「私、結婚《けつこん》するの」
と言われて、塚川亜由美《つかがわあゆみ》は、
「へ?」
と、いささかはしたない声を上げてしまった。
もちろん亜由美だって、今年|二十歳《はたち》のレディである。いつも、そんな声を出しているわけではなく、普通[#「普通」に傍点]にびっくりしたときには、
「まあ!」とか、せいぜい、
「へえ!」
といった声を上げているのである。
しかし——この場合は、並《なみ》の驚《おどろ》きではなかったのだ。「うな重」でいえば、「並」でなく、「特上」級の驚きなのだった。
「あの——久恵《ひさえ》、今、何て言ったの?」
別に耳が遠くなったわけではないのだが、亜由美は、ついこう訊《き》き返さずにはいられなかった。
「結婚……するのよ」
佐伯《さえき》久恵は、それこそ消え入りそうな声でくり返し、真赤になってうつむいてしまう。
「結婚って——久恵、あなたが?」
亜由美は、そう言ってから、傍《かたわら》を向いて、「ね、ドン・ファン、ちょっと私の頬《ほ》っぺたなめてくれる?」
——ここは、塚川家の、亜由美の部屋。カーペットに座り込《こ》んで、話をしていた亜由美と久恵だが、その亜由美のわきに、ボディガードよろしく寝そべっているのは、つややかな茶色の肌《はだ》のドン・ファン——といっても、別に陽焼《ひや》けしているのじゃなく、もともと茶色いのだ——という名のダックスフントだった。
この犬、前に、亜由美がある殺人事件に首を突《つ》っ込んだとき、記念に(?)もらい受けたのである。
亜由美が、頭を下げて、頬を差し出すと、心得たもので、ドン・ファンは、頭を上げてペロリとなめた。
「冷たい!」
と、亜由美はあわてて起き上り、「夢《ゆめ》じゃないんだ!」
ちょうどそこへドアが開いて、
「——何が、夢じゃないって?」
と、入って来たのは、亜由美の母親、塚川|清美《きよみ》である。
「あら、お母さんいたの?」
と、亜由美は言った。
「出かけるなんて言わないでしょ」
と、清美は、盆《ぼん》にのせて来た紅茶のカップを、「ここへお紅茶、置くわよ」
「うん」
亜由美が、母親に、「いたの?」と訊《き》いたのも無理からぬところで、大体清美はやたらによく出かけるので、いない方が普通の状態なのである。
「ごぶさたしてます」
と、佐伯久恵は、清美に挨拶《あいさつ》した。
「相変らずおきれいね。久恵さんは」
と、清美は微笑《ほほえ》んで、「それに、とてもおしとやかで、女らしくて……。少しは亜由美にも見習ってほしいわ」
「私のこと、すぐ引き合いに出さないでくれる?」
と、亜由美は母親をにらんだ。
「仕方ないでしょ。うちの子はあなたしかいないんだから」
清美は涼《すず》しい顔でそう言ってから、「——お父さんが外で子供でも生ませてなきゃね」
と、ショッキングなことを付け加えた。
「お父さんが?」
と、亜由美が目を丸くする。
「冗談《じようだん》よ。お父さんの恋人はハイジやキャンディですものね」
久恵が、目をパチクリさせた。
「何のこと?」
「いえ、いいの」
亜由美はあわてて言った。——亜由美の父親は、技術|畑《ばたけ》のサラリーマンだが、趣味《しゆみ》はTVのアニメ。それも少女向けのセンチメンタルなアニメを、感動の涙《なみだ》と共に、ビデオでくり返し見るという、ちょっと[#「ちょっと」に傍点]変った好みの持主なのである。
「それよりね、お母さん、久恵、結婚するんですって」
「あら! それはまあ、おめでとうございます!」
清美は手を打って、声を上げた。
「いいえ、そんな——」
久恵は、また赤くなって、うつむいてしまった。
「本当にねえ、亜由美だって、もう二十歳なんだから、婚約者の一人や二人、いたっていいと思うんですけど。よく言ってやって下さいな」
「二人いちゃ困るでしょ。——お母さん、あっち行っててよ」
「はいはい。それじゃ、久恵さん、また後ほど」
清美が出て行くと、亜由美はホッと息をついた。
「うるさいわけじゃないんだけど、そばにいると疲《つか》れるのよね」
と、亜由美は言って、「でも——久恵、一体相手は誰《だれ》なの?」
「信じてないみたいな言い方ね」
久恵は、笑顔で言った。
「そうじゃないけど、あんまり急で……」
いや、正直なところ、亜由美には信じられなかったのだ。
久恵が、嘘《うそ》をついたりする子でないことは、親友たる亜由美がよく知っているのだが、それでも、素直に、「あ、そう」と肯《うなず》くわけにはいかないのだった。
佐伯久恵も、同じ二十歳である。同じ私立大の文学部に通う仲《なか》だが、付合いは至って古い。小学校のとき、仲が良かったのだ。でも、中学で別々になり、その後はしばらく会うこともなかった。
大学へ入って、再会したわけだが、亜由美は久恵が、小学生のころと、あまりに「変っていない」のにびっくりしたものである。
もちろん、それなりに成長し、女らしくもなっていたが、受ける印象が、まるで変っていないのだった。
二十歳で学生結婚。——そんなことも、昨今ではそう珍《めずら》しくない。現に、今、同じゼミにいる子でも、一人、結婚しているのがいた。
しかし——他の娘《むすめ》ならいざ知らず、久恵が結婚とは……。
やっぱり「信じられない!」と言うしかなかった。
「信じてくれなくても仕方ないわ。私だって、まだ信じられないくらいなんだもの」
と、久恵は言って、「紅茶、いただくわね」
「あ、そうね」
紅茶のことなんか忘れていた!
「——相手、私の知ってる人?」
と、亜由美は訊《き》いた。
「知らない人よ。大学の人じゃないの」
「ふーん。でも——お見合?」
「まさか。だったら、卒業まで待ってもらうわよ」
と、久恵は笑った。
「恋愛……。へえ!」
負けた、と亜由美は思った。
久恵は美人である。小学生のころから、ちょっと目立つ、色白な美人顔だった。
あまり健康的とは言えず、実際、よく病気で学校を休んだ。今も、その点では、やはりきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]な印象を与《あた》える。
昔から少々はねっ返りの気味のあった亜由美は、久恵の「保護者」を自認していたものだ。その久恵が恋愛結婚。——亜由美がめげるのも当然ではあった。
「じゃ、学生結婚するわけ?」
「そういうことになるわ」
と、久恵は肯《うなず》いた。「たぶん——近々ね」
「やってくれるわねえ! 私に一言の相談もなく!」
「ごめんなさい。怒《おこ》らないで」
と、本気で心配している。
亜由美は、フフ、と笑って、
「私を見そこなってくれちゃ困るわよ。そんなことで怒ると思ってるの?」
「良かった!——もう友だちだと思わないなんて言われたら、どうしようかと思ってたのよ」
「そんな!——どんな人なの? 名前は?」
と、亜由美は身を乗り出した。
「今度、ちゃんと紹介するわ。あなたに真先に」
「そう来なくっちゃ」
「彼が——」
「え? 何なの?」
「彼が……ちゃんと離婚したら[#「離婚したら」に傍点]ね」
と、久恵は言って、曖昧《あいまい》に微笑《ほほえ》んで見せた。
——このとき、強引に、相手の男についてもっと詳《くわ》しく突《つ》っ込《こ》んで訊《き》いておかなかったことを、後々まで亜由美は悔《くや》むことになった。
その十日後に、佐伯久恵は自殺したのである……。