旅館の車が停《とま》ると、山上はドアを開けるのももどかしく、外へ飛び出した。
「ご主人で?」
と、タクシーの運転手らしい男が頭を下げる。
「山上です。あの……家内は——」
「中においでです。何もおっしゃろうとせんので……。こちらです」
「ありがとう」
山上は、その運転手について行った。
小さな町のタクシー会社である。いい加減古い型の空車が四、五台並んでいて、その奥にモルタル二階建の建物があった。どうやらそれが会社らしい。
ガタつく戸を開けて、
「どうぞ」
と、通してくれる。
中へ入ると、山上はすぐに秀子が隅の椅《い》子《す》に座っているのを見付けた。
運転手が数人、思い思いに時間を潰《つぶ》している。——あとは事務机が二つ並べてあるだけだ。
秀子は、夫が入ってくるとチラッと顔を上げたが、目が合ったのは一瞬だけで、すぐにうつむいてしまった。
「——無線で連絡があったもんでね」
と、秀子を乗せていた運転手は言った。「途中、ちょっと停めたんです。便所へ行ってくるって言ってね。で、公衆電話からここへかけたら、奥さんが自殺しようとしてる、ってんで、仰天してね。——とっても、そうは見えませんでしたがね」
山上は、ともかく助かったんだ、と自分へ言い聞かせた。秀子は助かったのだ。
もちろん、なぜ秀子が死のうとしたか、山上には想像もつかない。しかし、ともかく今は助かっただけで充分だ。
「色々、おしゃべりもしましてね、ええ。そりゃこんな時間に、燈《とう》台《だい》へ何しに行くんだろ、とは思いましたよ。でも、まさかねえ。あそこは飛び下りの多い所なんだって知っちゃいますがね」
——山上は、秀子の前まで行って、しゃがみ込んだ。
この何日間かの、まるで子供のようにはしゃぎ、若返った秀子は、もうそこにはいなかった。——突然、十年も老け、少し小さくなったような妻の姿があるだけだった……。
山上が秀子の手にそっと自分の手を重ねると、白い小さな手はびくっとして、引っ込められた。山上はそれを追うように、しっかりと握った。冷たい手だった。
「秀子……。うちへ帰ろう」
秀子が顔をそむけた。放心したようにうつろだった顔に、切なげな表情が浮んだ。
「何も心配するな。エリも待ってる。そうだろ?」
秀子は、震える唇を、固くかみしめた。しかし、沈黙は少しも変らない。
「さあ。——行こう」
逆らうかと思ったが、意外に素直に立ち上ると、秀子は、夫に体重を預けるようにすがりついて、小さな歩幅で歩き出した。
運転手たちがじっと見ている。その視線を、山上は痛いほど感じた。
「——お邪魔しました」
と、外へ出るときに山上が声をかけると、
「よく見ときなせえよ」
と、運転手の一人が声をかけた。
よく見とけ、か。——全くだ。
あの旅館のマネージャー、平松弓子が出してくれた車に、秀子を乗せる。運転はホテルの従業員の男性がやってくれていた。
「——じゃ、旅館へお願いします」
車が夜の道をゆっくりと走り出す。
秀子の手を、山上はじっと握りしめていた。何も言わずに、秀子は外の闇《やみ》を見ている。いや、たぶん目は向けても、何も見てはいなかったのだろう。
山上は、自分を責めていた。——俺《おれ》は何をしてたんだ?
夫婦でいながら、妻が死ぬ決心をするまで悩んでいることに、全く気付かなかったのか。俺の目は節穴だったのか。
しかし——しかし、なぜだ?
なぜ、お前は……。秀子の横顔は、青ざめてひときわ白く、美しくさえあった。
「——奥様はおやすみになっておいでです」
と、平松弓子が、抑えた声で言った。「精神安定剤のせいで、ぐっすり眠られると思います」
「いや……何とも」
山上は、旅館の廊下を、一緒にゆっくりと歩きながら、「あなたのおかげです。何とお礼を言っていいか……」
「私はこういう仕事で慣れているからです」
と、平松弓子は、それでも嬉《うれ》しそうではあった。
「それにしても、亭主の私が全く気付かなかったのに。お恥ずかしい次第です」
「ご無事だったんですから」
と、平松弓子は言った。「お宅へ戻られて、ゆっくりとお話を聞いて上げて下さい」
「そうしましょう。秀子も、子供に会えば、気が変ると思うんです」
「ぜひ、お元気になられて、またおいで下さい」
と、平松弓子は微《ほほ》笑《え》んだ。「——山上さん、少しおやすみにならないと」
「今夜はずっと家内のそばにいますよ」
「そうですか」
平松弓子は、それ以上すすめなかった。「もしお疲れで、眠られるようでしたら、いつでもフロントの者に連絡して下さい。代りに奥様のご様子を見ているように申しておきますから」
その心づかいは山上の身にしみた。
「そのときはよろしく」
と、ていねいに頭を下げる。
平松弓子は、初めて少し顔を赤らめた……。
——部屋へ戻ると、山上は妻の眠っている布団のわきにあぐらをかいて、座った。山上の分の布団もちゃんと敷いてあるのだが、やはり今夜は眠る気になれなかった。
眠っていると、秀子は無邪気にさえ見える。改めて、山上は秀子が助かって良かった、と思った。
もしあのまま秀子が自分の命を絶っていたら、山上はただ呆《ぼう》然《ぜん》とするだけで、一生なぜ妻を死なせてしまったか、悩みつづけなくてはなるまい。もちろん、これで家へ戻ったとしても、秀子がわけを話してくれるとは限らない。
しかし、どんな心の傷であっても、生きてさえいれば、いつかいやすことができる……。
秀子は静かな寝息をたてていた。——眠っている間は、幸せなのかもしれない。この数日、自分から夫を求めて来た秀子の気持が、いじらしかった。
「——そうか」
ハッと気付いた。もしかすると……。
秀子の荷物は小さなボストンバッグにつめてある。山上はその中身を一つずつとり出してみた。
「——これか」
白い、あて名もない、封書。中身が入っていることは、手触りで分る。
これが「書き置き」なのだ、おそらく。
山上はチラッと秀子の方へ目をやって、手もとの明りだけを点《つ》け、少し緊張しながらその手紙の封を切った。
中には二枚入っていたが、二枚目は白紙である。そして一枚目は——。
〈 あなた。エリ。
こんなことをして、ごめんなさい。
何も訊《き》かないで。何も調べないで下さい。
ただ、私が自分の罪を償ったのだというこ
とだけ、知っていて下さい。
幸せを祈っています。
秀子 〉
——これでは、あまりに簡単すぎる。
しかし、「罪を償う」とはどういう意味だろう? 死んでまで償わなくてはならない罪というのは、何のことなのか。
山上は、ますますわけが分らなくなって、穏やかな妻の寝顔にじっと見入っているのだった……。
「——本当に、もう大丈夫ですから」
と、大友久仁子は言った。
「しかし……」
永田はためらっている。
「ちゃんと鍵《かぎ》もかけますし、誰《だれ》が来ても、絶対に開けません」
と、久仁子は言って、少し笑みを浮かべ、「借金とりでも、知らんぷりしてますわ」
永田はちょっと笑って、
「分ったよ」
と、肯《うなず》いた。
そして、永田の顔は怒りに歪《ゆが》んだ。
「三神の奴《やつ》! ただじゃおかん」
「ね、乱暴なことはやめて下さいね」
と、久仁子は永田の肩へ手をかけた。「何かすれば、向うの思う壺《つぼ》です。何くわぬ様子でいて。——お願い」
「分った」
久仁子のマンションである。
三神につけられた、久仁子の背中の傷は一応病院へ行って、手当してもらった。うつ伏せに寝なくてはならないかもしれない。
「もうお帰りにならないと」
と、久仁子は言った。「お宅で心配されています」
「うん……。遅くなる、とは言って来てあるがな」
と、永田は言って時計を見る。
「でも、もう夜中です」
「どうせ女房は起きちゃいない」
と、永田は苦笑した。「帰らなくても、気にしやしないさ」
「でも、私が気になるんです」
と、久仁子は言い張った。「ちゃんと帰って下さい」
「ああ。帰るよ」
永田はそっと久仁子の額に唇をつけた。「君はやさしいな」
久仁子は何も言わず、ただ微笑んだだけだった。
「じゃ、車を呼ぼう」
と、永田は電話を取ると、いつも使っているハイヤーをこのマンションの下へ呼んだ。
たいてい十五分ほどでやってくる。
「タクシーを拾ってもいいが、三神の奴、こっちの敵に回ったことを、もう知られてると分っているわけだからな。とんでもないことをしかねない」
「用心して下さい」
「ああ。——お茶でももらおうか」
久仁子が嬉《うれ》しそうに、はい、と答えて台所へ立つ。
久仁子は、永田とあまり深刻な話をしない。——永田がここへ来るのは、気持を休めたいからだ。ここでも久仁子にあれこれグチを聞かされたらたまらないだろう。
だから、久仁子はできるだけ明るく、とりとめのない噂《うわさ》話《ばなし》や、TVで見た芸能人の話題などをしゃべる。永田も、結構楽しげにそれを聞いているのだ。
「——ねえ」
と、久仁子はお茶をいれながら、言った。
「何だ?」
「これから——会社の方、大変なんでしょう」
「そうだな」
永田は肩をすくめて、「会社は大丈夫。その代り、誰かがクビを切られるのさ」
「あなたが?」
「どうかな。——ありがとう」
と、お茶を飲んで、「横領の事実はもう隠せない。となると、誰がいけにえになるかだ」
「もし……」
と言いかけて、久仁子はためらった。
「うん?」
「私のことで、あなたが不利になるようだったら……。いつでも言って下さい。一日で、姿を消します」
永田は、ゆっくりと首を振って、
「そんなことはしない。大丈夫だ」
「もしも、です」
「もしも、でも、だ」
永田は、そっと久仁子の肩を抱いて、自分の方へ抱き寄せた。久仁子の細い体が、永田の腕の中へ倒れ込んでくる。
「君を泣かせたりしないよ」
と、永田は言った。
久仁子は、永田の胸にそっと耳を押し当てて、その鼓動を聞いていた。
永田の鼓動は、「嘘《うそ》発見器」みたいに、早くなったり、遅くなったりする。久仁子にはよく分っていた。
永田に抱かれるようになってから、久仁子はあることに気付いていた——永田には他に「女」がいる。その女のことで、永田は苦しんでいる。
そういうことに、女は敏感なものである。ちょっとした匂《にお》い、さりげない言葉、しぐさ、そして愛《あい》撫《ぶ》のときの、小さな手順の違い。
一つ一つの細かい破片をつなぎ合せると、久仁子にはちゃんと分るのだった。しかし、もちろん自分は永田の妻でも何でもない。そんなことで、永田を責める気にはなれなかった。
「——そっと」
と、背中へ回った永田の手を気にして、久仁子は言った。
「すまん。つい……」
「もうじき車が来ます」
「待ってるさ」
「でも——」
久仁子の口を、永田の口がふさぐ。久仁子は、逆らわずに、身を委《ゆだ》ねた。
永田に呼ばれたハイヤーは、マンションの下で、三十分ほど待つことになった……。