もう夜中、二時を回っている。
少し、また膝《ひざ》が痛んだが、我慢できないほどじゃない。村内は少し身をかがめて、膝をこぶしで叩《たた》いた。痛みがあまり感じられない代り、しびれるような感覚があった。
こんな日は、仕方ないな。
湿り気の多い夜である。村内刑事は、駐車してある車にもたれて、少し離れたバーのネオンが消えるのを、眺めていた。
閉店か。——じきに出てくるだろう。
両手を、ゆっくり開いたり閉じたりしていると、血のめぐりが少し良くなるようでもある。
村内は、ホッとため息をついた。
「俺《おれ》もやきが回ったか」
TVの刑事物にでも出て来そうなセリフを呟《つぶや》いてみる。
——ゆうべ、君原令子のアパートを後にしたとき、突然の悲鳴に、安西刑事と一緒に駆け戻った。
令子は階段から転り落ちて、起き上れない様子だった。
二人で令子を助けて、部屋へ戻したが……。
令子の様子はただごとではなかった。青ざめ、明らかに怯《おび》えていた。
「何があったんだ?」
と、村内は訊《き》いた。「話してみろ」
村内は、少なくとも令子が自分を信じてくれていると思っていた。だから、
「足を踏み外しただけ」
という令子の答を聞いたときには、がっかりしてしまったのだ。
「そうじゃないだろう。誰《だれ》かに突き落とされた。——そうだろ?」
やさしく訊いた。俺が守ってやる。そう言ったつもりだった。
しかし、令子の返事は同じ。
「自分で足を踏み外したのよ」
——村内にとってはショックだった。
令子とは、分り合っていると思っていたのである。単に寝た相手だからというのではなく、お互い、共通するものを持っていたのだ。
しかし、それも結局、何の役にも立たなかった。
そして、安西は冷ややかな笑みを浮かべて、そんな村内の傷心ぶりを眺めていたのだ……。
——今夜、令子はいつもの通り店に出ている。
村内は令子が出てくるのを待っているのだった。待っていてどうするのか、自分でも良く分らない。ともかく来ないではいられなかったのである。
店の明りが消え、一人、女が出て来た。目をこらしたが、令子ではない。
そのとき、ふと人の気配に振り返った。
「君か」
安西が、ポケットに両手を突っ込んで立っていたのである。
「こたえませんか、体に」
と、安西は言った。
「俺の勝手さ」
と、村内は肩をそびやかす。「どうしたんだ」
「いや、どうせ暇でね」
捜査が行き詰っているのは事実である。水野智江子、栗山、と二人も死んでいるのに、手がかりらしい手がかりもない。
上の方からは、大分苛《いら》立《だ》った指示も出ていた。しかし、指示が出たからといって、何が変るわけでもない。
「出て来ましたか」
「いや」
と、村内は首を振って、「——俺が甘かったのかな」
と、呟くように言った。
「分りませんよ、僕だってね」
安西は、いつになく淡々としている。
「何かあったのか」
と、村内は言った。
「別に何も」
安西の言い方は、とらえどころがなかった。「——誰か出て来ますよ」
出て来たのは、どうやら君原令子らしい。
「おやすみなさい」
と、店の中へ声をかけている。
「あいつだ」
と、村内は肯《うなず》いた。
「どうですかね。もし、あの女が突き落とされたとしたら、犯人がまた狙《ねら》ってくると思いますか」
「どうかな」
村内も、それは考えていた。しかし、令子がそんなに重要なことを知っていたのだろうか? 村内には不思議だった。
「尾《つ》けましょう。せっかく見張ってたんだ」
「ああ、そうだな」
二人はちょっと顔を見合せ、そして笑った。
二人の間の「わだかまり」のようなものが、フッと消えたようだ。
少し間隔を置いて、二人は令子の尾行を始めた。
こんな時間の尾行は楽ではない。人ごみに紛れて見失うという危険はない代り、近付きすぎるとすぐに気付かれてしまう。
令子は、足どりを速めて、帰りを急いでいるという様子だ。不安げではない。周囲を気にしているとも見えなかった。
では、やはり突き落とされたのではないのだろうか?
村内は、微妙に揺れる気持のまま、令子の足どりに合せるのに苦労していた。
膝が痛む。何とかこらえてはいたが、足どりが速くなると、少し辛《つら》い。
「大丈夫ですか」
と、安西が言った。「僕一人で行きましょうか」
「いや、平気だよ。いつもの付合いだ。そういう痛みとは、付合い方ってもんがある」
村内は自分へ言い聞かせるように言った。
道は暗い。あまり離れると、見失ってしまいそうだ。
「少し間をつめよう」
と、村内が言ったときだった。
バン、と短く、乾いた音が響いて、令子がよろけた。——一瞬、村内と安西は棒立ちになった。
「撃たれた!」
「畜生!」
暗がりの奥に、タッタッと足音が聞こえた。二人が一斉に駆け出す。
村内の膝に「一撃」が来た。銃弾を撃ち込まれたかと思うほどの痛さ。思わず声を上げてよろめく。
「村内さん! その女を!」
安西が振り向いて叫んだ。「僕が追います!」
「気を付けろ!」
と、村内は安西の背中へ向けて怒鳴ったが、聞こえていたかどうか。
村内は、痛む足を引きずるようにして、うずくまっている令子の方へと急いだ。
「おい、大丈夫か!」
と、声をかける。
「あ……。痛い……」
と、うめくように言って、令子は村内を見上げた。「血が……」
「どこだ?」
抱き起すようにして、令子の傷を見る。「腕だ。大丈夫。死にやしない」
「死ななきゃいいの? 痛いのよ!」
と、令子は泣きべそをかいている。
「待ってろ。すぐ救急車を呼ぶ」
ハンカチをとり出し、令子の腕のつけ根をきつく縛った。
「乱暴にしないでよ……」
と、令子が文句を言った。
「文句を言う元気がありゃ大丈夫」
そこへ足音がして、
「まあ、令子ちゃん、どうしたの?」
あのバーのマダムである。
「良かった。救急車を呼んでくれ」
と、村内は言った。「撃たれたんだ」
「ええ? 大変! じゃ——お店に戻ってかけるわ。その方が——」
「頼む。急いでくれ」
マダムが駆け戻って行く。
「立てるか?」
「痛い……」
「よし、じっとしてろ。ここへ来てもらおう」
村内はホッとしていた。
いや、撃たれた令子の方はホッとするどころではないだろうが、ともかく命には別状なかったのだ。もし、これが心臓でもやられていたら……。改めて村内はゾッとした。
そのとき——銃声がした。
大分離れてはいたが、反射的に頭を下げようとする。そうだ、安西の奴《やつ》!
令子を残して行くのもためらわれて、迷っていると、あのマダムが戻って来た。
「今、救急車が来ます」
と、息を弾ませて、「令子ちゃん、大丈夫?」
「ちょっと見ててくれ。もう一人が犯人を追いかけてるんだ」
村内はそう言って安西の後を追った。すると、
「気を付けて!」
と、令子が声をかけてくれたのである。
その一言が、痛む膝のことを、束《つか》の間《ま》忘れさせてくれた。
しかし——数メートル行った所で、村内は足を止めた。安西がフラッと戻って来たのだ。
「おい、どうした? 銃声がしたぞ」
「ええ」
安西は、何だか少し酔ってでもいるような歩き方をしていた。
「逃げられたのか」
「そう……。待ってやがったんですよ。畜生! 暗くてよく見えなかった……」
「安西——」
村内は自分の目を疑った。安西が——あの頑丈そのもののような体が——フワッと紙きれか何かのように倒れたのだ。
「おい。——安西。大丈夫か」
大丈夫でないことぐらい、分っていた。しかし、そう思いたくなかったのである。
やめてくれ! やめてくれ! こんなことが……。こんなことがあるはずはない。
村内は、痛む膝をかばいつつ、かがみ込んで、安西の手を取った。
うつ伏せに倒れた安西の体の下に、血だまりが広がって行く。
もう、脈拍も感じられなかった。
「こんな……。馬鹿げてる」
と、呟くと、村内は立ち上った。
膝の痛みは消えていなかったが、それは誰か全く別の人間のもののようだ。
道に座り込んでいる君原令子が、戻って来る村内を見て、
「どうしたの、あの刑事さん?」
と、弱々しい声で言った。「けがでもした?」
「死んだ」
ポカンとした、間。
「——嘘《うそ》でしょ」
「俺よりずっと若かったのに……。俺の膝が——。畜生! 俺の膝が……」
村内は、よろけて、電柱にぶつかった。そして電柱を拳《こぶし》で殴りつけた。
「ねえ。——やめて!」
と、令子が叫ぶ。「お願いよ。やめて!」
村内は殴りつづけた。拳は焼けるように痛んだが、それがむしろ救いのように感じられていたのだ。
「やめて……。やめてよ」
令子が泣き出した。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえて来る……。