「亜由美!」
と、声をかけて、神田聡子がやって来る。
大学の食堂で、テーブルについてサンドイッチをパクついていた亜由美は、わざと気が付かないふりをした。
「亜由美ったら!」
聡子は、隣の椅子《いす》を引いて座った。「ねえ、昨日はどうしたの? お家に帰してもらえたんでしょ?」
「あら、どなただったかしら」
と、亜由美はわざとらしく言った。「私の友人には、人を留置場へ放り込んで平気で帰っちゃうような薄情者はおりませんの」
「亜由美ったら……」
聡子は口を尖《とが》らして、「仕方なかったんじゃないの。あなたは暴れてるし、相手の男はギャーギャー喚《わめ》いてるし、私、怖《こわ》くって」
だが、聡子も、多少は後ろめたい思いではいるようで、
「ねえ……。昨日は留置場から出してくれたんでしょ?」
「聡子なんかには分らないわよ」
亜由美はじっとテーブルの上に視線を落として、「——私がどんな目に遭《あ》ったか」
「どんな目に、って……」
「凶悪犯《きようあくはん》みたいに、刑事に責め立てられて、一睡《いつすい》もさせてもらえなかったわ。堪《た》えられなくて眠《ねむ》りかけると、頬《ほ》っぺたを殴《なぐ》られ——」
「まさか!」
「次には頭から水をかけられて、罪を認めるまで、殴《なぐ》られ、蹴《け》られ……。拷問《ごうもん》にとうとう堪えかねて、有罪を認めてしまったわ……」
「亜由美……」
聡子は青くなっている。「そんなこと——私——」
「いいのよ。これで私の人生も、堕落《だらく》の一途《いつと》を辿《たど》るんだわ」
亜由美は、深々とため息をついて、「色々、お世話になったけど、もう二度と会えないでしょうね……」
「亜由美……」
聡子の方は、生きた心地もない、という顔をしている。——我慢《がまん》できなくなって、亜由美は吹き出してしまった。
「本気にした? おめでたいんだから!」
「——もう! 人を馬鹿《ばか》にして!」
聡子が真赤になって怒《おこ》っていると、
「亜由美、ここにいたの」
と、友だちの一人が、声をかけて来た。「亜由美のこと、捜《さが》してる人がいたわよ」
「へえ。誰《だれ》だろ」
「男の人」
男?——殿永さんかしら、と亜由美は思った。
「何だか、昨日、亜由美にけっとばされたんだって」
亜由美は目を丸くした。聡子が呆《あき》れ顔で、
「何よ、殴られ、蹴られ、とか言っちゃって。自分がけっとばしてんじゃないの」
「ね、どこにいるの、その男?」
「食堂の表で待ってる。たぶんここにいるんでしょ、って言っといたから」
「サンキュー」
亜由美は、残りのサンドイッチをぐっと口の中へ押しこむと、コーラで流し込《こ》み、立ち上った。
「何なの、一体?」
と、聡子が訊《き》く。
「気にしないで」
歩き出して、亜由美は、ふと振《ふ》り向くと、「また留置場へ入ることになったら、差し入れに来てね」
と言った。
——食堂を出て、亜由美は周囲を見回した。それらしい男は見えない。
昨日の仕返しに、襲《おそ》いかかって来るかもしれない、と思った。——来るなら来てみろ。
今度はあばら[#「あばら」に傍点]の一本や二本、へし折ってやるからね!
どうも、このところ暴力的な傾向《けいこう》を強めているのである。
「どうも、昨日は——」
と、目の前の男が言った。
「え?」
亜由美はキョトンとして、どう見てもセールスマン風の、背広姿の男を眺《なが》めた。
「どなた?」
メガネをかけて、どことなく間の抜《ぬ》けた顔の男である。
「あ、これを外した方が」
と、男はメガネを取った。
「あ……」
確かに。昨日、亜由美が股《また》をけり上げた男である。
「分りましたか」
「何の用?」
亜由美は、腕組《うでぐ》みをして、「私を訴《うつた》えるつもり?」
「とんでもない!」
男は目を丸くして、「ただお詫《わ》びにと思ったんですよ。昨日は——ちょっと口をきける状態じゃなかったので」
こうして見ると、どこといって変哲《へんてつ》のないサラリーマン風である。年齢《ねんれい》はせいぜい二十四、五というところか。
「分ったわ。——あの後はどうしたの?」
「いや、実は……。そのことでお話があるんです」
と、その男は言った。「ちょっと時間をいただけますか」
亜由美は、ちょっとためらったが、まあ昼間である。別に、そう危害を加えそうな感じでもないし……。
「いいわ。じゃ、どこか、話のできる所へ行きましょ」
「おいしいソバ屋はありませんか」
と男は言った。「昼飯がまだなんで、腹ペコなんです」
「校門を出た所にあるわ」
亜由美は、男を促《うなが》して歩き出した。「よく私のことが分ったわね」
「塚川亜由美さん、でしたね。殿永さんに教えていただいたんです」
「殿永さんがあなたに?」
「ええ。同業のよしみで」
「へえ」
と言って——それから亜由美は目を見張った。「同業[#「同業」に傍点]? それじゃ——」
「僕は茂木《もぎ》といいます。K署所属の刑事《けいじ》で——独身です」
と、なぜか、その男は付け加えた。
「刑事さんが、あんなことして!」
亜由美がそうくり返すと、ソバをすすっていた茂木刑事はあわてて店の中を見回した。
「そ、そんな大きな声を出さないで下さいよ。身分を知られちゃまずいこともあるんだから」
「私はちっとも構《かま》わないわ」
と、亜由美は言った。
もう大学の学食で昼は済ませていたが、喫茶店《きつさてん》じゃないのだから、お茶だけ、というわけにもいかない。仕方なく、ザルソバを頼《たの》んで、結構《けつこう》ペロリと平らげていた。
「後で殿永さんは大笑いしてました」
と、ソバを食べ終えた茂木は、ホッとした様子でお茶をすすりながら言った。
「あんな所で何をしてたの?」
と、亜由美は訊《き》いた。
「ホテルのマネージャーがいけないんです。あの部屋しか空いてなかったらしいので、まだ客を入れちゃいけないと言われてたのに、入れちゃったんですよ」
「じゃ——つまり、あなたは『お客』だったわけ?」
「ま、そうです」
「どうして裸《はだか》になってたの?」
「お風呂《ふろ》へ入ろうと思ったんですよ。ちょうど服を脱《ぬ》ぎ終ったら、ドアの所で話し声がして、鍵《かぎ》が開いたので、びっくりして服を抱《かか》えて、浴室へ飛び込《こ》んだんです」
「服を着りゃ良かったでしょう」
「物音を立てちゃ気付かれると思って。じっとしてたんですよ。それに話が聞こえて……。あそこが殺人現場だと分ったら、気味が悪くなって、ガタガタ震《ふる》えてたんです」
「情ない刑事さんね」
「そしたら、急にパッとドアが開いて、あなたが目の前に——。もう夢中《むちゆう》で逃《に》げ出しちまったんです。ただびっくりしちゃって」
「こっちの方がびっくりしたわよ」
亜由美はそう言ってから、笑い出してしまった。思い出すと笑わざるを得ないのである。
「いや、しかし、あれ[#「あれ」に傍点]はきいたな。——空手《からて》か何かやってるんですか?」
「まさか。ブルース・リーの映画の真似《まね》しただけよ」
と、亜由美は澄《す》まして言った。「でも、あのホテルに何の用だったの? ただ泊《とま》りに行ったわけ?」
「それは——まあ——色々とプライベートな問題ですからね。この際、気にしないようにしましょう」
と、茂木は咳払《せきばら》いした。
「じゃ、彼女と待ち合せてたの?」
「ええ、まあ——そんなとこです」
「で、彼女は?」
「遅《おく》れて来て、まだ殿永さんがいたんで、事情を説明したら、呆《あき》れて帰っちまいました」
「あら、それじゃ気の毒したわね」
「いいんです。振《ふ》られるのは慣れてます」
茂木は、少々強がってみせるように、タバコをくわえて、火を——点《つ》けようとしたが、百円ライターはすでにガス欠で一向に点火しない。
何となく、さま[#「さま」に傍点]にならない男である。
「——ところでねえ、刑事《けいじ》さん」
ライターの火が点くのを待っていた亜由美は、待ちくたびれて言った。「私に何の話があるの? 恋人《こいびと》に逃げられた責任を取れとでも言うつもり? 残念ながら、あなた、私の好みじゃないのよね」
「——誰《だれ》がそんなことを!」
茂木がムッとしたように、「言わせていただきますが、あなただって、僕の好みではありません」
「あ、そう」
亜由美はフン、と鼻を鳴らして、「お互《たが》いに好都合ね」
「全くです。——いや、今日は真面目《まじめ》に仕事の話で来たんですよ」
「じゃ早くしゃべったら? 私、授業があるのよ」
「分りました」
茂木は、手帳を取り出すと、「僕は今、ある恐喝《きようかつ》事件の調査に当っています」
「あ、そう」
「そもそもこの事件というのは——」
「ねえ、刑事さん」
「何です?」
茂木はプーッとふくれっつらになって、「まだ何か気に食わないことでも?」
「ここはおソバ屋さんよ。ゆっくり話をするには、向いてないと思うけど」
と、亜由美は言った。
——かくて、お互いに「好みでない」二人は、空いていて、金がかからず、いくら粘《ねば》っても文句を言われない、ということで、結局がら空きになった大学の学生食堂へと舞《ま》い戻《もど》ったのだった……。
玄関《げんかん》の方で物音がしたのは、矢原晃子《やはらあきこ》が、ちょうどいつも見ているTVの帯ドラマも終って、そろそろ買物にでも行こうかしら、と考えていたときだった。
矢原晃子は四十|歳《さい》である。夫は中堅企業《ちゆうけんきぎよう》の課長。子供は十三歳の中学生の男の子と十歳の女の子。
特別|裕福《ゆうふく》でもないが、まあ明日の食事に困ることもない。平均的なサラリーマン家族である。
「はい」
誰《だれ》か来たのかと思って、晃子は立ち上る前に声をかけた。しかし、音がしたといっても、チャイムが鳴ったわけではない。
何かしら。——晃子は、立ち上って、のんびりと玄関へ出て行った。
もちろん、まだ昼過ぎだから、夫も、二人の子供も帰って来るわけがない。
玄関のドアの新聞受に、何か白いものが見えた。——広告を入れてったんだわ、と晃子は思った。
この団地に越して来て、もう五年たつ。見渡す限り、団地ばっかりという風景にも、すっかり慣れて、晃子は割合この団地住いが気に入っている。
隣《となり》近所、そう口やかましい変人もいないし、子供たちも、遊び場がいくらもあるので——もっとも、もう矢原家の二人の子供は、駆《か》け回って遊ぶ年齢《ねんれい》ではないが——少々都心へ出るのに時間がかかっても、不平は言わなかった。
小さな不満は、晃子にももちろんあって、その一つが、訪問|販売《はんばい》、セールスの多いことである。
一戸一戸、別の家を訪問するのと違《ちが》って、ここでは、廊下《ろうか》一つにズラリとドアが並《なら》んでいる。セールスする方は楽に違いない。
晃子のように気の弱い主婦は、口達者で強引なセールスマンを相手にすると、なかなか「帰って下さい」の一言が言えなくて苦労するのである。
玄関へ下りた晃子は、覗《のぞ》き穴から廊下を見て、誰もいないのを確かめると、ホッとした。パンフレットか何かを入れて行ったんだわ。
それなら、中を見て、捨ててしまえばいいのだから、いくら気の弱い晃子だって、苦労はない。
新聞受の蓋《ふた》を開けると、白い封筒《ふうとう》が、下に落ちた。拾い上げてみると、宛名《あてな》も何も書いてない。
封がしてあるのは珍《めずら》しかった。ただの広告なら、いちいちのりづけなどしないのが普通である。
TVの前に戻《もど》って、晃子は封を破った。逆さにすると、テーブルに落ちたのは、一枚の写真である。
それを手に取って見ていた晃子は、ポカンとして、しばし言葉もなかった。
何だろう、これは?——主人だわ。それは間違《まちが》いないけど、腕《うで》を組んでる女の子は? 見たこともない若い娘《むすめ》——矢原の方へ体をすり寄せるようにして、頭をもたせかけているので、判然とはしないが、せいぜい二十代初めくらい、なかなか可愛《かわい》い顔立ちの娘らしい、ということは分った。
でも……一体これはどういう意味なのだろう?
矢原は会社の帰りか、いつものコートを着ている。背景は暗くてよく分らないが、ネオンらしいものが、いくつかぼんやりと見えていた。
電話が鳴り出して、晃子は、ハッと我に返った。あわてて駆《か》けて行く。
——向うは、少し間をあけて、口をきいた。
「奥《おく》さんですか」
女の声だ。
「ええ。——どなた?」
「写真、ごらんになりましたわね」
晃子は、まだ左手に持ったままの写真に、目を落とした。
「これ……あなたが?」
「ご主人と一緒《いつしよ》にいる女、ご存知ですか」
女は、無表情な声で続けた。
「いいえ。でも——」
「もう二年越しの関係なんですよ。オフィスラブで」
晃子は、青ざめた。やっと、事情が呑《の》み込《こ》めたのだ。
「こんなものを、どうして——」
「まだいくらも写真はありますよ」
と、女は遮《さえぎ》った。「ショックの少ないものをお見せしたんです。ご主人と彼女が、裸《はだか》で絡《から》み合ってる写真もあります。ごらんになります?」
「馬鹿《ばか》言わないで!」
晃子は声を震《ふる》わせた。
「三十万円で、ネガと写真をお売りします」
「——何ですって?」
「三十万円ですよ。大してお高くありませんわ」
「とんでもないことだわ。いい加減なことを言って——」
「お断りになるんですか? それじゃ写真をご主人の会社へ送りますよ」
「会社へ?」
「上司の方|宛《あて》にね。今は、オフィスラブにはうるさいんです。ご主人の立場には響《ひび》くでしょうね」
晃子は、何か言おうとしたが、言葉が出て来なかった。
「それから——」
と、女は言った。「同じ写真を、お子さんの通っている中学校、小学校へばらまきます」
「何ですって?」
「下校の途中の生徒にあげれば、面白がるでしょうね。お子さんたちはクラスの笑いものになるわ」
「何てことを! あなたは誰《だれ》なの?」
「ヒステリーを起こさないで下さいな」
女の声は、あくまで冷ややかだった。「もし、あなたが写真を買い取らなかった場合のことです。そのときになって後悔《こうかい》しても遅《おそ》いですよ。三十万円ぐらい、貯金をおろしたって、ご主人には知れやしません。どうします?」
晃子は、その場に座り込《こ》んでしまった。返事をしようにも、呆然《ぼうぜん》として、言葉が出て来ないのだ。
「——いかがです?」
女が、少し間を置いて言った。「——ご返事がありませんね。お断りになるということですか?」
晃子は、口を開いた。しかし、何を言っていいのか分らない。
「——では結構です」
女が事務的な口調で、「言った通りにさせていただきますわ」
電話が切れる、と思うと、晃子は、我知らず、叫ぶように言っていた。
「待って! 待ってちょうだい!」
「——いやねえ」
と、神田聡子が首を振った。
大学の学生食堂。——亜由美と茂木刑事の話に、亜由美を待っていた聡子も加わっていたのである。
「汚いわ、恐喝《きようかつ》なんて」
と、亜由美は顔をしかめた。「人間、誰《だれ》だって、他人に知られたくない生活を持ってるもんよ。——まあ、浮気ってのはよくないにしても」
「それで、その奥さん、お金を払ったんですか?」
と、聡子が訊《き》く。
「三十万円ね」
と、茂木が肯《うなず》く。
「それで……」
「確かに、封筒《ふうとう》に入っていた写真と、そのネガは矢原晃子が受け取ったんです。しかし、それ以外の写真は、訴えられないための保証だと言って、渡してくれなかった」
「インチキねえ」
「いや、そもそもがインチキだったんですよ」
「え?」
「その写真に写っていた娘は、夫の同僚《どうりよう》でもなんでもなかったんです」
「じゃあ……」
「はったりですよ。はったり。——亭主《ていしゆ》の話では、会社の同僚と飲んだ帰り、急に若い女が寄って来て、腕《うで》を取り、『ちょっと遊ばない?』と言ったんだそうです。彼は、とんでもない、そんな金はないよ、と笑って断った」
「じゃ、そのときに誰かが写真を——」
「その女とぐる[#「ぐる」に傍点]だったんですね。その写真を脅迫《きようはく》に使ったんです」
「だけど」
と、聡子が言った。「そんなの、ご主人に訊きゃ、すぐ分るじゃない」
「利口な犯人だわ」
と、亜由美は言った。「その夫、当人[#「当人」に傍点]をゆするんじゃなくて、奥《おく》さんをゆすった、というのは利口ね。しかも、子供のことまで持ち出して」
「そうなんですよ。三十万という金額もね、一日で用意できる額でしょう。その電話の女は、その日の内に払えと要求しているんです」
「でたらめかもしれないと思っても、万一、本当だったら、と誰だって考えるわ」
「じゃ、お金を払った後で、でたらめだと分ったわけ?」
と、聡子が言った。
「いや……。矢原晃子は、夫に黙《だま》っていたんですよ」
「黙って?」
「怖《こわ》かったのね。本当だと分るのが」
と、亜由美が肯《うなず》く。
「哀《かな》しいことに、彼女はすっかり思い詰《つ》めてしまったんです。夫が浮気を続けてると信じ込《こ》んで、何から何まで疑い出して。——夫の方は、どうして妻が思い悩んでるのか見当もつかない」
「それで?」
「彼女——矢原晃子は、発作的に、ベランダから飛び降りてしまったんです」
亜由美は息を呑《の》んだ。まさか、そんな風に話が進むとは思わなかったのである。
「死んだの?」
と、亜由美は訊《き》いた。
「一命は取り止めました」
亜由美はホッとした。
「しかし、たぶん一生、歩けるようにはならないだろう、ということです」
「ひどい」
聡子が、ため息をついた。
「それで、やっと夫の方にも事情が分ったんです。矢原晃子が話したんですよ。ところが、何もかもでたらめだった。怒《おこ》った夫が警察へと訴《うつた》えたわけです」
「当然ね」
「我々も、早速|捜査《そうさ》を始めましたが、何しろ手がかりがない。残された写真とネガだけでは……」
「お金を渡したんでしょ? そのときに、相手を見なかったのかしら」
「向うの指示は、何時何分に、団地内の公園のどこそこのくずかごにお金の入った封筒《ふうとう》を入れておけ、というもので、晃子もその通りにしたんです」
「写真とネガは?」
「お金をくずかごへ入れて、しばらくして家に戻《もど》ると、玄関に入っていたそうです」
「——早いのね」
「その通り」
と、茂木は肯いた。「犯人は団地内の人間とも考えられます」
「じゃ、何もつかめていないの?」
「今のところ、手がかりはこの写真だけでしてね」
茂木は内ポケットから、写真を取り出して、テーブルに置いた。
少しピントの甘い、男と若い女の写真。男の方は、ごくありふれた中年サラリーマン。女の方は……。
頭を、男の肩《かた》へもたせかけているので、カメラは女の顔を斜《なな》め上から見る格好になっている。顔立ちは判然としない。
しかし——亜由美は、ちょっと妙《みよう》な気がした。一瞬《いつしゆん》、どこかで見知っている顔、という印象を受けたのである。誰《だれ》なのかは分らないのだが。
「——それで、刑事《けいじ》さん」
と、亜由美は写真から目を上げて、「私にどうしてそんな話をなさるの?」
「実はですね——」
茂木は咳払《せきばら》いをした。「昨日、あなたにけとばされてから——」
「そんなこと、どうでもいいでしょ!」
と、亜由美はにらみつけた。
「話をしたんです。殿永さんと。そしたら、あの部屋で殺されていた永田照美が、この恐喝《きようかつ》事件のあったのと同じ団地に住んでいたことがわかったんです」
「まあ、偶然《ぐうぜん》ね」
「偶然でしょうかね?」
「——どういう意味?」
「まだ確証はつかめていないのですが」
と、茂木は身を乗り出して言った。「どうやら、この団地で、恐喝《きようかつ》されていたのは、矢原晃子一人ではなかったらしいんです」
「やっぱり! 変だと思ったわ」
と、聡子が肯《うなず》く。「三十万円なんて、少し安過ぎるわよ」
「数で稼《かせ》いでたっていうわけね。誰か通報した人でも?」
「匿名《とくめい》でね。——矢原晃子の一件が、団地に知れ渡ったころ、誰《だれ》やら、主婦らしい女性から、電話があったんです。やはり同じように恐喝されて、三十万円払った、というので」
「じゃ、その人は——」
「詳《くわ》しいことを聞きたかったんですが、どうしても名前を言ってくれないんです。ご主人にも言っていない、ということでね」
心理的に、口にしたくない、というのは亜由美にも分る。金を払った、ということは、つまり夫を信じていなかったと白状するようなものだからだ。
「ただ、その女性の話では、似たような被害にあった人を、二、三人知っている、というんです。そうなると、他にももっといるのかもしれない」
「きっとそうでしょうね」
「しかし、元々が口うるさい所ですから、何か知っていても、しゃべらないという人が多いんです。それで、こっちも行き詰っていたんですよ」
「すると、永田照美が殺されたのも、何か関係がある、と?」
「そう思ったんです。時期が時期だし、メモには女子大生の名前があった。——殿永さんに頼《たの》んで、自殺したという佐伯久恵の写真を見せてもらいました」
「久恵の……」
「どうです?」
茂木は、矢原と若い女が写っている写真を亜由美に示して、「——この女、佐伯久恵に似ていませんか?」
亜由美は黙《だま》って、その写真を見つめていた。
「もし、この佐伯久恵が、恐喝犯だとしたら——いや、共犯で、写真を撮《と》るためにこういうポーズを取って、いくらか分け前を取っていたとしたら? 自殺したというのも、もしかしたら、分け前をめぐる争いで、殺されたのかもしれない。それとも、本人もいや気がさして、抜《ぬ》けようとしてやめられず、悩《なや》んだ挙句《あげく》に自殺……したの……かも……しれま……」
亜由美の顔が段々真赤になって、目をむき、今にもかみつきそうな表情に変るのを見て、茂木は、少しずつ椅子《いす》から腰《こし》を浮《う》かした。
「これは——一応の仮説《かせつ》ですからして……」
「やかましい!」
亜由美が、凄《すご》い声で怒鳴《どな》った。「久恵がそんな悪い奴《やつ》の仲間だったって? もう一度言ってみろ! 今度はけっとばすぐらいじゃ済まないからね!」
「お、落ちついて——」
茂木が、立ち上って、じりじりと後ずさった。亜由美は椅子をけって立ち上ると、テーブルの上に飛び上った。
「亜由美!」
聡子があわてて、亜由美のスカートの裾《すそ》をつかむ。
「出てけ! 今度、私の前に顔を出したら、ヒョットコのお面と首をすげかえてやるからね!」
今にも飛びかからんばかりに、亜由美が身構《みがま》えると、茂木は、
「失礼しました!」
と、一声、猛然《もうぜん》と学生食堂から飛び出して行った。
「亜由美ったら……」
聡子が体中で息をついて、「また留置場に入りたいの?」
「留置場が何よ!」
興奮さめやらぬ亜由美が、テーブルの上に両足を踏《ふ》んばって立つと、「あんなヘナチョコ刑事《けいじ》なんか、逮捕《たいほ》に来たらカレーに煮込《にこ》んでやるわ!」
と宣言したのだった。
——学生食堂は、空《す》いているとはいえ、何人かの客も入っていて、亜由美が「男子[#「男子」に傍点]暴行罪」で逮捕された、という噂《うわさ》が大学内に広まるのに、二日とはかからなかったのである……。