「何を考えてるの?」
暗い部屋の中で、倉林美沙が言った。
「うん……。大したことじゃない」
山上は、じっと天井の暗《くら》闇《やみ》を見上げていた。
「私たち……若い恋人たちみたいね」
ベッドの中で、美沙は山上に肌をすり寄せてくる。その肌はしっとりとして滑らかで、かすかに汗ばんでいた。
「そうかい?」
「こんなに真暗にして。——太った私を見たくないわけ?」
山上はちょっと笑って、
「分るかい。——僕は若いころ、空想の中で何度も君を抱いた。それが現実になったんだ。こんなことも、人生にゃあるんだな」
「嬉《うれ》しいこと、言ってくれるわね」
と、美沙は指で山上の鼻をつついた。
「正直に言ってるのさ」
「がっかりしなかった?」
「いや。——想像していた通りの君だ」
山上は本気でそう言ったのである。
ほんの遊び。——そのつもりでの、このひとときだったが、山上は本気になってしまいそうな自分を感じて、怖かった。
「いけないわ」
と、美沙は言った。「奥さんが具合悪いっていうのに」
「うん……。分ってる」
そう言いながら、山上はもう一度激しく美沙を抱いた。
「時間が……」
と、呟《つぶや》いて、美沙は、しかし逆らおうとはしなかった。
むしろ、自分の方から、山上を強くかき抱きさえしたのである。
時は、止ったように見えた。
時は、流れた。
山上は、寝入っていた。美沙の中に全精力を注ぎ尽くしたかのように、深い眠りに落ちていた。
美沙はゆっくりとベッドに起き上った。山上の方へ目をやったが、全く目覚める気配はない。
美沙は、静かに大きなベッドから滑り出ると、ソファの辺りに投げ散らかしてある下着を身につけ、服を着る。
その間も、時々ベッドの山上へ目をやったが、深い寝息をたてているばかり。これなら大丈夫だろう。
美沙は、バッグを開けた。バッグの底から、布にくるんだ、重い包みを取り出す。
表情は、いつもの美沙とは全く違っている。青ざめ、固く唇を結んで、自分に決意を確かめさせているようでもある。
布をそっと開くと、冷たく光る拳《けん》銃《じゆう》が現われた。美沙は、ありふれた布の手袋をはめると、拳銃を手にした。
ベッドへ近付く。——山上がちょっと身動きしたので、美沙はギクリとして拳銃を背中へ隠した。
しかし、山上は仰向けになっただけで、少しも起きる気配がなかった。
美沙の額に汗が光っている。拳銃を握りしめると、両手でつかみ、銃口を、山上のこめかみに向けた。
手が、銃口が震えた。汗が、背中を流れ落ちて行く。何度か深呼吸して、美沙は固く唇を結ぶと、銃口はそっと山上のこめかみに近付き、ほとんど触れそうになる。
引金に指がかかった。美沙の顔が汗で光っている。息づかいが荒くなり、手も足も震える。
美沙は、大きく息を吸い込むと、息を止め、ギュッと拳銃を握り直した。
「ごめんなさい」
と、美沙は呟く。
そして、美沙の白い指は引金を引いた。
包帯をした右手を見下ろすと、村内は胸にしめつけるような痛みを覚えた。
タクシーの窓から、夕方になりかけた町並を眺める。——胸が痛むのは、むしろ幸いだった。
安西を死なせてしまったこと。その辛《つら》さを、自分自身で確かめることになるからだ。
包帯に包まれた手は、あのとき電柱を殴りつけて、傷を負ったのである。
安西……。すまん。
俺《おれ》は結局、お前を死なせてしまった。
自分が死ねば良かったのだ。安西では、ひどすぎる!
悔んでも、遅い。それは分っているのだが……。
村内の中に、怒りが燃え上っていた。必ず犯人をこの手で捕えてやる。そう決心していた。
上司からは少し休めと言われていたが、そうはいかなかった。安西の死の光景が、決して村内を眠らせないだろう……。
「——そこだ」
と、村内は言った。
タクシーを降りると、村内はその病院へと入って行った。入院患者の病室を訊《き》き出すのは簡単だ。
「山上秀子さんですね」
と、看護婦は、すぐに調べてくれた。
「ありがとう」
と、村内が行こうとすると、
「一応、先生とお話になって下さいね」
「ああ、もちろんですよ」
村内は、平然と嘘《うそ》をつく。これでなきゃ、刑事というやつはつとまらないのだ。
病室のドアを開けると、ベッドのそばで花を花びんにさしていた少女が振り向いた。憶《おぼ》えがある。山上の娘だ。
「何か……」
と、少女はやってくると、「母は眠ってるんです」
「私を憶えてるかね」
と、村内は言った。「エリ君、だったかな」
「刑事さんですね」
と、エリが肯《うなず》く。
「そうだ、ちょっと君のお母さんに訊きたいことがある。——お父さんにも」
「今、母は……」
「聞いてる」
と、村内は言った。「しかし、殺人事件の捜査だ。悪いが、何としても話を聞く必要がある」
村内はこの前と別人のように厳しい口調で言った。——エリはキュッと唇を結ぶと、
「じゃ……少し待って下さい。私じゃいけませんか。母は自殺未遂を起して、不安定な状態なんです」
エリの目は臆《おく》さず、村内を見返した。その強さ——母を守るのだという意志の表われに、村内は打たれた。
「分った。ともかく君の話を」
二人は、病室を出て、休憩のできるスペースのソファに腰をおろした。
「学校の帰りかね」
「そうです」
「お母さんの自殺未遂というのは、どういう事情だったんだね? 詳しいことが知りたい。何でも、どんなことでもだ」
と、たたみかけるように、「相棒だった刑事が殺された。まだ三十四歳で、何もかもこれからだったんだ」
「それが……父と何か関係あるんですか」
「ないと思っていた。それまではね」
と、村内は言った。「しかし、奥さんが自殺未遂となると、事情は変ってくる。そうだろう? これが偶然かどうか」
「父は——」
「オフィスへ連絡したが、いない。秘書も、どこへ出かけたか分らないと言ってる」
村内は、じっとエリを見つめて、「君に友人として訊く。言いにくいこともあるだろうが、何もかも話してくれないか。決して、口外はしない。私はね、年下の同僚を失った。その復讐をしたいだけなんだよ」
エリは、村内の言葉を信じた様子だった。
「分りました」
と、肯くと、母の自殺未遂と、その原因になったと思える、「黒木」という男の手紙のことも話した。
「——すると黒木も入院中?」
「父はそう言っていました。どこの病院かは知りません」
「調べれば分るだろう。救急車で運んだというのならね」
村内はメモを取ってから、「君には、いやなことを訊いてしまったね」
と、言った。
「いいえ。——もし、本当にその黒木って人が父親だとしても、私には関係ありません。私を育ててくれたのは、今の父と母です」
きっぱりとした言い方は、いかにも爽《さわ》やかで、村内はいささかの気負いがむしろ気恥ずかしい気分だった。
「でも、刑事さんは何の事件を調べてらっしゃるんですか」
と、エリは言った。
「うん。——ある女が殺された。水野智江子というんだ。聞いたことは?」
「ありません」
「そうか。たぶんある男に愛人として囲われていたんだ。その男の名前も顔も分らないんだが、連絡先として、その女のマンションを借りてやるとき、君の家の電話番号を教えている」
エリは、じっと村内を見て、
「じゃ……父がその人を愛人にしてたと?」
「分らん。その男がでたらめに書いた番号が、たまたま君の家の番号だったのかもしれないと思っていたんだが、君のお母さんが自殺未遂したというのを聞いてね。これは偶然じゃないのかもしれない、と思ったんだ。そうなると、水野智江子と、君のお父さんの関係も、もう一度洗い直してみる必要がある」
エリは、やや青ざめていたが、
「父は——そんなことしていません」
と、言った。「外に女の人を作るなんてこと……」
「そうだといいんだがね」
と、村内は肯いた。「じゃ、また出直してくるよ。もしお父さんがここへ来たら、私が会いたがっていたと伝えておいてくれないか」
「分りました」
と、エリが立ち上る。「母のそばに戻っていたいんで……」
「ああ、悪かったね」
エリと話している内に、村内の気持も大分和らいでいた。「この番号へかけてくれれば、いなくても、捕まる。頼むよ」
「はい」
「じゃあ……。しっかり看病してくれよ」
村内は、エリの肩を軽く叩《たた》いて、歩いて行った。
「黒木」という男のことはすぐに分った。
村内は、公衆電話からその病院へ電話を入れたが、黒木は意識不明で、危険な状態ということだった。
「分りました。もし容態に変化があったら、ご連絡を」
村内は、そう頼んで電話を切った。——黒木の入院がはたして偶然かどうか。
外へ出て歩き出すと、もう辺りは薄暗い。
村内はやや落ちついて来て、改めて考え直していた。安西を目の前で死なせたショックから、やっと立ち直ろうとしていたのである……。
山上のような「有名人」が愛人を置いているのは、別段珍しいことではない。もし、水野智江子が山上の「愛人」だったとして、何かでもめた挙句に殺したとしたら……。
不動産屋の栗山が殺されたのは、不思議でもない。男の顔をはっきり見ているのだし、口をふさぐしかあるまい。
しかし、あのホステスの君原令子は? どうして命を狙《ねら》われたりしたのだろう?
そして黒木という男の存在。——あのエリの本当の父親だとしても、今になってなぜ、そんなことを言って来たのか。
あれは文字通り脅迫である、山上秀子が自殺を図ったのは分らないでもない。
むしろ奇妙なのは黒木が入院してしまったこと。入れたのはどうやら山上らしいが、黒木の容態は普通ではないらしい。
「何かあるな」
村内の長年の勘はそう告げている。これは何か裏のある話なのだ。
ピーッピーッと村内のポケットベルが鳴り出した。
「おっと」
手近なビルへ入って、一階の公衆電話へ。
「——もしもし、村内だ」
連絡を聞いて、村内は、「何だって?」
と、思わず大きな声で訊き返し、隣で電話していたOLらしい女の子を飛び上らせてしまった。
「どこだ? ——分った。そのホテルの部屋はそのままにしといてくれ」
と言って、急いで切る。
そのホテルまで十五分もあれば……。
村内は駆け出すような勢いで歩き出した。
美沙が拳銃の引金を引いた。
カチッ。
金属の乾いた響きがして、それだけだった。弾丸はでなかった。
美沙はもう一度引金を引いた。——カチッ。
弾丸が出ない。美沙は、呆《ぼう》然《ぜん》として、手にした重い鉄の塊を見下ろしていた。すると、山上がゆっくり顔を向けて、目を開いたのである。
「弾丸は抜いたよ」
と、山上は言った。
「山上さん……」
「自殺に見せかけるつもりだったのか」
美沙は、よろけるように後ずさって、ソファにぐったりと腰を落とした。
コトッと音をたてて、拳銃が床に落ちる。
「偶然だよ」
と、山上は言った。「君がシャワーを浴びているとき、バッグが落ちそうになっていてね。それを直したら、いやに重いじゃないか。普通の重さじゃない。で、中を見たら、それが入ってた」
山上はベッドを出てガウンをはおると、落ちた拳銃を拾った。
「びっくりしたよ。どう見ても本物だ。それで、ともかく弾丸を抜いて、元に戻しておいたんだ」
山上は、ベッドに腰をかけると、「どういうことなのか、話してくれないか。僕が何をした?」
山上の口調は、少しも怒りを感じさせないものだった。
「何も……」
と、美沙は言った。「あなたは何もしてやしないわ」
「じゃ、どうして僕を殺そうとしたんだ?」
「ごめんなさい……」
美沙は泣き出した。——山上は、ため息をついて、
「泣かないで。——さあ」
と、美沙の肩に手をかける。「怒っちゃいないよ。君は僕にとって、いわば永遠の恋人さ。君になら殺されても文句は言いたくない。しかしね、僕は一人じゃない。分るだろ? 妻もいるし、娘もいる。そう簡単に死ぬわけにはいかないんだよ」
倉林美沙は、しばらく声を殺すようにして泣いていたが、やがて顔を上げると、
「——ある人を守りたかったの」
と、言った。
「三神かい?」
「違うわ」
と、美沙は首を振った。「私の愛している人……」
「君の愛してる人、か。——じゃ、もともと君が持ち込んで来た話も、目的は別にあったんだな」
山上は、首を振って、「まあ、時間はある。ゆっくり聞こう」
山上は涙で汚れた美沙の顔を見ると、
「そんな顔は君に似合わない」
と言って、バスルームへ入り、タオルを水で濡《ぬ》らした。
ギュッと絞って、美沙へ持って行ってやる。
「これで顔を拭《ふ》いて」
「ありがとう……」
と、見上げた美沙の目が、山上の背後を見ていた。
振り向く間もない。タオルを濡らすのに水を出していたわずかの間に、誰《だれ》かがこの部屋に入って来たのに違いない。
山上は後頭部をしたたかに殴られ、そのまま気を失って床へ崩れるように倒れたのである。