「亜由美……」
と、母の声がした。 「亜由美。電話よ」
あのね……。亜由美はベッドで寝返りを打つと、電話は起きてる間にかけて来い、って言ってよね、と思った。
思っただけであるので、当然のことながら、母の耳には入っていない。
「亜由美。──お電話よ。どうするの? 出るの? 出ないの?」
と、くり返し訊《き》かれる。
こうなっては、亜由美としても、態度をはっきりせざるを得ない。
「お母さん……。非常識な時間にかけて来るな、って言ってやって。どこの馬鹿か知らないけど」
と、トロンとした目で、不機嫌そのものという声を出した。
「そう?」
と、母の清美は目をパチクリさせて、 「でも、非常識な時間っていっても……。今、一時よ」
「一時なんて……。そんな夜中にかけて来るなんて、おかしいわよ」
「昼の一時よ」
──亜由美は、ガバと起き上がった。
カーテンは引いてあるが、それでも部屋の中はいい加減明るい。昼の一時なら当り前だろう。
「大変だ! どうして起してくんなかったのよ! 遅刻じゃない!」
「今日は日曜日よ」
「──何で先にそう言わないのよ!」
「無茶な子ね、あんたは。電話の方はどうするの?」
「あ、そうか。──誰から?」
「幸枝さんとか」
亜由美は母の言葉を、頭の中でくり返した。
幸枝? 幸枝って……もしかして、幸枝かしら?
まだすっかり目が覚めていないのである。
「──大変!」
亜由美はベッドから飛び出した。
「今日は日曜日よ……」
と、清美がくり返したが、もう亜由美は部屋を飛び出していた。
「──もしもし! 幸枝? 幸枝なの?」
受話器をつかむなり、そう呼びかけると、少し間があって、
「亜由美……」
と、幸枝の声が、かぼそく聞こえて来た。
「幸枝! どこにいるの、今? 大丈夫? 弱ってるの? 気を確かにね!」
と、亜由美が夢中で呼びかけると、
「私、大丈夫」
と、幸枝が言った。 「ただ……亜由美の声があんまり凄いんで、びっくりしただけなの……」
「あ、そう」
亜由美は、エヘンと咳《せき》払いをした。「それは失礼」
「心配した? ごめんなさい」
「当り前でしょ。勝手に病院抜け出したりして! 何してたのよ?」
「病院、抜け出したりしないわ」
と、幸枝は心外という口調。
「だって──」
「もう大丈夫だと思ったから、自分で退院したのよ」
「あのね、そういうのは『退院』って言わないの!──ま、いいわよ、お宅じゃ死ぬほど心配してるわよ」
「うん。さっき電話しといた」
と、幸枝はあっさりと言った。 「でも、母が出たんで、 『お母さん、私、元気よ』って言ったら、 『幸枝』って言っただけだったわ。それきり何も言わないの。しょうがないから切っちゃった。そんなに心配してなかったみたいよ」
それはたぶん、母親が気絶したのだろうと思ったが、亜由美は話を変えた。
「今、どこで何してんの?」
「雨宮さんをね、ずっと捜してたの。知ってる? 雨宮さんの隣の部屋の人が殺されて──」
知ってるどころの騒ぎじゃない!
「それで幸枝──見付けたの?」
「これからね、行ってみるつもりなの」
「行くって……どこへ?」
「たぶん、あそこにいると思うんだ、あの人。もちろんね、あの女の人、殺したのは雨宮さんじゃないと思ってるわ。でも──もし、あの人が私を騙《だま》してたんだとしたら、あの女の人も殺したかも……」
「幸枝──」
「あの人が殺人犯だとしたら、私のことも殺すかもしれないでしょ。だから、その前に亜由美に、色々迷惑かけたお詫びを言いたくて、電話したの」
「そう」
どう聞いても、これから「殺されるかもしれない」人間の話し方じゃない。しかし、幸枝はそういうタイプなのだ。
「じゃ、亜由美。元気でね」
「待って! 待ってよ! 切らないで!」
亜由美は必死で言った。 「どこにいるの? 私、そっちへ行くから! ね、一分で飛んでいくから! 幸枝! 聞いてるの?」
切れてはいないようだったが、また少し時があってから、
「──亜由美って凄い声が出せるのね」
と、感心している様子の、幸枝の声がした。
「電話、壊れそうよ」
何、呑《のん》気《き》なこと言ってんだ!
「どこにいるのか教えなきゃ、もっとギャーギャーわめいて、電話線をオーバーヒートさせて焼いちゃうからね! 早く教えなさい!」
たとえ、本当に電話線が切れても、幸枝は別に困らないだろう。
「──分ったわ。でも一分じゃ来らんないと思うわ」
「いいから、早く!」
「一つ、約束して」
「いくつだってするわよ!」
「一人で来て。ね?」
亜由美はぐっと詰った。当然、殿永へ知らせなくてはならないと思っていたのだ。しかし、今、幸枝に「いや」とは言えない。
「約束する」
「絶対ね」
「もちろん!」
──かくて、亜由美はやっと、幸枝の居場所を聞き出したのである。
電話を切ったときには、すっかり亜由美は喉《のど》が痛くなっていた。
「──お父さん。何してんの?」
亜由美は、父が居間から顔を出して、こっちをにらんでいるのに気付いたのだ。
「お前にはデリカシーというものがないのか?」
と、父が言った。 「少女クリスティーヌが、母と死に別れる場面に、何てでかい声を張り上げるんだ。信じられん──」
亜由美の父親は、優秀なエンジニアであるが、少女アニメを見ては泣くのが趣味なのである。
「はいはい、失礼しました」
慣れている亜由美は素直に謝って、階段を駆け上がって行った。
──そうか。一人で行きゃいいわけだ!
部屋へ入った亜由美は、
「起きろ、用心棒!」
と、大声で怒鳴った。
「ウー……」
ドン・ファンが、仏頂面で(?)起き上がった。──さっきの亜由美とそっくりだった。
楠木リカは、バスを降りた。
日曜日なので、バスの本数が少なく、来るのが大分遅くなってしまった。でも──十五分くらい、予定よりかかっただけだ……。
たぶん、彼は待っているだろう。
リカは、両手にさげた紙袋を、よいしょ、と持ち直した。晴れていて良かった。雨だったら、袋の底が抜けていたかもしれない。
リカは、ちょっとまぶしげに、晴れた空を見上げた。
何だか寂しい場所だった。──建物はあるが、ほとんどが倉庫とか、廃屋になったビルらしい。人の姿というものが、まるで見えない。
もちろん、バス停があるのだから、乗降客もあるのだろう。──そう、今日は日曜日だから、この辺りに多い工場も、みんな休みだ……。
バスを降りて、進行方向へ百メートルくらい。その信号を右へ曲る。
リカは、すっかり頭に入っている、雨宮の説明を、くり返し思い出していた。
歩道の敷石の隙《すき》間《ま》に、雑草が覗《のぞ》いている。用心しないと、石の割れ目につまずきそうだった。
でも──どうしてこんなことをしてるんだろう、私?
楠木リカは、自分でも不思議だった。
ニュースでは、雨宮をほとんど殺人犯扱いしている。確かに、隣室の女性が、雨宮の部屋で刺殺されて、雨宮が姿をくらませば、犯人かと疑われても仕方ないだろう。
喫茶店にいたリカへかかって来た雨宮の電話では、
「信じてくれ。俺じゃないんだ」
と、言っていた。
もちろん、犯人がそう言っても、おかしくはない。リカだって、そんなことは承知している。
それでも、
「必要な物を、持って来てほしいんだ」
という彼の頼みを即座に断らなかったのはなぜだろう?
いや、現にこうして、彼の着替えだの、靴だの、カミソリにドライヤーまで……。わざわざ買い揃えて運んで来たのは、やはり、心の底では、雨宮が人殺しでないと信じているせいだろう。
「──ここを右ね」
道を渡って、少し細い道を入って行く。
片側はずっと工場の長い塀が延々と続く。
「逃げてるんだ」
と、雨宮は押し殺した声で言った。 「僕は殺される!」
誰に? そう訊《き》くだけの時間はなかった。
ここの場所を聞くので、精一杯だったのである。
キイ、キイ、と耳ざわりな金属音が待っていた。落ちかけて、ぶら下った看板に、 〈××製版所〉の文字がかすれている。
ビルといっても、三階までしかない、小さなものだ。表面のモルタルがはげ落ちて、かつては何色だったのか、見当もつかない。
リカは、ここまで来て、急に不安になった。もし、本当に雨宮が殺人犯で、今も刃物を手に、リカを待ち受けているとしたら?
こんな所で殺されるなんて、いやだ。どこでだって、殺されるのはいやだが、殊にこんな寂しい所で……。
たぶん何日も──ことによると何か月も、死体は見付からないだろうし。
リカは激しく頭を振った。
何を考えてるのよ! 一緒に仕事をして来た仲でしょう。雨宮さんのことが、好きだったくせに。それなら信じることだって、できるでしょう。
リカは、道を見渡した。のっぺり続く工場の塀。反対側は、雑草の茂った空地だが、鉄条網で囲ってあって、入れないようになっている。
リカは肩をすくめた。──何だっていうのよ? ここまで来て、あれこれ迷っても仕方ないじゃないの。──ねえ。
度胸を決めて……。さあ、入るのよ。
リカは、その古ぼけたビルの中へと、入って行った……。
カン、カン、と靴音が乾いた響きをたてる。
「──雨宮さん」
と、リカは呼んだ。 「私。楠木リカよ。──いるの?」
開け放したドアから中を覗くと、空っぽの、かつてはオフィスだったらしい部屋。
床にポカッとあいている穴は、大方、電話線を出していたのだろう。
そのとき、頭上で、ガタッ、と何かが動く音がした。階段の下へ行って、
「雨宮さん?」
と、見上げてみる。
階段を、この荷物を持って上がるのかと思うと、ちょっとため息をついたが、追われている身になれば、そう気軽に下りては来られないだろう。
リカは階段を上がり始めた。
二階で足を止め、周囲を見回していると、コトッという物音。──やはり、上だ。
三階にいるのね。リカは、また階段を上がり出した。
亜由美はタクシーを降りると、
「ほら、おいで」
と呼んだ。
ドン・ファンがノソノソと降りて来る。長い足をスッと出して、とはいかない。
「──確かこの辺よね」
亜由美は、信号のある四つ角に立っていた。
「ワン」
「幸枝はいない? あんた、可愛い子見付けるの得意でしょ。捜しなさいよ」
「ウー……」
そんなこと言ったって、というところだろうか。
「何か寂しい所ね。──工場が並んでるのか。ま、デートコースにゃ向かないね」
亜由美は呑気なことを言っていた。
ドン・ファンが、ふと顔を上げ、
「ワン」
と、吠《ほ》えた。
「来た?」
と、ドン・ファンの見る方へ顔を向けると──。
人影がスッと動いて、どこかの工場らしい建物を囲む金網の向うへと消えた。
「今の……人?」
本当にチラッとしか見えなかったのである。何かコートのような物がフワッと風に広がるのが、目に入ったような気もするが。
でも──どうやって金網の向うへ消えるんだろう?
「クゥーン」
と、ドン・ファンが鼻を鳴らす。
「何よ。やめとけって言うの? だったら、初めから見付けないでよ」
亜由美はいつもながら無茶を言って、その人影が消えた辺りへと歩いて行った。
「なあんだ」
金網が破れていて、充分に人一人入れるのである。──お化けじゃなかったのだ。
「誰だったのかしら? ね、ドン・ファン、どう思う?」
と振り向くと、ドン・ファンはさっきの場所に座ったまま動いていない。
「何よ、もう! この薄情者!」
文句を言われて、渋々という感じで、ドン・ファンがやって来た。
「中へ入ってみようか? どう?」
「ワン」
「賛成ね? じゃ、いい? いざってときは、あんたが犠牲になって、私を守るのよ」
「ウー……」
たぶん、ドン・ファンは反対したのであろう。しかし、亜由美がさっさと金網の破れ目から中へ入って行ったので、仕方なくその茶色い用心棒も、それについて行くことになったのである。
「──工事中か」
広い工場である。その一画、人影が消えた方へ入って行くと、高い足場が組んであって、鉄骨は五、六階の辺りまで達している。もちろん日曜日なので、工事現場にも、人はいない。
「ワン」
「何よ。──ね、大体さ、安っぽいミステリーとかだと、こういう所へ、頭の上から鉄材か何か落ちて来るのよね。そしてヒロインは危うく難を逃れる──」
と、亜由美が頭上へ目をやると──本当に鉄材が落ちて来るところだった。
あ……。危い。危い。
亜由美はパッと飛びのこうとして、でも、まさかという思いで、足が動かなかった……。
鉄材は真《まつ》直《す》ぐ亜由美めがけて落下して来た。