ホテルのロビーへ入って行ったのは、六時に、あと二、三分というところだった。
早目に行くつもりが、つい家で長居してしまった。地下鉄の駅から駆けつけるようにしてロビーへ入る。
都心のホテルのロビーは、泊り客よりも、ただの待ち合せの人がずっと多い。ここも例外ではなく、ソファを占めているのは、ほとんどが、ビジネスマンらしかった。
柏木幸子の姿はなかった。私は足を緩めて、軽く息を弾ませながら、ロビーを横切った。ソファは一つも空いていない。仕方なく、ロビーを見渡せる辺りをふらつくことにした。
──柏木幸子が、夫の死に際の「ゆきこ」であるかどうかは別にしても、こういう事態になってみると、改めて、自分がいかに夫のことを知らずにいたのかを、痛感させられた。
ただ一緒に暮しているだけで、私は一度として夫の心の中を覗いたことはなかったのかもしれない。もちろん、話もしたし、冗談も言ったが、それは夫の演技に過ぎなかったのだろうか?
私は、夫の目を盗んで自分の生活を楽しんでいた。浮気をしても、夫にそれが知れなければ、それは夫を裏切ってはいないのと同じことだと思って来た。
しかし、実際には、何も知らなかったのは私の方だったのかもしれない。──あの告別式に来た人々は、夫が、外で私の知らない世界と関り合っていたことを、はっきりと示している。
そうだ。あの人たちの一人一人に当ってみよう。
夫が殺された。人を殺すというのは、よほどの事情があってのことだろう。その理由を知るには、まず夫を知らねばならない。
妻としては妙な言い方かもしれないが、死んでしまった夫の生活を、これから調べて行くのだ。その中から、きっと夫を殺した人間が浮かび上って来るのではないか。
確率の低い賭《か》けではあるが、そこへ賭けなければ、私の負けなのだ。
「──河谷千草様」
アナウンスが耳に飛び込んで来た。
「フロントまでお越し下さい」
私はフロントへ言って、名前を告げた。
「お連れ様が、八〇三号室でお待ちでございます」
とフロントの男性が言った。
わざわざ部屋を取っていたのか。よほど内密な話なのだろうか。
エレベーターで八階に上った。
廊下を歩いて行くと、どうみても、まともな恋人同士とは見えない、中年の男と、若い女の子が、肩を抱き合って来るのとすれ違った。男の方は課長クラス。女の子は、入社したての二十歳前後だろう。
何だか妙な気分だった。私と久保寺は、ちゃんと(?)その手のホテルを使ったものだが、今はこういう、ごく普通のホテルが、逢《あい》引《びき》に使われているのだ。
八〇三号室の前に立って、チャイムを鳴らした。少し間があって、ロックが外れ、ドアが開いた。
意外な顔があった。
「あなたは──」
「すみません、驚かせて」
その若者は言った。「入って下さい」
私はためらった。──あの、告別式のとき、私を突きとばして逃げた若者だったのである。
「ご心配なく。柏木さんも一緒です」
と、その若者は言った。
「すみません、奥様」
柏木幸子が、顔を出した。「ロビーではお話ができないので」
仕方ない。私は中へ入った。
「僕は志村一郎といいます」
若者は名乗った。「この間は本当に失礼しました」
私は、椅《い》子《す》に腰をかけた。ツインルームだが、割合に手狭で、椅子が二つしかない。志村一郎という、その若者も、柏木幸子も立ったままなので、私一人が坐って話を聞く、という格好になった。
「それで……どういうことなの」
と私は言った。「あなたのことは、警察の人から聞いたわ。過激派で、手配されているとか」
「それは間違いなんです!」
と、柏木幸子が強い調子で言った。「志村君は、他の派のやった事件で、嫌疑をかけられて──」
「僕が説明します」
と、志村一郎が遮った。「僕が手配中で、逃げているのは事実です。でも僕は何もやっていない」
「そんなこと、どうでもいいわ」
と私は言った。「死んだ主人と、あなたとどういう関りがあったのか、聞きたいのよ」
「河谷さんは大学の先輩でした」
と志村一郎は言った。「もちろん、ずっと年齢は離れていますけど、社会研究会の顧問を、ずっとやっていて下さったんです」
「ずっと、って……」
「亡くなるまで、ということです」
私には初耳だった。
「つまり、大学へ行っていた、ということなの?」
「月に一度の定例の会合には、いつも出ていただいていました。というか、河谷さんがみえないと会が始まらないんです。部員はみんな河谷さんを慕っていました」
「それは、何をする会なの?」
「本来は社会問題についての討論とか、研究をする集まりで、河谷さんが在学中に、何人かの友達と作ったんです。──ところが、大学紛争のときに、どうしても実力行動に出る部員もいて、紛争の後、会は解散させられました。一年間、河谷さんが粘り強く大学側と交渉して、やっと再結成できたんだそうです」
「それで、あなたもそこに入っているの?」
「ええ、もちろんです」
「それで……」
「社会研究会は、とても地味な会だし、今の学生はそんな難しいことを考えるのなんて面倒だっていうのが多いんで、部員は多くありません。それでも、大学当局にしてみれば、苦々しい思いだったようです。再結成のとき、条件として、暴力行為などをひき起こした場合はただちに解散する、ということになっていたので、デモとか、そんなことはしませんでしたが、大学側の色々な決定に対して抗議することはよくありました。だから、大学としては、会を潰《つぶ》したくて仕方なかったんです」
「でも、あなたは現に追われてるんじゃないの?」
志村一郎は、ちょっと間を置いて、
「三カ月くらい前、大学構内で、学生の一人が殴られてけがをしました。内ゲバというほどでもない、ただの喧《けん》嘩《か》で、けがも大したことはなかったんですが、大学側は、その学生に、襲ったのが社会研究会のメンバーだと言わせたんです」
「まさか、そんな──」
「本当です。学生はみんな、本当にやったのが誰か知ってますよ。でも、口をつぐんでるんです。警察は大学の言ったことをそのまま信用して、僕を追いかけているんです」
「そんないい加減なことを──」
と言いかけて、私は言葉を切った。
現に、何もしていない私が、監視される身なのだ。この若者の言う通りなのかもしれない。
「分ったわ」
と私は言った。「ともかく、あなたが覚えのないことで逃げているというのが本当だとして、なぜ私にそのことを話すの?」
「一つは先日のお詫びがしたかったんです」
と志村一郎は言った。「あんなことになるとは思わなかったんですけど、どうしても、見送りたくて……」
「他にも何か?」
「ええ」
と、志村一郎は肯《うなず》いた。 「河谷さんを殺した犯人を、僕は知ってるんです」
ロビーに降りて来て、出口の方へ歩きかけた私は、
「河谷さん」
と声をかけられて、振り返った。
「あら、あなたは──」
「落合です」
駅前で声をかけて来た刑事である。「こんな所でお目にかかるとは……」
私はつい笑い出していた。
「見えすいたことをおっしゃらないで下さいな。私を尾行してらしたんでしょう?」
落合刑事は、ちょっと困ったような顔で、顎《あご》を撫でた。
「一応、偶然会ったことにしておいてくれませんかね。色々と規定がやかましくて」
「それでも構いませんけど。何かお話があるんじゃないですか?」
「まあ、そんなところです」
「それじゃ──」
と言いかけて、私はためらった。
この近くで話をしていれば、後から降りて来る志村一郎が、落合刑事の目に止ることも考えられる。
「表に出ましょう。ここは人が多すぎて」
と私は言った。
ホテルを出て、少し裏通りの、小さなスナックへと入った。OL時代、この辺で時々飲んでいたので、店はいくつも知っている。
「──ホテルで何のご用だったんです?」
落合刑事が訊いて来る。
「お友達と会っていました」
「久保寺さんとかいう方ですか」
私は目を見張った。
「いいえ、彼じゃありません。──とっくにご存じだったんですね」
「いや、今日になって、やっと調べがついたんですよ」
落合は至って気楽な調子で言った。「彼とは長く?」
「一年くらいですわ。もう終りました」
「今度の事件のせいで?」
「ええ」
私は少し間を置いて、
「久保寺さんにお会いになったんですか?」
と訊いた。
「私の仕事じゃありませんからね。しかし、まだ会うところまでは行っていないようですよ」
「そっとしておいてあげて下さい。浮気がばれるんじゃないかって、びくびくしていますわ」
「都合の悪いことを、不必要に暴《あば》き立てはしませんよ」
どうして、あんな人のことを気にかけるのかしら、と思った。どうなろうと、もう私の知ったことじゃないのに。
「私が主人を殺したと思ってらっしゃるんでしょう」
落合刑事は、ニヤリとしただけで、返事をしなかった。私は肩をすくめて、
「でも、私じゃありません」
「では誰です?」
「分りませんわ。それはあなた方が調べることじゃないんですか?」
「そのためには、まず動機を探り出さなくてはね」
動機。──あの志村一郎が言ったことは、どの程度、信頼していいのだろう?
志村は、社会研究会を潰そうとする大学の学長の息のかかった事務局の男を、犯人だと信じているようだった。
私は、そんなことで人殺しまでするものかどうか、と思ったが、全くあり得ないとも言えないので、話だけは聞いておくことにした。──志村の話では、あの当日、夫はその事務局の男と会うことになっていたらしい。そのために、無理に出張の予定を早めて帰ったのだという。
「僕が容疑をかけられているのは、その事務局の男がでっち上げた証言のせいなんです。河谷さんはそれをご存じで、暴いてやろうとしていました。──あいつにとっては、そんなことをされれば身の破滅で、大学にはいられなくなります。公になれば、学長は当然、何も知らなかったと言うに決まってますからね」
だから殺した。──筋の通らない話ではない。
柏木幸子は、志村のことを、夫から頼まれていたらしかった。といって、夫とも志村とも、特別の関係にあったわけではないと言っていたが……。
ともかく、柏木幸子から詳しい話を聞く時間はなかった。改めて会うことだけを約束して、私は部屋を出て来た。
それにしても、夫が、大学の社会研究会というグループと、ずっと関り合っていたことは事実だったのだろう。それを初めて聞かされたのは、ショックだった。
夫は日曜日、時々出かけることがあった。しかし、どこへ行くのか、訊いたこともない。むしろ留守にしてくれて清々する、という気持で、のんびりと羽をのばしたものである。
初めて見る、夫の、もう一つの顔だった。
「──犯人に心あたりはありますか」
と、落合刑事が言った。
「さあ」
私は首を振った。「分りませんわ」
「どこから私のことをお聞きになったんです?」
その男は、神経質そうに、タバコをやたらふかしながら言った。
大学の、古びた応接室は、埃《ほこり》っぽい匂いがした。ソファの色は、すっかり変ってしまって、もとがどんな色だったのか、見当もつかない。
汚れたガラス窓から、暖かい陽《ひ》が射《さ》し込んでいた。
「主人とはお知り合いでいらしたんでしょう」
と私は言った。
「いや──」
否定しかけて、思い直したように、
「そりゃまあ、顔見知りではありましたがね」
と、目をそらした。
杉崎という男──志村の言っていた「犯人」である。もう五十歳を越えているように見えたが、実際はもっと若いのかもしれない。
「主人が殺された事件はご存じですね」
「ええ。お気の毒でしたな」
杉崎は早口に言って、「申し訳ありませんが、重要な会議がありましてね」
「事件のあった当日、主人とお会いになりました?」
杉崎は目を見張って、
「とんでもない! どうしてそんなことを──」
「主人の手帳にメモがありましたの」
これはでたらめだった。私も、いざとなれば(いや、普通でも、かしら)図々しくはったりをかますことぐらいは平気なのだ。
「そんな……そんなはずはない!」
「どうしてです?」
「いや──つまり──」
杉崎はしどろもどろになっていた。気の弱い男らしい。
会ってみて、本当にこの男がやったのかもしれない、と思えて来た。追いつめられると、何をするか分らないタイプである。
「主人とお会いになったんですね。どんなご用だったんですか?」
こういうタイプには、決めつけて行くに限るのだ。
「それは、その……」
確かに会っているのだ。会っていなければそう答えるはずである。
が、私の訊《じん》問《もん》も、そこで邪魔が入った。事務の女の子が、杉崎に電話が入っていると呼びに来たのだ。
「ああ、それじゃ──。奥さん、すみませんが、私は忙しいので──」
今はこれ以上無理だ、と思った。
「分りました。またおうかがいしますわ」
杉崎はホッとしたようで、そのせいか、急に愛想が良くなって、電話を放ったらかしにして、出口まで送ってくれた。
今度は自宅へ直接会いに行こう、と思った。ああいう気の弱い男は、不意をつくに限る。
大学の構内を、のんびりと歩いた。
都心から少し外れているとはいえ、周囲は住宅地なのに、ここは別世界のようだ。
午前中で、講義の最中なのか、学生の歩く姿もまばらだった。
古い、レンガ色の建物のわきを抜けて、芝生を歩いて行く。──こんな広々とした場所へ来たのは、久しぶりだ、と思った。
足を止め、ちょっとためらったが、周囲に人の姿もないので、ハンカチを広げて、腰をおろした。
風が春にしてはゆるやかで、快い。草の匂いがした。
女子学生が三人で、にぎやかに笑い声を立てながら歩いて行く。──私にもあんな頃があった、と思った。
もちろん、十何年か後に、夫を殺した容疑をかけられようとは、考えてもいなかったが……。
すばらしく、いい天気だった。しばらく、こうしていたい、という誘惑に駆られる。
どこかで、ギターの音がした。
不意に、何かが私の近くで砕けた。左手に焼けつくような痛みが走って、アッと声を上げ、手を引っ込めた。
ガラスのびんが、ほんの二メートルほどの所で砕けていた。草が黒く煙を出して、こげている。
立ち上って、ハンカチで左手を押えた。
塩酸か、硫酸か。そのどちらかだろう。
背後の建物を振り返った。──人の姿の見えない窓が、並んでいるだけだ。
やっと、恐怖が実感されて、足が震えた。誰かが、窓から私をめがけて、このびんを投げつけたのだ。
誤って落ちれば、こんな所まで届くはずがない。ハンカチを取ると、左手の甲から血が出ていた。破片で切っただけらしい。
もし、まともに当っていたら……。
私は、急に陽がかげったような気がした。実際は、太陽が明るく輝いていたのだが。
玄関の前に、女の子が坐《すわ》っていた。
手近な薬局で、包帯と消毒薬を買って、手当してもらい、帰って来たところだった。
女の子は、待ちくたびれた、といった様子で、玄関のわきの柱にもたれて、眠っている。
──当惑して、周囲を見回した。
殺人犯の上に、誘拐犯にされちゃかなわない。だが、親がどこかにいる様子でもなかった。
近くでは、あまり見かけない子だ。──そう思って見直すと、
「あら」
と、思わず言った。
夫の告別式に、やって来た子である。夫のことを、「おじちゃん」と呼んでいた……。
どうしたものだろう、と迷ったが、ともかく玄関の鍵《かぎ》を開け、それから、けがをした左手をかばいながら、女の子を抱え上げた。
かなり重いが、何とかかかえて入ることができた。女の子は、頭を動かして、目を覚ましそうにしたが、また寝入ってしまったようだ。
ソファへ運んで横にすると、また深い寝息をたてている。──全く、羨《うらや》ましくなるほど平和な眠りに見えた。
私は、ともかく着替えをして、もう一度傷の手当をした。
誰かが私を狙《ねら》った。それは確かである。ただの気まぐれで、あんなことをする者はあるまい。杉崎だろうか? そうでないとは言えない。
用心しなくては……。私は、鏡台の前に坐った。
鏡の中に、ヒョイと女の子の顔が覗《のぞ》いた。
「あら、びっくりした」
と振り向いて、
「目が覚めたの?」
と訊《き》いた。
女の子は、コックリと肯《うなず》いて、じっとこっちを見ている。
「お名前は?」
女の子は黙っていた。
「──どうしてここに来たの?──一人?」
女の子が、やっと肯いた。
「そう。この間一緒だったおねえさんは……ママじゃないんでしょ?」
「せんせい」
と女の子が言った。
「そう。──先生なの」
私は、どことなく寂しそうな目の、その女の子に、何だか奇妙な親しみを感じた。まさか夫の隠し子というわけでもあるまい。
「ジュース飲む?──じゃ、待っててね」
冷蔵庫からオレンジジュースを出して来て、コップに注いで渡すと、アッという間に飲み干してしまった。喉《のど》が乾いていたらしい。
「もっと飲む?」
と訊くと、首を振って、コップを返してよこした。
「ごちそうさま」
「あら、お利口さんね」
と私は笑った。
一人っ子の私は、割に子供好きだった。沢山兄弟のいる友達を羨ましがって、小さな子をわざわざ預かったりしたものだ。
子供が生れていれば、私と夫の間も、もう少し違っていたのかもしれない。
玄関のチャイムが鳴った。出てみると、あの若い女性が立っている。
「突然申し訳ありません、実は──」
と言いかけて、玄関の、小さな靴に目を止めた。
「せんせい!」
と、女の子が出て来た。
「良かった! どこに行っちゃったのかと思って心配したのよ」
私は、
「どうぞお上りになって」
と言った。「一度お会いしたいと思っていましたの」
「はあ……」
少しためらってから、その女性は上り込んで来た。
「けがしたの?」
と、女の子が私の手の包帯に気付いて言った。
「ええ、そうなの。可哀《かわい》そうでしょ」
「泣いちゃいけないんだよ」
と、女の子が真面目な顔で言ったので、私は笑い出してしまった。