「所長」
草間頼子が声をかけた。「お電話が」
「今忙しい」
と、山上は言ったが、草間頼子だってそれはよく分っているはずだった。
来客と話をしている所へ、電話を取り次ぐことはめったにない。よほどの急用でない限りは。
「ちょっとお待ちを」
山上は客へそう言って、「こちらの項目を見ておいていただけますか」
と、付け加え、席を立った。
机に戻ると、
「誰《だれ》から?」
と、頼子へ訊《き》く。
「津田さんとおっしゃいました。女の方です。急用で、どうしても、と。切羽詰ったような声で」
津田? ——この間のパーティで酔《よ》い潰《つぶ》れた津田のことか? 女、ということは、あの女房の郁代だろうか。
ともかく出ないわけにもいくまい。
「——もしもし」
と、声を出すと、
「山上さん? 津田郁代です」
と、とり乱した感じの声。
「やあ、どうも」
「お願い、何とかして下さい! 主人が……。主人が……」
津田郁代が泣き出した。
草間頼子の方へ目をやると、頼子も親子電話で、話を聞いている。
「もしもし。——奥さん、落ちついて! どうしたんです? 津田の奴《やつ》が何か——」
「刃物を持って出たんです」
と、涙まじりの声で言う。
「何ですって? 刃物?」
「ナイフが——登山ナイフが、なくなってるんです。台所の引出しに入ってたのに……。主人は——」
「待って下さい。それを津田が持ち出したと? しかし、何のために?」
「主人、あの人の所へ行ったんです」
「あの人、とは?」
「医者です。——体の調子が、どうも良くないと言って……。主人を診《み》ているのも、あの人です」
「つまり——奥さんの恋人の」
「ええ。電話で予約を入れて、出て行きました。でも、その後で気が付いたんです! ナイフがなくなってる……。山上さん、お願いです。主人を止めて」
津田郁代は泣き出してしまった。
山上は困惑した。——ヒステリックになっている郁代を、どうしたら落ちつかせられるか、見当もつかない。
草間頼子が、送話口を押えて、山上の方へ言った。
「私が代ります」
「君が?」
「事情は分りましたから」
早口に言って、「もしもし、奥さん。しっかりして下さい! 私は山上の秘書です。いいですね。これから訊くことに返事をして下さい。そのお医者さんのいる病院は? ——もっと大きな声で! 聞こえませんよ!」
頼子は叱《しか》りつけるように言った。
「——はい。お医者さんの名前は? ——何科ですか? ——ご主人が家を出たのは? ——予約は何時ですか?」
頼子の右手はメモ用紙の上で猛烈なスピードで動いている。「——で、どうなさりたいんですか? 病院へ電話して、ご主人に会わないように言いますか」
山上は、頼子のきびきびした話し方に、すっかり舌を巻いていた。
自分では、とてもああはいくまい。山上は、頼子がいかにも事務的な調子で、話を続けるのを聞いていた。
「——分りました。ともかく、何か手を打ってみますわ。あ、それからご主人が病院に着くのは、何時ごろか見当がつきますか? ——分りました。落ちついて、待っていて下さい。——そちらの電話番号は? ——お宅のです。——はい。それでは、後で連絡します」
頼子は電話を切った。
「やれやれ、すまんね」
「病院、このすぐ近くですね」
と、頼子は言った。「電話してもいいですけど、どうしますか」
「うん……。困ったな」
と、山上は頭をかいた。「そんなことで相談を持ち込まれても……」
「私、行って来ましょうか」
「君が?」
「そのお医者さんは、津田という人を知っているわけですし、自分が奥さんと浮気しているんですから、話は簡単でしょう」
「うん。まあ、そりゃ確かだ」
と、山上は肯《うなず》いて、「じゃ、悪いけど、行ってくれるか」
「できることなら、警察沙《ざ》汰《た》にならない方がよろしいんでしょう?」
「そうだな」
山上は、あのやつれ切った津田の顔を思い出していた。「たぶん、一時的にわけが分らなくなったんだと思うよ。たぶん、落ちつけば——」
「分りました」
頼子は手早く出かける仕度をして、「お任せ下さい。所長はお客様のお相手を」
「ありがとう。頼む」
山上は正直、ホッとしていた。
こんな場合は、むしろ第三者の頼子の方がうまく対処できるかもしれない。
頼子が急ぎ足で出て行き、山上は客の所へ戻ると、
「失礼しました。それで、決算の面から見ますと——」
と、口を開いた。
ポケットベルが鳴った。
中代は、舌打ちして、
「止めとくのを忘れたぞ。——うるさい、こいつ!」
と手を伸し、上《うわ》衣《ぎ》のポケットベルを止めてしまった。「これでよし、と。もう邪魔は入らない」
中代の下になった若い女がクスクス笑っている。
「何だ? 何かおかしいか」
と、中代は言った。
禿《は》げ上った額が汗で光っている。——いささか下品なほどの派手な装飾のホテルの一室で、中代医師は、自分の患者の一人である、若いOLを抱いているところだった。
「だって……」
と、女は笑いをやっと抑えると、「お医者さんでしょ?」
「ああ。だから、いつも持って歩かなきゃならないのさ」
「でも、鳴っても止めるだけじゃ、役に立たないじゃないの」
「構うもんか。病院に医者は一人じゃない」
「でも、担当の患者が、急に危篤になったのかもしれないわ」
「天の定めだよ、そうなったら」
「こんなことしてるのも、天の定め?」
「もちろん」
中代は、女の豊かな胸に顔を埋《うず》めた。女の方も、もちろん本気で中代に「意見」しているわけではない。
「ひどいお医者さんね」
と笑う。
「君の専属の医師さ、今はね」
「じゃ、どこを治してくれるの?」
「君の寂しさをいやしてやる」
「そうやって、何人も患者の女性を引っかけてるんでしょう」
と、女は言って、中代を抱きしめる。
——中代は、一応予約の時間をちゃんと頭に入れて、ホテルに入っていた。
そうだ、あの女の亭主が来ることになってたな。
「体調が悪くて……」
か……。
今のご時世、誰だって、どこかしら悪いところを抱えている。ああいう気の弱い男が、まず胃をやられ、次いで神経をやられるのだ。
正直なところ——中代は飽きていた。いや、夫の方にではなく、女房の、津田郁代の方に、である。
確かに、あの夫では、他の男へ走りたくなる気持も分る。どこか可《か》愛《わい》いところのある女で、中代にすがりつくようにして、助けを求めて来た。
その郁代を、慰め、喜ばせてやるのは、それなりに楽しかった。しかし——今は、すっかり変ってしまった。
中代との仲に安心し切ってしまったのか、もろに疲れを見せるようになったのだ。それでは中代の方は少しも楽しくない。
楽しくない「浮気」なんか、何の意味もないだろう。
そろそろあの女とも手を切るころだな、と中代は思っていた。今日、あの男が来たら、うまいこと言って、担当を代えよう。それをきっかけに逃げてしまえばいい。
今でも、少し深入りしすぎたかな、と中代は気にしていた……。
「ちょっと! 何を考えてるのよ」
と、女が文句を言った。「どうせ、他の誰かさんのことでしょ」
「そんなことないさ。落ちつけよ」
と、中代は笑って言った。
——病院から車で五分のホテル。
大丈夫。時間はある。中代はその女にのめり込んで行った……。
「——ポケットベルで呼んでいるんですけど、連絡がありません」
と、看護婦が言った。
「そうですか」
草間頼子は肯いた。「午後、診察の予約が入っていますね」
「ええ。ですから、二時には戻られるはずです」
「分りました。待たせていただきます」
と、頼子は言って、待合室の長《なが》椅《い》子《す》の方へ歩いて行った。
頼子の話を聞いていたらしい、入院患者の女性がフラッとスリッパの音をたてて、やって来た。
「中代先生を待ってんの?」
と、頼子に声をかける。
「ええ。急用で」
「そう」
と、その患者はクスッと笑って、「あんたも『その口』の一人?」
「何のことでしょう?」
「中代先生の患者?」
「いいえ。お会いしたこともありません」
と、頼子は首を振った。
「それじゃ、違うのね。——中代先生、今ごろは患者の誰かとお楽しみの最中よ」
「は?」
「有名なの。患者の女性に手を出すので。もちろん、ちょっとした胃炎とか、そんな人ばっかりだけどね」
「はあ……」
「今はね、二十五、六のOLってことよ。もう半年くらい続いてるらしいわ」
「そうですか」
「もう一方で、どこかの奥さんにも手を出してて、こっちはそろそろ飽きるころ、って専らの噂《うわさ》。大したもんよね、全く」
「そうですね……」
頼子は呆《あき》れたように言った。
「きっと今ごろはこの近くのホテルでしょ。車で行くと、すぐその手のホテルが並んでるから。でも、大丈夫。ちゃんと午後の診療には戻るから。上がやかましいからね」
長い入院患者なのだろう。その手の話には精通しているらしい。
頼子は、その患者が行ってしまうと、ちょっと腕時計を見て、足早に公衆電話をかけにいった。
「——もしもし」
「やあ、草間君か」
山上がすぐに出た。「どうだった?」
「それが、肝心の中代っていう医者がいないんです」
「いない? でも、津田が予約を入れてるんだろ」
「ええ。お昼休みにお出かけのようで」
頼子が、今、患者から聞いた話を伝えると、
「何て奴だ」
と、山上は呆れた様子で、「じゃ、津田の奥さんも……」
「もうじき捨てられるんじゃないでしょうか」
「やれやれ。——君、それじゃ、医者が戻るまで待っててくれるかい?」
「はい。そのために来たんですから」
「よろしく頼む。悪いね」
「いいえ。特別手当をつけて下さい」
「そうだな。夕飯でもおごろうか。君の好きな店で」
「お昼で結構ですわ。夜は約束が目白押しでして」
と、頼子は言った。「では、後でまたご連絡します」
頼子が電話を切って、長椅子へ戻って行く。
——公衆電話のすぐわきで、壁にもたれて津田が立っていたのは、全くの偶然だった。
少し早く来すぎたので、どうしたものか、迷っていたのである。
あまり、看護婦などに見られたくもなかったので、電話の並んだコーナーの隅に立っていた。そして、偶然、頼子の話を聞くことになったのである。
——山上か。
今の女は、はっきり向うの名前を呼ばなかったが、たぶん山上の下で働いている女だろう。
妻の郁代が、ナイフのことに気付いたのだ。そして山上へ電話する。やりそうなことだ。
津田は、そっと上着の上から、内ポケットを押えた。固いものが胸に当る。
それは津田をずいぶん心強くさせた。
妙なものだ。——人間は、こんな刃物一つで、逞《たくま》しくなったような錯覚に陥るのか。
他の男はいざ知らず、津田は自分が暴力的なタイプだと思ったことなど一度もなかった。しかし今、こうして刃物を懐に、あの医者がやって来るのを待っていると、久しく味わったことのない感情——力の漲《みなぎ》った喜びの熱さを、覚えるのだ。
あの医者が郁代を抱いていることは知っていた。——しかし、今の女の話では、郁代もそろそろ捨てられることになっているらしい……。
そうだ。あんな奴は殺したっていい。どうせ、こっちも長いことはないのだ。
津田は、いつになく気分が良かった。
この分なら長生きできるかもしれないな、などと考えて、津田は一人で含み笑いをした……。
まだ、少し時間がある。
こっちの顔を憶《おぼ》えている看護婦もいるだろう。——どこかに隠れていた方が良さそうだ。
津田は、そっと周囲を見回した……。