この辺りか……。
住所を書いたメモを見直して、山上は半ば絶望的な気分に陥りかけた。
並んでいる、というより、「ひしめき合っている」と言った方が正確かもしれない安アパートの群。——少し大げさに言えば、目の前の光景はそういうことになる。
もっとも、アパートは互いに支え合ってでもいるようで、もし一つがとり壊されたら、一斉にバタバタと倒れてしまうかと思えた。
「——しっかりしろ」
と、山上は自分に向って言った。
はっきりさせるのだ。秀子のためにも、エリのためにも。
山上は、一つ一つのアパートの名前を確かめながら、歩き出したが、それがまた容易なことではない。何しろ、アパートの名や住所の表示がまともに読めないのである。消えかかっていたり、いたずら書きでほとんど見えなくなってしまっていたり……。
しかし、一つ一つ、丹念に見ていけば、その内には必ず……。
障害はそれだけではない。夕方の買物どきにぶつかってしまったらしく、大きな買物袋やショッピングカートを引いた(それもたいていは錆《さ》びついてギイギイ耳ざわりな音をたてている)奥さんたちが、ぶつかり合わんばかりに行き来していたり、立ち止ってはおしゃべりしていたりするのだ。
これらのアパートのどこかにいる。——あの男は。
〈黒木〉という名前には憶《おぼ》えがあった。
山上が勤めていた——ということは、秀子も勤めていた——会社にいた、いくらか山上より年上の男である。
もちろん、別の〈黒木〉である可能性もあるわけだが、ともかく山上はその〈黒木〉に当ってみることにしたのだ。
かつての同僚に連絡をとり、訊《き》いてみると、黒木は体を悪くして辞めたとのことだった。そうなると、秀子へ来た手紙の〈黒木〉が、その男ではないかという気がしてくる。
何人かの知人に当って、やっと黒木が今どこにいるか、訊き出すことができた。いや、今、ここにいるとは限らないのだが、ともかく分る限りで、この辺りのアパートが、黒木の一番「新しい」住いなのだ。
それにしても……。あの手紙が秀子の自殺未遂の原因だったとしたら、内容は全くのでたらめでもなかったのだろう。
黒木と秀子……。当時、そんな噂《うわさ》は全く山上の耳には入らなかった。もし、エリが黒木の子だとしたら、秀子は山上と結婚してからも黒木と付合っていたことになる。
これはやはり山上としてはショックだった。
——しかし、その疑問を、今の秀子へぶつけることはもちろんできない。今は、秀子を立ち直らせるのが第一だ。
その上で、エリにも、事実をきちんと告げて、納得させなくてはならない。大丈夫だ。エリは利口な子である。きっと、分ってくれるだろう。
「——これかな」
何度も、山上はその崩れそうなアパートの入口の看板を見直した。板が三分の一ほど欠けてしまっているが、ともかく周りに似た名前のアパートはない。
「何か用?」
と、髪をくしゃくしゃにした奥さんが、うさんくさげに山上を見た。
山上はきちんとした背広姿だが、こんな場所では、むしろこういうスタイルの方が「怪しげ」なのかもしれない。
「ここは——〈相模《さがみ》荘《そう》〉ですね」
と、山上は訊いた。
「そうよ。あんた何? 地上げ屋?」
「違いますよ。黒木って人はいますか」
「黒木? ああ、いるわよ」
山上はホッとした。
「どの部屋ですかね」
「一階の一番奥。——電球切れてて暗いから、気を付けてね」
「どうも」
と、会釈して中へ入ろうとすると、
「黒木さんと話そうっていうんなら、午前中でなくちゃ」
と言われた。
「どうしてです?」
「午後はいつも酔っ払ってるのよ」
山上は呆《あき》れて、
「いつもですか」
「そう。何日も部屋から出て来ないこともあるわ」
山上はチラッと薄暗く、埃《ほこり》っぽい廊下の奥へ目をやった。
「黒木さんは一人で住んでるんですか?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「ときどき——といっても最近だけど、女の人が出入りするのを見かけたわよ。でも奥さんって感じじゃないわね。いい服を着てた」
「どうも」
と、山上は礼を言った。
向うが酔っていたとしても、話をするぐらいはできるだろう。もし話もできないくらいであれば、どこかへ連れ出してもいい。
山上は歩いて行って、奥のドアまで行く間に、何度もけつまずいた。古ぼけた自転車だの、洗濯機だのが出したままになっているのである。
「——ここか」
山上は、ドアの前に立つと、却《かえ》って落ちついた。講演のときのようだ。ステージに出ると、気持がしずまるのである。
ドアを叩《たた》いてみる。——もとより、チャイムなんてものはついていない。
三回叩いたが、返事はなかった。
酔《よ》い潰《つぶ》れているのか。それともどこかへ出かけているのか。
ドアを開けてみた。——鍵《かぎ》はかかっていなかった。
カーテンを引いたままなのだろう、部屋の中は暗い。そしてムッとするようなアルコールの臭《にお》い。
かびくさく、湿った空気とアルコールの臭いが混り合って、吐気をもよおすようなひどさだった。
「黒木さん」
と、何とかこらえて声をかける。「黒木さん。——いますか」
明りは? 手探りで見付けたスイッチを押すと、裸電球が点《つ》いて、さびれた室内を照らし出した。
ほとんど「空っぽ」といってもいい部屋である。タンス、ちゃぶ台代りの段ボール。
そして布団が敷きっ放しで、そこに男が一人、下着姿で引っくり返っていた。
山上は、上り込んで、その無精ひげの男の顔を見下ろした。——努力して見分けなければ、かつて知っていた顔だと分らなかったろう。
ひどく老け込み、肌はかさかさに乾いて、音をたてて破れてしまいそうだ。
「黒木さん」
と、かがみ込んで、言った。「黒木さん、聞こえますか」
ウイスキーのびんが、畳の上に何本も転っている。——それを眺めて、山上はふと眉《まゆ》を寄せた。
転っているびん、どれも決して安いウイスキーではない。こんなものを買う金があったのだろうか?
「黒木さん」
もう一度呼ぶと、黒木は低く呻《うめ》いて、身動きした。しかし、目は開けない。
息づかいが荒い。——様子がおかしい。
山上は、黒木の手首の脈をみた。かなり弱い。
山上は廊下へ出ると、電話を捜しに駆け出したのだった……。
「——おとり込み?」
倉林美沙が、オフィスの入口に立っていた。
山上は、仕事の手を止めて、
「いや、構わないよ」
と、息をついた。「いつ来たんだ?」
「二、三分前から、こうやって、あなたが仕事してるのを見てたの」
と、美沙は笑って言った。「一人なの?」
「うん。秘書は用事で出てる」
山上は、上着を取って、「お茶でも飲もうじゃないか」
「ええ」
美沙は、いつもの通り、屈託のない表情を見せている。
山上は、美沙と近くのコーヒーハウスへ行った。落ちついて話をするにはいい場所である。
「——ずっと連絡しないで、ごめんなさい」
美沙は熱いおしぼりできれいな手を拭《ふ》く。「子供が熱を出しちゃって、大変だったの」
「そうか。もういいの?」
「ええ。——あんまり私が遊び歩いてたから、その罰かしら」
と、笑って、「でも、治ったらまたこうやって出て来てる」
「それが君らしいところさ」
と、山上は言った。「例の件、気にはしてるんだが」
「何だか——奥さん、入院なさったって?」
「そうなんだ。まあ、少し長くなりそうなんでね」
「大変ね。——ごめんなさい、そんなときに面倒なことを」
「その後、三神君とは?」
美沙がちょっと複雑な表情を見せた。
「それが……。何だかよく分らないの」
「何かあったの?」
「ええ……。付合っていて、どうも私の思っていたような人じゃないのかも、って気がして」
どうやら、美沙も三神に疑いを持ち始めたらしい。
山上としては、少し気が楽になった。
「実はね、三神君のことも、少し人に頼んで調べてもらった」
と、コーヒーを飲みながら言った。「どうやら、永田という重役に横領の罪をかぶせようとしているらしいね」
美沙は、そうびっくりした様子もなかった。
「じゃ、永田さんがやったことじゃないの?」
「少なくとも、永田個人の責任じゃない。どうも内部での権力争いだね、これは」
山上の言葉に、美沙はため息をついた。
「いやね……。男って、どうしてそんなに『力』がほしいの? お金、力、女……。女は力で手に入れるもんだと思ってるのね」
「みんながそうというわけじゃない」
「でも、たいていはそうだわ」
と言って、「——あなたは違うわね」
「そのつもりだがね」
と、山上は微《ほほ》笑《え》んだ。
——どうだろう?
俺《おれ》は秀子が充分に幸せだと思っていた。しかし、あんなに悩んでいることに、全く気付かなかったのだ。
黒木とのことが事実かどうか。
いずれにしても、黒木がああして秀子から金をせびったということが、山上には信じられない。
黒木は、救急車で運ばれ、入院している。アルコール漬の体は、神経までおかされて、とてもまともには話もできない状態である。
奇妙だった。山上はあのアパートの住人とも話してみたのだが、黒木は、少なくともあの一週間ほど前には、外出もし、食事もして、アパートの住人とも話もしていたらしい。
ところが、この何日か全く外へ出て来なくなっていた。そして、あのウイスキーのびん。
もちろん、もともとアル中ではあったのだろうが、金がないから高いウイスキーなど、まずめったに手に入らなかった。それが、あの部屋には、他の場所にあったものも含め、十二、三本ものウイスキーの空きびんが転っていたのだ。
——誰《だれ》かが、ウイスキーを持ち込んで、黒木に与えた、と見るのが正しいだろう。
その「誰か」は、黒木に、あの手紙を書かせたのではないか。もしそうなら、なぜそんなことをしたのか。
「——どうかした?」
美沙に訊かれて、ハッと我に返る。
「すまん。心配ごとでね」
「お互い、大変よね」
と、美沙は言った。「人間、年《と》齢《し》をとると、いやでも迷うのね。黒とか白とか決められないことにぶつかって。——疲れるわ」
「珍しいこと言うじゃないか」
「ひどいこと言って」
と、美沙は笑いながらにらんだ。「——ねえ、私もあなたも大人よね」
「たぶんね」
「大人同士の……。お互いにいたわり合うだけの関係って、どう?」
山上は、ちょっと戸惑って、
「どういう意味?」
と、訊いた。
「時間が少しあるの。——これから二時間くらいだけ、私たち、恋人同士になる。胸のつかえがスーッとしたら、それでおしまい。後をひかない、割り切った遊び。いえ、『慰め』というか、グチの言い合いね。ホテルへ行って。——どうかしら?」
美沙の目は、いたずらっ子のようで、かつての若い日そのままだった。
突然の誘いに、山上は揺れた。
秀子の入院。エリをめぐる問題。——山上は疲れていた。
いいじゃないか、これぐらいの「息抜き」は。向うもそのつもりなのだ。こだわるほどのことでもない。
美沙と寝る。——何度その想像に酔ったことか。
「構わないでしょ?」
美沙の一言が、山上を押し切った。
それでも、
「一度だけだね」
と、念を押している自分に、そっと苦笑していたのである……。