その日は、やたらに風が強かった。
おかげで、私はスカートがまくれ上がりそうになるのを気にしながら歩かなくてはならなかった。セットしたばかりの髪も乱れるし、本当にいやになってしまったけれど、こればかりは誰に文句を言う筋合のものでもない。
それにしても、帰りを急ぐときに限ってこうなのだから……。
予定では、こんなにあわてなくても済むはずだった。夫は夜の九時頃にならないと帰って来ないという話だったので、私もゆっくりと外で過す約束を作っていたのだ。
それが前の晩、出張先から夫が電話をかけて来て、早い列車で戻るから、夕方六時には家に着くという。
帰って来るな、とも言えないので、約束の方をくり上げようと思ったのだが、ついに連絡がつかなかったのだった。
バス停から家まで、十分はかかる。私は腕時計を見た。六時二十分。──あと五分は歩くから、夫が予定通りの列車で帰っていれば、とっくに家に着いているに違いない。
私だって、予定では五時半に家に帰っているはずだったのだ。それが──つい眠ってしまったので、こんな時間になってしまった。
夫は別に私が出かけているからといって、腹を立てたりはしない。
「ごめんね、買物していたら、つい遅くなっちゃって……」
と言えば、それで済む人なのだ。
それでも私がこうして帰りを急ぐのは、やはり多少後ろめたい思いがあるせいだろう。何しろ、つい一時間前には、他の男と、ベッドの中にいたのだから……。
私の名は河谷千《ち》草《ぐさ》。千草なんて、自分でも照れてしまうような名は、祖母がつけたものだ。夫は河谷洋三という。
私はいつも年齢より若く見られている。
本当はもう結婚七年目、三十三歳なのだが私を見て三十過ぎと思う人はいないようだ。二十四、五の頃は二十歳そこそこに見られ、今は、せいぜい二十八、九に見られる。
「子供がいないから若く見えるのよ」
と、やっかみ半分、言う友達もいないではないが、何も必要以上に卑下することもないだろう。
小柄ながら、一種の華やかさがあって、それが私を若く見せている。三十を過ぎてもあまり太って来ないのは、体質なのだろうが、若く見られるのはそのせいもあろう。
たとえ子供がいたとしても、今の私は、ちっとも変ってはいなかったろう、と思う。
夫は──三十六歳になるが、この人のことは、何と言ったらいいのだろうか?
かつては老《ふ》けて見えた。結婚したときは二十九歳だったわけだが、式に出席した大学時代の友達が、
「あちらは再婚なの?」
と真顔で訊《き》いて来たくらいだから、三十代半ばには思われていたはずだ。
でも、実際に三十代後半に入った今、改めて見直してみると、結婚当時とちっとも変っていないのが分る。つまり、今は年齢相応に見える。もう、四、五年たてば、
「年齢の割に若く見えるわね」
と言われるようになるかもしれない。
人柄は……いい人である。
よく古い小説などを読むと、夫のことを、「良人」と書いてあるけれど、正にその言葉のイメージにぴったり来る人である。
けれども、「いい人」は恋する対象にはならない。平和だけれど、退屈で、腹も立たないかわりに、喜びもない。
無口で、もっさりしていて、何を考えているのか、よく分らない人だが、決して偏屈ではない。その点だけは、夫のためにも言っておかなくては不公平というものだろう。
でも、何があっても怒りもせず、といって冗談の一つも口にしないで、新聞を隅から隅まで読むのを趣味にしているような人との暮しがどんなものか、これは経験のない人には分るまい。これは別に自己弁護というわけじゃないのだ。私は──いや、長くなるので、ともかく先を急ごう。ほら、家がもう見えて来た。
持主そのままのような家だ。つまり、どこといって特徴のない、ありふれた建売住宅である。
結婚したときには、もう夫はこの家を買ってしまっていたので、私の口出しする余地はなかった。私が一緒に選んだのなら、もう少し個性のある造りの住宅を選んでいただろう。
もちろん買い直すほどの余裕がないことは私も承知していた。結婚した後、せめて内装だけでも、華やかにしようと、カーテンだのカーペット、壁紙に至るまで、派手な色柄のものに変えたけれど、家の外見までは変えられない。──もっとも、そのときは派手だったカーペットや壁紙も、今はすっかりくすんでしまった。
わずかに、カーテンを毎年取り換えることで、退屈を紛らわしているのだ。
そうだわ、と私は思った。そろそろカーテンを春らしい色のものに変えなくちゃ……。
あれ?──と思ったのは、リビングの窓にカーテンがひいてあったからだった。
「あの人、まだ帰ってないのかしら?」
と呟《つぶや》いた。
それなら都合がいいのだが、と考えて、すぐに思い直した。そんなはずはない。家を出るとき、リビングは薄いレースのカーテンだけにしておいたはずだ。
それなのに今は、厚手のカーテンが引いてある。──やはり帰って来ているのだ。
しかし、明りは点《つ》いていない。帰って来て、カーテンを閉めて、なぜ暗いままにしているのだろう?
あの人らしくないことだった。そしてあの人は、普段と違うことは、滅多にやらない人なのである。
玄関のドアを、ためしに引いてみた。鍵はかかっている。ハンドバッグから、鍵を出して、ドアを開けた。
玄関の明りも点いていなかった。──何だか妙だ。どこか、おかしい。
薄暗い玄関で靴を脱いで上ると、手探りでスイッチを押した。
何だか、いやな気分になったのはこのときだった。──玄関には夫の靴がある。それはいい。
しかし、まるで放り出したように、片方は引っくり返り、もう一方はそっぽを向いていた。考えられないことである。あの、几《き》帳《ちよう》面《めん》な夫が、靴をこんな風に脱いでおくというのは……。
何か、よほどのことが、起こったとしか思えない。
リビングルームへ入って、また当惑させられることが私を待っていた。ドアを開けたとたん、風が吹きつけて来たのだ。カーテンが大きく翻っている。
庭へ出るガラス戸が開けたままになっているのだった。ドアが開いたので、風が抜けて行くのだ。
一体どうしたというんだろう?
ともかく、私は後ろ手にドアを閉めた。風が、行く手を塞がれて、カーテンがゆっくりと元の通りに垂れ下がる。私は明りを点けた。
──夫はそこにいた。
ソファの上に、横たわっている。居眠りでもしているように、静かな表情をしていたが、そうでないことは一目で分った。
ワイシャツの胸元を赤く染めているのは、血に違いなかった。ずっと脇《わき》の方へと広がって、下のソファにも、黒ずんだ色となって、しみ込んでいる。
出張から帰ったばかりだったのだろう。夫は背広姿のままで、ネクタイもちゃんと結んである。持って行ったボストンバッグが、カーペットの上に置かれていた。
「──あなた」
と私は声をかけて近寄って行った。
死んでいることは、もう分っていた。生きている気配が感じられなかったのだ。
それにしても、どうしたというんだろう?
何があったのか?
どうしたらよいものやら分らなくて、私は夫を見下ろしながら、立っていた。──すると、突然、夫が目を開いた。
血に染まった夫を見つけたときより、このときの方が、よほどショックだった。危うく悲鳴を上げそうになった。
が、見開いたものの、夫の目は私を見ていなかった。たぶん、何も見てはいなかったのだ。
私は、夫の手が、微《かす》かに動くのを認めた。指が、細かく震えながら、空を探っていた。私はこわごわ手をのばして、夫の手を握った。
握り返して来る手《て》応《ごた》えは全くなかった。ほとんど、暖かさらしいものが、感じられない。
夫の唇が、動いた。──細い息が洩《も》れて、一つの言葉が、押し出されて来た。思いがけないほどはっきりと。
「ゆきこ……」
という一言が。