知子と別れて、私は、夫の会社へと足を向けた。ちょうど、五時の終業間際に着けるし、その頃なら、柏木幸子も帰って来ているだろうと思ったのだ。
──受付に立ったときから、どこか異様な雰囲気だった。
「柏木幸子さんにお会いしたいんですけど」
と言うと、受付の子は、なぜかひどくあわてた様子で、
「あの──ちょっとお待ち下さい」
と、奥へ引っ込んでしまった。
少しして戻って来ると、
「どちら様でしょうか?」
「河谷と申します」
「あ──河谷さんの……」
「そうです」
「ちょっとお待ちを」
何だか落ち着かない。
大体、五時が近くなると、女の子はソワソワして落ち着かないものだが、それとはちょっと違っていた。
私は応接室ではなく、ずっと奥の方へと通された。ガランと空いた会議室だ。
ここで十分近くも待っただろうか。
「──やあ、どうもお待たせして」
入って来たのは、千田社長だった。
「社長さん。わざわざどうも……」
「いや、社内がちょっと取り込んでいましてね」
「それならまた出直して参りますけど」
「いや、もう大体おさまりました。──柏木君にご用とか?」
「はあ。主人のことで、ちょっとうかがっておきたいことがあったものですから」
と、私は言って、千田社長の、捉《とら》えどころのない顔を見つめた。 「柏木さんは、いらっしゃらないんですか?」
「会社を辞めたのです」
「辞めた?」
私は戸惑った。「いつですか?」
「今日。突然にね」
「どうしてまた……」
「これは公には出さないでいただきたいのですがね」
と、千田は言った。「柏木君は会社の金を持って姿を消してしまったのです」
私は唖《あ》然《ぜん》とした。──あの柏木幸子が? 信じられない気持だった。
「でも、どうして──」
「理由は、さっぱり分りません」
と千田は穏やかに言った。「ただ確かなのは、彼女が二千万近い金を持って、社を出て、それきり行方不明になっているということです」
二千万。──大変な金額である。
「そんな現金を持っていたんですか」
「たまたまですがね。銀行から給与の支払い用に届いたのです。うちはまだ現金で払っていますから。ああ、もちろんご存じですな、それは」
「ええ。──じゃ、警察へは?」
「届けるべきかどうか、迷っているのです。企業としての信用もある。柏木君が思い止まってくれるのを期待しているのですがね」
しかし、ここは別に銀行でも信用金庫でもない。千田が、警察へ届け出ることをためらう理由はないように思えた。
千田は一つ息をつくと立ち上った。私も立って、
「とんでもない所へお邪魔してしまって」
「いや、構わんですよ。ところで──」
「何か?」
「今夜、お食事でもどうです。前にお約束しておりますよ」
「でも、こんなときに……」
「それとこれとは別です。二千万ぐらい持ち逃げされても、会社は潰《つぶ》れませんからな」
私はためらったが、一度は千田と話さなくてはならないと思っていたのだから、今夜で悪いわけもない、と決めた。
「分りました。どうせ一人ですから、私は構いません」
「やあ、それはありがたい」
千田は、微笑して言った。「ではここで待っていて下さい」
──一人になると、私は窓の方へと歩いて行った。
まだ多少明るくて、ビルの谷間に、赤い夕陽が射《さ》し込んでいる。五時を回ったので、道は帰りを急ぐサラリーマン、OLたちで埋り始めていた。
高い所から人間を見るというのは、妙なものだ、何だか、自分が神になって、下界を見下ろしているようで、指先で人一人押し潰してみたいような気持になる。
あの一人一人に、家族があり、喜びがあり、悲しみがあって、一つ一つの人生があるのだということが、信じられないようだ。
私は、ふと、あの人々の中に紛れて、一緒に歩いていたいという思いに駆られた。
忙しく動き回り、歩き回り、疲れたら、家へ帰って体を休める。──それが人間の生活というものなのだろう。
「働こうかな」
と私は呟《つぶや》いた。
夫が生きている間は、そんなことを考えたこともなかったのに、と私は思った。──この一件が片付いたら、どこか勤め口を見付けて、働こう。
母は、きっともう家にいろと言うかもしれないが、しかし、家の中だけで、退屈に日を送り、年齢《とし》を取っていくのは、いやだった……。
ドアが開いて、千田が顔を出した。
「お待たせしました」
「──教えて下さい」
ワインのグラスを置いて、私は言った。
「何です?」
千田は、ちょっと目を見開いた。
青山にある、あまり目立たないフランス料理の店だった。照明は薄暗い。平日でもあり、客の姿はまばらだった。
そもそもが大きな店ではない。
料理はさすがに悪くなかった。夫は大体、こういう洒落《しゃれ》た店を知っているタイプではなかったから、二人で食事ということも、めったになかったのだ。
「何を教えろと?」
千田が訊いた。
「主人との間に、何かあったんですか」
千田は、ちょっと考えていたが、
「まあいいでしょう。──いや、こうして、奥さんを招待したのも、一つにはご主人の働きに対して、お礼をしていなかったのが、心にひっかかっていたからでしてね」
「といいますと?」
「昨年の暮、我が社は、かなり大きな痛手をこうむったんです」
と千田は言った。「正直に言って、一時は、倒産かと噂《うわさ》されたほどでした」
「存じませんでしたわ」
「まあ、年が明けて、幸い事態は好転し、何とか持ちこたえることはできた。しかし、従来の体勢ではどうにもならないということは、はっきりしていました。──つまり、人員の縮小ということです」
「要するに首切りですね」
「そうです。私は、女子社員を中心に、二十人近い人間をやめさせようと思いました。しかし、正面切って辞職してくれと言えば、退職金を払わなくてはならない。女子の給料がいくら安くても、二十人分とまとまっての退職金となると、容易なことではありません」
「でも、仕方ないでしょう?」
「そこで、少々汚ない手を使ったのです」
と千田は、ニヤリと笑った。
あんまり愉快な笑い方ではなかった。
「彼女たち二十人の机に、私を糾弾して、辞職させようという、ガリ版刷のビラを入れておきましてね。日曜日の間にやったのです。そして月曜日、朝、全員を入口の所で止めて、揃《そろ》ったところで、全員の机の中を私の秘書が調べたのです。──当然、二十人の机から、そのビラが見付かる。それぞれ二十枚ずつ入っていましたから、当然、他の社員に配るためにしまってあったものと見なしました。それを理由に解雇しよう、というわけです」
私は呆《あき》れた。──「大人」の社会だからきれい事で済まないことはあるとしても、そんな卑劣な手段を平気で使っているとは!
「で、どうなりましたの?」
「組合なんてものは、『会社が潰《つぶ》れてもいいのか!』と一喝してやれば、手も足も出ないものでしてね。当の女の子たちはもちろん騒ぎ立てましたが、彼女らを支援する者がいたら、解雇すると言い渡したので、みんな静まりました。──組合の委員長の平石にしても、です。そんなものなんですよ」
夫の告別式に来ていた男である。
「で、そのまま思い通り運びそうだったんですが……」
「そうはうまく行かなかった?」
「ええ。悪いことに、ビルの管理会社の人間が、日曜日に私の秘書が、そのビラを彼女たちの机に入れるところを見ていたのです。それをしゃべってしまった」
千田はちょっと手を広げて見せて、「こうなると、組合の方も面子《メンツ》がありますから後に退《ひ》けない。会社は事実上、ストライキに入ってしまったのです」
当り前だわ、と私は思った。私なら、千田をつるし上げるだろう。
「これには参りましたよ。仕事はストップ。注文、供給が完全に滞って、客からの苦情が殺到しました。正直なところ、私のクビも危なかったのです」
「それが主人とどういう──」
「私も一旦腹を決めました。最後の手は、第二組合を作ることです」
「スト破りですね」
「一人では仕方ない。少なくとも日常業務がこなせるだけの人間を動かさなくては。組合の連中がいなくても一向に困らないんだぞ、というところを見せれば、組合員も動揺します」
「管理職だけじゃ、だめだったんですか」
「みんないいかげん年寄りですからね。──さて、その手をどう打つか、考えました。一人一人切り崩している時間はない。後何日か仕事が止っていたら、私は株主にクビにされるのが確実でした。──誰か、他の社員に影響力を持っていて、あいつが仕事をするのなら俺《おれ》も、と思わせる人間を見付けて味方にするしかありません」
私はじっと千田を見つめた。
「それが──主人ですか?」
まさか、という気持だった。
「その通り」
千田は肯いて、「私はご主人と夕食を共にしました。この店でね」
私は、思わず店の中を見回した。まるで、主人がどこかの席に坐っているような気がした。
「ご主人も、さすがにためらっていましたよ。何といっても、社内の人間を、かなり敵に回すことを覚悟していなくてはなりませんからね」
「で、結局──引き受けたんでしょうか?」
「だからこそ、私は今も社長でいられるわけでしてね」
おかしなことだが、夫が知子と浮気をしたと知ったときよりも、私はずっと大きなショックを受けていた。
人間には、これだけはどうしてもできないという限度があるものだ。それは、法律的な意味で、罪が重いとか軽いということではなく、ただ、人間のタイプとして、可能なことと不可能なことがある、ということである。
腕時計一箇を盗むために、平気で人を殺す人間が、電車に乗る列を乱すことは絶対にしないとか、凶悪な放火魔が、虫一匹を殺すことも嫌うようなものだ。
夫だって人間だから、人を憎んで殺すこともあったかもしれない。若い女の子に襲いかかることだって。──しかし、組合を裏切って、スト破りをやり、会社側につく、という真似は、できるはずがない。
夫はそういうタイプではないのである。
「そんなはずはありません」
いつしか、私はそう口に出して言っていた。
「どういう意味です?」
「つまり……主人は、そんなことをする人じゃありませんわ」
千田は、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて、
「面白いことをおっしゃる。つまり、私が嘘をついている、とでも?」
「いえ、別に──」
「それなら会社の者に訊いてみてごらんなさい。誰でもそんなことは知っていますよ」
おそらく嘘ではないのだろう。しかし、私は信じたくなかった。
「失礼します」
私は立ち上った。その弾みで椅子が倒れて店の客が一斉に振り向くほどの音がした。
私は構わず、足早に店を出た。
千田が追ってくるかもしれない、と思って、すぐにタクシーをつかまえて、乗り込んだ。
「どちらまで?」
と訊かれて、よほどカッカしていたのだろう、
「うちまで!」
と答えてしまったのである。
運転手は笑い出し、私も一緒になって吹き出してしまった。
「ともかくこのまま真直ぐやって。考えるから」
と、私は言った。
食事の後味が一度に悪くなってしまって、私は食堂街の前でタクシーを降り、口直しにもう一度夕食をとることにした。
といっても、胃の方の容量は限度がある。そこでOL時代、時々行ったお茶漬屋さんに足を向けた。──ちゃんと、まだ営業していた。
お昼などに、本格的に食べるのはどうもというOLで、結構混み合う店である。今はもう閉店が近いので、客は他に二、三人しかいなかった。
「いらっしゃいませ」
と、お茶を持って来てくれたのは、ここの奥さんで、私がOLの頃は、新婚ホヤホヤであった。
今も多少太ったが、なかなかの美人だ。
のり茶漬を頼んで、熱いお茶を少しずつすすっていると、その奥さんが戻って来た。
「あの──失礼ですけど」
「はい?」
「以前、お昼によくみえていた方じゃありません?」
「ええ。よく憶えてますね!」
私は何だか無性に嬉《うれ》しくなってしまった。
「やっぱり! どこかでお見かけしたな、と思ってたんですよ」
その奥さんも、もう暇なのか、手近な椅子に腰をかける。「──ほら、お勤めを辞められる日に、ここへみえて、『今度結婚するの』とおっしゃったじゃありませんか」
「そんなこともあったわね」
私は思い出して肯《うなず》いた。 「相変らず、お昼は混んでる?」
「おかげさまで。あの頃はお昼の定食、四百円でしたっけ? まだ五百五十円で頑張ってるんですよ」
「まあ、素敵! もっと度々来たいけど……。あ、そうだ。私が辞めるとき、お腹が大きくて──」
「そうでしたね。もう二人目が幼稚園です」
「そんなに……」
私は絶句した。改めて年齢を思い知らされた。
「今は……のんびり母親業ですか?」
「子供はいないの」
「あら。でも、結構何年もたってから、ヒョッコリ出て来るもんですよ」
出て来る、ってのは正に実感がある。
「それが主人にこの間、先立たれちゃって。──今は未亡人ってわけなの」
「まあ……。すみません、余計なこと言って……」
「いいえ、いいのよ。ちょっと気が滅《め》入《い》ってたから、声をかけてくれて、凄《すご》く嬉しいの」
「元気出して下さいね」
「ありがとう」
店の奥から、
「上ったよ」
と、ご主人らしい声がする。
奥さんは立って行くと、少し何やらガタゴトやって、それから盆を運んで来た。
「どうもお待たせしました。──タクアンを余計におつけしておきましたよ」
「まあ、よく憶えててくれたのね」
私は、はしを割って、タクアンをつまんだ。ここのタクアンは、やや薄味で、しかしそこがおいしいのだ。
口へ入れるとき、一瞬の迷いがあった。何年もたっているのだ。多少は味が落ちているのではないか、と思った。でも、好意で沢山出してくれたのだ。おいしいと言って食べなければ。
でも、味は少しも変っていなかった。あの頃のままの、歯《は》応《ごた》えと、味である。
私は、ゆっくりと、熱いお茶を、熱いご飯の上にかけた。のりの香りが、まるで解き放たれたように立ち昇って来る。
あのときのままだ、と思った。昔、まだ若かった頃。夫と知り合った頃。一応は、結婚を前に、多少胸を弾ませていた頃……。
その頃のままのものが、今でもこうして、残っている。
何だか分らないけど──本当にわけも分らず、涙が出て来た。
夫が死んでも、泣いたりしなかった私なのに。
急に胸が切なく苦しくなって、急いでお茶漬をかっ込んだ。頬《ほお》を涙が伝って落ちて行った。
あわててハンカチを出して涙を拭《ふ》く。──どうしたっていうんだろう? 本当に馬鹿みたいだ。
「──大丈夫ですか?」
奥さんが、ちょっと心配そうに、おずおずと声をかけて来た。
「ええ……。ごめんなさい。どうってことないのよ」
「すみません、変なことを言ったものだから──」
「とんでもない」
と私は首を振った。「そんなんじゃないのよ、ほんと」
他の客が立ち上った。奥さんがレジの方へと歩いて行く。
──私は、何だか急に自分が一人で取り残されたような気がした。いや、事実、もう客は私一人だった。
家にも、誰一人待っているわけではない。私は一人で残されているのだった。人生の中に……。
少し、夜の街を歩いた。
オフィスの多いこの辺りは、早く、暗くなる。裏通りの、小さなバーやクラブがにぎわう時刻である。
客を待つタクシーやハイヤーが、道を占領して並んでいる。
酔って出て来る男たち。もてなされた側はいい気分で、車に乗り込むが、もてなした方の男たちは、一向に酔っている様子もなく、走り去る車に、何度も頭を下げ、車が見えなくなるとホッとしたようにあたりを見回す……。
おそらく、この男たちは、これから自分が酔うために飲むのだろう。
夫もこんなことをしていたのだろうか?
まるで大学の研究者か何かのようだった夫にとって、こんな仕事が堪えられたのだろうか?──私には、不思議でならなかった。
私なら、会社を辞めてしまっていただろう。それで結婚が壊れるなら、それでもいい。
夫は、私のような妻のために、こんなことを堪えていたのだろうか? 外に恋人を作って、平気で出歩いているような妻のために……。
何となく夫が哀れになった。
私が哀れむというのは、妙なものかもしれないが、夫があの千田社長の卑劣な計画に乗ったとき、私のことを考えて、クビになるわけにはいかないと思っていたのだとしたら、それは「哀れ」と言うしかないではないか。
今さらのように、夫が、生きていてくれたら、と思った。
いや、私がただ謝るために、ではない。そんなに自分を裏切ってまで、会社に残るべきかどうか、なぜ私に相談してくれなかったのか、と問いかけてみたいのである。
あなたは何も話してくれなかった。
苦労はみんな僕がするのだ、という顔をして。──私もそう思い込んでいるところはあったが、けれども、話してくれれば、聞かないわけではなかったのに……。
私は、通りかかる空車を停めた。
今度こそは、家へ帰ることにした。
──家の前でタクシーを降り、玄関の鍵《かぎ》を開けて中へ入る。
暗い玄関で、他の靴につまずいた。──おかしい、と思った。
玄関に、靴を出してはおかなかったはずだ。
緊張した。──誰かが、暗がりの中に潜んでいるのだろうか?
玄関の明りへ手を伸ばしたが、思い直して、靴をそっと脱ぎ、上り込んだ。
家の中は暗いが、どことなく、人の気配がある。──耳を澄ましていると、声が聞こえた。空耳かと思ったが、そうではない。
居間だ。私は、静かに居間のドアへ手をかけた。ノブを回して、細く開けると、暗い室内から、はっきりと声が洩れて来た。
私はドアを大きく開けると同時に、明りを点けた。
「キャッ!」
と声がした。
ソファの上で、柏木幸子と志村一郎が、あわてて起き上った。