「パパ」
エリが、当惑したような顔で、立っていた。
「エリか。——学校は?」
「うん。もう終ったの」
エリは学生鞄《かばん》を下げている。「クラブだけ休んで、帰って来た」
「そうか」
山上は肯《うなず》いた。
病院は明るく、清潔で、あまり薬の臭《にお》いもしなかった。しかし、それでもやはりそこは病院なのである。
「ママは……」
と、エリが言いかける。
「うん。——電話で言った通りだ」
「どういうこと? 自殺未遂なんて……」
「おいで」
山上は、エリの肩を抱いて、ソファを置いた一角へと連れて行った。
山上の話に、エリはただポカンとしているばかりだった。
「——じゃ、その旅館の人が言ってくれなかったら……」
「ああ。たぶん母さんは生きていなかったろう」
「——嘘《うそ》みたい!」
と、体中で息をつく。「ママに、何があったの?」
「分らん」
山上は重苦しい表情で首を振った。「見当もつかない」
「——何か言ってないの、ママ?」
「黙ったままだ」
山上は、病室の方へチラッと目をやって、
「医者とも相談したが、ともかく本人はまだ『死にたい』と思っているだろう。うちへ置いても、一日中母さんのことを見張っているわけにはいかない」
「じゃあ……ずっとここに?」
と、エリは少し怯《おび》えたように言った。
「とりあえず、だ。薬で気分を楽にさせ、あとは看護婦が見ていてくれる。——ここの院長はよく知ってる。母さんを大切に見てくれるはずだ」
そう言いながら、山上の目に突然涙があふれた。「——いや、すまん」
あわててハンカチを出して拭《ふ》くと、
「ふがいない亭主だと思って、情なくてな」
と、苦笑する。
「でも——どうしてそんなこと……」
「これから調べてみる。そして、母さんが何をしたにしても、死ななきゃならんほどのことじゃない、と分らせてやる」
山上は力強く言った。「分るな」
「うん」
「よし。じゃ、お前も力を貸してくれ。できるだけ母さんを見舞って、そばにいてやってくれ。自分が大切な人間だってことを、母さんに納得させなきゃならん」
「分った」
エリはもう、ショックから立ち直っていた。しっかりと父親の目を見つめている。
「母さんが、早く退院できるように、頑張ろうな」
山上は、エリの肩をつかんだ。
「そうだね」
エリは肯いて、「——ね、パパ」
と、ふと思い付いたように、言った。
「何だ?」
「私、ママの本当の子だよね」
山上は面食らって、
「当り前だ。——よく似てるじゃないか。どうしてだ?」
「あのね……妙な女の人が——」
エリは、学校帰りに声をかけて来たり、この週末にも電話をして来た女性のことを、父に話した。
山上は、眉《まゆ》を寄せて聞いていたが、
「妙な話だな。そんなこと、聞いたこともない」
と、首を振った。「——エリ。もし、今度その女から電話があったり、声をかけられたりしたら、どこかで会う約束をしろ。二人で会いたい、と言うんだ。そして、父さんに言え。いいな?」
「分った」
と、エリは言って、「パパ……浮気してるとか、そんなこと、ないよね」
「当り前だ!」
と、山上は力強く言って、つい声が大きく出すぎた。
「お静かに」
と、通りかかった看護婦にたしなめられて山上は赤くなった。
山上の顔を見ると、草間頼子は、
「メモ類は机の上です」
と言った。「アポイントメントは、一応全部保留にしてあります」
「ありがとう」
山上は、この有能な秘書が、同情の言葉などかけずに、仕事の話に入ってくれたのがありがたかったのである。
山上は椅《い》子《す》に座ると、一枚ずつメモを見て、返事を要するものと、単に断ればいいものに分けて行った。
たぶん、草間頼子にも、その区別はあらかたつけられるだろうが、あえてそれを分けておかず、山上の判断を仰いだところが、逆に頼子の気のつかい方なのだ。
「——こっちは断ってくれ」
と、山上はメモの一方の束を机の端に置いた。「あとは返事を考える」
「かしこまりました」
頼子が、その束を取って、早速処理し始める。
二人は沈黙したまま、しばらく仕事をつづけた。——口を開いたのは、山上の方だった。
「津田はどうした? その後、何か分ったかい」
頼子は顔を上げると、
「まだ意識がはっきりしないとか。——津田さんの奥様からもお電話が」
「そうか。こっちも、それどころじゃない」
と言うと、山上は、大きく息を吐いて、椅子の背にもたれた。「——疲れたよ」
「いかがですか、奥様?」
頼子が、初めて訊《き》いた。
「しばらく入院だ。またやる恐れがあるからね」
と、山上は言った。「——コーヒーをいれてくれないか」
それがいわば「合図」のようだった。
コーヒーを一緒に飲みながら、山上は温泉地での出来事を語った。
「——私も責任を感じますわ」
「君が? どうしてだ」
「旅をおすすめしたのは私ですもの」
「ああ。しかし、どこにいても同じだったろう。それに、自殺しようとした原因が分らなきゃ、同じことだ」
「奥様は何もおっしゃらないんですか」
「貝のように口をつぐんでる。——古い言い回しかな」
と、山上はちょっと笑って、「ともかく、何にしろ亭主の僕に責任がないとは思えないよ」
「でも、所長。責任は奥様だけでなく、コンサルタントをされている各企業に対してもありますわ。お仕事をやめられてはいけません」
頼子の言葉に、山上はハッとした。——そう。山上の指導を待ってくれている中小企業もあるのだ。
少々のことではびくともしない大企業は放っておいてもどうということはない。しかし、小さな個人経営の事業主は、一日の違いで倒産することもあるのだ。
「——そうだな」
と、山上は肯いた。「仕事を絞って、つづけよう」
「お手伝いします」
と、頼子は微《ほほ》笑《え》んだ。「でも、毎日、遅くなっても、必ず奥様の所へお見舞に行かれることです」
「ああ。そのつもりだ」
山上は、コーヒーを飲み干した。心配しているだけで、秀子は元気にならない。きちんと仕事もこなしておくことだ。
「しかしね……。ともかく原因を探りたい。何か理由があるはずだ」
「お手伝いできることはいたします」
「すまんね。余計な仕事で」
「いいえ。でも、調べて分ったことを、私にはおっしゃらないで下さい。奥様の一番プライベートな部分に触れることですもの」
「そうしよう」
山上は、頼子の明快な言い方に感心していた。「——そうだ。倉林美沙さんから、何か言って来なかった?」
「特に何も。もう解決したんじゃありませんか? それならそれでご連絡があるかもしれませんけど」
「いや、片付きゃそれきりって女さ、あれは」
と、山上は言って仕事に戻った。
もちろん、今は倉林美沙と十二歳年下の恋人のことなど、構ってはいられない。しかし、何も言って来ないというのが、逆に少し気にはなった。
それに——あの〈情報屋〉からも何も言って来ない、というのは妙である。何か出たにせよ出ないにせよ、連絡はして来ているはずだ。
「この郵便、急ぐので、出して来ます」
と、頼子が出て行くと、じき電話が鳴った。
「もしもし」
〈情報屋〉の声である。
「やあ。今、ちょうど考えてたところだ。どうなってる?」
「すっかり手間どりまして」
と、少し恐縮している様子。「お出かけでしたか」
「うん、ま、色々ごたごたしてね。それはともかく——」
「三神はとんでもないコウモリですな」
「コウモリ?」
「永田という重役に罪をかぶせる企《たくら》みだったようです。永田も、やっとそれに気付いて、反撃に出るってところですね」
「そうか……」
三神の正体を、美沙は知らないだろう。山上は少し気が重かった。何とか時間を作って、話してやるべきかもしれない。
「それから——」
と、〈情報屋〉が言いかけて、「今、お一人ですね」
「うん」
「実は、永田という重役の身辺を洗っている内に、意外なことが出て来まして」
「何だね?」
少し間があった。
「お目にかかって、お話ししたいんですが」
「分った」
と、山上は言った。
相手がそこまで言うのだ、出向いて行くしかあるまい。
「いつ、会える?」
珍しく、〈情報屋〉はためらっている。
「確証がほしいので……。三日後でいかがでしょう」
「結構。何かあったら、連絡してくれ」
「はあ。そのことは、くれぐれもご内密に」
と、念を押して電話を切る。
いやに声が近かった。この近くからかけていたのだろうか。
山上はちょっと首をかしげた。
永田という重役のこと、そしてあの大友久仁子のことを、ふと考える。——久仁子が、どこか妻の秀子を思わせるからである。
少し寂しげなかげを持っていること。そして、自分の感情を殺すのに慣れた印象があること。
山上は、ふと、大友久仁子にもう一度会ってみてもいい、と思った。——しかし、ともかく妻のことが先決である。
山上が、メモにあった仕事について、一つずつ返事を考えていると、草間頼子が帰って来た。
「何かお電話、ありました?」
と、頼子が訊く。
山上は口を開きかけ、ちょっと迷ってから、
「いや。別になかったよ」
と、答えた。
「——お帰り」
エリが、玄関へ出て来た。
「ああ。——何か食べたか」
「うん」
山上は上って、「母さん、どうだ」
と、言った。
「泣いてたよ」
「泣いて?」
山上は振り向いた。「何か言ったか」
エリは黙って首を振った。
娘の様子が、普通じゃないということに、山上は気付いた。
「どうした。何かあったのか」
「別に」
エリは目をそらした。
「隠すな。母さんがあんなことになってるんだ。隠しごとなんかしてる場合じゃない」
「パパ」
エリは、真直ぐに父親を見て、「居間のテーブルに……」
「何だ?」
居間へ入ると、テーブルの上に、妙なものがのせてあった。
細かく裂かれた手紙である。それを、ジグソーパズルでもやるように、つなぎ合せ、テープで貼《は》り合せてある。
「これは?」
「ママのクロゼットの屑《くず》入《い》れの中にあったの」
と、エリは言った。「それをティシューにくるんで、ギュッと丸めて、底の方へ押し込んであった」
「捜したのか」
「何かあるんじゃないかと思って……。でも——本当なの?」
山上は、貼り合されたその手紙を読んだ。かなり乱暴な、書きなぐった字である。
〈 秀子へ。
長いこと会ってないな、元気でやってるか。
オレの方はどうも具合が良くない。少し都合してくれないか。
お前に迷惑はかけたくないが、こっちも困ってるんだ。お前の亭主に、子供がオレの子だと知られたくないだろ?
オレも、そんなことはしたくない。とりあえず、百万ほど用意してほしい。
また手紙を書くよ。
黒木 〉
何度も、山上は読み返した。
顔から血の気がひいたが……。しかし、何度読み返しても、当然のことだが、文面ははっきりしていた。
「パパ……」
と、エリが言った。「私、その人の子なの?」
「馬鹿な!」
と、山上は即座に言った。「こんなのはいたずらだ!」
「パパ——」
「当り前だろう。お前は俺《おれ》の子だ!」
エリが山上の胸に飛び込んでくる。山上は細かく震える娘の体を、しっかりと両腕で抱きしめてやった。