「もう帰らないとな」
と、村内が言うと、台所に立っていた君原令子がちょっと笑って、
「ゆうべもそう言ったわよ、あなた」
と言った。
「そうだったか?」
村内もつられて笑う。
どうも、あまり人に見られていい格好とは言えなかった。村内は昨日から敷きっ放しの布団の中で、モゾモゾしており、君原令子は寝間着姿で冷凍の肉マンをふかしたりしている。
今日が何曜日で、今が何時なのか、村内にはよく分らなかった。いや、少し考えれば、日曜日の夕方で、たぶんもう五時か六時にはなる、と分るのだが、そんなことを知りたいと思わないのである。
本当なら、こんなことをしてはいられない。捜査本部へ戻らなくては。
大方、安西が村内のいないことに気付いて、また色々と想像をめぐらせていることだろう。
村内も、君原令子の所にこんなにのんびりするつもりはなかったのである。それがどうして——と訊《き》かれても返事に困るのだが、要するに「君原令子と思いがけず気が合った」のだとしか言いようがない。
もう五十二歳になる村内から見れば、多少老けて見えるとはいっても、令子は娘のような年齢だ。それでも何だか昔なじみの女のように、いわば「フィーリング」がぴったりくるのである。
正直、村内は自分でもびっくりしていた。事件の関係者とこんな仲になることは、問題がある。そんなことは充分に承知だが——。
「はい、肉マン、ふかしたわ」
と、令子が、皿に熱い湯気を立てる肉マンをのせて持ってくる。「食べる?」
「そうだな……」
村内は、大きく息をついた。
「——変ね」
と、令子は頬《ほお》づえをついて、村内を眺めた。「こんなに年齢が違うのに、何だかあなたといるとホッとする」
「ああ、こっちもだよ」
と、村内は言った。「しかし、これ以上になると、段々ボロが出る。この辺で引き上げた方が利口だな」
「用心深いのね」
「そうじゃない。潮どきを心得てるだけさ」
その割にゃ、落ちついているじゃないか。村内の中で、もう一人の村内がそう冷やかしている。
「旨《うま》い」
村内は肉マン一つ、ペロリと食べてしまった。令子も食べながら、
「——その元気なら、もう一回ぐらい私のこと抱いてくれるでしょ?」
「おい、こっちの年齢を考えてくれよ」
と、苦笑しながら、村内は内心、あと一回どころか、二回でも——などと考えていた。
玄関のドアを叩《たた》く音がした。
「はい?」
「お荷物です」
「はあい。ちょっと待って。——ね、布団に入ってて」
「うん」
村内は布団へ入り、頭までかぶったが……。
今の声。——あいつだ。
パッと顔を出すと、ドアが開いて、
「やっぱりね」
と、安西が言うのと同時だった。
「あんたなの」
と、令子がむくれた。「嘘《うそ》ついて!」
安西は令子を無視して、
「村内さん。——課長が気にしてますよ。一体村内はどこへ行っちまったんだ、ってね」
「そうか」
と、村内は起き上った。「じゃ、報告するんだな」
「しますとも」
と、安西は厳しい目つきになって、「事件の関係者と、こういうことになるなんて、課長が一番いやがることだ。分ってるでしょ」
「あんた、言っときますけど、私とこの人のことは純粋にプライバシーの問題よ」
と、令子が口を挟んだ。
「村内さん」
安西は、あくまで令子に目もくれない。「こんな女にかばってもらえて、幸せですね」
「まあね」
村内はちょっと笑って、「すまなかった、もう捜査本部へ戻るところだったんだ」
「信じときましょう。表で待ってます」
「ああ。すぐ仕度して行く」
安西は、ちょっと肩を揺すって、部屋を出て行く。
——どっちも、窓に人影があって、中の様子をうかがっていることには気付かなかった。
「ごめんなさいね」
と、令子は、村内が服を着るのを見ながら言った。「私のせいで……」
「いや、君のせいじゃない。俺《おれ》が悪い。安西に何と言われても仕方ないよ」
と、村内は上着に腕を通して、「楽しかった。ごちそうさん」
「肉マンのこと?」
「いや。どっちかというと、君のことだ」
令子が村内をひしと抱きしめて、胸に顔を埋《うず》めた。
「また……来てくれる?」
「この次来るときは、失業中かもしれないぞ」
「いいわよ。食べさせてあげる」
村内は笑って、令子の鼻を、ちょんと指でつついた。
「こっちは海千山千さ。うまく言いぬけてみせる」
「そうね……」
「じゃあ」
村内は靴をはいて、表に出た。
——もう外は暗い。安西が足下の小石をけとばしていた。
「お待たせしたね」
と、村内が出てくると、安西は黙って歩き出した。
村内は、深呼吸をして、それから大《おお》欠伸《あくび》をした。
「——呑《のん》気《き》だな、村内さんは」
安西が、意外に好意を感じさせる口調で言った。
「すまんね、君一人に何もかもやらせて」
「そんなこともないですよ。——もう、事件に関しちゃ、僕の手を離れてる」
「離れた? どうしてだ」
「こう手がかりが出なくちゃね。上の方もやきもきしてます」
「そうか」
村内は肯《うなず》いた。「栗山の事務所から、何か出たか」
「いえ。ろくなもんがありませんでしたよ。早晩、潰《つぶ》れてますね、きっと」
二人はのんびりと歩いていた。安西も、もう急ぐ必要がなくなったのだ。
「まあ、焦らないことだよ。その内、どこかからポロッと意外な——」
村内の言葉を断ち切ったのは、夜の空気を貫く鋭い悲鳴だった。一瞬、二人は顔を見合せた。
「あれは、君原令子だ!」
村内が言った。
「行きましょう!」
安西が駆け出し、あわてて村内がそれを追って行った。
山上は、大浴場を出ると、ロビーのソファに寛《くつろ》いでいた。
とはいえ、涼んでばかりいるわけにもいかない。——秀子は髪を洗うと言っていたから、まだしばらくかかるだろう。
山上はテレホンカードを持って来ていた。オフィスへかけてみるためである。
部屋の電話でかければいいようなものだが、「仕事を忘れる」と言った手前、秀子の前ではかけにくかった。
オフィスの電話へかける。草間頼子がメッセージを残してくれているはずである。
ピーッと音がして、向うでテープが回り始めた。
「奥様との旅、いかがですか」
と、ちゃんと頭に入っているのが、頼子らしいところだ。
「おかげさまで」
と、山上は小声で呟《つぶや》いた。
いくつか、仕事上の連絡はあったが、明日、東京へ戻ってからで充分間に合う。
「よし」
と、切ろうとすると、頼子が追加のメッセージを入れていた。
「ニュースで見ましたが、津田さんが誰《だれ》かに刺されました」
津田が? 刺された?
山上は突然の話に、面食らっていた。
「犯人は不明です。酔った上でのケンカか、とも言われているそうですが」
と、頼子は吹き込んでいた。「傷の具合、分り次第、テープに入れておきます」
津田が、刺されたって? どういうことだ!
「——病院が分りました。S大学病院です。重傷ですが、命は何とかとりとめそうという話です。詳しいことはお帰りになってから、また」
ピーッ、と鳴って、メッセージが終る。
酔ってケンカ、か。——しかし、もう酒はやめたと言っていたのに。
山上は、部屋から津田のうちへかけてみようと思った。重傷というのは気になる。
しかし、秀子を待っていなくてはならないし……。迷っていると、
「山上様」
「あ、どうも」
マネージャーの平松弓子である。山上は、
「夜も勤務ですか。大変ですね」
と言った。
「はあ。——奥様は、ご入浴でいらっしゃいますか」
「そうです」
「実は、ちょっとご相談したいことがありまして。お手間はとらせません」
「僕にですか? いや、構いませんけどね。家内が出てくるのを——」
「すぐすみます。よろしいでしょうか」
平松弓子の口調は、ただの相談ではない、という印象を与えた。何ごとだろう?
「いいですとも」
と、山上は肯いた。
「こちらへ」
平松弓子は、奥の細い廊下へと、先に立って歩いて行き、突き当りのドアを開けた。
小さな応接室のようなものだ。
「こんな所で失礼ですが」
「いや、別に……。それで、何ですか、ご相談というのは?」
と、山上は古びた椅《い》子《す》に腰をおろした。
平松弓子は、少しためらっていたが、
「——お気を悪くされては困るのですけど」
と、言い出した。「私も旅館業にもう三十年以上、たずさわって来ました。色々なお客様を見て来ましたし、あらゆる事件にもひととおり出会って来ました」
「そうでしょうね」
平松弓子は、ちょっと息をつくと、
「時間もありませんので、失礼を承知ではっきり申し上げます。奥様は死ぬおつもりだと思いますが」
——しばらく沈黙があった。
「今……何と? 家内が——死ぬ?」
「印象です。奥様のいつものご様子を、私は存じませんが、いつもあのように——はしゃいでおられますか」
山上はドキッとした。
「いや……。まあ、確かに、いつになくはしゃいではいますが……」
「これは直感だけで申し上げるのです。間違っているかもしれませんし、その方が、と思います。ただ——何度か、私も見たことがあります。心中するつもりでやって来た男女のお客様を」
「心中……」
「奥様のあの興奮のなさり方、せかせかと、くり返し入浴なさっているところ。——いつもああでしたら、とんでもない見当違いでしょうが、一見してハッとしたものですから……」
平松弓子は、目を伏せて、「お怒りは覚悟の上です」
と、付け加えた。
「いや……。あなたのように、長いこと大勢の客に接して来られた方の言葉ですからね。たとえ違っていたとしても、ご心配いただいたことには感謝しますよ」
「そうおっしゃっていただくと……」
「しかし、僕には妻がそんなことをする理由が思い付かない。——僕が知らないだけ、ということはあるでしょうが」
「とてもおとなしい奥様ですね。たぶん、自分の気持をじっと隠しておかれる方ではないでしょうか」
「その通りです」
その秀子が、このところ、何度も夫を求めて来る。山上は当惑しながらも、喜んでいたのだが……。
「——明日、お発《た》ちですね。もうお帰りになるのですか」
「そうです。そうか、ということは、もし妻が本当に——」
と、山上は言いかけて、言葉を切った。
そして立ち上ると、
「もう出てくるころかもしれない。——恐れ入りますが、女湯の方で、呼んでみていただけますか」
「かしこまりました」
ロビーへ戻って、見回してみたが、秀子の姿はなかった。先に部屋へ帰るということはしない秀子だが、一応、山上は部屋へ行ってみた。戻った様子はない。
ロビーへもう一度出てみると、
「もう、浴場にはいらっしゃいません」
と、平松弓子が足早にやって来た。
「部屋にもいません。——どこへ行ったんだろう?」
山上の表情がこわばって来る。
平松弓子が駆けて行くと、玄関前の受付の女性と話をして、すぐに戻って来た。
「——奥様はお出かけになったということです」
「出かけた?」
おかしい。一人で黙って外出したりするはずがない。
「タクシーを呼ばれたそうです。どこへ行かれたか、調べましょう」
「お願いします」
山上の顔から、血の気がひく。いつしか、膝《ひざ》が小刻みに震えていた……。