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禁じられた過去06

时间: 2018-08-19    进入日语论坛
核心提示:5 刃物の光「所長」 草間頼子が声をかけた。「お電話が」「今忙しい」 と、山上は言ったが、草間頼子だってそれはよく分って
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5 刃物の光
 
「所長」
 
 草間頼子が声をかけた。「お電話が」
 
「今忙しい」
 
 と、山上は言ったが、草間頼子だってそれはよく分っているはずだった。
 
 来客と話をしている所へ、電話を取り次ぐことはめったにない。よほどの急用でない限りは。
 
「ちょっとお待ちを」
 
 山上は客へそう言って、「こちらの項目を見ておいていただけますか」
 
 と、付け加え、席を立った。
 
 机に戻ると、
 
「誰《だれ》から?」
 
 と、頼子へ訊《き》く。
 
「津田さんとおっしゃいました。女の方です。急用で、どうしても、と。切羽詰ったような声で」
 
 津田? ——この間のパーティで酔《よ》い潰《つぶ》れた津田のことか? 女、ということは、あの女房の郁代だろうか。
 
 ともかく出ないわけにもいくまい。
 
「——もしもし」
 
 と、声を出すと、
 
「山上さん? 津田郁代です」
 
 と、とり乱した感じの声。
 
「やあ、どうも」
 
「お願い、何とかして下さい! 主人が……。主人が……」
 
 津田郁代が泣き出した。
 
 草間頼子の方へ目をやると、頼子も親子電話で、話を聞いている。
 
「もしもし。——奥さん、落ちついて! どうしたんです? 津田の奴《やつ》が何か——」
 
「刃物を持って出たんです」
 
 と、涙まじりの声で言う。
 
「何ですって? 刃物?」
 
「ナイフが——登山ナイフが、なくなってるんです。台所の引出しに入ってたのに……。主人は——」
 
「待って下さい。それを津田が持ち出したと? しかし、何のために?」
 
「主人、あの人の所へ行ったんです」
 
「あの人、とは?」
 
「医者です。——体の調子が、どうも良くないと言って……。主人を診《み》ているのも、あの人です」
 
「つまり——奥さんの恋人の」
 
「ええ。電話で予約を入れて、出て行きました。でも、その後で気が付いたんです! ナイフがなくなってる……。山上さん、お願いです。主人を止めて」
 
 津田郁代は泣き出してしまった。
 
 山上は困惑した。——ヒステリックになっている郁代を、どうしたら落ちつかせられるか、見当もつかない。
 
 草間頼子が、送話口を押えて、山上の方へ言った。
 
「私が代ります」
 
「君が?」
 
「事情は分りましたから」
 
 早口に言って、「もしもし、奥さん。しっかりして下さい! 私は山上の秘書です。いいですね。これから訊くことに返事をして下さい。そのお医者さんのいる病院は? ——もっと大きな声で! 聞こえませんよ!」
 
 頼子は叱《しか》りつけるように言った。
 
「——はい。お医者さんの名前は? ——何科ですか? ——ご主人が家を出たのは? ——予約は何時ですか?」
 
 頼子の右手はメモ用紙の上で猛烈なスピードで動いている。「——で、どうなさりたいんですか? 病院へ電話して、ご主人に会わないように言いますか」
 
 山上は、頼子のきびきびした話し方に、すっかり舌を巻いていた。
 
 自分では、とてもああはいくまい。山上は、頼子がいかにも事務的な調子で、話を続けるのを聞いていた。
 
「——分りました。ともかく、何か手を打ってみますわ。あ、それからご主人が病院に着くのは、何時ごろか見当がつきますか? ——分りました。落ちついて、待っていて下さい。——そちらの電話番号は? ——お宅のです。——はい。それでは、後で連絡します」
 
 頼子は電話を切った。
 
「やれやれ、すまんね」
 
「病院、このすぐ近くですね」
 
 と、頼子は言った。「電話してもいいですけど、どうしますか」
 
「うん……。困ったな」
 
 と、山上は頭をかいた。「そんなことで相談を持ち込まれても……」
 
「私、行って来ましょうか」
 
「君が?」
 
「そのお医者さんは、津田という人を知っているわけですし、自分が奥さんと浮気しているんですから、話は簡単でしょう」
 
「うん。まあ、そりゃ確かだ」
 
 と、山上は肯《うなず》いて、「じゃ、悪いけど、行ってくれるか」
 
「できることなら、警察沙《ざ》汰《た》にならない方がよろしいんでしょう?」
 
「そうだな」
 
 山上は、あのやつれ切った津田の顔を思い出していた。「たぶん、一時的にわけが分らなくなったんだと思うよ。たぶん、落ちつけば——」
 
「分りました」
 
 頼子は手早く出かける仕度をして、「お任せ下さい。所長はお客様のお相手を」
 
「ありがとう。頼む」
 
 山上は正直、ホッとしていた。
 
 こんな場合は、むしろ第三者の頼子の方がうまく対処できるかもしれない。
 
 頼子が急ぎ足で出て行き、山上は客の所へ戻ると、
 
「失礼しました。それで、決算の面から見ますと——」
 
 と、口を開いた。
 
 
 
 ポケットベルが鳴った。
 
 中代は、舌打ちして、
 
「止めとくのを忘れたぞ。——うるさい、こいつ!」
 
 と手を伸し、上《うわ》衣《ぎ》のポケットベルを止めてしまった。「これでよし、と。もう邪魔は入らない」
 
 中代の下になった若い女がクスクス笑っている。
 
「何だ? 何かおかしいか」
 
 と、中代は言った。
 
 禿《は》げ上った額が汗で光っている。——いささか下品なほどの派手な装飾のホテルの一室で、中代医師は、自分の患者の一人である、若いOLを抱いているところだった。
 
「だって……」
 
 と、女は笑いをやっと抑えると、「お医者さんでしょ?」
 
「ああ。だから、いつも持って歩かなきゃならないのさ」
 
「でも、鳴っても止めるだけじゃ、役に立たないじゃないの」
 
「構うもんか。病院に医者は一人じゃない」
 
「でも、担当の患者が、急に危篤になったのかもしれないわ」
 
「天の定めだよ、そうなったら」
 
「こんなことしてるのも、天の定め?」
 
「もちろん」
 
 中代は、女の豊かな胸に顔を埋《うず》めた。女の方も、もちろん本気で中代に「意見」しているわけではない。
 
「ひどいお医者さんね」
 
 と笑う。
 
「君の専属の医師さ、今はね」
 
「じゃ、どこを治してくれるの?」
 
「君の寂しさをいやしてやる」
 
「そうやって、何人も患者の女性を引っかけてるんでしょう」
 
 と、女は言って、中代を抱きしめる。
 
 ——中代は、一応予約の時間をちゃんと頭に入れて、ホテルに入っていた。
 
 そうだ、あの女の亭主が来ることになってたな。
 
「体調が悪くて……」
 
 か……。
 
 今のご時世、誰だって、どこかしら悪いところを抱えている。ああいう気の弱い男が、まず胃をやられ、次いで神経をやられるのだ。
 
 正直なところ——中代は飽きていた。いや、夫の方にではなく、女房の、津田郁代の方に、である。
 
 確かに、あの夫では、他の男へ走りたくなる気持も分る。どこか可《か》愛《わい》いところのある女で、中代にすがりつくようにして、助けを求めて来た。
 
 その郁代を、慰め、喜ばせてやるのは、それなりに楽しかった。しかし——今は、すっかり変ってしまった。
 
 中代との仲に安心し切ってしまったのか、もろに疲れを見せるようになったのだ。それでは中代の方は少しも楽しくない。
 
 楽しくない「浮気」なんか、何の意味もないだろう。
 
 そろそろあの女とも手を切るころだな、と中代は思っていた。今日、あの男が来たら、うまいこと言って、担当を代えよう。それをきっかけに逃げてしまえばいい。
 
 今でも、少し深入りしすぎたかな、と中代は気にしていた……。
 
「ちょっと! 何を考えてるのよ」
 
 と、女が文句を言った。「どうせ、他の誰かさんのことでしょ」
 
「そんなことないさ。落ちつけよ」
 
 と、中代は笑って言った。
 
 ——病院から車で五分のホテル。
 
 大丈夫。時間はある。中代はその女にのめり込んで行った……。
 
 
 
「——ポケットベルで呼んでいるんですけど、連絡がありません」
 
 と、看護婦が言った。
 
「そうですか」
 
 草間頼子は肯いた。「午後、診察の予約が入っていますね」
 
「ええ。ですから、二時には戻られるはずです」
 
「分りました。待たせていただきます」
 
 と、頼子は言って、待合室の長《なが》椅《い》子《す》の方へ歩いて行った。
 
 頼子の話を聞いていたらしい、入院患者の女性がフラッとスリッパの音をたてて、やって来た。
 
「中代先生を待ってんの?」
 
 と、頼子に声をかける。
 
「ええ。急用で」
 
「そう」
 
 と、その患者はクスッと笑って、「あんたも『その口』の一人?」
 
「何のことでしょう?」
 
「中代先生の患者?」
 
「いいえ。お会いしたこともありません」
 
 と、頼子は首を振った。
 
「それじゃ、違うのね。——中代先生、今ごろは患者の誰かとお楽しみの最中よ」
 
「は?」
 
「有名なの。患者の女性に手を出すので。もちろん、ちょっとした胃炎とか、そんな人ばっかりだけどね」
 
「はあ……」
 
「今はね、二十五、六のOLってことよ。もう半年くらい続いてるらしいわ」
 
「そうですか」
 
「もう一方で、どこかの奥さんにも手を出してて、こっちはそろそろ飽きるころ、って専らの噂《うわさ》。大したもんよね、全く」
 
「そうですね……」
 
 頼子は呆《あき》れたように言った。
 
「きっと今ごろはこの近くのホテルでしょ。車で行くと、すぐその手のホテルが並んでるから。でも、大丈夫。ちゃんと午後の診療には戻るから。上がやかましいからね」
 
 長い入院患者なのだろう。その手の話には精通しているらしい。
 
 頼子は、その患者が行ってしまうと、ちょっと腕時計を見て、足早に公衆電話をかけにいった。
 
「——もしもし」
 
「やあ、草間君か」
 
 山上がすぐに出た。「どうだった?」
 
「それが、肝心の中代っていう医者がいないんです」
 
「いない? でも、津田が予約を入れてるんだろ」
 
「ええ。お昼休みにお出かけのようで」
 
 頼子が、今、患者から聞いた話を伝えると、
 
「何て奴だ」
 
 と、山上は呆れた様子で、「じゃ、津田の奥さんも……」
 
「もうじき捨てられるんじゃないでしょうか」
 
「やれやれ。——君、それじゃ、医者が戻るまで待っててくれるかい?」
 
「はい。そのために来たんですから」
 
「よろしく頼む。悪いね」
 
「いいえ。特別手当をつけて下さい」
 
「そうだな。夕飯でもおごろうか。君の好きな店で」
 
「お昼で結構ですわ。夜は約束が目白押しでして」
 
 と、頼子は言った。「では、後でまたご連絡します」
 
 頼子が電話を切って、長椅子へ戻って行く。
 
 ——公衆電話のすぐわきで、壁にもたれて津田が立っていたのは、全くの偶然だった。
 
 少し早く来すぎたので、どうしたものか、迷っていたのである。
 
 あまり、看護婦などに見られたくもなかったので、電話の並んだコーナーの隅に立っていた。そして、偶然、頼子の話を聞くことになったのである。
 
 ——山上か。
 
 今の女は、はっきり向うの名前を呼ばなかったが、たぶん山上の下で働いている女だろう。
 
 妻の郁代が、ナイフのことに気付いたのだ。そして山上へ電話する。やりそうなことだ。
 
 津田は、そっと上着の上から、内ポケットを押えた。固いものが胸に当る。
 
 それは津田をずいぶん心強くさせた。
 
 妙なものだ。——人間は、こんな刃物一つで、逞《たくま》しくなったような錯覚に陥るのか。
 
 他の男はいざ知らず、津田は自分が暴力的なタイプだと思ったことなど一度もなかった。しかし今、こうして刃物を懐に、あの医者がやって来るのを待っていると、久しく味わったことのない感情——力の漲《みなぎ》った喜びの熱さを、覚えるのだ。
 
 あの医者が郁代を抱いていることは知っていた。——しかし、今の女の話では、郁代もそろそろ捨てられることになっているらしい……。
 
 そうだ。あんな奴は殺したっていい。どうせ、こっちも長いことはないのだ。
 
 津田は、いつになく気分が良かった。
 
 この分なら長生きできるかもしれないな、などと考えて、津田は一人で含み笑いをした……。
 
 まだ、少し時間がある。
 
 こっちの顔を憶《おぼ》えている看護婦もいるだろう。——どこかに隠れていた方が良さそうだ。
 
 津田は、そっと周囲を見回した……。
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