「失礼ですが──」
私は、最初、自分が声をかけられたのだと気付かずに、足を早めた。
「ちょっと、失礼します」
くり返し言われて、足を止め、振り返った。
「私ですか?」
「ええ。河谷千草さんですね」
「そうですが……」
私は、ちょっと警戒するように、その男を見た。──四十歳ぐらいの、あまりパッとしない男である。
私が警戒心を抱いたのは、マスコミ関係の人間かと思ったからで、実際、このところ日に三度は、週刊誌や雑誌の類《たぐい》から、電話がかかって来て閉口していた。夫を殺された悲劇の妻というところなのだろうが、取り上げられる方は、たまったものではない。
もう告別式から一週間たっている。──まだ、夫を殺した犯人は分っていなかった。私は、あの家に一人で住んでいる。母が、帰って来いと言ってくれたが、私としても、一応、夫の物を整理しなくては、動くことができないので、ともかくしばらくは一人暮しを続けることにしていた。
多少、世間の目に奇妙に映るにしても、そんなことは気にならなかった。ただ、困るのは買物で、近くのスーパーマーケットや、商店街では、必ず知っている人と会うことを覚悟しておかなくてはならない。
会うこと、それ自体は別に構わないが、あれこれと訊《き》かれたり、話をしたりしなくてはならないのが、たまらないのだ。だから、たまの買物は、こうして駅前までバスで出て来て済ませることにした。
「ちょっとお話が……」
と、その男は言った。
ポケットから、警察手帳が覗《のぞ》いた。
「分りました」
手近な喫茶店に入って、私は、コーヒー代は払ってくれるのかしら、と考えながら、腰をおろした。
「ご主人のことは、本当にお気の毒でした」
「どうも……」
何を今さら、という気持だった。それに、夫の事件については、何人もの刑事と話しているが、この男は初めてだ。
「いや、実は、お詫《わ》びしなくてはならないことがあったので……」
とその刑事は言った。
「どういうことでしょうか?」
「ご主人の告別式のときのことです。私の部下が、とんでもないことをやらかしたそうで──」
「ああ……。じゃ、あのときの……」
「申し訳ありませんでした。昨日になって、やっと私の耳に入ったものですからね」
「済んだことですから」
「そうおっしゃっていただくと、却《かえ》って心苦しいですよ」
これまでに会った刑事たちとは、ちょっと違っている。言葉づかいや口調も、穏やかで、こちらに抵抗を感じさせなかった。
「一体、あれは何の騒ぎだったんですか?」
と私は訊いた。「何だか、若い人を追いかけてらしたようですが……」
「あの若いのは過激派でしてね。手配中なんです」
「まあ」
チラリと見ただけでは、とてもそんな風には見えなかったが……。
「──ご存じありませんか?」
と、刑事は、私から目をそらして、言った。
「え? 何をですか?」
「あの男です。志村一郎というのですが」
「いいえ! どうして私が──」
「ご主人の告別式を、じっと表で見ていたのです」
「そんな……」
私は戸惑った。「たまたまじゃありません? そんな人のこと、聞いたこともありませんわ」
「そうですか」
と、刑事は肯《うなず》いた。
「当人にお訊きになったら?」
「それが、逃げられてしまいましてね」
と刑事は、ちょっときまり悪そうに頭をかいた。「しかし、尾行していた二人の話では、確かに、志村は、お宅へ行ったのだということでした。たまたま立ち止ったとか、そんなことではなかったというのです」
「でも……どうして家に?」
「ご主人は、何か、学生運動とか、革新系のグループに関り合っておられませんでしたか?」
「うちの主人がですか?──まさか!」
私は、反射的に、言葉を返していた。
絶対にそうだと言い切れるかと問われたら、私としても断言はできない。何しろ、夫が外で何をしているか──会社以外の所で、いや、会社の中でさえも──まるで知りはしないのだから。しかし、夫が、そんな人間と接触を持っていたなどとは、とても信じられなかった。
「学生時代のことはご存じですか」
と、刑事は訊いた。
「いいえ……。話したことも、あまりありませんでした」
「思想的には、どういう傾向の方だったんですか?」
「さあ……。無関心だったんじゃないでしょうか。その手の話は全然しませんでしたから」
「誰か、突然夜中に訪ねて来たりとか、電話がかかるということは、ありませんでしたか?」
「いいえ」
「友人関係は?」
「会社の同僚の方とは……時々お付合いがあったようですが、あまり家へ連れては来ませんでしたから」
「なるほど」
刑事は、ちょっと考え込んだ。──その間が、やり切れないような重さだった。
「主人が、そういう組織に関係していたとおっしゃるんですの? そして、殺されたのも、その関係だと──」
「いや、そこまでは言っていません。あくまで仮定の話ですからね。しかし、万一、何らかの形で、関っていたとすれば、動機として充分に考えられるでしょう」
妻としての直感からしか言いようはないが、夫が、そんなことに関り合うとは、私には到底信じられない。理屈でないだけに、それは否定することもできないのだ。
「部下の方の勘違いだと思います」
と私は言った。
「ああ、そりゃもちろん、大いにあり得ますよ」
と、刑事は言った。「今は一人でお住いですか」
突然話が変って、私は面食らった。
「ええ……。まあ、そういうことです」
「お寂しいでしょうね。ご実家の方へは帰らないんですか」
私は腹が立って来た。
「何か関係があるんですか、そんなことが」
「いや、そういうわけじゃありません」
「夫を殺した犯人はまだ見付からないんでしょう? 早く解決していただきたいものですわ」
「一生懸命やってるとは思いますがね。──決して逃がしはしませんよ、大丈夫」
私は、刑事の、人を食ったような、軽く笑みを浮かべた顔を見ていた。一体どういう男なのだろう?
「──どうも、お引止めしました」
と、刑事は立ち上った。
「いいえ……」
刑事は伝票を取って、レジの方へ歩きかけて振り向いた。
「申し遅れました。私は落合といいます。またその内に」
呆気にとられている私を残して、その刑事は、さっさと店を出て行ってしまった。
家に帰り着いても、まだムシャクシャした気分で、夕食の支度など、する気にもなれない。
あの落合という刑事の、少し人を小馬鹿にしたような態度が、カンに触ったのだ。
夫が、過激派と関り合ってたって? 馬鹿らしい! 確かに本好きではあったけど、その本棚には、『資本論』だって見当りはしない。
無性に腹が立って、居間の中をグルグル歩き回っていると、玄関のチャイムが鳴った。
──まさか、雑誌の記者か何かで……。
「はい、どなた?」
とインタホンで声をかけると、
「竹中です」
と、隣の奥さんの声がして、ホッとした。
「あら、どうも」
ドアを開けて、「回覧板?──じゃ、ハンコを押すから。上って行かない?──まだ夕ご飯の仕度には時間あるでしょう?」
「ええ、でも……」
と、竹中さんの奥さんはためらった。
「いいじゃないの。誰かと話したくて仕方ないのよ、頭に来ることがあって。ね? いいでしょ、ちょっとだけ」
「それじゃ……」
いつもなら、自分から上り込んで、一時間でも二時間でも、おしゃべりしていくのに、今日はどうしたことか、渋々という様子で上りかけ、
「──あ、そうだわ」
と言った。「今日は主人、帰りが早いの。また今度、お邪魔するわ」
下手な芝居も、こう見えすいていると怒る気にもなれない。諦《あきら》めて、回覧板にハンコを押し、中も読まずに渡すと、相手は、
「じゃ、これ、持ってっとくわ。失礼しました」
と、逃げるように出て行く。
どうなってるんだろう?──私は、いささかやけになって、居間のソファにひっくり返った。
夫は、この部屋で死んでいたのだ。
「よく一人で居られるわね」
と、母が呆れていたが、私は別に迷信深い人間じゃないから、幽霊が出るとは思わない。
それに、たたられるとすれば、夫を殺した犯人の方で、私じゃないはずだ。まあ、夫を裏切っていたのだから、多少は恨まれているかもしれないが、殺されるほどのことはあるまい。
「──寝てたって、お腹は一杯にならないわね」
一人になると、出前を取るといっても、不便である。二つ以上でないと、出前してくれないところが多いからだ。
仕方なく起き上って、財布を握り、近所の中華料理店へ足を向けた。
少し離れているので、あまり見知った顔もいない。店は、少し夕食時間には早いが、半分くらいは入っている。
奥の二人用のテーブルに、入口に背を向けて坐った。──定食を取って、食べていると、隣のテーブルに、若い夫婦が坐った。
あまり見ない顔だが、奥さんの方は、一、二度スーパーでみかけたようでもある。
TVのニュースに、漫然と目をやりながら、食べていると、
「──犯人が捕まるといいわね」
という声に、ふと耳を取られた。
犯人、殺人、といった言葉に、敏感になっているのである。
「たいてい警察は目星がついてるんだよ」
「そうかしら?──噂じゃ、奥さんだろうって言ってるけどね、みんな」
「男を作ってた、とかいうんだろう?」
「そう。評判だったのよ。それに、今でも一人であの家に住んでるんだもの。普通なら、旦《だん》那《な》さんが殺された家に一人でいようなんて気になれないんじゃない?」
「そりゃ怪しいよな」
「それに、お葬式のときには、大《おお》欠伸《あくび》してたんだって! ひどいじゃない? 旦那さんの棺の前でアーア、なんて、凄い度胸よ」
「まあ、その内逮捕されるんじゃないか」
「ずいぶん刑事がこの辺回って、あの奥さんの評判、聞いてるみたい。愛人が見付かりゃ、有罪と決ったようなもんね」
「殺したのは愛人の方かもしれないぜ。届け出たのは、奥さんだったんだろ?」
「そうなの。大胆よね。でも、大体、殺人なんてやる人って、肝心のところで、抜けてるじゃない」
「そんなもんさ。自分じゃ頭がいいつもりで、安心してるんだ。殺人犯ってのは、うぬぼれが強いんだよ」
「うちにも刑事が来ないかしら。本当の聞き込みなんて、出くわしたことないもの」
「──おい、これお前の方だろ?──はし取ってくれ」
二人は、食べる方に、熱中し始めた。
私は、はしを持つ手が震えて、食べ続けることができなかった。──私が夫を殺したと思われてるなんて!
今の二人の話が、他の事件のことだとは、到底思えない。間違いなく、私の話をしていたのだ。
隣の奥さんが、どうしても上って行こうとしなかったのも、これで納得がいく。それにしても……。
混乱していた。どう考えていいのやら、分らなかった。本当に、警察も私を疑っているのか?──まさか!
これは噂《うわさ》だ。近所の、無責任な噂に過ぎないのだ。警察だって、無実の人間を捕まえるほど、馬鹿じゃないはずだ……。
とても、食欲など出ない。私は、その二人の方へ顔を向けないようにして、席を立った。料金を払っている間も、誰かが、私を見て、気が付くんじゃないか、という気がして、じっと顔を伏せていた。そして、逃げるように店を出た。
何も悪いことはしていないのだ。平然としていればいいのだ、と自分に言い聞かせても足取りは、勝手に早くなった……。
家へ帰り着き、少し息を弾ませながら、ソファで休むと、大分落ち着いて来た。
「こんな話、聞いたことないわ!」
と、吐き出すように呟《つぶや》く。
確かにお葬式で欠伸はしたけれど、だからって人殺しだと言われたんじゃ、たまらない。
私は、浴室へ行って、熱いシャワーを浴びた。もちろん、そんなことで、どうなるものでもないけれど、多少は気を取り直すことができる。
バスローブを着て、濡《ぬ》れた髪を拭《ふ》いていると、電話が鳴った。
「河谷です」
「千草?」
「何だ、お母さんなの。何か用?」
「どうしてるかと思ってさ。もう片付いたの?」
「そう簡単にはいかないわ。色々とやることもあるし……」
「帰っといで。お父さんも気にしてるよ」
「帰れるようになったら帰るわよ」
「うちに来てたって、用はできるだろ? そこは閉めとけばいいんだし」
「そうね……。でも、もう少しだから」
「まあ、お前の好きにすればいいけどさ。──たまには出かけてるの?」
「うん」
「じゃ、こっちにもお寄り。いい?」
「時間があったらね。──今、お風呂出たばかりなの。また電話するわ」
──電話を切って、私は考え込んでしまった。
今日、あの夫婦の話を耳にするまで、考えてもみなかったことだが、実際、冷静に考えて、私が疑われるのには、理由がある、と思った。
あの欠伸のことは別としても、ともかく、私たち、夫婦の間がうまく行っていたとは言えない。「うまく行っている夫婦」が、果してどのくらいあるものやら、訊いてみたい気もするが、それはともかく、私は浮気していた。それは事実である。
今の恋人は、最初の浮気相手というわけでもなくて──三人目である。付き合い始めて一年。これまでの男の中では一番長い。
もちろん、それだけで夫を殺したことにはなるまいが、警察から見て、大きなマイナスイメージであることは確かだ。
それに、夫が刺された時間──私が帰り着く、一、二時間前ということだった──の、アリバイがない。言うまでもなく恋人とホテルにいたのだが、それを立証するのは難しい。
彼が証言してくれるとしても、当然、警察は共犯と思うだろう。第三者の証人は、いないのだ。
そして、私は死体の(厳密に言えば、まだ夫は生きていたわけだが)発見者だ。小説ならともかく、現実には、死体を見付けた、と届け出た人間が犯人という可能性は高いらしい。
しかし、これだけでは、逮捕されることはないだろう。怪しい、と思われたとしても、何一つ証拠はないのだから。
本当に──本当にそうだろうか? 何十年も前の事件が、今でも無実か否かをめぐって争われている。証拠がなくても、自白だけで逮捕されている人たちが、現実にいるのだ。安心はできない。
もし万一、私が逮捕されたりしたら、どうなるだろう?
会社の役員をしている父は、当然辞職して家に引きこもってしまうだろう。母は、付合いが多くて、顔も広い。それだけに、そんなことになれば、一歩も外へ出られなくなるに違いない。
いくら、私はやっていない、と断言したところで、世間の目は、どうすることもできないのだ。
私は頭をかかえた。──いくら考えてみても、私の力で、どうこうできる問題ではない。まさか──まさか、自分で犯人を捕まえるなんて、TVか映画のような真似ができるはずもない。
あの刑事、落合といったっけ。
あの男も、私のことを疑っていたのだろうか? 告別式の出来事の詫《わ》びを言いに、わざわざ会いに来るというのも、考えてみれば妙な話だ……。
そこまで、考えて、ふとあることに思い当った。──落合刑事は、なぜ、あんな場所で、声をかけて来たのか? あそこで偶然会ったはずはない。となると──つまり、私は監視されていたのではないか? 気付かないままに、尾行されているのではないか……。
私は、二階の寝室へ行った。明りを点《つ》けずに、窓辺に寄って、カーテンの端をそっと細く開けて、外を覗《のぞ》いてみる。
街灯に照らされて、コートをはおった男が一人、手もちぶさたに立っている。どことなく、見たことがあるような気がした。
そうだ。──告別式のとき、落ちた棺につまずいて、倒れた刑事だった。
私は、そっとカーテンを戻した。指先が、少し震えていた。