「家には帰ってません」
と、安西が車へ戻ってくる。「全く、車に電話ぐらいつけてほしいや」
「遅くなる、と言ってたのか」
「特に何も。いつも遅くて当り前ってとこらしいですよ」
と、安西は息をついて、「店の方へ、もう一度行ってみますか」
「そうだな」
村内は肯《うなず》いた。「しかし、店は真暗だった。勝手に中へ入るわけにはいかないぞ」
「ともかく、戻りましょう」
あの不動産屋、栗山の店へ行って閉っていたので、近くの電話から、自宅へかけてみたのだ。しかし、栗山は帰っていない。
車で、すぐ店の前へ着ける。
ガラス戸を何度も叩《たた》くが、返事がない。
「——逃げたわけじゃあるまいな」
と、安西は言って中の様子を覗《のぞ》こうとしたが、きっちりカーテンが引いてある。
「大方、どこかで飲んでるのさ」
と、村内がのんびりと言うと、安西はジロッとにらんで、
「よくそんな呑《のん》気《き》なことを言う気になりますね」
「焦っても仕方ないだろ? どうしろっていうんだい?」
「中へ何とか入れれば……」
安西としても、捜査令状なしに入るのはまずいと分っているのである。
「そんなのは簡単さ」
と、村内が言った。
「え?」
「通りかかったら、中で怪しい光の動くのが見えた。てっきり泥棒が入ってると思って、現行犯で逮捕しようと中へ入った」
安西は村内を見て、
「本当にそれでやるつもりですか」
「君が入りたいと言ったからさ」
安西は、ちょっと笑った。
「やりましょう。——証人になってくれますね」
「待ってくれ」
と、村内が進み出て、「こういうことは、俺《おれ》の方が慣れてる」
引き戸の重なった部分の隙《すき》間《ま》にナイフの刃をこじ入れる。少し力を入れると、ガタッと音がした。
「安物の鍵《かぎ》だ。古くなってる」
ガラッと戸を開けて、「入ろう」
と促した。
安西は、村内の手ぎわの良さに呆《あき》れていたが、すぐに村内よりも先に店の中へ入った。
「明りを——」
「今、点《つ》けます」
カチッと音がして、明りが点いた。
何しろ狭い店である。——すぐにそれは目に入った。
「何てことだ」
と、安西は息をのんだ。
栗山が、床に倒れていた。椅《い》子《す》ごとである。
「——死んでるな」
かがみ込んだ村内が、栗山の手首をとって言った。
「その傷は——撃たれてますね。畜生! 先を越された」
安西は急いで車へ戻ると、無線で本庁へ連絡している。
村内は、栗山を見下ろして立っていた。
なぜ殺されたのか? しかも、今殺されたのはなぜか。
村内は、チラッと表の方へ目をやると、ポケットを探り、メモ用紙をとり出した。栗山が渡してよこしたメモだ。水野智江子の部屋を借りた男の「連絡先」である。
でたらめかもしれない。しかし、一応かけてみる必要はあるだろう。
安西が戻って来るのを見て、村内はそのメモをポケットへ戻した。
「すぐ応援が」
と、安西は言った。「大分たってますね」
「少なくとも四、五時間だな」
と、村内は言った。「この辺に非常線を張っても、もうむだだ」
「そうですね」
安西は、ゆっくりと栗山の死体を見下ろして、「——もっとしつこく食らいつくんだった!」
「何か手がかりが残っているかもしれんよ」
「もちろん、引出しから棚から、徹底的に捜しますよ」
安西は、また張り切っている。
しかし、村内は全然別のことが気になっていた。
栗山が殺されたタイミングもそうだが、犯人が、机や戸棚を荒らしていないのが不思議だ。
栗山は、水野智江子との関係だけで、事件に係《かかわ》り合っている。当然、犯人の動機も、それとつながっているはずだが、犯人が、何も捜そうとしていない——引出しもどこも、荒らされている様子がない、ということ。
そこが、村内には気になっていた。
「あの女だな」
と、安西が言ったので、村内は我に返った。
「何だね?」
「さっきの女ですよ。あいつが知らせたんだ。それで栗山の口をふさぐために——」
「君原令子か? おい、落ちつけよ。頭を冷やせ」
と、村内は言った。「あれから何時間たってる? この死体の様子から見て、その前に殺されてる」
安西はムッとした様子で、
「口を出さないでくれと言ったはずですよ」
「しかし、無茶をやるのは見ちゃいられない。大体、あんな風に脅しつけたら、知ってることもしゃべらなくなる」
「しゃべらせますよ」
と、安西は言った。「放っといてもらいましょう!」
安西が外へ出て行く。
村内は、ため息をついた。——安西も苛《いら》立《だ》っている。犯人に先を越されたわけで、これは上司をも苛立たせる。
村内は、パトカーがやって来るのを聞いて、表に出た。
安西が、てきぱきと指示を出している。
中へ入って行く人間たちに逆らって、村内は現場を離れた。安西はしばらく現場にかかり切りだろう。
その間に……。
村内は、あの君原令子がよこしたマッチを取り出して、眺めた。
秀子が寝返りを打つ。
白い肌が、薄明りの中で光った。少し汗をかいたのだろうか。——珍しいくらい、今夜の秀子は積極的だった。
「——ねえ」
と、秀子は言った。
「うん?」
「あの人……。恋人だったの?」
「あの人?」
「レストランで会った人」
「ああ……倉林美沙か。——片思いの相手だ」
「今夜、会って来たんでしょ」
山上は妻の方を見た。秀子が、
「私、匂《にお》いには敏感なの。同じ香水の匂いだった」
と、言った。
「そうか」
と、山上は言った。「確かに食事して、昔話をして、少し飲んだ。しかし、何もなかったよ。本当だ」
「信じてるわ」
秀子が、山上の胸に頭をのせる。「——運動不足よ。心臓がドキドキいってる」
「そうだろ。日ごろ何もしてないしな」
と、山上は笑った。「——彼女にはちょっと仕事を頼まれてるんだ。その付合いさ。何しろ向うは一回り年下の恋人がいる」
「私も作ろうかしら」
「おいおい……」
山上は、今夜の美沙の話を思い出していた。
「冗談よ」
秀子は、起き上ると、「シャワー浴びてくるわ。あなたは?」
「後でいい」
山上は、妻がネグリジェを着て出て行くのを見送った。
いつもの秀子と、どこか違う。——何があったのだろう?
ただの気《き》紛《まぐ》れか。それとも、山上が美沙と会って来たと知って、対抗意識があったのか。
——いずれにしても、いつもの秀子と、どこか違っている。どこが、と問われれば、返事はできなかったが……。
下のバスルームから、シャワーの音が、かすかに立ちのぼって来た。
「——令子ちゃん」
と、マダムが呼ぶと、
「はあい」
マニュアル通りの声が返って来た。
「お客様よ」
「はい。——あら」
薄暗いせいもあるだろうが、確かに、君原令子は、「化けて」いた。
「さっきは邪魔したね」
と、村内は言った。「今、大丈夫?」
「ええ、どうぞ」
——隅のソファに村内は座って、
「水割りをもらおう、薄くていい」
と言った。
「言わなくても薄いわ」
と、令子は笑って言った。
「君も何か飲め」
「お茶で結構。——肝臓こわして、この間、知ってる子が死んだの。怖いわ」
「体は一つしかない」
「本当ね」
令子は、少し村内の方へ身を寄せて座った。「相棒の若い人、怖かった」
「若いのさ。やる気がありすぎる」
「でも……。こういう仕事してるってだけで、あの目つきが……」
「それより」
と、村内は、少し声を小さくして、「君の言ってた不動産屋だが、栗山というのか?」
「名前は聞いてないわ」
と、令子は肩をすくめた。「ただ、入居のとき世話してくれた不動産屋さんって……。分ったの?」
「殺された」
——令子はポカンとしていたが、
「うそでしょ」
と、笑った。
「本当だ。安西は君が誰《だれ》かに知らせたんじゃないかと思っている」
「まさか!」
「まあ、君の所へも必ず来るだろう。覚悟しててくれ」
「いやだわ」
「逃げちゃいけない。それだけで『怪しい』ってことになるんだ。——いいね」
「ええ……」
令子はため息をついた。
「昼間、君が言わなかったことはないかね? 何か知ってたら、俺に話してくれないか」
村内の問いに、少しためらって、
「大してないわ。智江子は変っちゃったものね」
「つまり——」
「あんな暮し……。いくら楽でもいやね。まだこうしている方が——」
令子は、村内の方へそっと笑顔を向けた。
何となく分り合える二人、似たところのある二人なのだ。
互いに、そう知っていた。
「ねえ」
と、令子は言った。「お店、閉ったら、会ってくれる?」
村内は、ちょっと目を見開いた。水割りの薄さも、あまり気にならなかった……。