「あら」
と、大友久仁子はドアを開けて、「三神さん」
「どうも」
と、三神貞男は会釈した。「すみません、朝っぱらから」
「いいえ」
久仁子は急いでスリッパを出した。「どうぞ。——もう起きてたんです」
朝っぱら、といっても、もう十時を回っている。いつも久仁子は九時ごろ起きていた。
「——でも、今日は日曜日ですからね」
と、三神はソファに座りながら、言った。
「あら、そうでしたっけ」
久仁子はちょっと笑って、「何曜日って感覚がさっぱり……。いやね、まだそんなとしでもないのに。コーヒーでも?」
「お構いなく」
と、三神が愛想良く言った。「——じゃあ、お茶を。冷たいの、ありますか」
「ええ。走ってらしたの?」
「そうじゃありませんがね」
久仁子は、冷たいウーロン茶をグラスへ入れた。
三神は永田の部下だ。久仁子は、忙しくて出られない永田に代って、何度か三神から生活費を受け取ったことがある。
なかなか二枚目で、そつのない男だ。
「——どうぞ。お菓子も何もなくて」
「いいんです。これ……」
と、三神が封筒をテーブルにのせた。
「永田さんから?」
「そうです。ご承知の通り、今、会社の中が大変で」
「聞いてます」
「専務も気にしておられるんですがね。なかなかここまで足を運ぶ時間が作れない、と言って」
「そんなこと……。私は何とかやっていけますから、と伝えて下さい」
「金額は大したことないけど、とおっしゃってました。ポケットマネーだから、と。その内、ちゃんといつも通りに入れるようにする、ということです」
「ありがとうございます」
と、久仁子は封筒を受け取って、頭を下げた。
「いや、僕に礼を言われても」
と、三神は少し照れたように笑った。「しかしあなたも大変ですね」
「ええ……。でも、ずいぶん体の方は良くなりましたわ」
「専務があなたの所へ来たがるのが分りますよ。何となく気持が安らぐんですね」
「まあ、お上手ね」
と、久仁子は笑った。「——三神さん、独身でしょ?」
「はあ、そうです」
「結婚なさらないの」
「さて……。暇も相手もないんじゃ、いつのことになりますかね」
ウーロン茶を飲み干して、「さて、これをお渡しすれば……」
と、立ち上る。
「わざわざすみません。お休みだったんでしょ?」
「いや、一向に構いません。することもなくてね」
と、玄関へ出た三神は、「おっと! 忘れるところだった。専務から言いつかって来たんです。こちらへ預けてある包み、受け取って来てくれと」
「包み?」
久仁子は、ここへ「包み」を出してくれ、と言いに来たあの男のことを、思い出した。しかし——三神は永田の部下だし、久仁子のこともよく知っているのだ。疑う理由もない。
「ええ。すぐ出せますか」
久仁子は、ちょっと考えていたが、
「ええ、出せます。お待ちになって」
と、寝室へ入って行った。
布団類を入れた戸棚を開け、奥から、風《ふ》呂《ろ》敷《しき》に包んだそれを取り出す。
戻ろうとしたとき、電話が鳴り出した。居間と寝室、どっちでも取れるようになっている。
ベッドのわきの電話を取った。
「はい。——もしもし。——あ、どうも」
永田からである。心配してかけて来たのだろうか。
「どうしてる?」
と、永田が訊《き》いた。
「ええ、元気です。あの——すみません、いつも」
「いつも?」
「今、三神さんがみえて……。まだ玄関においでです」
「三神が行った? 知らないな」
久仁子は戸惑った。
「でも——あなたからって、お金を……」
久仁子は、チラッと玄関の方へ目をやって、「で、包みを出してくれと——」
「包み? 君に預けたやつか」
永田の声が鋭くなった。
「そうです。あなたが、持って来いとおっしゃったって……。違うんですか?」
少し間があった。
「——久仁子。三神を信用するな。あいつはどうやら俺《おれ》を追い落とそうとする連中についてる」
「まあ……」
「ともかく、その包みは渡さないでくれ。今、俺もそっちへ行く」
「分りました」
久仁子は電話を切った。——通話が、三神に聞こえなかっただろうか?
久仁子は、寝室の中を見回した。
——玄関へ戻ると、三神が少し苛《いら》々《いら》した様子で、立っていた。
「やあ、どうもお手数を——」
と言いかけて、久仁子が手ぶらなのに気付く。
「すみません。やっぱりお渡しできませんわ、私」
と、久仁子は言った。
「何でです?」
「永田さんから、そう言われています。自分以外の人間には渡さないように、と」
「ですから、僕は永田専務から——」
「ええ、分ってます。ごめんなさい。でも、やっぱり一《いつ》旦《たん》ああ言われた以上、たとえ三神さんでもお渡しできないんです」
久仁子は穏やかに言った。「ごめんなさい、本当に」
三神は、無言でしばらく久仁子を眺めていたが、やがてフッと笑みを見せた。別人のような、冷ややかな笑みだった。
「電話がかかったと思ったら……。専務だったんだな」
と、肩をすくめ、「間が悪い、ってやつか」
「帰って下さい。永田さんがこっちへおいでになるそうです」
「といっても、時間はかかる。そうだろ?」
三神は、玄関の鍵《かぎ》をかけた。「そんなに近くにいるわけはないしね」
「帰って!」
久仁子は後ずさった。「人を呼びますよ」
「誰《だれ》を?」
と、三神は笑いながら言った。
靴を脱いで上り込み、久仁子を居間の中へと追いつめて行く。
「何するの……。永田さんはあなたのことを——」
「もうあいつはおしまいさ」
と、三神は首を振った。「こっちもね、いつまでも負け犬に付合っちゃいられないんだよ」
久仁子は、居間の隅へ追いつめられた。
しかし、これは久仁子の思い通りだった。少しでも三神をあの包みから、遠ざけておきたかったのだ。
「さあ、素直に包みを出しな」
「いやです」
と、久仁子は真直ぐに三神を見つめた。
「そうか」
三神の手が、久仁子の首にかかる。
「おはよう」
布団から起き上った山上は、秀子が浴衣《ゆかた》姿で入って来るのを見て、
「おい、もう入って来たのか?」
と、呆《あき》れた。
「そうよ。温泉に来てるのよ」
と、秀子は濡《ぬ》れたタオルを干して、「入らなきゃ面白くも何ともないでしょ」
「しかし……。ゆうべも三回も入ったじゃないか」
「ええ。あなたが寝てから、私、もう一回入ったのよ」
山上は笑って、
「降参だ。とてもついてけんよ」
「あなたも入って来たら? 朝は空いてていいわ」
「いや、そう入っちゃ、脂っけが抜け切っちゃうよ」
——和風の造りだが、新しい建物で、食事などはレストランで取るようになっている。気をつかわずにすむし、快適だった。深い緑の中にあって、空気も澄んでいる。
昨日一日、二人はのんびりと近くの山を歩いたりして過した。
二人で観光旅行をしたことはあるが、こんな風に「何もしない」休みは初めてだった。
山上も、自分がそろそろ忙しく駆け回ってばかりいるのに疲れて来ているのだ、ということに気付いたのである。
「——まだ今日一日あるわ。ねえ、何して過す?」
と、秀子が鏡台の前でブラシを使いながら言った。
「そうだなあ……」
山上は欠伸《あくび》をした。「何でもいい。何もしないのもいいしな」
「そうね」
と、秀子は笑った。
山上は妻の浴衣の後ろ姿を、布団に寝そべって眺めていた。
「——何を見てるの?」
「いや、なかなか色っぽいな、えり足の辺りなんか」
秀子は、ちょっと声を上げて笑った。
「もう見飽きたでしょ。結婚して十六年もたつのに」
「いや、そんなことないさ」
「そう?」
秀子は振り向いた。
——秀子はどうしたんだろう? 山上は、今まで知らなかった妻の顔に、半ば驚き、同時に戸惑いも覚えていた。秀子はゆうべも自分から山上の布団の中へ入って来た。
新婚当時だって、こんなに熱心じゃなかったような気がする。いや、秀子はずっと、自分の気持を殺すことに慣れているところがあった。それが……。
山上は、鏡台の前から離れた秀子が浴衣の帯を解くのを、目をパチクリさせながら見ていた。
「——朝だぞ」
「誰も起こしに来ないわ」
秀子は、夫の方へかがみ込んだ。「それに、あなた、どうせお風呂へ入るんでしょ」
「ああ……。後でな」
「じゃ、その前に汗をかいて」
二人は折り重なって倒れた。——山上は、充分に汗をかくことになった。
「おはようございます」
——耳に快い声である。
レストランで朝食をとっている山上と秀子の所へ、この旅館の支配人がやって来た。
ホテル式に〈マネージャー〉という名札をつけた、紺のスーツの女性である。
「どうも……」
二杯目のご飯を口に入れたところだった山上は、あわててのみ込もうとして、目を白黒させた。
「失礼しました」
と、その女性は微《ほほ》笑《え》んで、「お邪魔するつもりではなかったんです。ごゆっくり召し上って下さい。いかがですか、ご滞在のご感想は?」
「とても落ちつきますわ。すてきな所」
と、秀子が答える。
「ありがとうございます」
山上のように、特別に有名人というわけでなくても、TVでいくらか顔を知られているというだけで、見知らぬ人から挨《あい》拶《さつ》されることは珍しくない。
しかし、このマネージャー——名札を見て、平松弓子という名前だと知ったが——のように、決して押し付けがましい印象を与えない人間は、珍しい方に属する。たいていはいやになれなれしいか、でなきゃ見当外れのお世辞で、山上をうんざりさせるのだ。
「申し遅れまして」
と、平松弓子は名刺を出して置いた。「何かございましたら、いつでもお申しつけ下さい」
「恐縮です」
と、山上は会釈して、「仕事のことは忘れようというわけで、名刺を持っていません。悪《あ》しからず」
「それは理想的な休暇ですね」
と、平松弓子は言った。「ここにも、よく有名な方がおいでになりますけれど、ほとんど皆さん、ファックスだの電話だの、忙しそうになさっておいでです。あれじゃ、お休みにならないようですわ」
「忙しがることで、本人も安心してるんです、日本のVIPたちは」
「おっしゃる通りですわ。先生はどうぞ奥様孝行をなさって下さい」
平松弓子は一礼して、他のテーブルへ回って行く。
「——プロって感じだな」
と、山上は言った。
「そうね、五十歳くらい? きびきびして気持いいわ」
と、秀子も感心している。
「ああいう女性を見ると、男なんかかなわないって気がするな」
実際、一旦上に立つと、男はたいていその座に安住してしまい、努力というものを忘れてしまう。地道にやって来ることの多い女性の方が、その点、ずっと謙虚である。
「さて——どこか、少し車で回ってみるか」
と、山上は言った。
「そうね、私、どっちでもいい」
「どっちでも?」
「あなたのそばにいられれば、ってことよ」
それを聞いた山上の方が、少し顔を赤らめたりしている。
タクシーに乗ったのが却《かえ》って失敗だった、と永田は思った。
電車にしておけば、もう少し早く着いただろう。日曜日で、いつもと道路の混み方が全く違うのを、計算に入れていなかったのだ。
やっとマンションの前でタクシーを降りて、中へ駆け込む。買物に出るらしい中年女性が、すれ違って目を丸くしていた。
大丈夫だろうか? ——久仁子!
「久仁子!」
玄関のドアを開ける。鍵はかかっていなかった。——上り込んで、
「久仁子! どこだ?」
と、居間を覗《のぞ》き込み、息をのむ。
ソファもTVも引っくり返されて、室内は竜巻でも通り過ぎた、といった様子。
「久仁子……。三神の奴《やつ》!」
吐き捨てるように言って、永田は、寝室へ入った。久仁子はベッドにうつ伏せになって動かなかった。全裸で、背中に血のにじんだ傷跡がいくつも見える。
「久仁子……」
永田がそっと近付くと、久仁子がかすかに頭を動かした。「——しっかりしろ」
永田は、久仁子の体を支えて、起き上らせた。背中の傷に触れると、久仁子は鋭く息を吸い込んだ。
「痛むか。——救急車を呼ぶから、じっとしてろ」
と、永田が言うと、久仁子は首を振った。
「大丈夫です……」
と、かすれた声が洩《も》れる。「あの人が……」
「三神がやったのか! あいつ、ただじゃおかん!」
永田は顔を真赤にして、体を震わせた。
「抵抗したら……もっとひどい目にあうと思って……。すみません」
と、久仁子は細い声で言った。
「謝るのは、俺の方だ」
永田はため息をついた。「君に預けるんじゃなかった。こんなことになると分ってたら……」
「あの包み——」
「いいんだ。君のせいじゃない」
「いいえ」
久仁子は首を振った、「いいえ。——あの人、見付けられずに……。それで背中に傷を——。でも、私、言う前に失神してしまいました。きっと、まだあそこに」
「そうか。——隠してくれたのか」
永田は手を貸して久仁子を立たせると、「さあ……。傷の手当をしよう」
と、裸の体にそっとガウンをかけてやり、居間へ連れて行った。
「待って下さい」
久仁子は、よろける足どりで、台所へ入って行き、冷蔵庫を開けた。
「何してるんだ? 何もいらんぞ」
「いえ……。この中に包みを」
「冷蔵庫に?」
「当然、中も覗いたでしょう」
久仁子は冷凍庫を開けた。白い冷気がフワッと舞い下りてくる。
ビニールでくるんだ、大きな肉の塊があった。久仁子はそれを取り出すと、流しへ置き、中身を出した。
「薄切りの肉があったので、それでまわりを包んだんです」
凍ってはりついた肉をはがすと、あの包みが現われた。「急いでやったけど——おいしそうにできました」
久仁子の言葉に、永田は一瞬立ち尽くし、そして笑うと、背中に触れないようにして、そっと久仁子のかぼそい体を抱いた。
「すまなかった……」
永田は指で久仁子の髪を、そっとなでながら、そう言った。