「何だって?」
安西刑事の言い方があまりに鋭いので、女はちょっとびくついてしまった。
やれやれ……。
そばで見ていた村内刑事は、「口を出さない」という約束をしたので黙っていたが、あれじゃ、恐れをなして、係《かかわ》り合いたくないという気持になっちまうぜ、と思っていた。
「あの……ただチラッと聞いただけ」
バーのホステスをしているというその女は、殺された水野智江子と同級生だったというから、二十九歳なのだろうが、肌はカサカサで、どう見ても三十代の後半に見えた。
もっとも、出勤前の素顔である。これで化粧をすれば、夜のカウンターの前では、「美女」になるのかもしれない。
「確かに言ったんだね、『不動産屋』と」
と、安西が問いかける。
「ええ……。言ったと思うけど……」
と、口ごもると、
「言ったのか、言わないのか、どっちなんだ!」
と、安西がピシリと叩《たた》きつけるように言った。
「言ったわ」
女は、少しやけ気味で言った。
——もうだめだ。たとえ、他に何か知っていることがあったとしても、この女は絶対に口にしないだろう。
安西はちょっと舌打ちした。
「畜生……。他に何か、男のことで?」
「知らない。それだけよ」
案の定、これ以上何か言って、引張られでもしたらかなわない、という表情だ。
「隠すなよ。隠してると、ろくなことはないぜ」
「隠してどうなるのよ」
と、女は言い返した。
「まあいい」
安西がパタッと手帳を閉じる。「——用があったら、また来る」
「ご自由に」
と、肩をすくめた。
「村内さん。——何か訊《き》くことは?」
安西が、村内の方へ初めて顔を向ける。
「そう……。どの辺のバーだね」
「三丁目です」
「今、景気悪いんだろ」
と、村内はおっとりと言った。
「ええ。——ひどいもんです」
と、女は、少し気安い口調になる。「ママが凄《すご》くうるさいの」
「仕方ないさ。ママの方も必死だよ」
と、村内は微《ほほ》笑《え》んで言った。
「ええ、そうね」
女はホッとしたように、村内を見ている。この人は分ってくれてる。その気持が、和んだ表情に出ていた。
「一度行ってみよう。何て店?」
「あ——これ、マッチです」
と、女が、タバコに火を点《つ》けた残りのマッチを差し出す。
「ありがとう。——君、何といった、名前は?」
「令子。君原令子。お店じゃ令子です」
「令子か。——迷惑するかね、こんなのが行ったら」
「いいえ、ちっとも。待ってますわ」
と、明るい声になる。
「じゃ、あんまり絞り取らないでくれよ」
と、村内は言って、マッチをポケットへ入れた。
——アパートを出ると、
「村内さん」
と、車に乗り込みながら、安西は言った。
「うん?」
助手席に腰をおろす。「君も行くかい、あの子の店に」
「とんでもない」
と、にべもなく、「知ってたんじゃありませんか」
「何を」
「不動産屋のことです。あいつ——栗山っていったな。しょっぴいて、痛い目にあわせてやる!」
安西は車をスタートさせた。
「——どうして、俺《おれ》が知ってたと?」
「顔の表情一つ変えなかったからですよ」
村内はちょっと笑った。
「いちいちびっくりしてられるかい? この年《と》齢《し》になると、何があってもびっくりしなくなるものさ。たとえ、あの水野智江子の恋人が君だったと言われても、『そうかい』ですんでしまうよ」
安西はチラッと村内を見て、それきり黙って車を走らせている。
——村内も、かつては若かった。
安西の、功をあせる気持が分らないではない。若いころは、多かれ少なかれ、みんなそうだ。
ただ、安西は人一倍、野心家なのだ。
村内は、安西が大きな犯《ホ》人《シ》を挙げるのを、結局、邪魔したことになった。もう大分前のことだ。
——薄暗くなりかけた道を、車は走って行く。
村内は、そっと右の膝《ひざ》に手をやった。今は薬で抑えているが、以前はひどく痛んだものだ。
若い人間には分らない。「老いる」ということの痛さが。
心の中での話ではない。体を酷使した結果としての、当然の「痛み」。
凶悪犯を張り込んでいた二人の前に、その犯人が姿を見せた。二人は追った。
そして、その犯人が振り向いて発砲した。——弾丸は、二人のどちらにも当らなかったのだが、その瞬間に、村内は右膝を鋭い痛みに襲われ、思わず声を上げて倒れてしまったのだ。
安西はてっきり村内が撃たれたと思った。そして、迷いはしたが、村内の方へ駆け戻ったのだ。
何でもないから、行け!
村内はそう叫んだ。安西はあわてて犯人を追って行ったが……。その何秒かの間に、すでに犯人は姿を消していた。
そして——さらに悪いことに——その犯人はその日の午後、パチンコ店の中で人を殺し、警官に射殺された。もし、あのとき安西が戻っていなかったら、その凶行は防げたかもしれない。
村内と安西は上司から叱《しつ》責《せき》された。もちろん村内は安西をかばったが、マスコミの攻撃の矢面に立っていた上司は不機嫌だった。
安西は、それ以来、村内を恨んでいる。
「たかが膝の痛みくらいで」
と言うわけだ。
たかが……そう。誰《だれ》も分らないのだ。自分もいつか年齢をとる、という当り前のことが。
安西は赤信号で車を停《と》めると、
「村内さん」
と言った。「僕に任せて下さい。いいですね」
「分ってるよ」
村内は逆らわなかった。
いつの日か、安西がこう言われる。
「安西さん、僕に任せて下さい」
と——。
信号が変り、車が勢い良く飛び出した。安西のはやる気持、そのもののように。
「——もう帰る?」
と、美沙が言った。
「君はいいのか」
「一郎は母の所よ」
美沙は、カクテルのグラスをテーブルに置いた。「こんな所、今でもあるのね」
「普通のナイトクラブじゃないか」
「ナイトクラブ、か……。懐かしくない、その言葉?」
と言って、美沙はちょっと笑った。
フランス料理を食べ、ワインを飲んだので、二人とも少し酔っている。
美沙は目の辺りをほんのりと赤くして、目が潤んで見えた。——危い危い。こんなときが一番危いのだ。
「例の彼氏は?」
と、山上は言った。
「三神さん? そう毎晩会っちゃいられないわよ」
美沙は、フーッと息をついた。「こんなに酔ったの、久しぶり」
「もうやめとけよ」
「送ってくれるんでしょ?」
「ああ、もちろん」
山上はウーロン茶を飲んでいた。もうアルコールはやめどきだ。
「先生だものね。——下《へ》手《た》に女には手が出せない、か」
「よせよ。——今の家庭を大切にしてるだけさ」
「奥さん、おとなしそうな人ね」
「うん。あまり外へ出ない」
「でも、ああいう人が怖いのよ。一度燃え上ると……。あなたはまさか、と思ってるでしょうけどね」
「正にね」
「私、テニスをやってたの。もうとっくにやめたけど。——私が誘って、同じテニススクールへ通ってた奥さんがいたのよ。ともかくおとなしくて、ご主人も、『少し何かやれよ』っていつも言ってたの。学生のころ、少しテニスをしてた、っていうんで、本人、渋々入ったんだけど……。半年して、そこのコーチと駆け落ち」
美沙は、ちょっと笑った。「みんな唖《あ》然《ぜん》としたわよ。三人も子供がいたのにね。——結局、一か月して戻って来て、離婚。それからどうしたのか、誰も知らない」
「——凄い話だ」
「あら、こんなこと、今はざらにあるのよ。男どもが知らないだけ」
「そうかね」
「そうよ……。でも、今も忘れられない。一か月たって戻って来た、彼女の顔」
「どうして?」
「別人のようだったわ。疲れてもいたし、悩んだせいか、目の下にくまもあった。でも、輝いてたわ。引き締って、強くて……。以前の彼女には決して見られない顔だった……」
美沙は、いつしか独り言のように、語っている。
「——しかし、今の君は独りだ。誰と恋をしてもいいわけじゃないか」
「一回り年下でもね」
と、美沙は笑った。「よくやるよ、って思ってる?」
「まあね」
「悩むことはあるわ。十年たって、私は五十二歳。彼は四十……。二十年たつと——」
「そんな計算は君らしくない」
「そう。——そうよね」
美沙は突然不安げな様子で、山上の方へ身をもたせかけて来た。
「倉林君——」
「黙って。——あなたを浮気に誘おうと思っちゃいないわ。心配しないで。ただ……」
「何だい?」
「いいの。このまま——しばらくこうしていたい……」
美沙は、眠ってしまいそうに見えた。
山上は、こうしてかつての「恋人」を身近に感じながら、同時にひどく遠くに見ていた。
歳月は人を変えて行く。——この年月の間に、何があったか、互いに知りはしない。知り尽くせるものでもない。
山上は、指先で、そっと美沙の額にかかった髪を上げてやった。
「——お帰りなさい」
秀子が、居間から出て来た。
「何だ、起きてたのか」
と、山上は言った。「先に寝てても良かったんだぞ」
「そう遅い時間じゃないわ」
と、秀子はちょっと笑った。「うちへ電話した?」
「いいや、どうして?」
「お友だちと長電話してたから」
「エリがか」
「私が」
秀子は、そう言って、照れたように笑った。「カルチャーセンターで知り合った人なの」
「男じゃあるまいな」
と、山上はおどけて言った。
「女の人よ、馬鹿ね」
秀子は、ちょっと山上の上着に顔を近付けた。
「何だ?」
「匂《にお》い。——香水でしょ」
「ああ。ちょっとクラブに寄って来たからな。付合いだ」
「怪しいもんだわ」
秀子が、いつになくはしゃいだ感じでいるので、山上は少々面食らっていた。
「ねえ、あなた」
「うん?」
「お風《ふ》呂《ろ》、一緒に入りましょうか」
山上がびっくりしていると、秀子は頬《ほお》を染めて、
「昔は入ってたわ」
と言った。
「そうだな。確かに」
と、山上は肯《うなず》いた。「——入るか」
「ええ」
嬉《うれ》しそうに、秀子が腕を絡めてくる。——山上が初めて見る妻の「新しい笑顔」だった。
「あ、パパ、帰ったの」
と、エリが下りて来る。
「まだ起きてたの? もう寝なさい」
「まだ早いよ」
「それじゃ、邪魔するなよ。父さんと母さんは十何年ぶりかで、一緒に風呂へ入るんだ」
「——あ、そ」
エリは、ポカンとして、そう言ったのだった……。