「もうちょっと顔出してくれるとなあ。光が当ってないから、表情が良く見えないんだ」
すぐ後ろで、そんな声がして、亜由美は振り返った。
どこかのカメラマンらしい。望遠レンズで講堂の天辺を狙っている。
亜由美は手を出して、レンズをふさいでやった。もちろん、ファインダーが何も見えなくなっちまうわけで、
「おい! 何するんだ」
と、カメラマンは文句を言った。
「勝手なこと言うんじゃないわよ! 今にも女の子一人、死ぬかもしれないってのに、顔が見えないとは何よ! もう一回言ってごらんなさい!」
怒鳴っている間に、徐々にボリュームとトーンが上がって行く。カメラマンはすっかり圧倒された様子で、他の学生たちの間をすり抜けて逃げて行ってしまった。
「全く、何考えてんだろ!」
亜由美は、腹立たしげに言って、まぶしげに目を細め、講堂の天辺を見上げた。
屋根の先に、カリヨンと呼ばれる鐘を自動的に鳴らす場所があって、そこはいわゆる鐘楼のようになっている。そこに、牧口幸枝がいるのである。
もちろん話を聞きつけて、講堂の前は何百人もの学生が集まって来ている。
「何とかなんないの?」
と、聡子が言った。
「あそこへ上がるの、大変なのよ。細いはしごみたいなの上がって行かないといけない。下手に近付くと、あの子、飛び下りちゃうかもしれないしね」
「亜由美に何を相談するつもりだったのかしら? 相談して絶望した、っていうのならまだ分るけど……」
「何よ、それじゃ、私になんか相談しても、むだだって言ってるみたいじゃないの」
「そういう意味じゃないけど……。あ、動いたよ」
「そう?」
亜由美は二、三歩後ずさったが──ぐい、と誰かの足をふみつけてしまった。 「あ、ごめんなさい」
「いや、ふみつけられるのは、慣れていますから」
その男は、大学生にしてはいやに年齢《とし》をくっていた。──そして、亜由美のよく知った顔だったのである。
「殿永さん!」
亜由美は目を丸くした。 「何してるんですか、こんな所で?」
「あなたに会いにです」
と、何かと事件の度に会うことになる、この気のいい刑事は、いつもの淡々とした口調で言った。 「そうすると、この騒ぎだ。塚川さんと神田さんは、どうもどこでも騒ぎに巻き込まれる運命のようですな」
「呑《のん》気《き》なこと言ってないで、何とかして下さい! 警官でしょ」
「そりゃそうですが……」
と、殿永刑事は頭をかいた。 「あそこに上がっているのは、牧口幸枝という子なんですね? そこで聞きました」
「そうなんです。何か私に話がある、って言って……。でも、あんなことする子じゃないんです、本当に」
「ふむ」
殿永は、ちょっと顎《あご》を手でさすりながら、「しかし、人間は理由もなしに、あんなことはしませんよ。──どうです。彼女と話してみませんか」
「先生が、今説得しようとしてます」
「それは無理でしょう。友人になら打ち明けるかもしれないが。──入口はどこです?」
亜由美と聡子は、殿永を案内して、講堂の裏口へと回った。
「──いや、何も言ってくれない」
禿《は》げた教授が、汗を拭《ぬぐ》いながら出て来た。「おお、塚川君。君のことを呼んでくれと言ってたよ」
「大丈夫ですか、幸枝?」
「まあ、今のところはな。しかし、どうしてあんなことをしてるのか分らんのでは、手の打ちようがない」
亜由美は、ちょっと深く呼吸してから、
「じゃ、私が上がります」
と、言った。 「──怖そう」
「下を見ないことだね」
教授はありがたい忠告をしてくれた。そう言われたら、いやでも見てしまう!
ともかく、亜由美たちは鐘楼へ上がるべく、講堂の裏手の階段を、延々と、息を切らしつつ、上がって行ったのである。
「──誰?」
ほとんど垂直に近い、急な狭い階段の上から、声がした。
「幸枝。私、亜由美よ。聞こえる?」
「うん」
「何してんの? もう充分見物したでしょ。下りといでよ」
「亜由美……。私、よくよく考えた上でのことなの。止めないで」
「そう。──でも、何か相談があったんでしょ?」
「ええ……。じゃ、上がって来てくれる? でも、一人でね」
と、急いで付け加える。 「お願い。無理に連れ戻そうとかしないで」
「分った。約束するわよ」
亜由美は聡子と殿永の方を見た。殿永は肯《うなず》いて見せ、低い声で、
「ここで聞いています」
と、言った。
亜由美は一息ついて、
「じゃ、行くわよ」
と、上に呼びかけ、しっかり手すりにつかまりながら、階段を上がって行った。
風が吹き抜けて行く。──鐘楼へ上がると、急に周囲に空間が広がる。
「亜由美」
幸枝が、少し離れて、腰をおろしている。低い手すりで、向うへ倒れたら、そのまま地面に叩《たた》きつけられることになる。
「幸枝……。どうしたのよ。あんたらしくもない」
「うん。──分ってるの」
髪が風にはためく。
「話してみなよ、ともかく」
あまり近付いてはいけない。亜由美は、上がった場所にそのまま座り込んだ。
「私、恋をしたの」
と、幸枝が言った。
「そいつが何かひどいことしたの? そしたら、私がぶっとばしてやるわよ」
「ありがとう。でも、そんなんじゃないの」
幸枝は、いつものように穏やかで、内気な笑みを浮かべていた。どう見ても髪ふり乱して、半狂乱になっているようには見えないが、それが却《かえ》って怖いのかもしれない、と亜由美は思った。
「その人ね、雨宮真一っていうの」
と、幸枝は言った。 「小さな法律事務所に勤めてて、二十八歳。見たとこ、あまりパッとしない、地味な人なの。でも、とってもいい人なのよ。──少なくとも、そう思ってた」
「恋をしたっていうんだから、そうでしょうね。で、何があったの?」
「とっても妙な話なの。雨宮さんが嘘をついてるとしか思えない。でも、もし本当だとしたら……。嘘なら、私は騙《だま》されてることになるし、本当なら、どう考えていいか分らないの」
「面白そうね。──ごめん、幸枝には面白いどころじゃないでしょ。でも、興味あるわ。ね、話してみて」
亜由美は本当に好奇心を刺激されたのである。きっと、階段の下で、殿永が苦笑しているだろう。
「雨宮さんの話だと、こうなの……」
と、幸枝は口を開いた。
ああ、やれやれ……。
雨宮真一は、アパートの階段を、やっとの思いで上がると、自分の部屋のドアの前で、一息つかねばならなかった。
クタクタに疲れ切っている。いつものことと言ってしまえば、それまでだが。
疲れにも色々ある。充実した疲れと、虚《むな》しい疲れとがあるのだ。雨宮の場合、今の疲れは正《まさ》に「虚しい」疲れだった。
事務。──それも特別の資格を何も持っていないので、雑多な、本当に単純作業としか呼べないような仕事ばかりである。
自分が努力しないから、と言われればその通りだが、何しろ学生時代から、要領の悪さと、頭の回転の鈍いことにかけては定評があった(? )。それでも、結構友人に恵まれて来たのは、おっとりした人柄の良さゆえであろう。
いくら人が良くても、疲れはとれない。──一人暮しの雨宮としては、アパートへ帰って来たところで、身も心も安らぐというわけにはいかなかった。
鍵《かぎ》をあけ、ドアを開ける。もちろん中は真暗だ。
明りのスイッチの辺りへ見当で手を伸した。明りを点《つ》けたところで、目に入るのは、敷きっ放し──というか、朝跳び起きた時の状態を、ストップモーションの画面みたいにとどめている、冷え切った布団と、ちゃぶ台の上のカップラーメンの器。
ちゃんと目覚し時計の鳴るのに合せて起きていれば、これを片付ける余裕はあるはずなのだ。しかし──こうして毎日くたびれて帰って来て、床に入って……。朝だって、パッと快い目覚めを迎えるってわけにはいかないのである。
おかげで、こうして帰って来ても、疲れは倍加するばかり。──悪循環って奴だね。分っちゃいるんだけど……。
カチッとスイッチを押すと、敷きっ放しの布団と、ゴミの溢《あふ》れた屑《くず》カゴが……。
「──あれ?」
思わず声を出していた。
間違えたかな、部屋? いや、それなら鍵のあくはずがない。
部屋は──きれいだった。
布団はない。ちゃぶ台の上も、チリ一つない。一瞬、空巣にでも入られたのかと思ったが、いくら熱心な(?)空巣でも、あんなボロ布団を持っては行かないだろう。それに、カップラーメンの容器を片付けたりするわけがない!
「変だな……」
首をかしげて、ともかく自分の部屋である、恐る恐る上がって、押入れを開けてみると、布団はちゃんとたたまれて入っていた。
してみると……俺は今朝、ちゃんと布団を上げ、部屋を片付けてから出たのかな?
そんな日も、年に数回、ないではない!
でも、どう考えたって、そんな記憶はないのだが……。現実にちゃんと片付いているのだから。
肩をすくめて、押入れの布団をポンと叩く。
──ん? 感触が……。
手で触ってみて、面食らった。フワッとして暖かいのだ。日に当てたのだろう。──誰が?
雨宮は、屑カゴの中を覗《のぞ》き込んだ。空になっている。小さな、申し訳程度の台所も、生ゴミ一つ残っていない。ビニール袋は新品になっているし、湯呑み茶碗からコーヒーカップから、どれもきれいに洗って、棚に納まっているのである。
──間違いない。留守の間に、誰かが入って、掃除して行ったのだ。
しかし──誰が?
雨宮は何となく気味が悪くて、広くもない六畳間の真中に突っ立っていた。
雨宮の母親は、もうとっくに亡くなっているし、父親は遠く四国にいる。兄弟といっても、東京に今いるのは自分一人で、こんなことをしに来てくれそうな人間の心当りが全くないのである。
何だかゾッとする気分で、ともかく背広を脱ぎかけると、玄関のドアをトントンと叩く音がして、雨宮は、
「ワッ!」
と仰天して飛び上がってしまったのである……。
「──妙な話ねえ」
と、上がり込んで、雨宮の話に耳を傾けていたのは、隣の部屋の住人、山本有里。
こっちも一人暮しで、ホステスをやっているので夜が遅い。つい十分前に帰って、回覧板が入っていたので、雨宮の所へ届けに来た、ということだった。
「気持悪いですよ」
と、雨宮は首を振って、 「山本さん、誰か見かけませんでしたか?」
「そうねえ……。お布団を干した、ってことは昼間の内に来てた、ってことでしょ。でも、気が付かなかったなあ。夕方までは部屋にいたけどね、私も」
雨宮より十歳ぐらい年上の山本有里は、サバサバした気性の、面白い女性だった。
「そうですか……。こんなことしてくれる女性なんて、全然思い当らないんですよ」
「ひそかにあんたを恋してる子がいるんじゃない?」
と、山本有里は冷やかすように言って、 「でもさ、きれいにしてってくれたんだから、儲《もう》けものと思っときゃいいじゃない」
「でもね、どうやって、ここへ入ったんだと思います? 鍵をあけたってことですよ」
「あ、そうか」
「ね。だから気味が悪いんです。知らない人間がここの鍵を持ってるなんて……」
「ウーン、難しいわね。ここの鍵持ってる人っていえば、一号室の田口さんか」
こんなアパートであるから、管理人がいるわけではない。ただ、一階の一号室にいる田口という、ちょっと偏屈な老人が、 「代理」をつとめている。
「あの人が掃除なんてやるわけないし。いちいちそんなこと訊きに行くのもね。──ま、仕方ないな。今夜は寝ます。でも……やっぱりすっきりしない」
雨宮は、呑《のん》気《き》な性分ではあったが、これはやはり気にしないで放っておくわけにはいかなかったのである。
気味が悪い、と言いながら、いささか恥ずかしいことに、雨宮はその夜、暖かくフワフワの布団で、もう何か月も味わったことのないような快い眠りを味わったのである。
目覚し時計が鳴る。
「──畜生! 人がせっかく……」
ブツブツ文句を言うのは同じである。しかし、手を伸してベルを止めた後、雨宮はいかにも頭がスッキリして、爽やかな気分で目が覚めている自分を見出したのだった。
「やれやれ……」
誰か知らないが、昨日ここを掃除して、布団を干してくれた人間に、一応感謝しなきゃいけないかもしれないな。こんなにぐっすりと気持よく眠ったのなんて、久しぶりだぜ。
ウーンと伸びをして……。
部屋の空気も、埃《ほこり》っぽくなくて、吸い込むのをためらわなくてすむ。そして──この匂いは?
ミソ汁か。隣の部屋かな?
いや、山本有里はまだグーグー眠っている時間だし。ひょっとすると下の部屋か。
下は確かこの間、新しい住人が入って来たばかりだ。新婚かい? ちゃんと朝起きてミソ汁を作ってくれる奥さんなんて、今どきいるのか……。
しかし、匂うな。まるですぐそばで匂ってるみたいじゃないか。やり切れないな、独り者は……。
アーアと大《おお》欠伸《あくび》して起き上がった雨宮は、目をこすって……。
「何だ?」
ちゃぶ台の上に、朝食の用意がしてある! 匂うわけだ。ミソ汁から湯気が立っているのである。
白いご飯、そして焼魚。漬物、お茶。
何度も頭を振り、何回も見直した。しかし、その幻は(幻としか思えない)一向に消え去る気配がない。
「誰だ!」
と、思わず雨宮は声を上げていた。 「誰なんだ?」
ともかくそいつは、たった今まで、ここにいたに違いない。こんなにミソ汁が熱いってことは。
跳び起きた雨宮は、パジャマ姿で部屋の中を隅から隅まで──といっても、アッという間に終る──見て回った。
しかし、どこにもその誰かの姿はなかった。そして玄関のドアには、ちゃんと鍵もかかっていたのだ。
「──参った!」
雨宮はペタンと畳の上に座り込んだ。
俺は夢を見てるのか? しかし、夢でこんなに旨《うま》そうな匂いがするものかどうか。
「畜生! こんなもの食えるか、気持悪い!」
と、雨宮は言った。
──十五分後、台所の流しには、きれいに食べてしまった皿が、重ねられていた。
そして、雨宮は別に毒で死ぬこともなく、至って優雅な気分で、アパートを出ていたのである……。