ふと、欠伸《あくび》が出た。
かみ殺して、こらえておけば良かったのだろうが、ここ二、三日の疲れもあって、多少気が緩んでいたのだ。一応手で隠しはしたものの、あーあ、と大きく口を開けて欠伸をしてしまった。
それがまさか私の命にかかわる結果になろうとは、誰が考えただろう? 欠伸のせいで命が危うくなる。──まるでクイズみたいだが、本当に、そんなことになってしまったのだ。
確かに、夫の葬儀のとき、妻が欠伸をするというのは、感心したことではないかもしれない。未亡人は悲しみに打ちひしがれて、ただじっとうなだれていなくてはならないのだろう。
しかし、私とて、夫の死を、悲しまなかったわけではない。まあ、世間並よりは下かもしれないが、といって、表面上は悲しげに振舞いながら、頭の中では保険金のソロバンを弾《はじ》いている妻よりはましなつもりだ。
だが、どんなに夫の死を嘆いても、体が疲れれば眠くもなり、欠伸も出ようというものだ。
ただ、それが、焼香客の目の前だったのは確かにまずかった。
「千草!」
と、母が私をつついて、
「何ですか、みっともない」
と低い声で叱《しか》った。
そんなこと言ったって……。私はふくれながら、頭を振った。ほんの一瞬、頭がすっきりしたが、それも一分とは続かず、また眠気がさして来る。
夫の告別式は、間もなく出棺の時間になろうとしていた。
夫の両親は既に亡くなっていて、告別式に出ていたのは、夫の妹ただ一人という寂しさだった。もちろん私は寂しくも何ともない。
夫の方に、気をつかわなくてはならない親族が少ないというのは、私にとっては正直なところ気楽なことであったし、また、夫との結婚を決めるとき、一つの有力な好材料になっていたことも事実である。
どんな二枚目のエリートが相手でも、うるさい親や兄弟がワンサとついていたら、遊びにはともかく結婚はごめんだ。その点、私の判断は誤っていなかった。
夫の妹は、私より二つ下の三十一歳だった。大阪へ嫁《とつ》いでいて、子供が二人ある。一人はまだ一歳になったばかりという、手のかかる時期なので、通夜に出て、その晩の新幹線で大阪へ帰り、今日は朝一番の新幹線で上京して来ていた。
「郁《いく》子《こ》さん、疲れない?」
と私の母が声をかけると、
「いいえ、大丈夫です」
と、しっかりした声で返事をする。
今の姓は木戸といった。私が結婚した翌年に、大阪へ行ってしまったので、私はこの義妹と、親しく話をしたことがない。といっても、よく似たもので、至って無口で、万事に控え目な、地味な人なのである。
小柄で、色は抜けるように白い。──どこか具合でも悪いのかと心配になるような白さだ。しかし、夫も割合に顔は青白い方だったが、めったに風邪《かぜ》もひかなかったから、顔の白さは、体質なのかもしれない。
美人というには派手さがないが、結構整った顔立ちをしている。兄と妹、似ていないこともないが、まあ逆でなくて良かった、とは言えそうだ。
「受付をやってるのは、会社の人?」
と、母が私に訊いた。
「ご近所の人よ。大げさに受付でもないと思ったんだけど」
「ふーん」
母は、ちょっと不満そうだった。
「兄の会社の方《かた》はどうしたんでしょうね」
と、郁子さんが言った。
「本当よ」
と、母がすかさず言った。「普通なら、来て手伝って下さるものなのに……」
「忙しいんでしょ」
と、私は言った。
正直、私とて気にならないではなかった。お通夜の席に、夫の勤め先の人は、ついに一人もやって来なかった。そして、今日も、告別式だというのに、訪れるのは、ご近所ばかり……。
「ちゃんと連絡したの?」
と母がしつこく訊いて来るので、苛々《いらいら》と、
「したわよ!」
と言い返す。
「おかしいじゃないの、だって──」
「あら」
と、郁子さんが声を上げた。
「郁子さん。どうも……」
死んだ夫の友達だろうか。──こっちは、大分若々しく見える。
普通の背広上下に、赤っぽい派手なネクタイをしているのが、ちょっと奇妙だった。
「田《た》代《しろ》さん、お久しぶりです」
と郁子さんが頭を下げる。「あの──兄の学生時代からのお友達の田代さん」
私は、
「妻の千草です」
と頭を下げた。
「どうも……。とんだことになって」
田代という、その男性は、顔を伏せて、「いや、何も存じませんで、実は今日、彼の──ご主人の会社へ何の気なしに寄ってみたんです。そこで初めて聞かされて……。こんな格好で申し訳ありません。そんな事情だったものですから」
本当に、かなりショックを受けている様子だった。
「一体どうしたんですか? あんなに元気だったのに」
「何もご存じないの?」
と郁子さんがびっくりしたように、その田代という男を見た。
「いや、実は昨日までアメリカへ行ってたんです。何か……あったんですか」
「兄は殺されたんです」
と、郁子さんが声を低くして言った。
「まさか……」
と、田代がまた一段とショックを受けた様子で、唇をなめた。「まさか、そんなことまで──」
「本当なんですよ」
と郁子さんは言った。
「犯人は捕まったんですか?」
「いいえ、それがまだ。──今、警察が調べていますけど、誰がやったか分らないようです」
「あんないい人が……」
田代は首を振った。
もっぱら、話は田代と郁子さんの間で進められていたが、私の方は気が楽で良かった。田代は、私の存在をやっと思い出した、という様子で、
「それは大変なことでしたね。僕でお力になれることがあれば、何でもおっしゃって下さい」
と、言った。
私は、ありがとうございます、と礼を言ったが、田代の口調はもうショックから立ち直って、儀礼的なものになっていた。「あんないい人が」と首を振ったあたりから、少しわざとらしさが見えていた。
殺されたと聞かされたときの驚きは、正に本物だったが。──ふと、私は、妙なことに気付いた。
殺されたと聞いて、田代は、
「まさか、そんなことまで──」
と言ったのだ。
これは妙な言葉だ。「まさか」はともかく、「そんなことまで──」というのは、どういう意味なのだろう? 「そんなことまで」と言うからには、殺されないまでも、夫に何かが起こると予期していたのだろうか。
だが、こんな所で、訊くわけにもいかないので、私は黙っていた。
田代という男は、焼香を済ませると、夫の遺影に、割とあっさり手を合わせてから、
「申し訳ありませんが、仕事の途中でして……」
と、言い訳しながら帰って行った。
「あの人と親しかったの?」
と私は郁子さんに訊いた。「私、あの人のこと、聞いたことないけど」
「学校の頃のお友達で、ずっと地方に行ってらしたようですわ。そのせいで疎遠になってたんじゃないかしら」
「そう」
と肯《うなず》いたが、私はあまりすっきりしなかった。
いくら遠くにいる友達だって、年賀状くらいやり取りしているだろう。夫はあまり友人や同僚を家に呼ぶということをしなかったが、決して人嫌いではなかった。
なぜ、あの田代という男のことを、夫は口にしなかったのだろう? それとも私が忘れていただけか。それは大いに考えられる!
「──あの方は?」
母が、不思議そうに言った。
「知らないわ。──郁子さんは?」
「さあ、私も……」
郁子さんも、さすがに戸惑い顔。というのも、入って来たのは、三、四歳の女の子の手を引いた、二十五、六の若くて、いかにも丈夫そうな女性だったからだ。
親子、という風には見えない。女の子は、いかにも利発な感じの、可愛《かわい》い顔立ちをしている。その子を連れて来ている女性は、一応黒いワンピースを着ているが、どうにも体に合っていない。たぶん、借り物なのだろう。
子供の、灰色のセーター姿ともども、上等な服を着ているとは言いかねた。
一体この二人は……。
「さあ、手を合わせるのよ」
と、若い女性が、女の子に言っている。
「おじちゃん、あそこにいるの?」
と、女の子が訊く。
「そうよ。ほら、お写真があるでしょ」
「うん……」
女の子は肯いていたが、焼香しながら、涙ぐんでいる若い女性の方を見て、
「ねえ、もうおじちゃんは来ないの?」
と訊いている。
死んだ、ということの意味が分っていないのだろう。しかし、それにしても、夫のことを「おじちゃん」と呼ぶのは、どういうことなのか?
「そうね、またきっと来て下さるわね」
と、その女性は女の子の頭を軽く撫《な》でながら言った。
目が真赤だ。私たちの方への挨《あい》拶《さつ》もそこそこに、足早に出て行く。白いハンカチが、クシャクシャになって、顔に押し当てられていた。
「──誰なのかしら?」
と、母が呆《あき》れたように言った。 「こちらに挨拶もしないで……」
「親子じゃないみたいですね」
郁子さんも私と同じ感想を持ったようだった。「でも……見当もつかないわ。兄とどういう関係があったのか」
私は、いささか憂《ゆう》鬱《うつ》な気分で、玄関の方へ目をやった。
近所の人たちが来ているのだ。今の二人が、物見高い奥さんたちの目にどう映ったか、考えるまでもない。
「きっとご主人のお妾《めかけ》さんなのよ……」
「隠し子なんて! あんなに真面目《まじめ》そうな人だったのに」
「でも、あの奥さんじゃ、無理もないってところもあるけど……」
といった会話が、表では、交わされているに違いない。
しかし、だからといって、今、ここで追いかけて行って、
「あなたは主人とどういう関係だったんですか?」
などと訊くわけにもいかない。
ここはいとも冷静に振舞っている他はないのだ。
「奥さん」
と、受付をやってくれていた近所のパン屋さんのご主人がやって来た。「会社の方がみえてますが」
「そうですか」
私もだが、母の方が、ホッと息をつくのが分った。
入って来たのは、夫よりも若い様子の男性で、黒ネクタイは締めているが、スーツはありふれた紺だった。何だかずいぶん落ち着かない様子で、せかせかと入って来て、アッという間に焼香を済ませると、私たちの方へちょっと頭を下げただけで、行ってしまおうとする。
「ちょっとお待ちになって」
母が、我慢もここまでと口を開いた。
「はあ?」
「私は洋三さんの義理の母です。洋三さんの会社の方ですね」
「は──あの──河谷さんの下におりました。松山と申します。色々とお世話になりまして──」
と、あわてて頭を下げる。
「あなたが、会社の代表としておいでになったんですか?」
「いえ──あの──そういうわけでは──」
と、口ごもる。
「失礼ですけど、おたくの会社は、社員が亡くなったとき、課長さんも係長さんも、焼香にみえないのが習慣なんでしょうか?」
「お母さん──」
と私は言ったが、そんなことでやめるような母ではない。
「ずいぶん常識のない方が揃《そろ》ってらっしゃるんですね、おたくの会社には」
「はあ……」
松山という、いかにも気の弱そうな、その男は、額の汗を拭《ぬぐ》いながら一言もないようだった。
「あの──課長は出張中でございまして、係長も今日は病気で──」
「言い訳は結構です」
と、母がピシリと言った。「ご苦労様でした、お帰り下さい」
「ど、どうも……」
松山という男は、逃げるようにして出て行ってしまった。
確かに、母の言う方が正しい。私とて、かつてはOL生活をしていたのだ。社員が死ねば、必ず告別式に出たものだし、あれこれと手伝いにも来るのが普通である。
夫の場合、誰かに殺されて、犯人が捕まっていないのが、こうも会社が冷たい原因なのだろうか? だが、それだけではないだろう。
それくらいのことなら、誰しも目をつぶって参列するのが、一般的な日本人の感覚というものだ。
「何だか妙ね」
と、私は呟《つぶや》いた。
「あまり気にしない方が──」
と言いながら、郁子さんの方が、よほど気になっているようだった。
夫は、三十六歳だったが、まだ課長にはもちろん、係長のポストにもついていなかった。本来なら、二年前に係長のはずだったのだが、不景気から会社側が、管理職のポストを減らしたので、先にのびてしまっていた。
夫が優秀なビジネスマンであったとは、私には思えないのだが、万年平《ひら》社員というほどやる気のない「落ちこぼれ」でもなかったのは、一応来年には係長の椅《い》子《す》につけると話していたことでも分る。
しかし、もともと仕事の話、会社の話などを、家へ帰ってからする人ではないのだし、私も敢《あ》えて訊く気にもなれなかったから、夫が社内で、どんな位置にいたものか、知る由もなかったわけだ。
それにしても、確かに会社は冷たすぎるという気がした。
「──あの人は?」
母に言われて気が付いた。夫と同じくらいの年齢だろう。黒の上下で、一応、きちんとした身なりである。
「会社の方なのかしら」
と私が呟くと、
「たぶんそうだわ」
と、郁子さんが言った。「兄と同期だった方じゃないかしら」
その、少しずんぐりした、色の黒い男は、焼香を終ると、私の前に坐《すわ》った。
「同僚の平石です」
と頭を下げる。「ご主人とは同期入社で、長く机を並べていました」
「そうですか」
「お気の毒です。まだこれからだったのに」
「恐れ入ります」
「一緒に組合で活動した仲ですが……」
と、その平石という男は、夫の写真を見て、「──あんなことにはなったが、友人という気持には変りありませんでした」
あんなこと?──どういう意味なのだろう?
「うちの社から、誰か来ましたか」
と、平石は訊いた。
「さっき松山さんという方が──」
「松山が? 松山だけですか? それはひどい!」
平石は腹立たしげに言って、「せめて、社長の、千田が出て来るべきなのに」
「社長さんがですか」
私は面食らって訊き返していた。夫の会社は、一流企業ではないにしても、出張所を含めると千人近い社員をかかえていた。役づきでもない社員の告別式に、社長が出るべきだというのは、また意外な言い方だった。
「当然ですよ」
と、平石は言った。「千田社長は、ご主人のおかげで首がつながったようなもんじゃありませんか。それなのに松山のような下っ端一人か。──会社なんて、勝手なもんだ」
どうやら多血質の人らしく、顔を紅潮させて、怒っている。
しかし、社長の首が、夫のおかげでつながった、というのは、何の事だろうか?
「あの──」
と、言いかけると、平石は、
「では、これで」
と、唐突に頭を下げて、帰って行った。
「千草さん」
と、郁子さんが言った。「今のお話、どういうことなんですか?」
「私にも何だか分らないわ」
郁子さんが、ちょっと不愉快そうな表情を見せた。私が隠していると思ったらしい。
しかし、何とも妙な人ばかりが、やってきたものだ。
田代という、なぜか私の聞いたこともなかった、夫の「親友」。夫のことを「おじちゃん」と呼ぶ女の子と、その手を引いた若い女。会社からは、夫の部下が一人、そして同期の同僚は、妙なことを言って帰って行く。
こんなに、妙な顔ぶれの告別式があるだろうか?
──出棺となって、私は、夫の遺影を手に、表に出た。
集まっていた近所の人たちの間に、言葉にならないどよめきが走った。好奇の目が、私に降り注いでいるのを、感じた。同情を寄せてくれる気配は、まるでなかった。私とて、別に同情などしてほしくもなかったが。
ここから火葬場へ行く。本当なら、残された妻は、目を赤く泣きはらしていなくてはならないのだろうが、私は役者ではないから、上手に泣くような真似《まね》はできない。
夫の死を悲しんでいなかったとは、思ってほしくない。ともかく、七年間、生活を共にし、そうひんぱんに、というわけではないまでも、一つ床の中で抱かれた夫である。寂しさと、虚《むな》しさと、少しばかりの悔いは、心の中で、チリチリと音を立てて燃えた。
しかし、涙は出て来なかったのである。妙な焼香客のことに、気を取られていたせいもあるだろう。
ご近所の男の人たちが、棺を運び出して来る。ずいぶん重そうだ。
少しざわついていた人たちが、静かになった。
「失礼します。ちょっとどいて下さい」
葬儀社の人が、人を分けた。──そのとき、突然、
「何をするんだ!」
という叫び声がした。
みんなが一斉に声の方を振り向く。人をかき分けて、一人の若者が飛び出して来た。
長髪の、二十四、五の青年だ。ジャンパーにジーンズ姿。──とっさのことで、それだけしか分らなかった。
青年は、凄《すご》い勢いで突進して来ると、私を突き飛ばした。私はみごとにひっくり返り、夫の遺影は二、三メートルも投げ出されて、ガラスの割れる音がした。
「待て!」
という声と共に、コートをはおった、二人の男が、青年の後から飛び出して来た。
青年は、棺を運んでいた、先頭の一人にぶつかってよろけながら、そのまま走り続けた。棺の方は、一人が完全に尻《しり》もちをついたおかげで、派手な音をたてて地面に落ちてしまった。
それだけでは済まなかった。青年を追いかけていた二人の内の一人が、足が滑ったのか、落ちた棺をもろに蹴《け》とばして、声を上げて、前のめりに転倒した。もう一人は、青年の後を追って走って行く。
「畜生!──待て!」
転んだ男は、痛そうに顔をしかめながら起き上ると、そう怒鳴って、片足を引きずりながら、もう一人の後を追う。
私はやっとの思いで起き上った。──一体何事だろう?
郁子さんが、急いで、写真を拾い上げた。ガラスの破片がバラバラと落ちる。
「こんな……ひどいわ……」
郁子さんが、泣き出した。
誰もが、しばらくは呆気《あつけ》に取られていた。私は、といえば、もちろん腹も立っていたが、ここまで来たら、もうどうでもいいような気にもなっていた。
これでこの近所の人たちは、三日間は、話の種に事欠かないだろう、と思った……。