「村内さん」
と、意外そうな声がした。
パイプをくわえて、寝室に立っていた男は、振り返った。
「君か」
と、村内刑事は言った。
「何してるんです」
と、入って来た安西刑事は、紺のスーツに身を包んだ、筋肉質の青年だ。
といっても、もう安西も三十四歳。そう若いわけではないが、スラリとした長身、脚が長く、胸板が厚くて、キュッと引き締った腰の辺り。——鍛えられた肉体を感じさせるのである。
村内の方は、対照的なタイプである。
中肉中背。一見してすぐに憶《おぼ》えられるという男ではない。
「君の担当か」
と、村内は言った。
「ええ」
安西刑事は迷惑そうな様子を、隠そうともしていなかった。
「そうか。——俺《おれ》もだ」
安西の顔がこわばった。
「冗談でしょう」
と、安西は言った。「相棒は田所さんと聞いてます」
「入院したよ」
と、村内は言った。「ゆうべだ。盲腸だとか」
安西は、ため息をついた。
「やれやれ……。で、村内さんが?」
「仕方ないさ。今の課長は新しい。昔のことは知らないよ」
と、村内は肩をすくめて、「難しい事件らしいじゃないか」
「本質は単純です」
と、安西は重い口を開いた。「男と女。それがこじれた」
「で、男が女を殺す。——凶器の銃は?」
「弾丸から手がかりは出ません。銃の方は見付かっていない」
「目撃者は?」
「捜してますよ、もちろんね」
安西はわざとらしく付け加えた。「言われなくてもやれます。僕のような新米でもね」
村内は相手にしなかった。
「どれくらいの付合いだったか知らんが、一度や二度は、男も出入りするところを見られてるはずだ。——気長にこのマンションの住人を当るんだね」
と、村内は言った。「被害者のことを教えてくれるか?」
安西は何か言いたげに、口を開きかけたが、やがて肩をすくめ、
「じゃ、居間へ。——座るところもない」
「うむ……」
村内は寝室を出ようとして、乱れて、血のしみの残ったベッドへ目をやった。
「——名前は水野智江子。定職はなかったようです」
居間のソファに座って、安西は言った。「色々アルバイトをやりながら、遊んで暮してた、というところですかね。もう二十九だったんですが」
「そこで犯人と知り合った、か」
「たぶん。——しかし、どのバイト先か、当るだけでも大変です。パーティのコンパニオンとか、臨時のホステスまがいのこともしていますからね」
「しかし、当るしかあるまい」
「友人関係に話を聞いています」
「——このマンションは?」
「賃貸です。家賃は、本人が現金で払っていたとか。当然、男にもらった金でしょうけどね」
「何年ぐらいここにいたんだ?」
「一年ほどだそうです。年中、出歩いては、夜遅く帰るというパターンで、ここの住人とも、ほとんど接触はなかったらしいですね」
「なるほど……」
村内は肯《うなず》いて、「しかし、とっさの感情のもつれってわけじゃないな、銃まで手に入れてるんじゃ。暴力団関係者か」
「今、当らせてます」
安西の返事に、村内は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだ……。
「君もすっかり大人になった」
「三十四ですよ」
「もう? ——そうか、俺も五十二歳だからな、当然君もそんなものか」
村内は、居間の中を見回した。「何か手がかりらしいものは? 指紋は出たのかね」
「それです」
安西は手帳を閉じてポケットへ入れた。「指紋はどこからも採れませんでした。被害者のものはいくつかありますが、犯人らしいものは一つも」
「一つも? しかし、犯人は当然ここへ何度も来ているはずだろう」
「拭《ふ》きとってあるんです。徹底的に」
と安西は言った。「ドア、戸棚、テーブル、椅《い》子《す》の背に至るまで、きれいなもんですよ」
「ふーん。すると計画的犯行か」
「冷静な犯人ですよ。どこも見落としていない」
と、安西は首を振って、「見て下さい。そのTVのリモコン。もちろん、このリモコンの指紋もふきとってありましたが、中の乾電池まで抜いて行ってるんです。凄《すご》いと思いませんか」
村内は、じっと考え込んでいたが、
「手《て》強《ごわ》い犯人を相手にしているようだな」
と、言った。「協力して、犯人を見付けたいものだね」
安西の目は、冷ややかに村内を見つめた。
「上がどう考えても、関係ありません。村内さん。あなたと組む気はない。何をしようと勝手ですが、僕の邪魔はしないで下さい。いつかのようにね」
安西は、立ち上って、出て行く。
村内は、無表情のまま安西の言葉を聞いていたが、一人になると、ゆっくり居間の中を歩き回り始めた。
くわえたパイプが、細かく揺れていた……。
「忠男君!」
若々しい声が飛んで来て、山上は一瞬、自分が何十年か昔に戻ったような錯覚に陥ってしまった。
レストランの入口で、ちょうど入りかけたところだった。
彼女は、エレベーターホールから駆けて来た。
「今、来たの? 私、ちょっと迷っちゃって——」
と言いかけて、「あ、ごめんなさい。お久しぶりです」
頭をさげる倉林美沙に、山上は笑ってしまった。
「まあ、そんなこといいから、ともかく入ろう」
と、促す。「ちっとも変ってないじゃないか。太ったおばさんなんて言うから」
「あら、太ったのよ、これでも。あなたの方は——」
ちょうど二人は、出て行こうとする、巨大な体《たい》躯《く》の女性とすれ違った。「太ったおばさん」という山上の言葉が耳に入っていたのか、すれ違いざま、ジロッと二人をにらんで行く。
二人は顔を見合せ、一緒に笑い出した……。
——個室で、ランチをのんびりととる。
「ホッとしたよ」
と、山上は言った。
「あら、どうして?」
「もっとやつれてるかと思った。困ってる、ってことだったからね。しかし、元気そうだ」
「元気でなきゃ。一郎がいるもの」
「一郎君か。そうだった。いくつ?」
「今、十二歳」
「小学生か」
「六年よ。来年は中学。この十一月には受験を控えてるの。私立のね」
——倉林美沙は、少しも変っていなかった。
もちろん、年月の分、年齢はとっているが、その本質のところで何も変っていない。
ゆうべ、津田とその妻を見たばかりの山上には、そんな美沙の姿は、ホッとするものだった。
美沙も、津田のことはよく知っている。しかし、今日はやめよう、と思った。この席に津田の話を持ち出したくない。
せっかく明るいムードなのだ。それに、今日は、彼女の方の話を聞くのが目的である。
「——あなたは独立して、うまくやってるわね」
と、美沙は言った。
「今のところはね」
と、山上は肯いた。
しかし、美沙も、着ているものなど、充分に高価である。それも、少しも無理をしていない。
「ご主人はどうして……」
「事故。車でね。——でも、相手が一方的に悪かったから、補償金は充分にもらえたわ」
「しかし、亡くなった人は帰って来ないからね」
と、山上は言った。
「あなたのとこ、娘さんだっけ」
と、美沙が言った。
あまり夫のことは話したくないようだ、と山上は察した。
——食事もメインが終り、デザートが出て来た。
「ところで……」
と、山上は切り出した。「電話で言ってたことだけど。何だい、困ってることって」
「うん……」
美沙は、ちょっとためらいがちに目を伏せた。「あなたにこんなことお願いしてもね……。本当は、どうしようかって迷ったの。でも、久しぶりで会いたかったし。——会うだけでもいいか、と思って」
「話してみてくれよ。僕の力で何とかなることなら——」
「そうね」
美沙は、手早くデザートを食べ終えてしまうと、「今、私、恋人がいるの」
と言った。
「——そう」
何だか少し拍子抜けした気分で、「そりゃ良かった」
「ところが、その人が、ちょっと困ったことになっててね。あなたに相談にのってもらえないかと……」
「どんなことで?」
「その人の勤め先で、横領事件があって、今大騒ぎなの。彼は全然関係ないんだけど、警察は彼に目をつけているわ。もし、彼が逮捕されるようなことになれば……」
山上は、少し眉《まゆ》を寄せて、
「待ってくれ。僕はただのコンサルタントで、弁護士じゃない。紹介してあげるくらいのことはできるけどね」
「そうじゃないの」
と、美沙は首を振って、「問題は女なの」
「女?」
「横領した重役の愛人で、私の恋人は、その重役に頼まれて、その女の住む所とか、色々細かいことを手配したの。その女が、横領事件の証拠になる帳面を預かってるはずなの」
「なるほど」
「でも、女は怯《おび》えてて、一切口をつぐんでいるわ。その重役はもちろん、女のことなんか言い出さないし。——ね、山上さん。彼の代りに、その女に会って、帳面を警察へ渡すように説得してもらえないかしら」
山上は、しばし何とも言えなかった。
思ってもみない頼みである。——コーヒーの出て来るまでが、いくらか考える間を与えてくれた。
「しかし……どうして彼が行かないんだい?」
「彼が行ったら、その女をおどしたとも取られるでしょ」
と、美沙は言った。「それに今、彼の動きはずっと見張られてるの。動きがとれない状況なのよ。で、困って、私の所へ連絡して来たの。——でも、私にとてもそんな役はつとまらないし。それで、考えてる内に、ふっとあなたのこと、思い出して……」
「なるほど」
「ごめんなさい。本当に勝手ね、私って」
と、美沙は微笑んだ。「あなたのこと、振っといてね。とても、こんなこと、お願いできる柄じゃないんだけど……」
そこが君だ、と山上は心の中で言った。
自分本位で、わがままで、何でも自分の思い通りに行くと思っている女。
男が自分のために尽くしてくれて当り前と思っている女……。
しかし、美沙は魅力的だった。昔も今も、変らずに美しい。
いや、むしろ、かつての少しとげとげしい雰囲気が和らげられて、今、美沙は輝くような「女の匂《にお》い」を発散していた。
「少し待ってくれないか」
と、山上は言った。「君の恋人の名前、勤め先を、書いてくれ」
手帳とボールペンを渡す。
「やってくれるの?」
「一応、その会社のことを調べてみる。それは僕の本業だからね」
「そうね」
美沙は、メモをして、山上へ渡すと、「これでいい?」
「ああ。——一日二日、待ってくれ。僕にできる仕事かどうか、考えてみる」
「当てにしてるの」
と、美沙は身をのり出した。
それは昔、何かというと山上をこき使ったころの、美沙とそっくりの仕草だった。
山上はちょっと笑って、
「君は相変らずだなあ」
と言った。
「そうね。——未亡人になって、何だか昔へ戻ったようよ」
そうかもしれない。
山上は、実のところ、美沙の頼みを断れないことは分っていた。
ただ——彼女の「恋人」のことを、知りたかったのである。
それは、山上の奥に、なおくすぶっていた灰をかきたて、小さな炎を、よみがえらせていた。
「——もう一杯、コーヒーはどう?」
山上は穏やかな表情で、そう言った。