「また、その女の話ですか?」
と、不動産屋の男はうんざりしたように言った。
「仕事の邪魔になるようなら、閉めてからくるがね」
と、村内刑事は言った。
小さな、机一つの不動産屋である。経営者の名は栗山と言った。一日の内、三分の二は苦情を言っている、という顔つきをしている。
「だってね、その女のことはもう話しましたよ。若い刑事さんが来たときに。それで充分でしょ」
「安西刑事のことだね?」
と、村内は言った。「そりゃよく分ってるんだ」
「それなら——」
「しかし、人間、何回も同じことを話してる内に、今まで忘れていたことを、ポッと思い出したりするもんなのでね」
と、村内は淡々と言った。「今、まずければ何時ごろに来りゃいい?」
ちっとも「今、まずく」なんかないことは、栗山が週刊誌を読みかけていて、狭い店の中に、客の一人もいないのを見れば、誰《だれ》の目にも明らかである。
忙しい、とはどう図々しい男でも言えないだろう。
「あれ以上、話すことはありませんよ」
と、栗山はため息をついて、「ねえ、刑事さん——」
「店を閉めるのは? そのころまた来ようか?」
と、村内は言った。「今日、都合が悪きゃ、明日来るがね」
栗山も、村内に引込むつもりがないことを悟ったらしい。
「分りましたよ。——どうぞ」
と、すっかりクッションの効かなくなったソファをすすめた。「お茶を出すにも、女の子が休みでね。無断で休んじゃ、そのまんま辞めたりする。大したもんですな、今の若い連中は」
「全くね。——こういう仕事は大変だろう。どんな客が来るか分らんし」
「そうなんですよ。身《み》許《もと》、身許ってうるさく言ってたら、客が逃げちまうしね」
「ま、迷惑だろうが、少し付合ってくれよ。水野智江子があのマンションを借りたのは一年前?」
「大体ね。一年と少し、かな」
「持主は?」
「外国にいるんです。仕事の関係でね。で、空けとくのももったいない、ってんで……。でも、あんなことになるんじゃ、空けといた方が良かった」
と、栗山は渋い顔で言った。
「持主は事件のことを知ってるのかね」
「ええ……。電話でガミガミ言われましたよ。何しろケチな奴《やつ》でね。——ま、国際電話だったから、向うも長話したくなかったんで良かったですがね……。帰って来たら何て言われるか」
栗山は肩をすくめる。村内は、ゆっくりと足を組んで、
「あの部屋を契約したのは、本人だって?」
「そうですよ。あの刑事さんにも——」
「そりゃ分ってる」
と、村内は肯《うなず》いた。「しかし、いずれにしても、男が水野智江子をあそこに囲っていたわけだ。その男と一度くらい、会うか話をするかしなかったのか?」
「別に。——必要ないですからね」
と、栗山は言った。「こっちは、毎月の家賃さえ、ちゃんと入れてもらえりゃ、文句はないんで」
「それはそうだろうね」
と、村内は言った。「あのマンションへ行ったことは?」
「もちろん、そりゃあ……。貸すときに、あの女を案内して——」
「いや、訊《き》き方が悪かったな」
と、村内は笑った。「あの女に貸してからってことさ。訪ねて行ったことは?」
栗山が、少し考えながら、
「一、二度行きましたね。まあ、契約じゃいけないことになってるけど、結構部屋の中を勝手にいじくり回したりする奴もあるんですよ。一応確かめないとね」
「すると、入居して——どれくらい?」
「たぶん……。ひと月ぐらいして、じゃないかな。はっきりしませんが、大体いつもそれぐらいして、一応見に行きます」
「なるほど。大変だね、この仕事も」
と、村内は肯いた。「その後、訪ねて行ったことは? 他の用事で」
「さあ。——なかったと思いますね。家賃はいつもあっちが持って来たし」
「現金で」
「そうです」
「珍しいんじゃないかね」
「そうですね。でも、あの女は特別仕事もなさそうだったし」
と、栗山はちょっと意味ありげに笑った。
「察してただろ? 男がいるってことは」
「ええ、まあ……」
栗山は曖《あい》昧《まい》に、「でも、そいつが何してようと、こっちにゃ関係ありませんからね」
「それはそうだね」
村内は、一つ息をついて、「ま、何か役に立ちそうなことを思い出したら、知らせてくれよ。あの安西あてで構わん」
「ええ、そりゃもう」
栗山は、村内が立ち上るのを見て、腰を浮かした。
「そうそう。——この女、見たことないかね」
村内は写真を一枚とり出して、栗山に見せた。栗山はそれを手にとって眺めていたが、
「平凡な顔ですね。見《み》憶《おぼ》えないですが」
「そうか。ありがとう」
と、村内は写真をポケットへ戻し、「邪魔したね」
と、店の引き戸へ手をかけたが——。
「聞いてるだろ?」
と、村内は振り向いて、「あの女が、麻薬をやってたこと」
栗山がいやな顔になる。
「聞きました。持主が知ったら、また大騒ぎですよ。何とか耳に入らないように、祈ってるんですが」
「他にも祈ることがあるんじゃないのかね」
「え?」
「麻薬に使った注射器、ケースから、あの女のものじゃない指紋が出ている。——あんたのじゃないかね」
栗山は目を見開いて、
「とんでもない! 何で私がそんな——」
「調べりゃ分る。簡単なことだ」
と、村内は続けた。「あんたが今手にした写真に、しっかりあんたの指紋がついてる。うちの、『平凡な』女房の写真にね」
栗山の顔からサッと血の気がひく。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
村内は店の奥へ、栗山を追い詰めて行った。
「あ、あの……」
「薬をやってる女だ。金がいくらあっても足りるわけがない。家賃を払わなくなる。あんたが催促に行く。女としちゃ、体で払うしかない。そうだろ?」
「その……いや、とんでもない……」
栗山の顔に汗が光る。
「女と寝る。ついでに『ちょっと遊んでみようか』というわけで、薬にも手が出る。——そうだろう?」
村内の口調はほとんど変らないが、目つきが鋭く、射抜くようになっている。
栗山はドサッと古びた椅《い》子《す》に腰を落とした。すっかり血の気が失《う》せている。
「話すんだね」
と、村内は言った。「殺しの容疑をかけられたくないだろ?」
「私はやってませんよ! 何もしてない! 本当だ!」
「何も?」
——栗山は、ゆっくりと息を吐いて、それから頭をかかえた。
「あの女が……誘ったんだ。私は何も……何も……」
と、呻《うめ》くような声が洩《も》れる。
「分ったよ」
村内は、栗山の肩に手をかけると、「こっちは、あんたを麻薬で引張っても、何にもならない。目当ては殺しの犯人だ」
「私はやってない! 本当だ!」
と、栗山は村内にすがりつくようにして、「信じてくれ!」
「じゃ、話してもらおうか」
と、村内は言った。「あの子を囲っていた男のことを。——本当は知ってるんだ。そうだろう?」
栗山は、ゴクリとツバをのみ込んだ。
「それは……」
「言えない? ——いいかね。私はもう若くない。そう出世しようって野心もない。しかしね、あの安西ってのは若くて、色気たっぷりだ。あんたがあの女と寝てたと知ったら、大喜びでしょっ引くだろうね」
村内はやさしい声で言った。「あいつは厳しい。あんたはすぐ音を上げるよ」
栗山は、怯《おび》えたような目で村内を見上げると、
「黙っててくれるんですか? ね、本当に?」
「あんた次第だ」
と、村内は言った。
栗山はクシャクシャのハンカチをとり出して、汗を拭《ふ》いた。
「男は……初め、ここへ来ました」
と、少し震える声で言った。「女も一緒で——。金は即金。家賃も現金。その代り、女のことを誰かに訊かれても、絶対しゃべるな、と」
「口止め料を?」
「大した金じゃないが、もらいましたよ」
と、栗山は肯いた。「もちろん、こっちが文句をつける筋合のもんじゃない」
「どうして、女のことをしゃべるな、と頼んだのかな」
「さあ……。男の話じゃ、『この女にしつこくつきまとってる男がいるんで、捜しに来るかもしれないんだ』と言ってました」
「なるほど。で、その男のことだ。名前は?」
栗山は、手さげ金庫を開けると、その中をかき回し、メモ用紙をとり出した。
「これが——何か急な用事のあったときの、連絡先です」
メモ用紙に書いてあるのは、電話番号だけだった。
「名前は言わなかった。本当です。ただ——かなり立派な身なりでしたよ。紳士っていうのかね。表にゃベンツが停《とま》ってた」
栗山は、肩をそびやかし、「俺《おれ》が知ってるのはそんだけですよ」
「分った。これはもらっとく」
村内はメモをポケットへ入れた。
「刑事さん——」
「心配するな。あんたが殺してない限り、このことは黙っとくよ」
と、村内は言って、「ただ、あんたの指紋は、こっちの手の中にある。下《へ》手《た》に逃げたりしないことだ。——邪魔したね」
村内は、穏やかに言って、店を出た。
——栗山を一目見て、殺された水野智江子に「興味」を持ったに違いない、とにらんだのだ。その点、間違いはなかった。もちろん注射器のケースに指紋があった、というのは、はったりである。
村内は、これを安西へ教えたものかどうか少し迷ったが、しばらくは伏せておこう、と決めた。
安西を出し抜こうとしているわけではない。ただ、安西は若く、せっかちである。
こういう事件は、入り組んでいる。
愛したからこそ殺し、憎んだからといって、殺すとは限らない。男と女の間ほど、複雑なものはないのだ。
そう……。男と女。
苦いものが、こみ上げて来る。
俺だって、男と女のことを、どれくらい分っているか。
しかし、ともかく安西よりは分っているだろう。——安西は、きっとあの哀れな不動産屋を、すぐに引張って行き、犯人に仕立てあげかねない。
そうだ。黙っていよう。もう少し、何か掴《つか》めるまで。
それから安西に話しても、遅くはない。
そう決めると、村内は歩き出した。——気持よく晴れた午後だった。