「それで──」
と、神田聡子は言った。 「殺された八代って人のポケットから、何が出て来たの?」
「何も」
と、亜由美は首を振った。 「札入れとか、定期券とか、手帳とか。──特別なもんは何もなかったのよ」
「じゃ、ドン・ファンが匂いをかいで回ってたってのは、どうして?」
「知らないわ。本人に訊《き》いて。──しっ。そろそろおしまいじゃないの」
亜由美と聡子の会話は、小声で交わされていた。
何といっても、お葬式のときに、部屋で寝そべってしゃべっているような調子では話せない。
「──時間になりましたので」
と、会葬者の前に出て口を開いたのは、どうやら、殺された八代紘一の上司らしかった。
焼香に来た八代の同僚たちが、その男のことを、 「課長」と呼んでいたからである。
「八代君は大変時間に几《き》帳《ちよう》面《めん》な男でした。きっと、時間通りにきちんと終らせた方が、彼も喜んでくれると思います」
「──ちょっと脂ぎった感じね、あの課長」
と、聡子が言った。
「しっ。聞こえるわよ」
──城之内ゆかりも、もちろん、やって来ていた。
黒のワンピース姿のゆかりは、その独特の幼さと、服装から来る大人びた落ちつきが、奇妙なバランスを見せて、ひときわ目をひいた。
しかし、ゆかりの存在が人目をひいたというのは、他にも理由がある。──ゆかりの他の「二人の婚約者 」、真田明宏(ポルシェは焼けたが、レンタカーの外車でやって来ていた)と、宇野良男も、ここへ来ていたのである。
八代が殺されて、当然事件の報道の中で、八代がゆかりと婚約していたことが公にされた。その時点で、ゆかりが「三人かけもち結婚式」の予約をしていたことが、マスコミの格好の話題になったのである。
亜由美と聡子は、果してゆかりがここへやって来るかどうか、と思っていたのだが、二人が来たときにはもう、ゆかりは前の方の椅子にちょこんと腰かけており、亜由美たちに気付くと、小さく手を振ってみせさえしたのだった……。
「──外へ出よう」
と、亜由美は聡子を促した。
香の匂いが立ちこめた斎場の中は、息が詰りそうだった。
「──ああ、外へ出るとホッとする」
と、亜由美は深呼吸した。
秋晴れで、殺された八代には少し気の毒なくらいだった。
「出棺までいるんでしょ」
と、聡子が言った。
「問題はその後。──マスコミも来てるしね。ゆかりを連れ出さないと、簡単に取っ捕まるよ」
「どうなっちゃうんだろ?」
「知らない」
と、亜由美は肩をすくめた。 「だってさ、もとはと言えば、ゆかりが三人と結婚するなんて無茶をしたからだし」
「といって、放っとけない」
「そうなんだよね……」
と、亜由美はため息をついた。 「我ながら人の好《よ》さに感心する。──ねえ、ドン・ファン?」
足下で待っていたドン・ファンに声をかけると、
「同感です」
と、ドン・ファンが──言うわけはないので、顔を上げると、殿永が黒のダブルというスタイルで立っていたのだった。
「殿永さん。何か手がかりはつかめましたか?」
「いや、どうにも動機がはっきりしませんのでね」
と、殿永は顔をしかめた。 「実はこの後、例の真田明宏、宇野良男のご両人と話すことになっとるんです。──それにお友だちも含めてね」
「ゆかりですか」
「いよいよジャンケンか」
と、聡子が言った。
「殿永さん。それじゃ──残る二人のどっちかが、ライバルの一人を殺した、と考えてるんですか?」
「ありそうもないことですが、一応は動機になり得ますからね」
殿永は、少し照れた様子で言った。
こういうときの殿永は怪しい。何か、ちゃんと狙いを定めていることが多いのである。
しかし、亜由美がそれ以上何も言わない内に、出棺となって、会葬者がゾロゾロと出て来た。
すると──斎場の門から、ワーッと数十人の男たちが一斉に駆け込んで来たので、亜由美たちは唖《あ》然《ぜん》とした。
「いかん!」
殿永が飛び上がった。 「中へ入れるな、とあれほど言っといたのに──」
新聞記者、週刊誌、TV局のレポーターに、カメラマンを加えて三十人は下るまい。
「危い、どいて! ドン・ファン、踏みつぶされちゃうわよ!」
と、亜由美は怒鳴った。
亜由美たちは、ちょうど、殺到するマスコミ陣と、外へ出て来た、ゆかりを結ぶ直線上に立っていたのである。
「ワン!」
ドン・ファンがあわてて短い足で必死に駆け出す。亜由美たちも左右へ分れて、何とかはね飛ばされるのを避けることができた。
「城之内さん!」
「ゆかりさん!──今のお気持を一言!」
「顔をこっちへ!」
「泣いて下さい!」
ゆかりを取り囲んだ記者やカメラマンからは、無茶苦茶な要求も出ている。
「──これじゃどうにもならん」
と、殿永がお手上げという様子で、 「記者会見の席でも設けますか」
「ゆかりを連れ出しましょ」
と、亜由美が言った。 「聡子」
「何よ」
「その辺で裸になりな。みんなそっちに気をとられる」
「自分でやんな」
と、聡子は舌を出した。
「じゃあ……悲鳴でいい」
「──ま、いいか」
と、聡子は肯《うなず》くと、大きく息を吸い込んで、「キャーッ!」
数キロ四方に届くほど(はオーバーだが)の凄《すさ》まじい声を出した。そしてパッと普通の顔に戻ると、
「何、今の声?」
──記者たちが、さすがにシンとして、
「おい、何だ今の?」
「悲鳴かな」
「近かったが」
と、やっている。
「あっちから聞こえたわ!」
と、聡子が指さした方へ、記者たちがゾロゾロと移動する。
その間に、亜由美はさりげなくカメラマンの間をすり抜け、
「ちょっと──失礼します」
と、ゆかりの手を取り、 「おいで」
あんまり自然にやっているので、誰も止めようともしないのである。
一旦、人の輪から脱け出すと、亜由美は他の会葬者の間を縫って、ゆかりを、斎場の裏手へと引張って行く。
「──さ、車の間に隠れてるのよ」
駐車場の車の列の間へ、ゆかりを押し込むと、 「いい? 呼びに来るまで、ここに隠れてて」
「うん……」
ゆかりは、今になっても、自分がどういう状況に置かれているか、よく理解していない様子だった。
「でも、亜由美、八代さんのご家族にご挨《あい》拶《さつ》しなくていいかしら」
「そんなのは後! いいわね、ここにいるのよ」
「分った」
ゆかりは、コクンと肯いた。
「二人の婚約者も、きっとマスコミに捕まってるわ。殿永さん、大汗ね」
「よろしく言ってね」
返事をする気にもなれず、亜由美は急いで戻って行った……。
残ったゆかりは、車のかげで中腰になっているとくたびれるので、ヨイショと立ち上がり、ウーンと腰を伸したりしていた。
すると──。
「ああ、ここにいたんですか」
と、やって来たのは……。
誰だっけ? ゆかりは、人の顔を、さっぱり憶《おぼ》えない。
「八代君の上司だった品川です」
「ああ、課長さんですね。失礼しました」
「いや、とんでもないことになって」
と、品川は首を振って、 「しかし、ここにいると、カメラマンたちに見付かりますよ」
「でも──」
「さあ、どこかへ離れないと。──僕の車がある。あれで行きましょう」
品川は、ゆかりの腕をとって、自分の車へと引張って行く。
「でも……あの……」
ゆかりは困ってしまって、 「今、亜由美がここにいろ、って」
「心配することはありませんよ。後でちゃんと電話すればいいんですから。そうでしょう?」
「ええ……。そうですね」
と、ゆかりは何だかよく分らない内に、品川の車へ乗せられていた。
「──さ、僕に任せて」
品川はニヤリと笑ってみせると、車をスタートさせた……。
ゆかりは、仕方なく、助手席にじっと座っていたが、車はいやにややこしい道を抜けて、どこか公園の裏手らしい、人気のない道で停《とま》った。
「ここから電話するんですの?」
と、ゆかりが訊くと、品川はエンジンを切り、息をついて、
「いや、あんたとね、二人きりになりたかったんですよ」
「はあ?」
「八代は可哀そうなことをした。しかし、あんな奴に──と、仏の悪口を言っちゃいけないかな。だが、実際、あんたはあの男にゃ、もったいない」
「そうでしょうか」
「そうですとも。──もっとふさわしい男が、ここにいます」
品川がぐっと迫ると、ゆかりもやっと危機感に襲われたらしく、
「何をなさるんです?」
と、身を硬くした。
「まあ、落ちついて。ここで乱暴しようってわけじゃない。──いいじゃありませんか。どうせ一度は経験するんだ。この近くに、なじみのホテルがあります」
「人間がいやしくできてらっしゃるのね」
と、ゆかりは言った。 「あなたのような方とは、手を触れるのもいやです」
「ほう、なかなか手厳しい」
と、品川は笑った。 「しかし、あんたの力じゃ、拒み切れやしない。痛い思いをするより、ここはおとなしく、言うことを聞いた方がためですよ」
「お断りします」
と、ゆかりは品川をにらんだ。 「無理に、とおっしゃるのなら、舌をかんで死にます」
「面白い子だ」
と、品川は楽しげに、 「なに、すぐにいい気持になるんだ。そんなものなんだから、女ってのは」
品川の手が、助手席のリクライニングを倒した。
「キャッ!」
仰向けになったゆかりの上に、品川は素早くのしかかった。
「諦めなさい。──こういうことにかけちゃ、ベテランでね」
つまらないベテランもあったものである。
「やめて下さい!」
と、ゆかりは品川を押し戻そうとしたが……。
「観念して、言うことを聞くんだ。こんな所で裸にされるのもいやだろ? それなら、ホテルでおとなしく俺に抱かれることさ。──ほら、おとなしくしな」
と、ゆかりの手足を押えつけて、キスしようと顔を近付けて行く。
「やめて!」
ゆかりは顔をそむけた。
「ハハ……。そうやって顔をしかめたところも可愛いぜ」
と、品川は顔を近付けたが──。
二つの顔の間に、ヌッともう一つ、別の頭が入って来た。
品川は、ゆかりの柔らかい唇の代りに、毛の生えた、茶色い肌(?)にキスすることになったのである。
「ワッ!」
と、品川は頭を上げて、その拍子に天井でしたたか頭を打った。
ガン、という音がして、品川は目を回しそうになる。
「ワン!」
後ろの座席に隠れていたドン・ファンが、品川の腕に、勢いよくかみついた。
「ワーッ!」
品川が悲鳴を上げ、 「助けてくれ!」
ドアを開けて外へ飛び出すと、転がるように逃げて行った。
「クゥーン」
ドン・ファンは、ちょっと胸をそらして(? )、ゆかりの方を、 「大丈夫かい?」というように振り返った。
「ありがとう……。あなた、亜由美のところの……。ドン・カンだっけ?」
「ワン」
と、ドン・ファンは不機嫌そうな声を出した。
「助かったわ! 本当にありがとう」
ゆかりは、ドン・ファンの鼻先にチュッとキスした。
ドン・ファンは、お返しに、ゆかりの頬に鼻先をくっつけて、ペロッとなめたのだった……。