男と来て、ついでだ、もう一人も見ておこう、という気になった。
もっとも、今は表に立って、ガラス越しに八代の顔を見ただけ。
「ワン」
と、足下でドン・ファンが鳴く。
「可愛い子に目がないんだからね、全く!」
と、亜由美は言った。 「あんた、ここで待ってな」
「クゥーン」
ドン・ファンは不満げである。人間扱いしてくれないと機嫌が悪い。
しかし、亜由美はドン・ファンを外で待たせて、中の喫茶室へと入って行った。
八代が入れかわりに出て行く。
「ああ、亜由美」
と、ゆかりが気付いて、 「この間はありがとう」
「いいえ」
亜由美は、椅子にかけて、 「今のが、三人目?」
「式の順序からいうと二人目」
「まだ、お互いに知らないんでしょ? あんたも罪なことするわよねえ」
「そうかしら……」
と、ゆかりは心配そうだ。
「そうよ。いい加減、三人の内、一人に絞らなきゃ。それとも全部白紙に戻すか」
「三人とも?」
「そう! だって、ゆかり自身が、この人、と思えなきゃいけないのよ」
「分ってるけど……」
ゆかりは困ったように、 「でも、三人とも、特に嫌いってわけじゃないの」
亜由美はため息をついた……。
あれが八代の婚約者か……。
課長の品川は、大いに心を動かされていた。──もう四十八歳というのに、二十歳そこそこの若い娘が好みである。
あの、城之内ゆかり。──ぴったり来たのだ!
といって……。八代の結婚相手だ。
手を出すわけにはいかない。
席に戻っても、品川はしばし仕事が手につかなかった。それほど、あの娘の出現はショックだった。
どうして、しかし、よりによって八代の奴に? 俺の方がよほどいいに決ってる。
八代なんて、血が通ってるかどうかも分らない、ロボットだ。
俺があの子に手を付けたら……。呼び出したって、おかしくはない。
スピーチの中身のことで、とか、理由はいくらでもつけられるだろう。どこかへ呼び出して、ホテルへ連れ込む。
なに、今の娘は、表向き大人しくても、結構、経験は豊富だったりする。あれもその口かもしれない。
ま、八代の「予定」に引っかからないようにしなきゃな。
そう思って、品川は一人で軽く笑った……。
八代は、 〈早退届〉を出して、席を離れた。
机の上は、新品の机みたいにきれいになっている。
「八代の早退」を二度と見られないかもしれない、というので、誰もが手を休めて、眺めている……。
もちろん、八代もよく知っていた。自分がどう見られ、どう言われているか。──誰も分っちゃいないさ、俺のことなんか。そうだとも。
八代は、エレベーターに乗ろうとして、洗面所へ寄ることにした。
鏡の前で、髪を整える。──みっともなく髪が逆立っていたりするのが一番いやだ。
八代は、もちろん生れつき、予定をきちんと立てて動くことが好きだ。しかし、会社での八代は、その点、ややオーバーである。
故意に、几帳面を誇張している。目立つし、何の取り柄もない社員よりは、役に立つだろう。
むろん、仕事の面でも、その几帳面さを発揮しなければ意味がないが、今のところ、充分に役柄を演じおおせている。
しかし、 「恋人」に対しては別だ。
八代は、ゆかりに恋していた。一目見たときからである。
絶対に自分のものにしてみせる、と決心している。
「びっくりさせてやる……」
と、鏡の中の自分へと呟《つぶや》く。「ゆかり、待ってろよ……」
ゆかりも、八代のことを、何でも予定で動く、 「スケジュール表」みたいな男と思っているだろう。
しかし、今日は違う。
八代は、手帳に書き込んでいないことをするつもりだった。
ゆかりと、式場の打ち合せをして、それから、彼女をホテルへ連れ込むつもりなのである。
ゆかりはのんびりしている、いざ、部屋へ入って二人きりにならなくては、一体どういうことなのか、見当もつくまい。
そのときはもう遅い。いやがっても、力ずくで、従わせてみせる。俺が「予定表」通りの人間でないことを、思い知らせてやるのだ……。
鏡の中の八代は、別人のように、目の輝きを見せていた。
そうとも。──今日、ゆかりを俺のものにする。何が何でもだ。
八代は、ネクタイの曲りを直した。
しかし、──むだだったのだ。どうせ、八代は……。
洗面所のドアをパッと開けると、目の前に誰かが立っていた。
見分ける暇はなかった。ナイフの鋭い刃が、八代の腹にスッと刺し込まれてしまったのである……。
救急車のサイレン。パトカー。
「何かあったみたいね」
亜由美は、ついサイレンに敏感になっている自分に気付く。
「八代さん、変ね。もう二十分たつわ」
と、ゆかりが首をかしげる。
ドン・ファンが、いつの間にやら、喫茶室に入って来ている。
「ワン」
「どうかした、ドン・ファン?」
ドン・ファンが表を見ている。
ビルの正面に、パトカーと救急車が停《とま》ったのだ。中から、警官や白衣の男たちがストレッチャーを押して入って来る。
「人が殺されているという連絡があった」
と、警官がフロントで言っているのが耳に入って、亜由美はパッと立ち上がった。
「どうかした?」
と、ゆかりが顔を上げる。
「ここにいて。動いちゃだめよ」
亜由美は、 「おいで、ドン・ファン」
と声をかけて、エレベーターの方へ駆けて行き、救急隊のストレッチャーと一緒にエレベーターに乗ることができた。
──現場は? 男子トイレ。
亜由美は、犬を連れているせいか、文句も言われず、現場を見せてくれた。
男子トイレの冷たいタイルの床に、八代は横たわっていた。タイルの冷たさは、もう感じられないだろう。
血が──タイルの床に広がって、なお広い面積を覆い尽くしている。
やられたのだ。
とうとう、三人のフィアンセの内、一人が欠けてしまった。いつかこんなことが、とは思っていたが……。
「ワン」
と、ドン・ファンが吠《ほ》える。
「やあ、またですか」
殿永である。 「今来たところでして」
「そうですか……。殿永さん、新しい犠牲者が──」
「さよう」
かがみ込んで、殿永は、八代の様子を見ている。
「──死んでいる。刺されてね」
「でも、大胆な犯行だわ」
「全くです。──ロビーから、誰か出て行くのを見ませんでしたか」
あの人数である。とても無理だ。
「会社が沢山入ってますからね」
と、殿永が自分で言って、 「腹の刺し傷、手慣れた感じですね」
「映画館で宇野を狙った犯人と、同じでしょうね」
答えを聞く気はなかった。
ついに──殺人?
しかし、なぜだろう? こんなサラリーマンを殺して、何の得が?
「クゥーン……」
何か考えでもあるのか、ドン・ファンが甘えるような声を出した。
「何?」
「ワン」
ドン・ファンは、八代の死体の方へ近付くと、上衣の匂いをせっせとかいでいる。
「何かしら?」
「調べてみましょう」
亜由美は、殿永が八代の上衣のポケットを探るのを見ながら、ふと思った。
これも、八代の「予定」の中に入っていたのかしら、と……。