足音が、小走りに私の後をついて来た。
気付いたのは、家を出て、五、六分歩いてからだった。──田代が帰ってから、あれやこれやと考えていたので、九時過ぎになってしまい、やっとお腹が猛烈に空《す》いていることを思い出したのである。
財布を手に外へ出たものの、どこへ行くというあてもない。どうせなら、バスで駅まで出ようか、と決めて歩き出し、少しして、誰かが尾《つ》けて来るのに気付いた。
ただ、尾行といっても、これが刑事とか、そういう、慣れた手合の尾行ならともかく、気付かれないようにしているのでもないらしく、コトコトと足音をたてて、追って来るのだ。却《かえ》って、何だか気味が悪い。
夜はひっそりと人通りもまばらになる住宅街である。危ないこと、この上もない。
大学で狙《ねら》われたことを考えると、この暗い路上で襲われないとも限らない。そう思うと、つい足も早くなる。
追って来る方の足音も早くなる。──私は、一瞬迷った。走って逃げるか、敢然と正面切って対決するか。
もちろん──逃げることにした。
バス停のあたりまで行けば、多少、店もあって、人も通る。そこまで、二百メートルくらいのものだろうか。私は、駆け出した。
追って来る方も走り出したのが分る。
しかし……何しろ運動不足は、如何《いかん》ともしがたい。二百メートルどころか、五十メートルも走ったら、すっかり息が切れてしまった。百メートルなんて、とてもじゃないが、もたない!
そうなったら、まだ余力のある内に対決した方がいいかもしれない。私は足取りを緩めると、明るい街灯の下で立ち止り、クルリと振り向いた。
「ああ、疲れた!」
「まあ、あなた──」
私は目を丸くした。山田知子ではないか。
「びっくりした! 誰がつけて来たのかと思ったじゃない!」
「すみません、だって──声をかけようと思ったら、急に駆け出すから──」
と、息を弾ませている。「今日は──子供たちに──いろいろ──ありがとうございました!」
「それを言いに?」
私は笑い出していた。
「そうじゃ──ないんです。それもありましたけど──」
「じゃ、何?」
山田知子は、顔を伏せ、肩で息をしていたが、いきなり、道路に坐《すわ》り込むと、
「申し訳ありません!」
と、両手をついて、頭を下げた。
私の方はわけが分らず、目を白黒させているばかり。
「私──ご主人のことが好きでした」
と、山田知子は言った。
「あなたが?」
「はい。そして──一度だけ──一度だけなんです、ご主人と──」
私はしゃがみ込んだ。
「主人と寝たの?」
「すみません」
と、山田知子はうなだれた。「奥様が、こんなにいい方だと知っていたら、決してあんなことは──」
「いいのよ、そんなこと」
と私は遮って、「あなたの方こそ……初めてじゃなかったの?」
「初めてでした」
「じゃ、私の方こそ謝らなきゃ。主人ってそんなことする人じゃないんだけどね」
「ご主人が悪いんじゃありません。私の方に隙《すき》があって──」
「いいから、立ってよ」
私は、山田知子の腕を取って立たせた。「──天然記念物みたいな人ね、あなたは。私と主人の間はうまく行ってなかったし、私は外に恋人もいたし、あなたと主人のことに腹を立てる権利なんかないのよ」
「でも……」
「打ち明けてくれて嬉《うれ》しいわ」
私は、山田知子の肩を抱いた。「これから、夕ご飯なの。付き合ってくれない?」
「でも、私は──」
「一人の男を共有した、いわば義きょうだいじゃない。そう考えればいいのよ」
山田知子は、面食らった顔で私を見て、それから、笑い出した。
「──面白い方ですね、奥さんって」
「そう。でも、主人の方がよっぽど面白い人だったらしいのよ」
「え?」
「ゆっくり話してあげる。私も、聞いてくれる人が欲しかったのよ」
「知子さんって呼んでいい?」
「ええ」
山田知子は、夕食を学校で取っているというのに、ペロリとカツ丼《どん》を一つ平らげていた。若さ、というものであろう。
「──奥さんに殺されるかと思ってました」
「まさか! 本当の人殺しになる気はないわ」
と私はお茶を一口飲んで、「このおソバ屋さん、お茶がおいしいでしょ? だから気に入ってるの。主人とも時々来たのよ」
「そうですか……」
知子は、ソバ屋の中をグルリと眺め回した。
「主人があなたと寝たときのこと、聞かせてくれる? いつだったの?」
「あの……一月の二十日でした。忘れませんわ」
「どこで?」
「私のアパートです」
「どこかで会って、それからあなたの所へ行ったの?」
「いいえ。──ご主人が急にアパートへみえたんです」
「電話もせずに?」
「はい。いつもは最後の日曜日だけ、学校へみえていて、それ以外は、お目にかかることはなかったんです。私も、子供たちと同様にお会いするのを楽しみにしていましたけど、外でお付合いしようと誘われたこともなかったんです」
「じゃ、個人としての付合いは、そのときまで全然?」
「ええ」
「それでいて、突然あなたのアパートへ押しかけて行ったわけ?──主人らしくもないことね」
「アパートの住所や電話は、いつもの日曜日に仕事ができて、来られなくなったとか、そんなときに連絡していただくように、お教えしてありましたけど、一度も電話がかかったことはありません」
「一月二十日ね……」
その日、何か特別なことでもあったろうか? 私は考えてみたが、思い出すことができない。手帳に、予定をメモする習慣もないので、何月何日に何をしていたか、どこへ行ったかと訊《き》かれても、返事のしようがない。
「主人は、どんな様子だった?」
と私は訊いた。
「そうですね……」
と、知子は考えていたが、「ともかく、夜遅かったんです。十一時を過ぎていたと思いますわ」
「そんな時間に?」
「私は朝が早いので、十時には床につきます。うとうとしているとドアを叩く音がして……。『河谷です。頼むから開けて下さい』と声がしました。私、びっくりして急いでドアを開けました……」
知子の言葉を、私は疑わなかった。嘘《うそ》をついてはいない。しかし、そうなると、夫が、いかにも、いつもの夫からは考えられないような、無茶をしたことになる。
若い女性が一人で住んでいるアパートへ夜遅く、突然押しかけるということだけでも、およそ夫らしくない。
「主人は、酔ってたのかしら?」
「いいえ、お酒の匂いはしませんでした。ただ……ひどく疲れていらしたようで……」
「疲れて?」
「それも、体の疲れというより、精神的なショックで参っているというように見えました」
「じゃ、グッタリして?」
「はい。びっくりして、お医者を呼ぼうかと思ったぐらいですもの」
「主人は何か言って?」
「いいえ」
と、知子は首を振った。「ただ──何か会社で、いやなことがあったんじゃないかと思いました」
「そんなようなことを言ったの?」
「そうじゃありませんけど──何となく、そんな風に思えたんです」
知子はそう言って、ふっと、目を窓の外へとそらした。その夜へと、思いをはせているかのようだった……。
「詳しく話してちょうだい」
と私は言った。
お茶を淹《い》れようとして、知子の手は震えた。
こんな夜中に、女一人のアパートの部屋にやって来て、河谷はどんな気持でいるのかしら、と知子は思った。
知子は、パジャマの上にカーデガンをはおっただけ、という格好だった。着替えたかったが、一部屋のアパートでは、そんな場所もない。
「あの……どうぞ」
知子は、何とか、こぼさずにお茶を河谷の前に置くことができた。
「ありがとう……」
河谷は、部屋へ入って来たときに比べると、大分落ち着いていた。いや、いつも落ち着いているのだが、さっきは、別人のように、何かを激しく思い詰めた様子に見えた。
「すみませんね、こんな時間に」
と、河谷は、静かに言った。
「いいえ」
知子は呟《つぶや》くように言った。いや、実際には声となって出ていなかったかもしれない。
「もう、ご気分は──」
「ああ、大丈夫です。びっくりしたでしょう」
「ええ、少し」
知子は、やっと、笑顔を作った。「ここがよくお分りになりましたね」
「住所だけで家を探し当てる名人なんですよ、僕は」
と、河谷は、少し気軽な口調になって、言った。
「まあ、羨《うらや》ましいわ。私なんか凄《すご》い方向音痴で、昨日行った所へも行けないくらいですもの」
「僕の唯一の取《と》り柄《え》ですよ。土地鑑が働くのはね」
「まあ、唯一だなんて……」
「もっとも、僕の女房は、何の取り柄もない亭主だと思ってるでしょうが」
と、河谷は笑った。
知子はホッとした。──同時に、少しがっかりもした。
河谷が、急に具合悪くなって、必死になって看病するところを、一瞬、夢に描いたのである。
「本当にすみません」
と河谷はくり返した。「ちょっとわけがあって、ともかく、誰か心の安まる人の所に行きたかったんです」
「どうして私の所に?」
河谷はちょっと考えて、
「たまたま近かったせいかな」
と言った。
「まあ、ひどい」
知子は河谷をにらんだ。「そんなことじゃ女の子にもてませんよ」
「僕は正直にしか物の言えない男でね」
河谷は、真顔になった。「──僕の同僚にも大勢いますよ。そのとき、そのときに社内で実権を握ってる重役に上手に取り入って、それが失脚すれば、新しい実力者に乗りかえる……。それをやって、さっさと出世して行くのがね」
「河谷さんは、そんなタイプじゃありませんわ」
「そう……。そうなんですよ。しかし、自分はいい。妻はどうでしょう? 夫の自尊心のために、いつまでも貧乏暮しだ」
「でもそれは──仕方のないことじゃありません?」
「当の妻にとっては、そうも言っていられないでしょう」
知子は、河谷が、妻と喧《けん》嘩《か》でもして来たのかと思った。しかし、それにしては、背広姿で、鞄《かばん》まで持っている。
「お家へお帰りになっていないんですの?」
と知子は訊いた。
「仕事で遅くなりましてね。──なに、女房は心配したりしませんよ」
「そんなことありませんわ。お電話でもなさったら……」
「大丈夫。あれはしっかりしていますからね。僕は近々出世できそうなんですよ」
続けてそう言ったので、一瞬知子は戸惑った。言葉の内容とは裏腹に、その口調は、まるで、
「出世できそうもないんですよ」
と言っているかのようだったからだ。
「あの──おめでとうございます」
知子がそう言うと、急に河谷はキッとなって、声も鋭く、
「出世できればそれでいいと思ってるんですか! あなたまで、そんな風に考えているとは思わなかった!」
知子はどぎまぎして、
「すみません……あの、つい……」
と顔を伏せた。
「いや──許して下さい。僕はどうかしている」
河谷は、ため息をついた。「──もう帰った方が良さそうだ。あなたのことを怒鳴りつけたりして……」
「いいんです」
と、知子は言った。「少しお気持が晴れまして?」
河谷は、微笑《ほほえ》んだ。その笑みの中に、知子は、初めて、女を見る男の目を、感じた。
「優しい人ですね、山田さんは」
「とんでもない……」
河谷は、ふと畳に目を落とすと、
「亜里ちゃんはいい子だ」
と言った。「できることなら、うちに引き取って、育てたいくらいですよ」
知子は何とも言いようがなくて、黙っていた。河谷にそう言わせたのは、何だったのか?──寂しさか。知子にはそう思えた。
「あの……」
と、知子はおずおずと言った。「奥様がご心配になりませんか?」
「そうですね」
河谷は肯《うなず》いたが、動く気配はなかった。
何となく、空気が重苦しくなって来ているのを、知子は感じていた。別に、河谷が何かしたわけでも、言ったわけでもない。
それでも、雰囲気というものは伝わって来る。
河谷は、いきなり立ち上った。知子は、ちょっとびっくりした。それほど河谷の動作は唐突であった。
「お邪魔しました」
河谷は狭い玄関先に坐り込んで、靴をはこうとした。が、靴べらというものがないので、なかなか入らないのだ。
「すみません、靴べらを買うの、いつも忘れてしまって──」
知子は立ち上って、送り出そうと河谷の方へ歩み寄った。「入りません?」
「何とかなるでしょう。少しきつめでね、この靴は」
知子がかがみ込み、河谷がヒョイと顔を振り向けた。二人の顔が、お互いに、ちょっと驚くほど、間近にあった。
知子は、頬《ほお》を赤らめて体を起こした。河谷は靴を投げ出して、立ち上った。
「河谷さん……」
「もう少し、ここにいたい」
と河谷が低く、押し殺したような声で言った。
河谷のそんな声を──熱いものを押し殺そうとして、余計に熱く赤く、燃えている声を、知子は初めて聞いた。知子は、急に自分がパジャマ姿なのを意識した。
「いて構わない?」
と河谷が訊く。
「どうぞ……」
知子はそう答えるしかなかった。──一組の布団が、敷いたままになっている。
河谷はコートを脱いだ。知子は、部屋の真中まで戻って、どうしていいものか分らず、立ちすくんだ。
知子の肩を、そっと河谷がつかんだ。──二人はそのまま抱き合って、布団の上に倒れ込んだ。知子は、自分が初めてであることも忘れていた。明りが点いたままになっていることも、恥ずかしいという思いも、忘れていた。
河谷は、少しも荒々しくない手つきで、知子のパジャマを脱がせて行った。知子は、何だかごく当り前のことのような気がしていた。もう何度もやって来たことのような、そしてただ何気なくこうなっただけなのだ、というような、気がしていた。
肌に感じる空気は冷たくなかった。血が全身を駆けめぐるのが感じられた。河谷の唇が近づいて来て、知子は目を閉じた。
「──それで?」
と私は訊いた。
「それで……。それだけです」
と知子は顔を赤らめて言った。
「映画じゃあるまいし、暗くなっちゃうわけ?──つまらない」
と、いささか不謹慎なことを言った。
「だって……何だかもう、よく憶えていないんですもの」
「そうね。あの人も、そううまい方じゃなかったし……」
私は肩をすくめて、「で、終ってから、帰ったの?」
「ええ。もう一時頃になってたかもしれませんわ」
「あなたに謝ってたでしょ?」
「ええ……。別に、無理に、ってわけじゃないんですもの。私にだって責任の半分はあるわけですよね」
「主人ならそうは考えないわよ。その後で何か言わなかった? どうして突然あなたのアパートへ行ったのか、とか……」
「いいえ。でも、おいでになったときには、何かこう──苛《いら》々《いら》してらっしゃるようでしたけど、お帰りのときは、ずいぶん気が楽になったご様子でした」
私は、幸せそうな知子を見て、ホッとした。夫が死んで、それが知子に傷を負わせたのではないかと思ったのだが、夫との一夜は、知子にとって、もう過去の美しい想い出になっているようだった。
「──何かあったのね、その日に」
と私は言った。「よほど、夫が打ちのめされるようなことが……。でなきゃ、あなたの所なんかに押しかけたりしないわ」
「『あなたの所なんか』って、どういう意味ですか?」
知子が、ちょっと不満げに言った。女心は難しいのである。
「──でもねえ」
と、お茶をおかわりしてもらって、私は言った。「一応、七年間一緒に暮して来た夫でしょ。まあ、多少疎遠になっていたとはいえ、たいていのことは分ってるつもりだったわ。ところが……」
私は、これまでのことを、知子に話して聞かせた。──知子の方も、私に劣らずびっくりしている。
「過激派の闘士、子供たちのサンタクロース、女遊びで借金をこしらえ、あなたと一度だけとはいえ浮気をした……。夫に比べりゃ、私なんか浮気だけよ」
「威張っちゃいけません」
と知子は言った。
「ともかく、夫が、まるで知らない人みたいに思えて来たわ。どうなっちゃってるのかと……」
「私とのことは、よほど特別なことがあったんですわ」
「そうね」
「それに、その借金の方は、でたらめだとお考えなんですね?」
「そうなの。あの田代って男、怪しいわ。自分の借金をこっちへ押しつけようって腹じゃないのかしら」
「でも、どうして借用証が偽物だと気付かれたんです?」
「印鑑よ。それに、文章は主人の手じゃなくて、署名は確かにあの人が書いたように見えるけど、それは真似《まね》できるものね」
「印鑑が、お宅にあるのと違うんですか」
「私の印鑑なの。普段は銀行の貸金庫に入ってるわ、登録してあるから」
「それが押してあるんですか?」
「そうなのよ。妙な話だわ。──主人があれを使うはずがないのよ。他に家にも印鑑はあるんだもの」
「でも……どうして田代って人が?」
「そこが分らないの。だから、黙って帰したのよ。あの印鑑は、主人が死んでからは、しばらく家に出して来てあったの。何かと使うこともあったでしょう。でも、持ち出すなんて、誰にもできなかったはずだけど……」
「おかしいですね」
私は肩をすくめて、
「まあ、探偵じゃないから分らないけど、でも、おとなしく三百万も払ってやるくらいなら、少々お金を使っても、実際のところを調べてやるわ」
「私、お手伝いします」
と、知子が身を乗り出すようにして、言った。
「あなたが?」
「そうでもしないと、申し訳なくて、気が済みませんもの。やらせて下さい」
「でも、忙しいでしょう」
「二十四時間、学校にいるわけじゃないんですから。それに、私、力はあるし、少し合気道も習ったし……」
「まあ、凄い」
私は目を見張った。「恋敵にしなくて良かったわ」
「じゃ、いいんですね?──何をしましょうか?」
「そうねえ……。まず田代の会社に行って、あの人の評判を聞き込んで来てもらえないかしら。三百万円も騙《だま》し取ろうっていうんだから、何かお金に困ってることがあると思うのよね」
「分りました。明日、お休みを取ってあるんです。早速行って来ますわ」
「お休みを?」
「ええ。今夜、奥さんに引っかかれて、けがするんじゃないかと思ったもんで」
私は吹き出してしまった。そんなに手回し良く告白されたのでは、怒るわけにもいかないではないか。
それに、一度とはいえ、夫が浮気していたと知って、大分私の心は軽くなった。今までだって、そう重いわけじゃなかったのだけれど。
「奥さんは、これから何を調べるんですか?」
と、知子は、すっかり楽しんでいる感じだ。
若いんだなあ、と少々ねたましく思った。
「大学の杉崎っていう事務の男と、もう一度話してみたいの。それに、夫の会社の内情。──何かあったのは確かだと思うのよね。柏木幸子と、それに、告別式に来てくれた、同僚の平石っていう人に、話を聞こうと思ってるの」
「でも気を付けて下さいね。けがでもなさったらご主人だって悲しまれますわ」
「そうねえ」
私は考え込んだ。「死んでも、私、主人と同じ側へ行けるとは思えないものね……」
──その夜は、至って爽《さわ》やかな気分でベッドに入った。
勝手なものだが、ベッドに入って、夫に抱かれたときのことを考えていると、今頃になって、山田知子に嫉《しつ》妬《と》を覚え始めた。
隣の枕《まくら》をポンポンと叩いて、
「ねえ、あなた」
と声をかけた。「あの子と私と、どっちが良かった?」
いなくなった夫が、何だか急に身近に感じられた。──生きている内に、こんな会話をしてみたかった。
「浮気者!」
と呟いて、私は、夫の枕をつかむと、そこに顔を埋めた。
体の中が熱く燃え立っていた。私は、枕の中に、夫がいるかのように、強く、強く、顔を押し当てていた……。