〈三神貞男。三十歳〉
「三十歳だって?」
山上は思わず声を出してしまった。
「そうです」
面白くもなさそうな顔で、目の前に座った男は言った。「三十歳。間違いありません。それが何か?」
「いや……。ただ、こんなに若いとは思わなかったんでね」
と、山上は言った。「そうか。——じゃ確かに、この会社は大騒ぎになってるんだね」
「そうです」
と、灰色がかった服装の、パッとしない中年男は言った。「どうやら、問題は創立者で社長というのがいるんですが、その息子が、どうにもならん奴《やつ》で……」
「じゃ、その息子が金を使い込んだ?」
「おそらく、そうだろうという噂《うわさ》です」
——山上は、頼子が病院へ行っている間に、〈情報屋〉の訪問を受けていた。
財界や、企業の表裏に通じていて、どんな情報でも、「注文」に応じて集めてくる。
もちろん正規の職業ではないが、あらゆる場所にコネを持っており、普通では絶対に入手できない情報も、聞くことができるのである。
山上も、ちょくちょくこの男を利用することがあった。安くはないが、それだけの値打は充分にある男だ。
「横領した重役というのは——」
「その社長の息子にべったりの男で、それが証拠隠しに駆け回っているようです」
「すると、愛人というのは?」
「そこに書いてある女ですが……。お話のように、その女の所に証拠書類があるかどうかまでは分りません」
「それは当然だ。——いや、ありがとう」
と、山上は言った。「いくらだね?」
「請求書を送ります。——他に何か?」
「うん……」
山上は、ちょっと迷った。
その山上の気持を読んだように、
「三神という男について、調べますか」
と、〈情報屋〉は言った。
「うむ……。そうだね。何か特別なことがあれば——。何日かかる?」
「実は下調べはすんでいるので」
と、こともなげに、「明日にはお届けに上ります」
山上は苦笑して、
「分った。じゃ、頼むよ」
と言った。
〈情報屋〉は、「失礼します」とも言わずに出て行った。
山上は、もう一度、資料を見直した。
仕事は色々残っているが、とりあえず、病院の方がどうなるか、落ちつかない。今から行ってみようかとも思ったが……。
三神貞男という男のことを知りたいという気持に勝てなかった自分が、少し情ない。
いくら初恋の人とはいえ、倉林美沙は、もう十二歳の子供の母親なのだ。そして自分には秀子という妻がいる。
特別情熱的とは言えないが、申し分のない妻である。山上は、秀子を悲しませるようなことはしたくないと思っていた。
たとえ、倉林美沙に言い寄られても——退けられるか? 本当に?
山上は、ため息をついた。
四十二歳の美沙が、三十歳の男を恋人にしている。一回りも年下!
山上は、美沙が昔とちっとも変っていないことに、半ば呆《あき》れ、半ばホッとしていた。
「さて、と……」
問題の、美沙からの依頼だ。
この女に会って、横領の証拠になる帳面を、警察へ渡すように説得する。
そんなことができるだろうか? 山上にとっては、「専門外」の仕事である。
女に何を保証してやれるか、そこにかかっている。——その点は山上にも分っていた。
こんな事件は危い。企業のスキャンダルは、暴力団にとって、正に「えじき」である。
表《おもて》沙《ざ》汰《た》にされたくなかったら、金を出せ。
いくつの企業が、その脅しに屈して来ただろう。山上も、当然そんな例をいくつも見て来た。
コンサルタントとしては、
「断固拒否しなさい」
と言うしかない。
しかし、最終的な決断は、その企業のトップがすることで、山上には何の権限もないのである。
——この一件は、今のところまだ暴力団から目をつけられてはいないようだ。しかし、それも時間の問題だろう。長引けば、必ずヤクザの影が見えて来る。
仕方ない……。
倉林美沙の頼みを断ることはできない。それなら、何とか、彼女の望みを叶《かな》える手を捜すことだ。
金か? しかし、女一人、どこか遠くへやって、暮して行けるだけの金といったら、相当のものだ。山上はもちろん、美沙や、この三神という男にも、とても用意できまい。
この女の弱味をつかむか。
脅迫はいやだが、役には立つ。
ともかく、話をつけるなら、一度でやってしまうことだ。
相手が誰《だれ》かに助けを求めたり、考え直したりする余裕を与えず、言われた通りなるしかない、と思わせてしまうこと。
それが、唯一の方法だろう。
——電話が鳴った。
「はい。——やあ、草間君、どうした? ——何だって?」
思わず、山上は立ち上っていた。
それは中代医師自身の責任だった。
いや、原因を作った、というだけでなく、外から帰って来るときに、わざわざ裏口から入り、非常階段を使って、フロアへ戻って来たのである。
そのために、廊下で待っていた草間頼子の目には全く入らなかった。
中代は、レントゲン室を通り抜けて、自分の診察室へ入ったのである。
パッと白衣を着て、時計を見ると、津田の予約時間を十分過ぎていた。
「やれやれ」
と、呟《つぶや》く。
コーヒーの一杯でも飲んでからにしたいところだが、まあ、そうもいくまい。
看護婦が入って来て、
「あ、先生、戻られてたんですか」
と、目を丸くする。
「ああ、そうだよ」
当然という表情で、「津田さんが来てるだろ?」
「ええ」
「じゃ、入れてくれ」
看護婦は交替したばかりだった。——頼子が中代の現われるのを待っていることなど、知る由もない。
「津田さん、どうぞ」
と、廊下に声が響いて、頼子はハッと立ち上った。
すると、別の科の入口で座っていた男が、立ち上って、ほとんど走るように、診察室の中へ——。
「危い!」
と、頼子は叫んだ。
「何するんだ!」
と、大声がした。「助けてくれ!」
「キャーッ!」
看護婦が飛び出して来る。頼子は入れかわりに飛び込んだ。
津田が、ナイフを振りかざし、白衣の男を追い回している。
「やめろ! 何だっていうんだ!」
医師の方は息を切らして、足がもつれていた。
津田の方も、診察室の中には物が多いので、邪魔されて、なかなか近付けない。
「こいつ! 女房の分もだ!」
津田が切りつける。
「ワッ!」
と、机の上にのけぞって、中代が腕から血をほとばしらせた。
「痛い! おい、やめてくれ!」
「麻酔でもかけるか?」
と言って、津田は笑った。「このヘボ医者め!」
ガーン、と音がした。
頼子が、置いてあった、スチールの折りたたみ椅《い》子《す》で、津田を殴ったのである。
津田は、一瞬ポカンとして突っ立っていたが——やがてドタッと床に倒れた。
「——ありがとう」
と、真青になった中代が言った。
「ご自分も反省なさることですね」
と、頼子が言った。
そこへ、ドタドタと若い医師が何人か駆けつけて来たのである……。
「——申しわけありません」
と、頼子は言った。「防ぐことができなくて」
「いや、仕方ないよ」
と、山上は言った。
連絡を受けて、病院へ飛んで来たのである。
「津田は?」
「あの部屋です」
と、ドアの一つを指して、「ここのガードマンが見ています」
「そうか。——医師の方は?」
「けがをしたので、手当を……。ああ、あの人です」
中代医師が、右腕に包帯をグルグル巻いてやって来る。苦虫をかみつぶしたような顔つきだった。
「——失礼」
と、山上は声をかけた。「中代先生ですね?」
「そうですが……」
「私は津田夫妻の友人で、山上と申しますが」
名刺を見て、中代はちょっとびっくりした様子だった。
「あの山上さん? TVで見てますよ」
「どうも。——実は津田のことなんですが……」
「お友だちですか」
「古い友人でして。アルコールに大分溺《おぼ》れていましてね。それに、奥さんが誰かと浮気していると……。いや、きっと思い過しだと思うんですが」
「はあ」
中代は咳《せき》払《ばら》いして、「いや、全く、同情の余地はあります」
「ありがとうごさいます。そう言っていただくと……。しかし、何といっても、刃物を振り回して、先生を傷つけたのですからね。やはり警察へ知らせなくては。当人にはよく言ってやります。もし、何かご希望があれば——」
「ああ、いや——」
と、中代はあわてて、「何といっても、酔って、錯乱状態だったわけですからな。これはわざわざ警察に届けるようなことでもないでしょう」
「いや、しかしそうは行きません」
と、山上は首を振って、「ちゃんと罪は償わせなくては。当人のためにもなりません」
「それほどのけがでもないし……。ま、反省してくれれば充分ですよ」
と、中代は早口に言って、「その代り、今後は別の病院で治療を受けるように言って下さい」
「それでよろしいんですか? せめて治療費なりと——」
「いや、私はここで治療しますからタダです! ご心配なく。あの男を連れて帰って下さい」
「では……。本当に? それはありがとうございます」
山上はオーバーに頭を下げた。
「いやいや。——じゃ、忙しいので、これで失礼」
中代医師は、あわてて行ってしまった。
そばで聞いていた頼子が、笑いをかみ殺して、
「お上手ですこと!」
と言った。
「世話の焼ける奴だ」
と、山上は言って、フーッと息をついたのだった……。
「何とお礼を言っていいか……」
と、津田郁代が頭を下げた。
「いや。しかし良かった」
山上は、居間のソファで、言った。「今は鎮静剤で眠ってるでしょう。起きたら、よく言い聞かせて下さい」
「はい」
郁代は顔を伏せて、「私も馬鹿でした」
「あの中代という医師、何人も、患者に手を出しているとか。——奥さんも、もう一回、津田とやり直して下さい」
「はい」
と、郁代は肯《うなず》いた。「お忙しいところを、本当に……」
「じゃ、もう僕は失礼します」
と、山上は腰を上げた。
病院から、津田を自宅まで送って来たのである。放っておくわけにもいかなかった。
玄関で靴をはいていると、
「山上さん」
と、郁代が言った。「ナイフは……」
「え?」
「主人が持って行ったナイフですけど」
「ああ。——そうか。どこだろう? たぶん病院でしょう。捨てられたかもしれないな」
と、山上は言った。
「それならいいんです。——心配だったものですから」
「じゃ、失礼」
「わざわざどうも……」
山上は外へ出て、息をついた。
やれやれ……。妙な一日だよ、全く。
山上は首を振って、歩き出した。