カチャッ、と鍵《かぎ》の回る音がした。
ドアがゆっくり開くと、暗い部屋の中へ、廊下の明りを背にした女の影が伸びた。
「——いる?」
と、呼びかける。
「ええ」
暗がりの奥から、もう一つ、女の声が答えた。
「少し明りを点《つ》けて。——カーテンは閉めてあるでしょ」
「もちろん。でも……外から見えない?」
「小さな明りだけ点ければいいのよ」
「そうね……」
カチッと音がして、居間の様子が、小さな明りの下に浮かび上る。
「これで大丈夫」
と、女が言った。
「——こんなことして、いいのかしら」
と、美沙は言った。
「他に方法がある?」
「ええ……。分ってるけど」
「やるしかないわ。もう後戻りはできないんですもの」
と、女は言って、「そろそろ来るころでしょ」
美沙はふと思い付いたように、
「娘さんは——大丈夫?」
「心配しないで。無事よ。手荒なことはしないわ」
「そう? お願いよ。娘さんに手は出さないでね」
「あなたは自分のことを心配すればいいの。——自分と彼との未来をね」
美沙は、ソファにぐったりと身を沈めると、両手で顔を覆った。
「こんなことになるなんて……」
「しっかりして。ここで水野智江子の死体を見付けたときのあなたは、もっと強かったでしょ?」
「でも……あれは私が殺したわけじゃないもの。それに——必死だったのよ。彼との生活を夢見てて」
「今も同じよ」
「でも——今度は違うわ。自分が殺すのよ」
「仕方ないわよ」
と、女が言った。「いずれ忘れて行くわ。人間はね、忘れっぽい生きものなの」
足音が、表の廊下に響いた。
「——来たわ」
と、美沙が立ち上る。
「銃は持ってる?」
「ええ」
「じゃ、私は奥にいるから。——しっかりするのよ」
女は、奥の部屋へ姿を消した。
美沙は、玄関のドアが静かに開くのを見ていた。
「——誰《だれ》かいる?」
山上の声がした。
「上って」
美沙はそう言って、深呼吸をした。
薄暗い居間に、山上が入ってくる。
「君か」
美沙は黙っていた。山上は真先に、
「エリは、無事か」
と、訊《き》いた。
「ええ。終れば、ちゃんと帰すわ。約束する」
「そうか」
山上は、居間の中を見回した。「ここで女が死んだ。そうだね?」
「ええ。寝室でね」
「そうか。犯人は君の彼氏というわけだ」
「女の方がいけないの。麻薬に手を出して、お金ほしさに、彼の企業の秘密を売ろうとした。それを咎《とが》められると、奥さんへ電話すると言い出したのよ」
「で、射殺した、か」
「そう……。私はここへ駆けつけた。そして指紋を拭《ふ》いて、証拠を消したわ。必死だった。——あの人を守りたかった」
山上は、じっと美沙を見ていたが、
「君は変ったね」
と言った。「非難してるんじゃないよ。以前の君は、そんなことまで、とてもできなかっただろう」
美沙は、目をそらした。
「色々あったのよ。——主人とのひどい暮しもね」
「そうだったのか」
「力になってくれた人がいたの、それで立ち直れたのよ」
「彼のことかい?」
「いいえ、女性よ」
と、美沙は首を振った。「——もう、すんだこと。その後、彼と出会った。妻子はあるけど、やさしい、すてきな人だった」
山上は、ソファに浅く腰をおろした。
「今日、あの後、警察が来た」
と、山上は言った。「聞いたよ、ここでの事件も。僕の家の電話番号が、なぜかこの部屋の借り主の連絡先ということになっていた」
美沙は、じっと山上を見つめて、
「しゃべったの、私のこと」
と、訊く。
「いや」
「本当に?」
「知らない女だ、と言った」
「どうして?」
山上は、小さく肩をすくめて、
「どうしてかな。——君が手錠をかけられたりするのを、見たくなかったのかもしれないね……」
と言ってから、座り直し、「さあ、言ってくれ。僕に何をしろと言うんだ?」
美沙は、バッグを開けると、中から布にくるんだ拳《けん》銃《じゆう》を取り出し、山上の前のテーブルにのせた。ゴトッと音がする。
「弾丸は一発だね、あと」
「ええ」
「これを——」
美沙は、真直ぐに山上を見つめて、
「あなた自身で、あなたの頭に撃ち込んで」
と、言った。
山上は、しばらく拳銃と美沙を交互に見ていたが——。
「ここで自殺すれば、犯人だということになる、か……。遺書もあった方がいいだろう」
山上はポケットから分厚いビジネス手帳を取り出すと、「この白いページがいい。リアルだろ?」
と、ビリッと破り取る。
「何か書くものを持ってるかい?」
美沙は、バッグからボールペンを出して渡した。
「何と書くかな。——殺された女、何ていったっけ? 水野か」
「水野智江子。——〈智江子〉よ」
美沙はテーブルの上に、指で文字を書いて見せた。
「ああ、分った。〈私は水野智江子を殺した。良心の呵《か》責《しやく》に堪えかね、自ら罪を償うことにする。山上忠男〉と……。これでいいだろう。そうくどくど書くのは、良くない」
山上は、拳銃を手に取った。「——重いもんだね」
「山上さん——」
「約束してくれるね。言う通りにしたら、エリには手を出さないと」
言葉は穏やかだが、山上の視線は矢のように美沙の胸を貫いた。
「——約束するわ」
美沙は震える声で言った。
「君を信じよう」
と、山上は言うと、拳銃をゆっくりと持ち上げ、こめかみに銃口を当てた。
引金に指がかかる。
美沙は体を震わせた。そして、
「やめて!」
と、叫ぶように、「——できないわ! 私には……。山上さん……」
泣き出すような声である。
「私……私……」
「倉林君」
と、山上は言った。「僕は自分がどう見えるか分らない。しかし、決して悔しくも、不服でもないよ。本当だ」
美沙の頬《ほお》を、涙が伝い落ちた。
「確かに、ここへ来たのは、エリの身が心配だからだ。しかし、今、自分で引金を引くのは、娘のためじゃない。君のためだ」
と、山上は言った。「君は僕の憧《あこが》れの人だった。君を愛し、君のために死ぬ役を、僕は何度も空想の世界で演じて来た。——僕は今でも、本気で思っているんだ。君のために死ねたら、本望だとね」
山上は微《ほほ》笑《え》んだ。
美沙は、涙に濡《ぬ》れた顔で、じっと山上を見つめた。
沈黙は不思議に穏やかで、平和だった。
「君の幸せを」
と、山上は言って、再び銃口をこめかみに当てる。
——数秒の間。
銃声が薄暗い居間に響き、すぐに消えた。
静寂の後、少しして、奥のドアがゆっくりと開いた。
「すんだのね」
と、草間頼子は言って——立ちすくんだ。
「すんだよ」
山上が、体を起こした。
床には、しっかりと両手で拳銃を握りしめて、美沙が倒れている。その胸もとに、静かに血が広がって行った。
山上は立ち上った。
「僕の手から銃をもぎ取って——心臓を撃ち抜いたんだ」
草間頼子は、青ざめて、呆《ぼう》然《ぜん》と美沙を見下ろしている。
玄関のドアが開いて、
「おい! 何があった!」
と、あの村内刑事の声がした。
山上は、玄関の方へ歩いて行く。
「刑事さん」
「あんたか! 尾行していたんだ。今の銃声は——」
山上は、ちょっと居間を振り返って、言った。
「最後の一発ですよ」
「——やあ」
と、声がして、ソファでウトウトしかけていた山上は目を開けた。
「刑事さん。——どうも」
「疲れてるようだね」
と、村内は言った。「病院ってのは、どうも苦手だ。もっとも、ちゃんと膝《ひざ》を診《み》てもらわんといかんのだがな」
休憩所は、他に居眠りしている老人が一人いるだけだった。
「奥さん、どうだね」
と、病室のドアへ目をやる。
「ええ。大分元気になってます」
「そりゃ良かった」
村内は、コートを脱いで、「——可《か》哀《わい》そうなことをしたな、あの女は」
「彼女らしい、と思います。息子さんが気の毒だ」
「そうだなあ」
と、村内は肯《うなず》いた。「永田公郎が、水野智江子殺しを自白したよ」
「そうですか……」
山上は、もう一人の「愛人」、大友久仁子のことを思い出していた。——彼女はたぶん、永田を見捨てまい。罪を償って出てくるのを、じっと待っているだろう……。
「気の弱い男なんだな、結局。社内の抗争で、ずいぶん色々あったようだ」
「草間頼子はどうです?」
と、山上は訊いた。
「ああ。あれは大した女だ」
と、村内は肯く。「以前、倉林美沙が亭主とうまくいかなくてノイローゼ気味だったとき、草間頼子と知り合ったんだ。二人は一時、同性愛の関係にあった。草間頼子は男に興味がなかったらしいね」
「そういう雰囲気でしたが……。しかし、僕も人を見る目がなかったんだな」
と、山上がため息をつく。
「まあ、人間誰しも、心の中までは覗《のぞ》けんよ」
と、村内は言った。「草間頼子も、初めから何か企《たくら》んでたわけじゃない。しかし、一人で暮し、あれこれ遊びに金をつかう内、君の所の仕事で、色々、企業の知られてまずい所を知ることができる、と気付いたんだ。それを利用して、企業の総務関係者などをゆすり、金を取る。——金額としては大したことがないので、下の方で適当に処理していたから、どこでも発覚しなかったんだな」
「情ない話です。コンサルタントの秘書がね!」
「そう自分を責めるなよ」
と、村内は言った。「ところが、草間頼子の所へ、倉林美沙が泣きついて来て、事情が一変する。頼子は何とかして美沙を救いたい。話をする内、美沙が、あんたのかつての憧れの人だったことを知って、驚いた」
「それで、僕に罪を着せる計画を?」
「頼子一人が計画し、美沙は言われた通りにした、というところだろうな。永田のことが知れないように、不動産屋の栗山を殺す。栗山は麻薬絡みで金に困っていたから、永田に金をたかろうとしていた。そこから足がつくのを恐れたんだな」
「家内と黒木とのことも?」
「そう。——あんたを犯人に仕立てるには、あんたが愛人を作っていて当然、という状況が必要だ。奥さんのことを調べている内、黒木のことが浮んで来て、それを利用したわけだ」
「なるほど」
「一方で、三神という男に美沙は近付いて、永田追い落としの計画を防ごうとする。それも頼子にとっては、金になる話だったしね。どっちにとっても、得だったわけだ」
と、村内は言った。「それに、水野智江子の友人だった、ホステスの君原令子は、誰が智江子の恋人か、聞いていなかったんだが、美沙は心配していた。君原令子の口をふさごうとして、頼子は安西刑事を撃ってしまった……」
村内はため息をついた。
「気の毒なことでしたね」
「ああ。——悔んでも悔み切れんね。草間頼子のことは、許せん」
と、村内は強い口調で言った。
「僕の友人の津田が刺されたのは……。あれも頼子ですか?」
「津田ってのは、頼子がゆすったことのある会社で、正にその係だったんだ。もちろん、津田には分らなかったろうが、頼子はいつか津田が自分のことを思い出すんじゃないかと心配だった」
「そうですか。——でも、大した傷じゃなかったようで、幸いでした」
「娘さんも無事で何よりだったね」
「ええ……」
草間頼子が、どこか、心のずっと奥底で、山上のことを「好きだった」のではないか、と……。甘いかもしれないが、今も山上は思っている。
エリに「自分が母親だ」とほのめかした女も、おそらく草間頼子だろう。黒木のこととは矛盾するが、あれは頼子の屈折した「愛」の表現だったのかもしれない。
「永田が不動産屋に君の電話番号を渡したのは、彼がたまたま車の中で、雑誌にのった君の記事と連絡先を見たせいらしいよ。とっさに記憶に残った番号を書いたんだろうな」
「一刻を争うこともありますのでね。時には自宅の電話を教えることもあるんです」
村内は立ち上った。
「さて、また来てもらうことになると思うよ」
「いつでも伺います」
と、立ち上って、「ありがとうございました」
「いや……」
村内刑事はちょっと首を振って、「これは私自身の戦いだったんだ」
と言った。
「それじゃ」
——山上は、その初老の刑事が見えなくなるまで見送っていた。
美沙……。
あの後で、〈情報屋〉が、永田と美沙との仲を、調べ出して来てくれた。もう少し早く分っていれば、美沙は生きていただろうか?
山上は、ちょっと肩をすくめて、妻の病室へと歩いて行った。