「全く、いい加減にしてほしいもんだね」
と、その老人はブツブツ文句を言った。 「こっちは忙しいんだよ」
どう見たって、忙しいわけはない。現に、今だって、亜由美が何回もチャイムを鳴らして、やっと出て来たのだが、トロンとした目で、 「今まで居眠りしてた」と言わんばかり。TVはつけっ放し。
亜由美がシャーロック・ホームズでなくても、この老人がTVを見ながら、眠っていたことぐらい、推理できるというものである。
「またあの部屋を? 警察の人から、勝手に開けちゃいかんと言われてるんだ」
田口というこの老人、人に文句を言うのを生きがいにしている、という類の年寄りだった。
人間って、不思議なものね、と亜由美は思った。他人からひどい目に遭わされた(と当人は思っている)人に限って、他人をいじめて喜ぶものである。──こういう人は、人生で成長したのではなく、ひねくれただけなのだろう。
「私はその刑事さんと親しいんです。大丈夫ですから」
と、亜由美が言っても、
「万一のときの責任は誰がとってくれるんだね?」
と来る。
「万一のときって、何です?」
「そりゃ、もしものときだよ」
「もしものとき、って?」
「万一のときだよ」
漫才やってるんじゃない!──亜由美は苛《いら》々《いら》して来た。
「いいですか。私があの部屋へ入れなかったら、そのことで、また人が死ぬかもしれないんですよ。そのときになって、あなたが入れてくれなかったからだって文句言われても知りませんよ」
「わしを脅迫する気か!」
と、ますます喧嘩腰になる。
「分りました。じゃ、電話貸して下さい。警察の人の了解とります。それなら、いいでしょ?」
「うちの電話を使うのか? 電話代はどうしてくれる!」
亜由美は、相手が年寄でなければ、とっくにぶっとばしていたに違いない。
そこへ──。
「どうしたんですか?」
と、声がした。
「あら、みどりさんね」
池畑みどりが、立っていたのである。
「やあ、今帰ったのかね?」
亜由美は、田口という老人の態度がガラッと変って、ニコニコし始めたので、びっくりした。
「買物してたんで、遅くなって……」
池畑みどりは、学生鞄《かばん》をさげ、もう一方の手に、スーパーの袋を持っていた。「亜由美さん、でしたよね」
「こいつを知っとるのかね?」
こいつ、ってことはないだろう。亜由美はジロッと田口をにらんだが、相手はまるで気にしていない様子だった。
「ええ、よく知ってます」
みどりは肯《うなず》いて、事情を聞くと、「田口さん、この人なら大丈夫ですよ。雨宮さんの所、開けてあげて」
と、言った。
驚いたことに、
「そうか。みどりちゃんがそう言うのなら」
と、田口老人は奥へ入って、さっさと鍵《かぎ》を手に戻って来たのである。
亜由美は、腹を立てるのも忘れて呆《あき》れていた。
「待って。私も行っていいですか」
と、みどりが言った。
「もちろんさ。構わんよ」
亜由美は聡子と顔を見合せ、肩をすくめて見せたのだった……。
みどりは、自分の部屋へ入ると、二、三分で普段着にかえて出て来た。
「──すみません、お待たせして」
「いいのよ」
と、亜由美は首を振って、 「行きましょうか」
田口老人が先に立って、階段を上がって行く。
「──何を調べるんですか?」
と、みどりが訊《き》いた。
「うん……。ちょっとね、思い付いたことがあるの」
「そういえば、新聞で見ました。雨宮さんと同じ会社の人が殺されたんですってね」
「そうなのよ。──死体を見付けたのは私なの」
「ええ? 本当ですか!」
みどりが目を丸くした。 「凄《すご》い! 私なんか、きっと腰抜かしちゃう」
まさか本当に腰を抜かした(その前のことだが)とも言えず、亜由美は黙っていた。
「──さ、開けたよ」
と、田口老人が、鍵をあけて、わきへどく。
「どうもありがとう」
亜由美は、わざと馬鹿ていねいに言ってやった。
そして、ドアを開けると──。
「何かいい匂い、しない?」
「ワン」
と、ドン・ファンが応じる。
カチッと明りを点《つ》けると、玄関へ入って来た誰しもが、唖《あ》然《ぜん》として立ちつくした。
雨宮の部屋の中央に、ちゃぶ台が置かれ、そこには、食事の仕度ができていたのである。──おかず、ミソ汁、ご飯。
どれもが、まだできたてのように、湯気を上げていた。
「──どうなってるの?」
と、聡子が言った。 「ね、亜由美!」
「知らないわよ。──やった人に訊いて」
と、亜由美は首を振って、 「味見したいとは思わないわね……」
池畑厚子は、電話を切ると、ちょっと軽いめまいを覚えて、目を閉じた。
疲れているのだ。──それは、自分でもよく分っていた。
当然だろう。この何年か、夢中で働いて来た。
忘れるために。──過去の、あの華やかな生活を。
厚子は、大きく息をついて、事務所の中を見回した。暗くて、侘《わび》しい空間。
節約して、明りも机の上のスタンドだけ。昔の厚子には考えられないことだった。
──昔ね。もう忘れたつもりでも、つい比べてしまう。 「昔はどうだったか」と。
この小さなオフィスは、雑誌やPR用パンフレットの企画、製作を担当しているが、もちろん、 「下請け」の仕事であり、条件は厳しく、そしてお金は大して入って来ない。
それでも、厚子は必死で働いて来た。仕事をしていることが、自分の生きるための「空気」か「水」ででもあるように、絶え間なく頑張って来た。
何とか、みどりとの暮しも落ちついて来ている。
──何といっても、厚子の一番気にしているのが、みどりのことだ。
夫の会社の倒産、そして夫の蒸発。
ゆとりのある、のんびりした暮しは、台風で吹き飛ばされる雲のように、どこかへ消えてしまった。そして、母娘二人での、アパート暮し。
みどりが、何一つ不平も言わず、新しい生活に慣れてくれたこと、帰りの遅い母を心配して、中学生の女の子としては、考えられる限り、家事をやってくれることに、厚子はいくら感謝しても足りないくらいだった。
これで、もし、帰ってから食事の仕度から、掃除洗濯まで、厚子が全部やっていたとしたら、とても長くは続かなかっただろう。
「今日はもう……帰ろうかしら」
と、時計を見て、厚子は呟《つぶや》いた。
仕事は残っているが、明日でも間に合うものばかりだ。何もそういつもいつも、張りつめている必要はないだろう。
帰り仕度を始めると、机の上の電話が鳴った。──まさか、急な用事じゃないでしょうね。
少しためらいながら、受話器を上げる。
「──もしもし?」
「池畑さんですか」
その声で、すぐに分った。厚子の胸が、ちょっとときめいた。
取引先の社長で、まだ四十そこそこ。しっかりした、頼りになる男性だ。
「どうも……」
「いや、もしかしたら、まだ残ってるかな、と思って、かけてみたんだ」
「これから帰るところでしたの」
「じゃ、良かった。間に合って」
「何か、CFのことで?」
「そうじゃない。純然たるプライベートな電話さ」
と、相手は笑った。
「はあ」
「実は、君のオフィスの目の前の車からかけてる」
厚子はびっくりして、電話に出たまま、窓の所まで行って外を見下ろした。
道の向い側に、見憶えのあるBMWが停《とま》っている。
「君を食事に誘いたいと思ってね」
「でも──娘が──」
みどりが待っている。夕食の下ごしらえをして。それを分っていて、外で食べて帰るわけにはいかない。
「すぐに送るよ。どうだい、一時間ぐらいなら」
厚子は、チラッと時計を見た。そして考えた。──ほんの数秒間。
体が熱くなって来るのが分る。そう、たまには……。時には母から一人の女に戻ってもいいだろう。
「もし、私が今夜はゆっくりできるとしたら、どうします?」
と、厚子は訊いた。
「もちろん夕食をとるさ」
「その後は?」
「──その後か。そうだね……。まあ、成り行きによっては……」
「私をホテルに誘いますか」
少し間があって、
「ぜひ、誘いたい」
と、向うが言った。
声は真剣だった。相手には妻子がある。厚子も承知していた。
「それじゃ」
と、厚子は言った。 「ホテルにだけ、誘って下さい。一時間で帰れるように」
BMWが停ると、
「もうここで降ります」
と、厚子は言った。
「しかし──」
「近くまで行くと、アパートの人に見られますから」
「そうか……」
「今夜はありがとう」
「いや、礼は僕の方が言うんだ」
厚子は、彼の頬に軽く唇をつけて、
「おかげで、夕ご飯がおいしくいただけそう」
と、笑った。
「もし、また気が向いたら──」
「ええ。もしも、ね」
厚子はドアを開けて、外へ出た。 「おやすみなさい」
「おやすみ」
ちょっと手を振って見せて、彼のBMWはたちまち夜の中へと消えて行った。
それを、少し見送っていた厚子は、腕時計を見た。──一時間、と言ったが、とても無理だった。二時間近くたっていて、夕食には遅すぎる時間だ。
厚子は、急いで歩き出した。たぶん、みどりは食事をせずに、母の帰りを待っているだろう。
胸が痛んだ。自分は、胸につかえていたもの、くすぶっていたものを、一気に燃やし尽くして来た。しかし、みどりの方はどうか。
みどりを放っておいて、こんな時間になってしまったことで、厚子は罪悪感に追い立てられるように、走っていた。
すると──足音が、追いかけて来た。一瞬、ギクリとする。アパートで殺された女のことが、頭をかすめる。
「お母さん」
と、声がした。
振り向くと、みどりが息を弾《はず》ませて、やって来る。
「みどり! どうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ」
と、みどりは笑って、 「お母さんたら、駆け出すんだもの。びっくりしちゃった」
「急いで帰ろうと思ったのよ。遅くなって、あなたが心配してるだろうと思ったから。──でも、どうしてこんな所に?」
「お友だちの所へ行ってたの。私にだって、お友だちぐらいいるのよ」
「そりゃ分ってるけど……。でも良かったわ。お腹空《す》いたでしょ」
「お友だちの所で、カップラーメン食べた」
「そう。──じゃ、帰ってゆっくり食べましょ」
厚子は、みどりの肩に手をかけて、歩き出した。
「お母さんもお友だちと出かけてたの?」
みどりの言葉に、厚子は、ちょっとドキッとした。
「仕事の関係の人と会ってたのよ」
「車から降りるの、見てたんだ。うちの車と同じだったね」
もちろん、 「かつてのうちの車」のことだ。厚子は、みどりが、母親の「お友だち」を見ていたのだろうか、と思った。
「そうだったわね」
厚子は、みどりの肩を抱く手に、少し力をこめた。
「お母さん」
「うん?」
「お風呂に入った?」
厚子は、そう訊かれて、一瞬たじろいだ。肯定したようなものだ。
「みどり……」
「いいよ、別に」
と、みどりは言った。 「お母さんだって、寂しいでしょ。お友だちがいないとね」
「みどり……」
厚子は胸をつかれた。 「寂しくなんかないわ。みどりさえいれば。──本当よ」
「それじゃ困るな」
「どうして?」
「いつか、私、お嫁に行くもん」
厚子は、ちょっと笑った。
「いいわ。それからゆっくりお友だちを捜すから」
二人は一緒に笑った。
母と娘は、アパートへの道を、急いで行った……。