「じゃ、よろしく頼むよ」
山上忠男は、椅《い》子《す》から立ち上り、鞄《かばん》にファイルを入れようとして、言った。
「はい。どうぞごゆっくり」
と、草間頼子が微《ほほ》笑《え》む。「奥様とお二人で旅行されるなんて、久しぶりなんでしょ?」
妻の秀子の誕生日を明日に控えた週末、山上は温泉に行くことにしている。
「そうだな」
と、山上は肯《うなず》いて、「娘も誘ったんだが、何とかいうロックグループのコンサートがあるとか言って」
娘のエリも十四歳である。自分の生活に干渉されることを嫌う年ごろだった。
「お二人に気をつかっておられるんですよ」
と、頼子が言った。
「そうかね。まだそんなことまで考えてやしないよ」
と言いながら、もしかしたら、その通りかもしれない、と思う。
一人っ子のせいか、少々大人びて、親にも妙に気を回したりする奴《やつ》だ。
山上は、鞄へ入れかけたファイルを、机の引出しにしまった。
「仕事のことは忘れよう!」
「そうですわ。旅先から仕事の電話なんかされたら、奥様に失礼ですよ」
頼子が、得たり、という表情で肯く。
「一応、エリにも、何かあったら君に相談しろと言ってあるんだ。すまないが……」
「ご心配なく。いつまでそうやって、突っ立ってらっしゃるつもりですの?」
山上は愉《たの》しげに笑った。
——オフィスを出る。
まだ午後の三時で、すぐ近くのホテルのラウンジで、秀子と待ち合せていた。
こんな時間にオフィスを出ることはめったにない。あっても、仕事で外出するか、パーティに顔を出すか。
いずれにしろ、のんびりとビルの谷間から、頭上に覗《のぞ》く青空を見上げるなんてことは、まずありえない。
しかし、やってみると、意外にそう大変なことでもなくて、しかも体に若さが戻って来たかのようですらある。
山上は、大《おお》股《また》に歩き出した。もし草間頼子が見たら、何か言って冷やかしたかもしれない。何しろ、慣れない下《へ》手《た》な口笛さえ吹いていたのだから。
ラウンジで、すぐ秀子は夫の姿を認めると、パッと立ち上って、
「あなた! ここ!」
と、大きな声を出して手を振った。
ラウンジの客がみんな振り向くので、秀子は真赤になって、あわてて座った。
「——すてきだよ」
山上もいささか照れつつ、言い慣れない言葉を口にした。
秀子は白のスーツで、いつもより若々しく見えた。これほどはつらつとした秀子を見るのは初めてのような気がする。
「まだ列車の時間には早い」
と、山上は腕時計を見て言った。「——ああ、コーヒーをくれ」
「大丈夫なの、お仕事の方?」
「うん。一日や二日、どうってことはないよ。僕がいなきゃ会社が潰《つぶ》れる、ってこともない」
秀子はちょっと笑った。
「——何がおかしい?」
「だって……。あなた、いつも『俺《おれ》がいなきゃ、あそこはだめなんだ』って言ってるじゃないの」
「そうだったか?」
と、山上はとぼけて見せたが——。
確かに、そんなことを言ったこともある。しかし、そんなに「何度も」言ったつもりはないのだが。自分でも気付かない内に、言っているのだろうか。
「——やあ、K社の社長だ」
と、山上は、ロビーで外国人と話している白髪の男に目を止めて言った。
「どの方?」
「あの男さ。ペラペラしゃべってるみたいだろ? 全然英語はだめなんだぜ」
「じゃ、何語でしゃべってるの?」
「日本語。——相手が分ろうと分るまいと、日本語しか使わないんだ。面白い人だよ」
「ご挨《あい》拶《さつ》して来たら?」
「うん? そうだな」
と、腰を浮かしかけて、「——やめよう。もう、今は休暇中だ」
秀子が嬉《うれ》しそうに笑った。
——むしろ、山上の気がかりなのは、倉林美沙の依頼に係《かかわ》ることの方である。
美沙からは、一緒に食事をした夜以来、何の連絡もないし、美沙の恋人、三神貞男についても、〈情報屋〉から、
「もう少し待って下さい」
という電話が一度入って、それきりだ。
従って、三神の上司、永田と、その愛人の大友久仁子の方も、山上は手を出していなかった。
美沙の方の気が変ったのかもしれない。美沙が依頼を取り消せば、もともと専門外の仕事だ。山上もこれ以上首を突っ込む気にはならなかった。
医師に切りつける、という騒ぎを起こした津田は、その後、アルコールを断って、職場も移った。妻の郁代が支えている限り、うまく行きそうな気がする……。
しかし——何といっても「一番変った」のは、秀子である。
一体何があったのか山上にも見当がつかないのだが、ともかく突然若返ったかのように元気になり、どんどん出歩くようになった。
この一週間で、山上は音楽会に二回、お芝居に一回、引張り出された。こんなことも、以前の秀子なら面倒がって、めったにやらなかったものである。
まあ、山上としては、妻が若々しく魅力的になるのに、文句をつける気はさらさらなかった。たぶん、エリももう手がかからなくなり、少し外へ出始めたら、思いの他楽しかった、というところだろうか。
この温泉行にも、秀子はまるで女学生のようにはしゃいでいる。
「——もう行きましょうよ」
と、秀子が待ち切れない様子で言った。
「今出たら、ホームで待つぜ」
「いいわよ。お弁当買ったり、色々やってれば。それも旅の楽しみの一つ。ね?」
「分ったよ」
山上は笑って席を立った。
そう。——秀子はすっかり別人のようになったのだ。
「凄《すご》かったね!」
と、何度同じ言葉が二人の間で行き交ったことだろう。
——山上エリは、ロックコンサートの帰り道、未《いま》だ興奮さめやらず、といった面持ちだった。
一緒に歩いているのは学校の友だち、井上浩美。全体にふっくらとして、気のいい女の子である。
二人が感激しているのは、本格的なコンサートに行ったのは今夜が初めて、というせいもあった。——何万人というファンが、総立ちになって、一斉に手拍子をとって、思い切り叫べば、確かに気持がいいには違いない。
「いいの?」
と、浩美は山上の家の玄関で、言った。
「うん。一人なんだもん。構やしないよ」
と、エリは言った。「誰《だれ》か泊ってくれた方がいいしね」
「じゃ、そうしよう」
エリが玄関の鍵《かぎ》をあける。
「——冷蔵庫にジュースとか入ってるよ」
と、明りを点《つ》けて、エリが居間へ入ると、電話が鳴り出した。
パパたちかな。——浩美んとこへかけて、いなかったからこっちへかけて来たのかもしれない。
「——はい。山上です」
と、出てみると、少し、向うは黙っていた。「——もしもし?」
「エリちゃん?」
と、女の声がした。
「え?」
ママではない。しかし、こんな呼び方をする人は——。
「エリちゃんね」
「どちら様ですか?」
と訊《き》いて、エリはハッと思い出した。
学校の帰り、エリを呼び止めた、あの女の人……。そう。きっとあの人だ。
「あの……何の用ですか?」
と、エリは言った。
「エリちゃん。聞いてほしいことがあるの」
と、突然、女はせきを切ったように話し始めた。「あなたにとっては、びっくりするような、信じられないことかもしれないけど——」
浩美が居間へ入って来て、
「エリ。——あ、ごめん、電話?」
その声が聞こえたらしい。
「誰かいるの? エリちゃん、一人じゃないの?」
と、その女は言った。
「友だちが……」
「そう。それじゃ——またかけるわ」
「もしもし。——もしもし」
パッと電話は切れてしまった。
「——どうしたの?」
と、浩美が訊く。
「何でもない」
と、エリは首を振った。「汗かいたね。お風《ふ》呂《ろ》に入ろうか」
「うん。パジャマ、貸してくれる?」
「いいよ」
エリは居間を出ながら、「座ってて」
と、浩美に声をかけた。
——誰だろう? あの女の人は。
お風呂にお湯をためながら、エリは考えていた。
エリに、「信じられないようなこと」を話す、と言っていた。
エリも、色々本とかを読むから、あの話し方、言葉の使い方で、何となく察しはついた。
でも——そんなこと、あり得ない。
エリの本当の「お母さん」があの女の人だなんてことは……。
エリは、自分の赤ん坊のころからの写真アルバムを、ちゃんと持っているし、今のママに抱かれた写真も沢山残っている。きっとあの人は、他人の子を「自分の子供に違いない」と思い込む病気なんだ。そう。きっとそうだ。
そう思い付くと、大分気が楽になった。
「——浩美、お風呂、入んな」
と、呼びに行く。
バスタオルや着がえもエリの物を用意して浩美を先にお風呂に入れると、エリはコンサート会場で買ったプログラムをソファでめくっていた。
玄関のチャイムが鳴る。——こんな時間に?
インタホンに出ると、
「夜分失礼します。奥さんですか」
と、男の声がした。
エリはちょっと迷ったが、「両親は出かけてます」と返事をしたら、危いかもしれない、と思った。
「今、母はお風呂ですけど。どなたですか」
返って来た言葉は意外なものだった。
「警察の者です。ちょっとお話をうかがいたくて」
警官? どうしてそんな人が?
ともかく、放ってもおけず、玄関へ出て行ったが、チェーンをかけたまま、そっと細くドアを開け、
「——あの、すみませんけど、証明書、見せて下さい」
と言った。
「や、お嬢ちゃん? こりゃ失礼」
大分年《と》齢《し》をとった感じの男だ。エリの言うままに、ちゃんと身分証を中へ入れてくれた。
「村内さんですか」
と、エリは言った。「今、開けます」
ドアを開けると、村内という刑事は、チラッと並んだ靴を見た。
「ご両親は?」
と、訊く。
「あの——二人で旅行に行ってます。今、友だちがお風呂に」
「なるほど、いや、ここで充分」
と、エリがスリッパを出すのを止める。「お父さんの名は、山上……忠男?」
と、手帳を見ながら訊く。
「はい」
「見たことのある名だ」
「TVとか、出てますから、時々」
「ああ、それでね」
「コンサルタントです。経営者の人たち相手の」
「そうか。何度か見てるよ」
と、村内という刑事は肯いて、「君は……一人っ子?」
「はい。エリです。母は秀子」
「お母さんも旅行だね」
「はい。母の誕生日なんです。で、二人で温泉に」
「やあ、そりゃ羨《うらやま》しい。君は留守番か」
「邪魔したくないし、父と母のこと」
エリの言い方に、村内は微《ほほ》笑《え》んだ。
「君のように理解ある娘がいるといいね」
「あの——何かご用ですか」
「いや、大したことじゃないんだが……」
と、村内は少しためらって、「——お父さんはいつ帰られる?」
「月曜日です。昼ごろには。でも、たぶんここへ寄らないでオフィスへ行くと思いますけど」
「そうか。——じゃ、そっちへうかがうことにしよう。なあに、大したことじゃないんだ。ここの家の電話番号が、ある事件に絡んで出たものでね」
「何の事件ですか」
「君は知らなくてもいいよ。きっと、でたらめに言った番号が、たまたまここと同じだったんだろう。——山上エリ君、といったかね」
「はい」
「びっくりさせてすまなかったね。——じゃあ」
村内という刑事が帰って行く。
エリは、鍵をかけながら、何だか落ちつかない気分だった。——刑事がやってくるというのは、やはり当り前のことではない。
居間に戻ると、電話が鳴った。
「——はい。——あ、ママ」
「どうしたの? 浩美ちゃんのところに泊るんじゃなかったの」
「浩美がこっちへ泊るって言うから、構わないでしょ?」
「そりゃいいけど。——ちゃんとご飯食べたの?」
「しっかりね。お腹一杯」
「そう。何も変ったこと、ないわね」
エリは少し間を置いて、
「うん。別にないよ。パパは?」
と、訊いていた。
そして、ふと思い付いた。
あの妙な女の電話……。あの女は、「エリちゃん、一人じゃないの?」と訊いた。
どうしてあの女は、エリが一人だと思ったのだろう?
パパとママが出かけていることを、知っていたのだろうか……。