「バイバイ!」
山上エリは、手を振って、友だちと別れた。
——エリは、都内の私立中学へ通っていた。
女の子一人なので、というわけでもあるまいが、学校は共学。
「女子校では男を見る目が育たない」
と、山上が主張した(?)のである。
それに、確かにエリの方も、男女いた方が、にぎやかで好きだ。
小学生くらいだと、男の子と女の子はケンカばっかりしているが、中学二年生の十四歳、今のエリくらいの年齢になると、男子と女子の間は微妙に変って来るのだ。
エリは、ブレザーの制服に鞄《かばん》をさげて、歩いていた。——同じ方向へ帰る子が少ないので、つまらない。
いないことはないのだが、クラブが違っていたりすると、帰りの時間もまちまちなのである。
エリは、活発な少女だった。
いつも母親の秀子から、
「あんたはどっちに似たのかしらね」
と言われている。
「私は私よ」
最近はそう言い返すことも憶《おぼ》えたエリであった。
パパは忙しくて、あまり家にまともには帰って来ないが、休みはまとめてドカッととって、付合ってくれるし、ママはおとなしい性格なので、エリのことは何でもやってくれる。
エリとしては、パパが結構有名で、TVに出たりもするし、特に両親に不満はなかった……。
これで学校にテストってものがなけりゃ、申し分のない人生なんだけどね。
「ちょっと」
と、女の人の声がした。
エリは二、三歩行ってから立ち止った。自分以外に、周囲には呼びかけられる相手はいなかったのである。
「はい」
振り返ったエリは、女の人が一人、歩み寄って来るのを見た。——何となく、奇妙な感じの人だ。
季節外れに長いコート。スッポリと足首あたりまで隠れている。
そして手袋。帽子。——この帽子が、また大きくて、顔をスッポリと隠している。そうなるように、少し前へ傾けてかぶっているのだろう。
でも、何のために?
エリも、見知らぬ人に用心するだけの心構えは充分に持っている。
「何ですか」
少し怖い顔で、エリは言った。
「山上エリさんね」
と、その女は言った。
一瞬、エリはどう答えようかと思った。返事をしなくても良かったのだが、そこは子供で、嘘《うそ》をつくのは、ついためらってしまう。
「——そうです」
と、少し間を置いて、言う。
「心配しないで。怪しい者じゃないわ」
と、女は少し笑みを含んだ声で言った。
「あの……」
「お母さんのこと、好き?」
唐突な問いに、エリは戸惑った。
「——ええ」
「そうでしょうね。でも——」
と、女は言いかけて、「やさしくしてくれる?」
「あの……どなたですか」
と、エリは言った。「学校で禁じられてるんですけど。知らない人と口をきくのは」
「知らない人、ね……」
と、その女は呟《つぶや》くように言って、「ごめんなさい、邪魔したわね」
と、肯《うなず》いて見せ、
「もう行ってちょうだい」
エリは、ちょっと会釈して、歩き出す。
そして——数歩行くと、女が、
「エリ!」
と、呼びかけたのである。
びっくりして振り向く。女は、パッと背を向けると、タタッと駆けて行ってしまった……。
エリ? ——エリだって?
あんな呼び方……。どうして「見も知らない人」がするんだろう?
エリは、たちまちその女の人が見えなくなってしまっても、しばらくの間、ぼんやりとその場に立ったままだった。
「——大変だったのね」
と、秀子が言った。
「全くさ」
と、山上はため息をつく。「いくら古い友だちと言ってもな」
「でも、おかげで早く帰って来られたわけね?」
と、秀子は笑った。
「ああ」
山上はソファに背広のままぐったりと座ると、「もうすっかりくたびれて……。津田の奴《やつ》を送ってくだけでひと苦労さ」
「でも、困ったわ」
と、秀子は少し困惑した様子。「何も用意してない。だって、あなた、今日は外で食べて来ると思ってたから」
「今日も、でしょ」
と、居間をエリが覗《のぞ》く。
「何だ、帰ってたのか」
「当り前よ。パパみたいに夜遊びしないんだもん」
「何だ、その言い方は」
山上は文句を言いつつ、笑っている。「どうだ。何か食べに行くか、三人で」
「うん!」
と、エリが返事をした。
「でも……どこへ?」
と、秀子はちょっと落ちつかない様子。
「どこか——。そうだな、よく接待で行くイタリアンなんかどうだ?」
「いいね」
と、エリが山上の肩へ手をかける。「行こう! じゃ、着がえてくる!」
「ちょっと、エリ!」
と、秀子が呼んだときには、もう二階へ駆け上っている。
「いいじゃないか、たまには」
「でも……。何を着てけばいい?」
秀子は、あまり外へ出たがらないので、つい手間どってしまう。
「何でもいいさ。裸でなきゃ」
「いやね」
と、秀子は赤くなって、夫をにらんだ。
それからの三十分間、秀子の服を選ぶエリの声が、甲高く家の中に響いていたのである……。
「——すてきなお店」
と、秀子は、ホッとしたように言った。「もっと騒がしいのかと思ったわ」
「ママって変ってるね」
「どうして?」
「普通、こういう所の方が『堅苦しい』っていうんだよ」
どっちが親か分らないようである。
実際、イタリアンレストランにしては、静かで、インテリアも落ちついている。
客は結構入っているのだが、静かで、大声でしゃべるということはないようだった。
「新しい店なんだ。——さて、何にするかな」
と、山上はメニューを広げる。
「お腹空いた」
と、エリが言った。
「いくらでも食べろ」
と、山上は言った。「スパゲッティを沢山食べると、安く上る」
「ケチ」
と、エリは言ってやった。
オーダーをすませ、前菜が出て来ると、三人は食べ始めた。一口で食べられる、あったかいカナッペのようなもの。
「おいしい」
と、エリは言った。
「そうだろ? 日本人向けの味にしてあるからな」
山上も、外食の機会が多いし、いい店をずいぶん回っている。もちろん毎日フランス料理、イタリア料理では参ってしまうが。
「——ロマンチックだね」
と、エリは言った。「私、邪魔?」
「馬鹿なこと言わないで」
と、秀子は苦笑した。
「今日ね——」
「え? 何?」
エリは少し間を置いて、
「何でもない」
と、言った。
「変な子ね」
——エリ、とあの女の人は呼んだ。
あの呼び方は、「我が子」を呼ぶときのものだ。
エリにも、それくらいのことは分る。
あの女の人が言おうとしたのは……。
「——まあ、忠男さんじゃない!」
元気な声がした。
山上はびっくりして、
「君……」
倉林美沙が、やって来た。
「驚いた! ご家族で?」
「うん……」
「すてきね。——あ、ごめんなさい、お邪魔して」
と、美沙は屈託がない。
「昔の——学生のころの友人で、倉林美沙さん。——家内の秀子と、娘のエリだ」
「こんばんは」
と、美沙はエリに微《ほほ》笑《え》みかけた。
「君——一人?」
「ううん。一郎は母の所。連れが……。あ、こっち」
と、美沙が手招きして、やって来たのは——。
これが三神か、と山上は思った。
「三神さん。目下の恋人。いつまで続くかしらね」
と、美沙は笑って、「じゃあ、山上さん。例の件、よろしく」
「今、調査中」
と、山上は答えた。
三神はスラリと長身で、スポーツマンタイプである。しかし、顔立ちは若い。少し「坊っちゃん」という印象。
「——どなた?」
と、秀子がすっかり呆《あつ》気《け》にとられた様子で言った。
「パパの昔の恋人?」
と、エリが訊《き》いた。
「友だちだ。——仕事をちょっと頼まれててね」
「独身なの?」
「未亡人。子どもが十二歳かな」
「そう。でも、あの三神さんとかいう人……若いわね」
「三十」
「——やる!」
と、エリが言った。
「お前は黙ってろ」
と、山上が言った。
食事が進む。——もちろん、テーブルは楽しく、にぎやかで、山上もワインで少し酔った。
しかし……時として、あの美沙の独特の、よく通る甲高い声を聞くと、ハッとするのだった。つい、そっちへ耳を向けている自分に気付く。
山上は化粧室へ立った。
少しほてった顔を洗って、スッキリさせると、化粧室を出た。
「あら」
隣の女子化粧室から、美沙が出て来た。
「大分ご機嫌だね」
「そうよ。人生、楽しまなくちゃ」
「君らしいよ」
と、山上は言って、「しかし、若いね。結婚するつもり?」
「そんなこと……。分らないわ」
と、美沙は肩をすくめ、「こっちには一郎がいる。いやがってるわ、三神と付合ってるのを」
母親らしいことを言い出すのがおかしい。
「君は好きにやる主義だろ、何ごとも」
「でもね……。子供の気持は——」
と言いかけて、「ね、例のこと、急いでね」
「うん。明日でも、あの女に会いに行く」
「嬉《うれ》しい! さすがに山上さん——いえ、忠男さん」
そう言うなり、美沙は山上の頬《ほお》にチュッとキスをした。
「おい! よせよ」
あわててハンカチで口紅を拭《ふ》く。
「フフ……。大丈夫よ」
「大丈夫じゃないよ」
と、山上はゴシゴシこすって、「まだついてる?」
「もう何も」
と、美沙は言って、「——ね、山上さん」
「うん?」
「今度——二人で夜、会わない?」
「夜?」
「そう。紹介したい人がいるの」
「誰《だれ》だい?」
「それは会ってのお楽しみ。じゃあね」
と行きかけ、「奥さん、可《か》愛《わい》いわ」
と言って、ウインクして見せる。
山上は、ふと我にもあらず、胸がときめくのを覚えたのだった……。