「あら、早かったのね」
スナックへ入って来た村内を見て、君原令子は言った。
「うん。——会いたい相手は出かけてた」
村内は、君原令子の隣の椅《い》子《す》に座って、「これからどうする」
「アパートに帰る」
君原令子はカクテルを飲み干した。「くたびれちゃったわ。あの人と話してるだけで」
「安西か」
村内は苦笑して、「困ったもんだ」
「笑いごとじゃないわ。犯人扱いだもの。頭にくるわよ」
安西にとっては、「手がかり」はどんな方法でも手に入れなくてはならないものなのである。証人を犯人扱いしていれば、快く協力してもらうわけにいかないが、安西ははなから、そんなことを期待してはいないだろう。
「これですむのかしら」
と、令子が不安げに、「お店にまで訊《き》きにくるのよ。やめさせてくれない? ママが迷惑がってるし、下《へ》手《た》すりゃクビよ」
「俺《おれ》が言ってもむださ」
と、村内は肩をすくめた。「その内、他に何かいいエサを見付けて食らいついて行く。それを待つしかないね」
「ありがたいお言葉」
と、令子がため息をつく。
スナックの料金は村内が払った。二人は外へ出ると、ちょっと立ち止る。
「送ろうか」
「でも、狼《おおかみ》にならない?」
「ならないさ。刑事だぞ」
「却《かえ》って心配」
と、令子は笑った。「じゃ、送ってくれる?」
令子が腕を絡めてくる。村内は少々照れた……。
タクシーを拾い、令子のアパートへと向う。
「今度の事件と関係あることで行ってみたの?」
と、タクシーの中で令子は訊いた。
「君には関係ない。余計なことは知らない方がいいよ」
村内は、その辺のけじめをつける。年齢のせいもあるかもしれないが、無用の危険に、関係者をさらさないための自制心である。
しかし、あの子——エリといったか——はしっかりしていた。仕事とは直接関係なくても、ああいう子に会うと、村内は嬉《うれ》しくなってしまうのである。
しかし、本当ならこんな呑《のん》気《き》なことをしてはいられないのである。安西刑事の方は、今夜もたぶん捜査本部へ泊り込んでいることだろう。
水野智江子、そして不動産屋の栗山と続けて殺されたことで、事件は大きなニュースになりつつあった。
しかも、犯人の手がかりは一向につかめていない。水野智江子を囲っていた男が誰《だれ》なのかも、さっぱり分らないままである。これでは、「上の方」が不機嫌なのも当然だろう。
捜査へ投入された人員がふえたおかげで、安西はますます村内のことなど気にしなくなっていた。村内の方は気が楽だ。
もちろん、安西は怒るだろう。あの栗山が渡した電話番号のメモを、村内は自分で持っているのだから。
しかし、村内はちゃんと電話の主がしばしばTVにも出る山上忠男だと調べていた。そして、どうやら山上と水野智江子の間に何の関係もないらしいということも、分っていたのである。
そこまで調べてから、今夜初めて会いに行った。相手は有名人だから、姿をくらます心配はまずない。
会えなかったのは残念だったが、実際のところ、山上が水野智江子を囲っていたとは思えなかったし、その男が適当な電話番号をでっちあげ、それがたまたま山上の所と同じだった、と考えた方が自然である、と村内は思っていた。
もちろん、一応、山上本人にも会う必要があるだろうが、大して意味はあるまい。
安西がもし、このメモを手に入れていたとしたら、何も調べずにいきなり山上を直撃し、半ば犯人扱いしたかもしれない。いや、きっとそうしただろう。この君原令子にしたのと同様に。
村内は、メモを安西へ見せなくて良かった、と本心から思っていた。あのエリという娘を傷つけずにすんだからである。
「——そこだわ」
と、君原令子が言った。
タクシーが道のわきへ寄せて停《とま》る。
「じゃあ……」
と言って、君原令子は村内を見た。「もし良かったら……寄って行く?」
運転手が待っている。迷っている余裕はなかった。
「そうするよ」
と、村内は言って、料金を払い、タクシーを降りた。
夜の道に二人は突っ立っていたが、
「——いいのか?」
「だって、もうタクシー、行っちゃったわよ」
と言って、令子は笑った。
「そうだな」
村内は、君原令子の肩に手をかけて、歩き出した。
「お疲れさん」
と、津田は手を振った。
「飲んで行きませんか、津田さん」
と、若い同僚が声をかける。
津田は首を振って、
「医者に止められてるんでね」
と言った。「じゃあ」
「気を付けて」
——言ってしまえば簡単なものだ。
夜の道を歩きながら、津田は自分が何歳も若返ったような気がしていた。
皮肉なものだ。——前には、「まだ若い」と見せつけるために、わざと深酒を自分に強いたりしたものだ。しかし、今、自分が「もう若くない」と認めてしまうと、アルコールの誘いを断ることが苦でも何でもなくなった。
そして、アルコールを断ってから、津田は急に体が軽くなったような、快適な日を過しているのである。
職場を移ることを、あんなに怖がっていたのに、今となっては、どうしてこんなことが怖かったのか、不思議でならない。
ネオンの灯が背後に遠ざかって行く。
週末なので、少し長い残業をしていたが、ほとんど疲れは覚えていない。明日は郁代を連れて、どこかへ出かけようか、などと考えている。
前の会社にいたときは、思いもよらなかったことである。
確かに、新しい職場へ移った初日は、戸惑いも不安もあったが、女の子の多い職場で、前のような殺気立った空気はなく、三時には休憩時間にみんなでケーキを食べるという、おっとりしたムードだった。
それなりに給料は高くない。しかしアルコールに使っていた金を考えたら、たぶん手もとに残る金額はむしろ多いくらいだろう。
二、三日たつと、もう津田は女の子たちと冗談を言い合えるようになっていた。仕事にも慣れた。何より、互いの足を引張り合ったり、出世を妬《ねた》んで口もきかないといった空気のないことが、嬉しかった。
それほど大きな会社ではなかったのと、今の社長が、
「趣味は各自で持って、休日には充分休む。休日の面倒までは会社ではみない」
という主義の持主だからだろう。
郁代も、すっかり元気になった。昔の郁代の面影が戻って来た。それは、津田にとっても、びっくりするほど感動的なことだったのだ……。
「——ねえ」
と、暗がりから声がした。
津田は少し行って、足を止めた。
「僕のこと?」
「そう」
女が一人——フラッと暗がりから現われた。
帽子を目深にかぶって、顔がよく見えない。
「何か用かい」
「少し付合って下さらない?」
女の話し方は、いわゆる「客を引く」類の、甘ったるい口調ではなかった。発音もきれいで、知的なしゃべり方だ。
「残念だけど、他を当ってくれ」
と、津田は肩をすくめて、行きかけた。
「少しでいいんだけど」
「その気はないよ。もっと元気のいいのを狙《ねら》ったらどうだい?」
と、津田は言った。
「あなたでないとだめなの。津田さん」
津田は、面食らった。
「——誰だ、君は?」
「大切なお話が——。道端じゃ、話ができないわ」
津田は、どこかでその声を聞いたことがあるような気がした。——どこでだろう?
「何の話かね」
「あなたが前に勤めてらした会社のことで。情報がほしいの」
「あの会社のこと?」
「只《ただ》で、とは言わないわ。ちゃんと支払いはする」
津田は首を振って、
「何を訊きたいのか知らないけどね、僕はそんな売れるほどの情報は持ってない。おあいにくさま」
と言うと、女に背を向けて、足早に歩き出した。
待てよ……。津田の足が止る。
「あの声——」
振り向いたとき、女の姿は目の前にあった。
アッと声を上げる間もない。刃物が津田の腹に突き立っていた。
「おい! 何を——」
鋭い痛みに、体を折った。女はタタッと小走りに去って行く。
「おい…。誰か……」
津田はよろけた。傷口を押えた指の間から血が溢《あふ》れ出る。
津田は、冷たい路面に、倒れた。
何ごとだ? どうしてこんなことが俺に……。
激しく喘《あえ》ぎながら、津田は意識の薄れて行くのを覚えた。そして——足音?
誰かが来てくれた。郁代だろうか?
郁代……。助けてくれ……。
近付いて来る足音は、本物なのかどうか、津田にはもう判別する力がなかったのである。