パーティはパーティで、それ以上でも以下でもない。
山上は、もうさっきからずいぶん料理を食べまくっていた。
四十二歳ともなると、調子にのって飲んでいると、しっかりそのつけが次の日に回って来る。適当に周囲の人間と話しながら、手に皿を持っていれば、無理にアルコールをすすめられることもないと、パーティに二日に一度は出る身の、経験から来た対処法である。
今夜のパーティは大分出費している。ここの社長は見《み》栄《え》っぱりだからな、と山上は思った。
社外向けの行事やイベントは、いつも派手だし、女関係も華やかなので有名なのである。会社のパーティにも、自分より十センチは背の高い、モデル風の美女をエスコートして現われ、
「相変らずお元気なことで」
と、取り巻き連中からお世辞を言われていた。
しかし、コンサルタントとして、この社に係《かかわ》っている山上はよく知っている。——「よそ行き」の顔は華やかでも、中《うち》には厳しく、ケチに徹しているので、辞めて行く社員が多いこと。
もう一つ。連れている女も、いつも別だが、あれも社長の「見栄」で、当人は心臓病で女を相手にはできない体なのだ。こういうパーティのときは、側近がしかるべき女性を捜して来て、高いバイト料で、パーティの間、社長の「恋人役」をつとめさせるのである。
それには「口止め料」も含まれているので、一晩の「バイト料」は、この社の重役の月給より高い。——ブツブツ文句を言う側近も少なくないことを、山上はよく知っていた。
コンサルタントとして、山上は時には、そこの経営者を怒らせるような助言もする。しかし、それは必要なことで、常に「イエスマン」に囲まれている人間くらい、不幸なものはないのだ。
山上がコンサルタントとして、ここまで地位を固めたのも、その姿勢を貫いて来たからである。
「——お飲みものはいかがですか」
コンパニオンの女性がウイスキーの水割りをすすめる。一瞬、心が動きかけたが、
「車なんでね。食べるの専門にしてるんだ」
と、断った。
「こっちがもらうよ」
いい加減酔っている、赤ら顔の男が、そのグラスを受け取る。
危いな、と山上は思った。——飲みすぎている。
こういうパーティで「度を過ごす」のは、最もみっともないことだ。客の半分は、
「タダで飲み食いできる」
から来ている客だし、残りの半分は、
「義理で仕方なく」
来ている。
日本のパーティとは、しょせんそんなものだ。
山上は、ふと——今の、グラスを取って、もう半分も飲んでしまっている男の方を振り向いた。
「もしかして……。津田か?」
会場は、ともかくやかましい。
山上のスピーチはとっくにすんでいるが、耳を傾けていた人間が果して何人いたか。
話をするには大きな声を出さなくてはならない。
「津田だろ? ——俺《おれ》だ。山上だよ」
肩を叩《たた》いて、やっと相手の注意をひくことができた。
少し充血した目が、じっと山上を見つめていたが——。
「山上か!」
「ああ。びっくりした。お前——大丈夫なのか?」
大学時代の仲間の一人が、血を吐いて倒れたという話は、やはりショックである。それを聞いたのが、去年のことだった。
「ああ、見ての通りだ」
と、津田良治はグラスをちょっと上げて見せた。
「おい。——やかましいからな、ここは。ちょっとロビーへ出ないか。いいだろ?」
「ああ……。まだ、あんまり飲んでないんだけど」
「後でまた来りゃいいさ。な、ちょっと出ようぜ」
山上は、旧友の肩を抱いて、パーティの人ごみの間をかき分け、会場を出た。
——ロビーは、涼しくて、気持良かった。ソファに腰をおろすと、津田は、グラスの残りを名《な》残《ご》り惜しそうに飲み干した。
「グラス、貸せよ」
山上は、津田の震える手からグラスを受け取ると、傍のテーブルにのせた。「いや、心配してたんだ。手術したのか?」
「ああ。——胃にポカッと穴があいてると言われてさ」
と、津田は少し舌っ足らずな声で言った。
——津田はひどくやせて、やつれて見えた。
パーティで会ってすぐに分らなかったのは、そのせいもあった。髪がめっきり白くなり、同じ四十二歳のはずなのに、どう見ても五十代の後半だ。
その顔色も、この酔い方も、まともとは言えない。それが気になって、山上は津田をパーティから引張り出して来たのである。
「胃をとったんだ。——いや、少しは残ってるのかな? 何しろ自分で見たわけじゃないからな。そうだろ?」
と、津田は笑う。
「ああ。しかし、そんな体じゃ、そう飲んじゃいけないんじゃないのか」
「ああ……。分ってるさ」
と、津田は、フーッと息をついて、足を組んだ。「しかし……飲まなきゃやり切れないさ。お前はいい。何しろ『先生』だもんな!」
津田は、唇を歪《ゆが》めて笑った。
「『先生』か! ——さっき、パーティで聞いててさ、誰《だれ》のことかと思ったぜ。お前がね。いや、大したもんだ」
「よせよ」
と、山上は首を振った。「俺だって、個人企業だ。いつどうなるか分ったもんじゃないさ」
「しかし、会社の都合って、いい加減なもんで、我が身が紙風船みたいに飛んで行くってことはない。そうだろ?」
「津田。——何があったんだ」
と、山上は訊《き》いた。
「今日だって、俺が招待されたわけじゃないんだ。招待状が来たのは課長——俺が面倒みてやった、三十いくつの若造だぜ。そいつがさ、『俺は今夜、約束があるんだ。津田、お前、タダ酒が飲めるぜ。代りに行けよ』って……。招待状を投げてよこした」
苦い言葉、苦い声だった。
「そうか……」
「入院してる間に、どんどん人事は動いちまったのさ。——もとはといやあ、仕事の上での上司の失敗を、俺がかぶった。違法すれすれのやり方でね。取り調べを受けたんだよ、俺一人。その三日間で、胃に穴があいた。放免になって、家へ帰り着いたとたん、血を吐いて倒れたんだ。それなのに……。三か月たって、体重を二十キロも減らして出社した俺は、もう上司にとっちゃ邪魔者だったのさ」
「それで」
「とんでもない部署へ回されて、ろくに仕事もない。やっと元へ戻ったと思ったら、昔の新米の下で働け、と来た。これで飲まずにいられるか?」
山上は、ゆっくりと津田の肩へ手をかけて、
「気持は分るさ。俺だって、色々見て来たし、経験して来た。しかし、体をこわしたって、そんな連中を見返しちゃやれないぞ。自分を大切にしろ。転職するのもいいじゃないか。営業の仕事なら、いつでも求人はある」
津田は、山上の方を見て、ちょっと寂しげに微《ほほ》笑《え》んだ。
「お前の気持はな……嬉《うれ》しいけど。もう俺はだめさ」
「おい。まだ四十二なんだぞ。俺たちは人生の半分しか来てない。分るか?」
「半分か……。お前はな」
と、津田は言った。「俺はもう……幕が下りかけてるよ」
「そんなことはないさ。もう帰ろう。家へ帰って、ゆっくり休めよ」
すると、津田がパッと立ち上った。
「飲まなきゃ。せっかくタダなんだぜ」
「津田。——よせ」
山上の手を振り切って、津田はパーティへと戻って行った。少し足元が危い。
山上は、重苦しい気分で、しばしその場から動けなかった……。
十一時。——まだそう遅い時間ではない。
しかし、鳴らしたチャイムには、一向に返事がなかった。
「参ったな……」
山上は、タクシーの方をチラッと振り返った。
この家に間違いないはずだ。——ちゃんと憶《おぼ》えている。〈津田〉の表札もある。
酔《よ》い潰《つぶ》れた津田をのせて、ここまで来たのである。
パーティで飲んだくれ、見知った顔に絡み始めた津田を放っておけず、山上は結局、自宅まで送って来たのだった。
しかし、家には誰もいないようだ。
確か津田のところには子供がない。しかし奥さんはいるし、山上も何度か会っている。
美人というのではないが、よく動く、可《か》愛《わい》い女性だった。
「——すまんね」
と、タクシーへ戻って、「こいつを中へ入れるから。少し待っててくれ」
ポケットを捜せば、玄関のキーは出てくるだろう。完全に酔い潰れてしまっている津田のポケットを探っていると——。
車が一台、近付いて来て、少し手前で停《とま》った。——夜だったが、街灯の明りで、外車、それもたぶんポルシェだと分る。
ドアが開き、助手席から女性がおりて来た。靴音をたてて、やって来ると、
「何かご用ですか?」
と、山上へ声をかけて来る。
「——津田君の奥さんですね」
山上は、自分の声ではないような気がした。
「はあ……。あら、主人が?」
と、タクシーの中を覗《のぞ》き込む。
「送って来たんです。——山上です」
その女は、ハッとしたように振り向いた。
「まあ。——本当だわ。山上さん? びっくりした……」
山上は、あのポルシェが静かに走り出すのを、見た。運転席には、少し禿《は》げ上った、よく日焼けした顔の男が座っていた……。
「お手数かけて、すみません」
と、津田郁代は言って、「お茶もさし上げないで」
「いや、僕ももう帰らないとね」
と、山上は言った。「大丈夫ですか、彼は?」
「ええ……。いくら言っても、だめなんですの」
郁代は、記憶の中の彼女とは別人のようだった。
化粧も濃く派手になり、髪も染めて、金色のリングが指に光っている。
「病気の後、色々あったようですね」
と、山上は言った。
「ええ。——あの人も可《か》哀《わい》そうですわ」
郁代はタバコを出して火をつけた。「でも……いつまで人のせいにして恨んでいても、仕方ないでしょ? それを……結局、のり越えられなかったんです」
山上は、何も言わなかった。——津田を責めることも、自分にはできない。
「私も変ったでしょ」
と、郁代は言った。「主人をどうすることもできなくて……。入院していたときのお医者様に相談しました。私も寂しくて、誰かに頼りたかったんです」
山上は、ちょっと郁代を見つめた。
「ええ」
郁代は肯《うなず》いて、「さっきのポルシェの人です。月に二、三度会って……。何も買ってもらったりしているわけじゃありません。ただ抱かれて、帰って来るだけです。それだけでも、何とかこの惨めさから、救われるんですもの」
山上は、何も言わない。——津田の気持、郁代の虚しさ。どちらも痛いほど、よく分る。
どっちを責めてすむという話ではない。
「ともかく——」
と、山上は立ち上った。「あんまり飲ませない方が……」
「ええ。気を付けますわ」
と、郁代は言った。「本当にすみません。お会いできて良かったわ。本当に、またいつかゆっくり……」
山上は、口の中で、どうも、と呟《つぶや》いて、逃げるように玄関を出た。
妻のシルエットが、寝室の入口に浮んだ。
「——エリは寝てるか?」
と、山上が訊いたのは、一人娘のエリが、もう十四歳になって、結構夜ふかしすることも多いからである。
早く寝なさい、と口やかましく注意しても聞く年代ではなくなっている。
「ええ」
秀子は、静かにドアを閉めた。
廊下の明りが遮られて、寝室は暗く沈んだが、秀子の、白いネグリジェが空中を漂う霧のようにうっすらと見えた。
妻がわきへ滑り込んで来ると、山上は、その肩へ腕を回した。
「——ひどいことになってるのね、津田さんのところ」
と、秀子は言った。
「ああ……。あんなに陽気で、明るい奴だったのにな」
山上は、暗い天井を見上げながら、呟くように言った。
「今でも憶えてるわ。私たちの式のとき、あの人の歌の面白かったこと」
と、秀子がちょっと笑う。
「そうだった。みんな腹をかかえて笑ってたな」
遠い昔のことだ。いや、そんなに遠くはない。
たった十五、六年前の話だ。——その年月がこんなにも人を変えて行く。
「私、あんまり笑っちゃいけないと思って……。だって、花嫁が大口あけて笑うわけにいかないでしょ? 必死でこらえてて、お腹が痛くなっちゃったわ」
「その津田がなあ……。たぶん、君は会っても分らないだろう」
「奥さんも——可愛い人だったのに」
「幸福そうじゃなかった。全くね。誰が悪いんでもない」
——人は、四十、五十ともなれば、日々の暮し、充足感、幸福かどうかが、顔に出てくるものだ。
たとえどんなに疲れた顔をしていても、幸せそうな人もいるし、豪華な毛皮のコートをまとい、宝石に飾り立てられた夫人でも、顔に不幸がかげを投げていることもある。
「あれじゃ、津田も遠からず、また体をやられるだろうな」
と、山上は言った。「止めることもできない。——そうだろ。津田は、ちゃんと知ってる。女房が、医者と会ってることも。だから帰りたがらない。それを、僕がどうしてやるわけにもいかないしね」
「そうね……」
「学生時代の仲間たち、か……。何の役に立つんだ、そんなことが?」
「あなた……」
秀子の柔らかい手がのびて来て、山上の顔に触れた。
秀子は三十八歳。山上忠男の四つ年下である。独立前の職場で、至って控え目なOLだったのが秀子だ。
子供のころ両親を亡くした秀子には、どこかさめたところ、人生を諦《あきら》めているような雰囲気があった。
正直なところ、山上が秀子を好きになったのは、秀子を笑わせ、楽しくさせたいという希望を持ったからだった。その夢は、ある程度果されたと思うが、今でも秀子は至ってもの静かである。
その分、娘のエリが、一分間もじっとしていないほど元気で、飛び回っているが、最近は母親の方が少し娘から影響されたのか、車の免許をとったり、カルチャーセンターへ通ったりしている。
いいことだ、と山上は思っていた。秀子には、いつまでも若々しくいてほしい。
実際、少し小柄で、童顔の秀子は、三十八歳よりずっと若く見られる。——そうそう、来週には三十九歳になるのか。
「もうじき誕生日だな」
「え?」
と、秀子は当惑した様子で、「誰の? ——あ、私のだわ」
「おいおい」
と、笑って、「憶えとけよ、自分の誕生日くらい」
「忘れちゃうわよ、つい」
と、秀子も笑う。「三十九か……。あと一年で四十ね」
「どうだ、二人で温泉にでも行くか」
「エリは?」
「もう中二だ。一人で大丈夫さ」
「そうね……。お仕事はいいの?」
「構うもんか」
山上は、秀子を抱き寄せた。秀子が山上の胸に頭をあずける。
——夜の中で、山上は静かに妻を充たして行った。