「気が付きましたか」
と、村内刑事が言った。「どうです、気分は?」
「何とか……。痛い!」
起き上った山上は、顔をしかめた。
「ホテルの従業員がね、たまたまこの中の騒ぎを聞いていて、あんたは命拾いしたんですよ」
と、村内は言った。
「刑事さん……ですね」
と、山上はやっとベッドに起き上り、息をついた。
「何があったんです? 泥棒にしちゃ、どうも妙だ」
「いや……よく分らないんです。突然ガンとやられて」
山上は、部屋の中を見回して、「財布をやられたかな」
「無事なようですよ。女の二人組で、拳《けん》銃《じゆう》を持っていたとか」
山上は、村内を見た。
「女が二人?」
「そうです。ホテルのボーイが見ている」
「そうですか……」
山上は後頭部のこぶに触って、顔をしかめた。
「レントゲンでもとってもらうんですな、山上さん」
「僕のことをご存《ぞん》知《じ》で——」
「ええ。実はあなたにお会いしたいと思っていたんですよ」
「というと?」
「今日、奥さんの入院されている病院へ行って来ました。娘さんとも話しましたよ」
山上は唖《あ》然《ぜん》とした。
「何のことです?」
「水野智江子」
と、村内は言った。「この名前に聞《き》き憶《おぼ》えは?」
「水野? ——さあ、一向に」
「殺された女です。あるマンションに愛人として囲われていた。犯人は相手の男と思われますが、今のところ、見付かっていない」
「その事件と……」
「この部屋に弾丸が一発落ちていました」
と、村内は、ハンカチの上にのせた弾丸を見せた。「凶器と同じ口径の弾丸です。そして捜査に当っていた刑事を射殺したのとも」
山上は、やっと刑事の言わんとすることが分って来た。
「僕が犯人だと?」
「そうは言っていません。あなたはここで殴られてのびていた。銃は女が持って逃げている。もっとも、後ろ姿だけで、人相は分りませんがね」
「それで……」
「水野智江子がマンションを借りるとき、男は不動産屋に会っている。連絡先、といって渡した電話番号はあなたの自宅の電話だった」
「そんな——。もし僕なら、女房もいるのに、自宅の電話など教えませんよ」
「まあ、そうでしょうな。しかし、どうもあなたが何かの形で、係《かかわ》り合っているのは確かなようだ」
山上は、ゆっくりと立ち上った。
「ちょっと——失礼して、顔を洗いたいんですが。服も着がえていいですか」
まだ裸の上にガウンをはおったきりなのである。
「どうぞ」
と、村内は肯《うなず》いた。
山上は、服をかかえて、バスルームへ入ると、ドアを閉め、ロックした。
大きな鏡に向って立つ。いくらか顔色は悪いが、そうひどい様子ではなかった。
顔を洗って、服を身につけ、くしで髪を整えると、何とか普通の状態に戻った。
——美沙。
何があったんだ? 君は何に巻き込まれてるんだ?
美沙が——若いころの山上にとっては、永久に手の届かない存在だったあの美沙が、泣いていた。その姿は、山上の胸を抉《えぐ》った。彼女が哀れというだけではなかった。自分自身の青春が、無残に滅びていくようだった。
女を殺した拳銃。あれがもしその凶器なら、それで山上が自殺したと見せかけようとしたということは……。美沙がその女を殺したか、それとも、「愛している人」が女を殺したか、だろう。
そして、その罪を、山上にかぶせてしまおうというのが、美沙の行動の意味だろう。それ以外には考えられない。
しかし、それにしくじって、拳銃を持って逃げた。女二人で。
してみると、もう一人の女が、美沙と共謀しているということになる。誰《だれ》だろう?
あの刑事は一体どこまで知っているのか。美沙と山上の過去については? いや、美沙の名すら、出てはいないはずである。
美沙。——僕を殺そうとした美沙。
しかし、山上には、美沙を憎むことも、怒ることもできなかった。何もかもが「自分の思い通りに行く」ことに慣れていた美沙にとって、「追いつめられる」ことの恐怖はいかばかりだろう。誰《だれ》も助けてくれない、という事態は、そもそも美沙の人生にはなかったはずなのである……。
今、美沙は逃げている。当然、山上が警察に話し、警官が逮捕に来ると思っているだろう。怯《おび》え、絶望しているだろう。
「美沙……」
と、山上は呟《つぶや》いた。
——バスルームを出ると、
「いや、申しわけありません」
と、山上は言った。「石頭で幸いでした」
「それで——お話をうかがいたいんですがね」
と、村内刑事が言った。
「あなたを殴って逃げた女。誰なんですか?」
山上は、ちょっと息をついて、言った。
「知りません」
村内は、当惑した様子で、
「それはどういう意味ですか」
と言った。
「本当に知らないんです。ホテルのバーで飲んでいて……。昼間からお恥ずかしいんですがね。家内のことはお聞きでしょう? どうにも気が滅入っていまして。そこで声をかけて来たのが、その女なんです」
「偶然に?」
「かどうか——。向うは知っていたのかもしれませんね。その不動産屋に男が渡した電話番号のことからいっても、いや、当然、僕をここへ誘い込んで、殺すつもりだったんでしょう」
「で、その女と寝たわけですね」
「——そうです」
と、目を伏せて、「家内にはすまないと思いましたが」
「で……」
「女は僕のこめかみに銃を当てて、撃とうとしました。僕が眠ってると思ったんでしょうね。僕は争って、銃を取り上げました」
「女は何と言いました?」
「何も」
と、山上は首を振って、「僕が女を問いつめてやろうと、洗面所で顔を洗って戻ってくると、いきなり後ろから、頭をガン、というわけです」
「もう一人の女の方は、全く見なかったんですか?」
「一緒に入ったわけじゃありませんからね。洗面所で顔を洗っている間に、女がドアを開けて、もう一人を中へ入れたんでしょう」
「ふむ」
村内は、じっと山上を見ている。——信じてはいない。当然だろう。
しかし、山上も、その村内の視線を真直ぐに受け止めて動揺しない自信はあった。
「——分りました」
と、村内は長い沈黙の後に言った。「じゃ、その女の顔を、大体憶えてらっしゃいますね」
「何とか……。でも、部屋は暗かったし、バーだって明るくはないですからね。はっきりとは……」
「それはそうでしょう」
と、村内は言った。
少し、口調がよそよそしい。山上は敏感に、村内の気持の変化を感じ取った。村内は、山上をただの「被害者」とは見ていない。
裏に何かあるのだ、と思っている。
山上は、ちょっと息をついて、
「家内を見舞ってやりたいんですが、構いませんか」
と言った。
「もちろん。パトカーで送りましょうか」
「いや、結構です。タクシーで行きますよ」
と、山上は言った。
「山上さん。どうしてこれが落ちていたんですかね」
村内はハンカチの上の弾丸を見せて、言った。
「さあ……。争ってるときにでも、落ちましたかね」
「憶えていますか?」
「いや、夢中でしたから」
「そうでしょうな」
と、村内は肯いた。「いや、ご苦労さん。ちゃんと病院へ行かれた方がいいですよ」
「そうしましょう。何かありましたら、いつでもどうぞ」
「そうしましょう」
山上は部屋を出た。
ホテルを出ると、すっかり夜になっている。
タクシーを拾って、秀子の入院する病院へと向った。エリも心配して待っているだろう。
もちろん、警察の尾行があることは分っていた。
あのホテルで山上が気を失っていたというだけで、あの刑事が飛んで来たということ自体、山上に監視の目が光っていることをうかがわせるに充分である。
——しかし、いくら自分が怪しまれても、美沙を告発することはできなかった。
美沙。君は何をしようとしているのか。あの拳銃を持って、どこへ行ったのか。
あの部屋で、村内という刑事は、実弾を一発見付けたが、山上が拳銃から抜いた弾丸は二発だったのである。
病室のドアを開ける前に、看護婦が、
「あの、山上さん」
と、声をかけて来た。
「はあ」
「ご伝言です」
と、メモを渡してくれる。
「どうも」
夜の病院である。つい、やりとりの声も小さくなる。山上はメモを広げた。
〈黒木は今夕死亡〉
短い一言だった。——山上はポケットにそのメモをたたんで入れ、病室へ入って行った。
「——あなた」
秀子がゆっくりと夫の方へ顔を向ける。
「やあ。——エリは?」
「さっきまで……いてくれたけれど」
と、秀子は言って、「ごめんなさい、あなた」
「早く元気になれよ」
山上は、妻の力のない手を握った。
「でも……私……」
「黒木は死んだ。今、病院から知らせがあったよ」
秀子は目を見開き、じっと山上を見つめている。
「もう何もかもすんだことだ。忘れよう。三人で暮すのが、僕たちには一番向いてるよ」
「私……黒木と、関係が……」
「うん、分ってる。しかし——」
「結婚してから、少しして黒木は私を呼び出したわ。いやだと言えば、昔のことをばらすと言って。——二回。二回だけ、黒木に誘われて強引に……」
「分った。——分った」
と、山上は肯いた。
「そのころ、エリを身ごもったわ。——あなたの子か、黒木の子か、私には分らなかった……」
「どっちでもいい。同じことだ。エリは僕らの子で、それに違いないんだ。そうだろう?」
「あなた……。でも、あの子が——」
「あの子も知ってる。あいつはしっかりしてるさ。大丈夫。こんなことでへこたれる奴《やつ》じゃない」
山上は、妻の方へかがみ込んで、額に唇をつけた。
「あの……」
看護婦がドアを細く開けていて、おずおずと声をかけて来た。「失礼します」
「はい」
山上はあわてて体を起した。
「お電話が。山上忠男さん……でいらっしゃいますね」
「そうです」
山上は立ち上った。
「こちらです」
と、先に立って案内してくれる看護婦は、「TVでよく拝見しますわ」
「それはどうも」
「私、株をやってますの」
と、ニッコリ笑って、「先生に教えていただきたいわ」
山上はちょっと笑った。
「そういう方面にはさっぱりでしてね。——これですか」
「はい。ランプのついてるボタンを押して下さい」
と、言って、看護婦は足早に歩いて行く。
「——もしもし。山上です」
少し間があって、
「山上さん。よく聞いて」
低く、かすれた女の声。
「どなた?」
「娘さんは預かったわ。警察に何もしゃべらないこと。いいわね」
女の声は淡々としている。——山上の顔から血の気がひいた。
「君は——誰だ!」
押し殺した声が震えた。
「誰でもいいわ。ともかく、娘さんは私たちの所にいる。分ったわね」
山上は廊下へ目をやった。——もちろん、エリの姿はない。学校の鞄《かばん》は、秀子のベッドのそばに置いてあった。
「何が望みだ」
と、山上は言った。「金か?」
「いいえ。——これから言う所へ来てちょうだい」
と、女は言った。
「分った」
山上は、必死で自分を落ちつかせる。
エリ! 何てことだ!
向うのはったりとは、思いもしなかった。女の話し方には、疑いを抱かせないものがあったのである。
メモを取ると、
「〈405〉だな」
と、山上は言った。「すぐに行く」
「そこでお会いしましょう」
事務的な声。プツッと電話は切れて、山上は震える手で受話器を戻した。
エリ! ——エリ!
山上は、廊下を歩いて、エリがどこかにいないかと捜した。しかし、そう時間をむだにもできない。
さっきの看護婦が戻ってくる。
「山上さん、何か捜しものですか?」
と、呑《のん》気《き》に訊《き》く。
もちろんそれは当然のことだ。腹を立てても仕方ない。
「ちょっとね」
と、山上は言った。「出て来ます。家内をよろしく」
「はい。お任せ下さい」
と、看護婦は快く肯いて、「戻られるんですか、また?」
山上は行きかけた足を止め、
「ええ。——戻ります」
と言った。「そのつもりです」
そしてエレベーターへと急いで歩いて行った……。