「まあ。それで亜由美は死んだんですの?」
と、塚川清美は言った。
「生きてるわよ!」
と、亜由美は玄関の外から顔を出した。
「あら、生きてたの」
と、清美は目をパチクリさせて、 「良かったわ。今、黒のスーツ、人に貸してあるから」
「──あれでも母親か」
と、居間へ入って、亜由美はブツクサ文句を言った。
「いや、あれはお母さんなりの心配の仕方なんだろうね」
と、殿永が微《ほほ》笑《え》む。「しかし、良かった。二人とも軽いけがですんで」
亜由美は、幸枝に抱きついて床へ転がったので、したたか頭をぶつけ、こぶを作ってしまった。幸枝の方は、失神して、救急車で病院へ運ばれたのである。
「だが、あなたは全く運の強い人ですな。ぜひ刑事になってほしいところだ」
「いやです」
と、亜由美は言った。 「どうせ安月給でしょ」
「はっきり言わんで下さい」
「クゥーン」
と、足下で笑った(?)のは──茶色の、しっとりした毛並のダックスフント、ドン・ファンである。
「何だ、お前か」
と、亜由美はドン・ファンの頭をなでて、 「助けに来てくれなかったくせに」
「キャン」
「そりゃ無理というもんですよ」
と、殿永が笑った。
「でも──あの、幸枝の話、どう思いました? つまり、雨宮の話、ってことですけど」
「確かに、ありそうもないことです」
と、殿永は言った。 「しかし、嘘にしては妙だと思いませんか。あまりにありそうにない。食事の仕度がしてあるのをごまかすだけなら、あんなややこしい話をひねり出す必要はないと思いませんか」
「そうですよね。私もそう思ったんです。でも、それじゃ一体誰が、勝手に部屋へ入って、あんなことをして行ったんでしょう?」
そこへ、清美がお茶をいれて来た。
「どうぞ。──亜由美も、今度自殺するときは、人さまにご迷惑にならないようにしてね」
「お母さん! 私は助けた方! 自殺しかけたのは、別の子なの!」
「あらそう。おかしいと思ったわ。何があっても、あんたは自殺する子じゃないものね」
「いや、全く立派なお嬢さんですよ」
賞《ほ》めてくれるのは、殿永くらいである。
「ありがとうございます。でも、一向に男の子と縁がないようで……」
「大きなお世話」
と、亜由美はむくれた。 「──殿永さん、その雨宮って奴を問い詰めに行きません? ぶっとばして、胸をスッとさせたいんです」
「亜由美、そんな風だから、いつまでも恋と縁がないのよ」
「あるわよ。他人の恋なら」
「でしょうね」
と、清美はため息をついた。
「いや、実はですね」
殿永はソファに座り直した。 「雨宮には会いたくても会えないんです」
「え?」
と、訊き返してから、亜由美は、殿永がなぜ大学へ来ていたのか、聞いていなかったことを思い出した。
「今日、あなたの所へ伺おうと思ったのは、あの牧口幸枝のことを、お訊きしたかったからなんです」
「幸枝のこと?」
「実はね、雨宮は姿をくらましているんですよ」
亜由美は、唖《あ》然《ぜん》とした。
「姿を、って……。どうして?」
「当人に訊く必要はありますが……。彼の部屋で、女の死体が発見されたのです」
と、殿永は言った。
「まあ」
清美が目をみはって、 「亜由美が殺したんですの?」
と、訊いた……。
「確かに、きれいに片付いてますね」
と、亜由美は言った。
──雨宮のアパート。
夕食を亜由美の家で食べてから、殿永ともどもここへやって来たので、もうすっかり暗くなっていた。
「殺されていたのは、隣のホステス、山本有里です」
と、殿永は言った。 「この部屋の真中で、刺し殺されていました」
亜由美は、一瞬ギョッとして、畳の上を見た。
「いや、布団がね、敷いてあったんです。その上で倒れていたのでね。血は布団が吸いとってしまった」
「そうですか……」
亜由美は息をついた。 「で、雨宮真一が殺した、と?」
「それはまだ分りません」
と、殿永は首を振った。 「しかし、死体が見付かり、その部屋の住人が姿を消していたら……」
「普通なら犯人ですね」
「そう受けとられてもしょうがないでしょうな」
「でもどうして? 雨宮が、山本有里を殺す動機ってあります?」
「考えられないことはありません」
と、殿永は腕組みをして、 「雨宮の話が本当だとして、その『幻の女房』が、山本有里だったとしたら」
「そうか」
亜由美は考え込んで 、「──山本有里のおかげで、幸枝との恋に破れてしまった。そのことで、山本有里をなじったとして……」
「言い争っている内に、つい──ということです」
「それが真相でしょうか」
「いや、もちろん色々考え方はありますよ。──雨宮の話はでたらめで、実はもともと雨宮と山本有里は関係があった、とかね」
「山本有里が、雨宮と幸枝の間を邪魔しようとした……。それで、二人は争って、というわけですね」
亜由美は、たいして広くない、雨宮のアパートの中を見て回った。
「ただ、その説には欠点があります」
と、殿永は言った。
「時間でしょ? 山本有里は夕方から出かけて、真夜中に帰って来る」
「それから床に入る。雨宮の朝の仕度をするのは大変ですよ」
「そうですね。でも昼間いたんだから、お布団を日に当てたりするのは簡単だった」
「そこです」
と、殿永は肯《うなず》いた。「奇妙だと思いませんか。布団を干したりすれば、誰かの目についてるはずだ」
「見た人はいないんですか」
「当ってみました。このアパート、この周りの家、誰も見ていません」
亜由美は、首をかしげた。
「──殿永さん。ここの死体が見付かって、どうして私のところへ来たんですか?」
「ああ、失礼。その説明をしませんでしたね。机の引出しから、手紙が出て来たのです。牧口幸枝からのね。その文面に大学の名があって、どこかで聞いたことがあるな、と思ったら、何とあなたの通っておられる大学じゃありませんか」
「で、私の所へ? 私、興信所じゃありませんよ」
「しかし、やはり係わりがあったじゃありませんか」
そう言われると、亜由美も何とも言えない。
「ただね……」
殿永は難しい顔になって、 「他の可能性もあります。牧口幸枝はなぜ自殺しようとしたか」
「それは雨宮と……。殿永さん!」
亜由美は目を見開いて、 「あの子が──幸枝が山本有里を殺した、と考えてるんですか?」
「可能性の問題です。普通、男に裏切られたといって、あんな所へ上がったりはしません」
「それはそうでしょうけど……」
幸枝がたまたまこの部屋で山本有里と出くわす。山本有里は三十八歳。雨宮より十歳も上だが、恋のできる年齢である。
雨宮をめぐって、二人の女の対立……。
「確かに、可能性はあると思いますわ。でも、やっぱり、考えられません」
と、亜由美は言って、ふと殿永が緊張するのに気付いた。
同時に、亜由美も、ドアの外に、かすかな物音を聞きつけていたのである。
誰かいる。──殿永の合図に従って、亜由美は話を続けた。
「牧口幸枝は、そりゃあおとなしい子なんです。もし、恋人が他の女といるのを見ても、カッとなって引っかくより、 『失礼しました』って謝って帰る子ですわ」
殿永が、足音を殺して玄関へ近付くと……パッと勢いよくドアを開けた。
「アッ!」
ヒュッと風を切って、バットが振り下ろされた。殿永は危うくのけぞって、
「ワアッ!」
と、ひっくり返った。
「あ──刑事さんだ」
バットを握って立っているのは、ヒョロッとしたやせ型の女の子。
「君か! びっくりした!」
と、殿永は、息をついて立ち上がった。
「こっちこそ。だって、頭の上でミシミシ音がするんですもの」
これが、下の部屋の子か、と亜由美は思った。池畑──みどりだったわね、確か。
「捜査に来てたんだよ。──ああ、こちらはね、塚川亜由美さん」
「池畑みどりです」
と、女の子は頭を下げて、 「やっぱり、雨宮さんの恋人だったんですか?」
「私は違うわ」
と、亜由美はきっぱり言った。 「単なる関係者」
「いや、この人はね、知る人ぞ知る、名探偵なんだ」
「へえ! じゃ、ピストルとか、持ってるんですか?」
「そんなもん持ってないわ」
「じゃ、空手何段とか?」
亜由美は渋い顔で、
「あのね、本当の名探偵は、頭だけで勝負するもんなの」
と言ってやった。 「それと、顔でもね」
と、付け加えたのは、多少格好をつけたかったのかもしれない。
「みどり君」
と、殿永が言った。 「何か妙な物音とか、人影とか、気が付いたことはなかったかね?」
「だから今、聞こえたんで、こうやって、バットを持って──」
「いや、もちろん、我々を除いてってことさ」
「このアパート、あんまり丈夫じゃないでしょ。あっちこっちで、いつもガタガタミシミシ言ってますもの」
「まあ、そりゃそうだ」
殿永は苦笑した。
「でも……やっぱり雨宮さんが殺したんですか?」
と、少女は訊いた。
「どうかね。はっきりそうとは言いきれないが」
「あなたは、学校から帰って、家にいるんでしょ?」
と、亜由美は言った。 「この部屋を掃除したり、お料理を作ったりする女性が誰だったか、心当りはない?」
「その話は、こちらの刑事さんから聞きました」
と、みどりは肯いて、 「不思議ですよね、もし本当なら。でも、私、いつも帰ると、買物に行くんです、夕ご飯の。戻ってから、お料理の下ごしらえして、それからお洗濯とお掃除をします。お母さんが帰るの、早くても九時ごろですから。──だから、上のこの部屋で何かやっていても、気が付かないと思います」
──亜由美は何とも言えなかった。
「──塚川さん」
「放っといて下さい」
と、亜由美は殿永の言葉を遮って、 「どうせ私は役立たずです。そうおっしゃりたいんでしょ?」
「いや、そうじゃなくてですね──」
「そりゃ、私は怠け者です。十三歳の女の子と比べても、何もやらない能なしです」
「そうひがまないで下さい」
もう、八つ当りである。
二人は雨宮のアパートを出て、殿永の運転する車で、亜由美の家へ向っているところであった。
「しかし……健《けな》気《げ》な子ですねえ」
と、殿永が感心している。
「そうですね」
プイと外の方へ顔を向けて、 「いっそあの子を警視庁へ迎えたらいかが?」
と、無茶を言い出す。
「塚川さん」
「まだ何か?」
「何か食べて帰りませんか」
「お腹一杯です」
と、亜由美は言って、 「──甘いものなら入るかもしれません」
結局──殿永は、亜由美に付合って、 〈おしるこ〉を食べることになった……。
「でもね、人間、そういう立場に立たされりゃ、やるもんですよね!」
「そうですよ。塚川さんだって、結婚なされば、たぶん……」
「たぶん、ってのは、どういう意味ですか」
と、にらんでおいて、亜由美は笑い出す。
アルコールでなく、甘いもので上機嫌になるというのも、面白い性格である。
「ともかく、雨宮真一を見付けるのが先決です」
と、殿永は言った。 「果して犯人なのかどうか。どうも、今一つ、ピンと来ないんですよね」
「幸枝のこともありますものね。──人殺しがあったこと、伝えた方がいいかしら?」
「少し落ちついてからの方がいいでしょう、何といっても、今は情緒不安定ですから。──おっと!」
殿永のポケットベルが、ピーピーと音を立てた。
「ちょっと失礼して」
殿永がレジの方へ立って行く。
亜由美は、正直なところ、あの少女に感心していたのだ。もちろん、母に知られたりしたら、また何と皮肉られるか分らないが、かつて「社長令嬢」だったはずの、池畑みどりが、ああして忙しく働く母親を支えている姿は、やはり感動的だった。
──それにしても、雨宮という男、もし自分が殺していないのなら、なぜ姿をくらましているのか。
やっぱり犯人なのだろうか。もしそうなら、幸枝には可哀そうなことになるが……。
殿永が戻って来る。──亜由美の見憶えのある、むずかしい表情をしていた。
「殿永さん……」
「とんでもないことになりました」
と、殿永は言った。
「というと?」
「まさか、こんなことになるとは……。牧口幸枝です」
「幸枝が? どうしたんですか」
と、身をのり出す。
「病院から消えてしまったんです」
亜由美は唖然とした。殿永はくやしげに、
「明日までは意識が戻らない、と聞いていたので……。油断していました!」
「でも──どうして?」
「新聞を見たのだそうです」
「というと──」
「雨宮が姿をくらましたことを、知ったわけです。病院を抜け出して、どこへ行ったのか……」
亜由美は、せっかく命がけで助けたのに、命を粗末にしたら、許さないわよ、と心の中で、幸枝に文句を言ってやった。
もちろん、聞こえるわけではないにしても……。