「いやはや、にぎやかですね」
落合刑事は、ソバをすすりながら、言った。
にぎやかなはずで、スーパーの食堂なのである。客のほとんどは、赤ん坊や小さな子供を連れた奥さんたちだ。
大きな声を出さないと話も聞こえないほどだった。
「捕まりましたの?」
と私は訊《き》いた。
「え?」
「あの志村とかいう、若い人ですわ。捕まったんですか?」
「ああ、そのことですか。いや、残念ながら、逃がしたようです」
「あら、そうでしたの」
「というか、まだ見付けていないと言った方が正確でしょう。時間の問題ですよ」
「じゃ、見当はついているんですね」
「いくつか、立ち回りそうな所は分っています。──あなたの所も含めて」
私は、はしを持つ手を止めて、落合を見た。
「一緒に逃げている女は、柏木幸子といいましてね。ご主人と同じ会社に勤めるOLでした。会社へ行って、色々訊いてみると、会社の金を持ち逃げしているのが分ったんです」
落合は首を振って、「そういう事件を、どうして早く届けてくれないのか、全く困ったものですよ」
「何か主人と関りが?」
「あるはずです。──志村はご主人の後輩で、ご主人ともしばしば会っていたんです。そして、柏木幸子は、ご主人の信用している部下だった……」
「その二人が──」
「ご主人を通して知り合った、と見るのが自然でしょうね。そして愛し合うようになった。──志村が追われる立場になって、女の方も行動を共にする決心をした。逃亡生活には金がいる。そこで会社の金を横領した、というわけです」
「その女の人なら、きっと、主人の会社へ行ったときに会った人ですわ。とても真面目《まじめ》そうな人でしたけど」
「男のために身を誤るのは、たいていそういうタイプの女性です」
と、落合は言った。
「それで私の所に来るかもしれない、と思われたんですね」
「あなたはその二人に関係があるわけですからね」
「主人が、ですわ。私は、主人のお付合いの相手というのを、ほとんど知らないんですもの」
「ご主人に恋人がいたとでも?」
「いいえ! そういう意味じゃありません。広い意味での知り合いですわ」
「なるほど」
落合は、しばらく黙々と食べていたが、元来、太りすぎを気にする主婦向けのランチである。あまり量は多くない。
すぐに食べ終って、何となく足らなげな顔をしている。私はおかしくて笑い出しそうになっていた。
「すみません、もう少し食べないと──」
「どうぞ、ご遠慮なく」
落合は、今度は天丼を頼んだ。
「いや、暑いですね、ここは」
と照れたように、額を拭《ぬぐ》う。
「ちょっと明りが強いんですわ」
と私は上を向いた。
「その傷は?」
「え?」
「首の周りの。どうしたんです?」
落合は真剣な表情で訊いた。「誰かに絞められましたね。見れば分りますよ」
とても否定しても通りそうにない。
「ええ、実は……」
「話して下さい」
私は、昨夜の久保寺との一件を話してやった。
「──でも、本気で殺すつもりはなかったんですわ。気の弱い人なんですもの」
「その傷は、しかし、かなり本気で絞めていますよ」
落合は心配そうに顎《あご》を撫《な》でて、 「いいんですか、放っておいて? たぶん、傷害罪ぐらいでなら──」
「お願いですから、そっとしておいて下さいな」
と私は言った。「もう二度とやりませんわ、あの人」
「まあ、あなたがそうおっしゃるなら……」
と、落合は渋々言って、「──気が優しいんですね、あなたは」
「それは皮肉ですの?」
「いや、真面目に言ってるんです。昨日の子供たちの相手をしているところを見たり、今のあなたの様子を見ていると──」
「とても夫を殺した女に見えない、でしょ? でも、殺人犯だから、他の人間には優しいってことだってありますわ」
「考えていますよ」
落合は苦笑して、「そうやって、我々を翻弄するんですからね」
「今度は悪女ですの? 忙しいわ、私も」
「ともかく、魅力のある方だということは確かです。警察官らしからぬ意見かもしれませんがね」
「そんなこと、主人からも言われたこと、ありません」
「しかし、ご主人もいい方だったんでしょう?」
「少々良すぎて閉口でしたけど」
「難しいもんですね」
落合という刑事に、私は親しみを覚え始めていた。もちろん、刑事なのだから、私を容疑者として見ているのかもしれない。
しかし、それだけでない、暖かさを、その言葉の中に感じ取ることができた。
「──これからどうなさるんですか?」
と、落合が訊いた。
「ちょっと訪ねる所がありますの」
「そうですか。もし、志村と柏木幸子から連絡があったら、ぜひ知らせて下さい」
「分りました」
私たちは食堂を出て、別れた。まだ田代の所へ向うには早い。
田代のことを、よほど落合に話そうかと思ったのだが、結局、言葉が出て来なかった。
決して、落合を信用していないわけではなかったが、何といっても、警察という組織の中の人間なのである。自由に行動できるわけではない。
私は、一旦、デパートへ足を運んで、三十分ばかり、特売場を眺めて歩いた。
これが、女にとっては、一番のレクリエーションなのである。日用品の買物はつまらなくて、こういう、必要でもない品物の買物はどうして楽しいのだろう?
すぐに時間は過ぎて、私は地図を見て、田代の家へと向った。多すぎて持て余しているくらいの、ネッカチーフを三枚、買い込んでいた。
地図というものは、あの五万分の一とか、そういうものならともかく、本人が書いたものはあまりあてにならない。
だって、あなたも、今すぐに近所の地図を書けと言われたら、しばし考え込んでしまうだろう。──それは、つい無意識に、あまり通らない道などを、書き落としてしまうからだ。
田代の妻も、あまりその点、几《き》帳《ちよう》面《めん》とはいえず、おかげで、散々捜し回ってしまった。何本目の道、何番目の角、というのが、みんないい加減なのだ。おまけに八百屋が道の反対側に書いてあったり。
やっと見付けたのは、まあ、何とも可愛い、というより狭い、ミニ開発の建売住宅で、同じような造りの家が、四軒固まっている。きっともとは一戸の家の土地だったのに違いない。
〈田代〉という表札。──私はチャイムを鳴らした。
二、三度鳴らしたが、返事はない。おかしい。そう時間を過ぎているわけでもないのに……。
背後に足音がしたので、あ、帰って来たのかと振り向くと、何だかちょっと怖そうな黒メガネの男である。
「ここに用かい?」
その声たるや、ボーイソプラノで、私は吹き出したくなるのをこらえた。
「ええ。──あなたは?」
「留守だよ」
「どこへ行かれたか……」
「知らねえよ」
「そうですか」
しかし、ここで、それではと引きさがるのもつまらない。「──待っててくれ、と奥さんと約束してあったんですよ」
「田代の女房と? そいつは諦めな」
と男が笑いながら言った。
「どうしてですか?」
「亭主を捨てて、出てっちまったのさ」
「まあ。──でもさっきは──」
「会ったのかい?」
「ええ。少しお金を貸してあげて、家へ急いで帰るからって……」
「じゃ、その金持って、ずらかっちまったのさ」
「まさか! 子供さんがここにいるから、って言ってましたよ」
「ガキが? 今朝、連れて出たぜ」
「本当ですか?」
「昼までに三百万工《く》面《めん》して来い、と言ってやったが、まるで戻って来ねえ。電話が一本かかって来たよ」
「で、彼女何と?」
「そんな亭主、もう愛想がつきたから、好きなようにしてくれ、と言ったぜ」
私は言葉もなかった。子供の前で殴られるのだけは……とかお涙ちょうだいの芝居をして……全く!
こっちが甘い、と言われりゃそれまでだが……。
「いくら貸したんだよ?」
「少々です」
「返っちゃこねえな、そりゃ」
「それはいいんですけど……。じゃ、ご主人の方は?」
「いないぜ」
「まさか、あの──病院にでも」
「よせやい」
と、男は顔をしかめた。「こちとら、ギャングと違うで。あのな、ちょっと痛い目にあわせるだけだ」
「同じようなもんじゃありませんか」
「そう言われりゃそうだけどな」
何だか、スローテンポなお兄さんで、調子が狂ってしまう。
「で、今、どこに?」
「女と二人で、逃げちまったよ」
「女と?」
「ああ。女房に愛想づかしされて、青くなってるとこへ、女が一人来てな、奴が泣きついたら、三百万、ポンと出しやがった」
「それは──誰です?」
「知るもんかい。こっちは金がありゃいいんだ。だから放免してやったのさ」
女が? 三百万をポンと出した。──一体誰なのだろう? 田代の愛人、というわけか……。
「それじゃ、もう済んだんでしょ。あなたはここで何をしてるんですか?」
「俺《おれ》かい? 忘れてたんだよ。大阪時代の借金、返してもらうのをな」
「大阪時代?」
「ああ。田代の奴が大阪にいたとき、飲み代、立て替えて、八千円貸したままなんでな」
ずいぶんケチくさい話である。しかし、田代が大阪にいたというのは、初耳だ。
「田代さん、大阪にいたのは、いつ頃ですか?」
「奴か? ええと──かれこれ一年半くらい前かな」
「一年半……」
「あいつ、年中職をかえてるから、あまり一つ所に長くは居ないんだ。だから平気で借金を踏み倒すのさ」
「大阪の前は?」
「知らねえな。──お前、田代に何の用なんや?」
「いえ──別に」
「まさか、奴の女と違うんだろうな」
「違いますよ!」
とにらんでやった。
「あんな、しょうもない男に、ついて来る女の気が知れんな。その三百万出した女も、どう見ても、まともなかみさんだったぜ」
「そうですか」
何だか、いやなモヤモヤが、胸の中で渦巻いていた。
「じゃ、どうも」
と、会釈して帰りかけると、
「なあ、田代に貸した八千円、払ってくれないか」
と勝手なことを言い出す。
振り向いて、にらみつけてやったら、ヒョイとそっぽを向いてしまった。
これで、結構私のひとにらみも、迫力があるのかもしれない。
それにしても──と、私は帰宅の途中、考えていた。田代に三百万もの金を持って来た女というのは何者だろう?
そんな愛人がいたのなら、なぜ田代は最初から、その女に頼って行かず、あんな偽の借用証などこしらえたのか?
あの田代の妻。──うまいこと百万せしめて、今ごろは、どこかへ預けておいた子供と二人、どこかへ発っていることだろう。結構、他の男と一緒かもしれない。
結局、田代から話も聞けないのでは、百万円、捨てたも同じことだ。
不思議なことに、それ自体は、あまり腹も立たなかった。今の私には、もっと気になることがあったのだ……。
何だか、今日は一日かかって、百万円もむだにしただけだったみたい。
そう思うと、何かそのまま家へ帰るのも……という気がして、私は、デパートに寄ると、可愛い絵のついたハンカチをどっさり買い込んだ。──百枚!
もちろん、百万円はしないが、店員が目を丸くしていた。
私は、あの施設へと足を向けた。
そろそろ夕方だったが、まだ日が射《さ》している庭に、子供たちが遊び回っている。私は金網越しに、子供たちの様子を眺めていた。
実に、色々な子がいる。──もう、幼いころから、個性というものが、ちゃんと芽生えているのである。
グループで遊べば、いつの間にかリーダーになっている子がいる。そういう団体(?)にはついて行けないけど、私は私よ、という様子で、一人、砂山に住宅を建てている子もいる。
駆け回っている子、じっとしている子、退屈そうな子。──でも、どの子も、それを楽しんでいる。
子供って、何ていいものなんだろう、と……今まで、考えたこともない、感慨が、私を圧倒した。
子供にとって、この世界は大きな遊園地なのだ。でも、大人はその子供の夢を裏切って、遊園地を取り壊し、戦場にしてしまう……。
大人たちの方が、小さくなって、子供をのびのびとさせてやらなくてはいけないのに、逆に、子供を、狭い金網の囲いの中へ、追いやっているのだ。
でも、そんな所で、子供は精一杯の、エネルギーを発散している。その様子を眺めていて、私は飽きることがなかった。
夫と暮していて、私は、子供が欲しいと本気で思ったことはなかった。いない方が自由でいい、くらいに思っていたのである。
今、夫がいてくれたら。時間を逆戻りさせることができたら、私は子供を生みたいとせがんだだろう……。
「──おばちゃんだ」
亜里が、私を見付けて、走って来る。
「こんにちは!」
と手を振ってやる。
亜里は、走って来て、途中で、何につまずいたのか、前のめりに転んでしまった。私は、思わず叫び声を上げた。
「大丈夫?──立てる?」
と金網をつかんで、できることなら、よじ登りたい、と思った。
が、亜里は立ち上ると、ニッコリ笑って、
「平気だよ」
と言った。
私はホッと胸を撫でおろした。亜里の方がよほど度胸がある。
「でも、膝《ひざ》をすりむいて──まあ! 血が出てるじゃないの。痛くない? バイ菌が入ったら大変よ」
「いつも転んでるもん。後で水で洗うよ」
と、平気なものだ。
「気を付けてね。今、中に行くわ」
「うん!」
と、亜里が建物の中へ走って行く。
「走らないで! 転ぶわよ!」
と、つい私は叫んでいた……。
「──子供が転ぶのにいちいち心配してたら、きりがありませんよ」
と、山田知子が笑って、言った。
「本当ね」
私は建物の窓から、遊んでいる子供たちを見ながら言った。
「どうしても転びやすいんです、靴のせいでね」
「靴のせい?」
「ゴムの底が減っちゃって、平らになってるんですよ。だから滑るんです」
「まあ」
「買い替えようにも、予算が少ないから。──来月には何とか、と思ってるんですけど」
私は、可愛いハンカチなんか百枚も買い込んで来た自分が、馬鹿のように思えて来た。ハンカチは手を拭ければいい。もっと必要なものがあるのだ。
「今度、みんなの靴のサイズを書き出してちょうだい」
と、私は言った。
「え?」
「買って来るわ、みんなに」
「そんな……。無理しないで下さい」
「いいのよ」
「でも、お話によると、今日は百万円も損なさったんでしょ?」
「あれは別口。──主人が生きてれば、毎月、何か贈ってたわけでしょ。私が、それを継ぐわ」
と私は言った。「主人には、大したこともしてあげなかったもの……」
知子は、少し間を置いて、言った。
「ご主人を愛してらしたんですね」
私は、そんなことを、考えたこともなかった。夫婦になると、なぜ男と女は、愛しているとかいないとか、考えなくなるのだろう?
「そうは言えないわ」
と私は言った。「主人が生きていた間はね。──でも、今になって、やっと主人のことを愛したいという気持になって来たのよ。救いようがないわね」
「そんなこと! やっぱり、ずっとご主人を愛しておられたんですよ。浮気していても」
「一言多いぞ」
と、私は笑って言った。
「ごめんなさい」
知子はペロリと舌を出した。
「ともかく、このハンカチ。うちに置いても仕方ないから、置いて行くわね」
「きっと、みんな大喜びだわ!──まあ、可愛い! 私がもらいたいくらい」
私は、何となく知子のことを、他人とは思えなかった。──妙な話だ。主人の浮気相手に、親愛の情を覚えるというのも。
しかし、事実そうなのだから仕方ない。
「でも、田代と一緒の女って誰なんでしょうね?」
と、知子が言った。「それにその奥さんも、いい気なもんだわ」
「でも子供を置いていかなかっただけ、ましだと思ったわ」
「そういう基準で言えば、そうでしょうけど」
「子供連れて、夫の所から逃げるんだったら、お金は必要でしょうからね。腹は立つけど、一概に責められないような気もするのよ」
「──これから、どうなるんですか、事件の方は」
「さあ……。ともかく、早く解決してほしいわ。もちろん、私もできるだけのことはやるつもりだけど」
「危ないことはやめて下さいね。──心配なんです」
「どうして?」
「どうして、って言われても……」
と、知子はためらった。「奥さんのことが好きなんですもの」
私は、ふっと胸が熱くなった。
「どうもありがとう……」
外は暗くなり始めていた。──子供たちが、駆けて来る。亜里が真っ先に、こっちへ向ってやって来た。
子供たちと時を過して、家の近くまで帰りついたのは、もう八時近くだった。
私の中に、ちょっとした夢が、形を成しつつあった。もちろん、うまく行くものかどうか、分りはしなかったが。
玄関の前に、誰かが立っていて、ギクリとした。大体こういうときは、ろくなことがないのだ。
「どなた?」
と、私は少し手前から声をかけた。
「千草さん?」
聞いたことのある男の声。こっちへ出て来ると、
「どうも……」
と、会釈する。
「木戸さん! まあ突然──」
郁子さんのご主人である。いかにも実直そうなサラリーマンだ。
「すみません、急にやって来て」
「いいえ! ずいぶん待ったでしょう?」
私は急いで鍵《かぎ》を開けて、木戸を中へ通した。
居間へ上ると、木戸は、少しおずおずとした様子で、ソファに坐《すわ》った。
「東京へは、ご出張?」
と、私は訊いた。
「いいえ。そうじゃないんです。会社の方はちょっと休みを取って来て」
「あら」
と私は言った。「じゃ、郁子さんたちもご一緒?」
「いえ、一人です」
私は、坐り直した。まさか、という思いがふくれ上って来た。
「話して下さいな」
「ええ……」
木戸は、ためらってから、思い切ったように言った。「実は、郁子が、家を出てしまったんです」
今日、あの黒メガネの男の話を聞いてから、田代のところへやって来た女が、郁子さんではないかとは、薄々考えていたのである。田代が大阪にいた、ということ。そして、田代が夫の「学生時代の友人」だと言ったのが、郁子さんだったこと──何もそれらしい証拠はない──もある。
そして、何よりも、あの印鑑を使うことができたのは、夫が死んで、あれこれと手伝ってくれた郁子さんぐらいだということだった。
しかし、まさか郁子さんが、そんなことをするとは、考えてもみなかったのだ。
「一体どうして……」
と私は、しばらくしてから、言った。
「男がいたんです」
と、木戸は言った。
「どんな男ですか?」
「妻子持ちの、田代という男です」
やはりそうか。
「その男と?」
「実は、もう二年以上前に、その男がうちにセールスに来て、いつの間にか郁子とそういう仲になっていたらしいんです」
「それがいつ分ったんですか?」
「割合とすぐでした。──郁子も隠し事の下手な女ですから」
「で、どうなさったの?」
木戸はちょっと肩をすくめて、
「こればっかりは……。却《かえ》って、あれこれ言うと、田代の方へ走るかもしれないと思って黙っていました。その間に、田代のことも色々調べました。──年中居所を変えて、女ともすぐ切れているんです」
「それで大丈夫だと思ったんですか?」
「実際、一年以上前ですが、田代は大阪を離れたんです。ホッとしました。郁子も、もとの通りになって」
私は少々呆《あき》れた。──人がいい、というのとは、ちょっと違うんじゃないか。
「木戸さん……でも、怒らなかったんですか?」
「もちろん面白くはありませんでしたけど……」
それだけ?──私は言葉もなかった。
「ところが、今朝、家を出てから、会社へ行く途中で財布を落としてしまいましてね」
と木戸は続けた。「会社から電話したんです。そしたらご近所の人が出て、郁子が、ちょっと旅行に出るから、と言って、一人で出てしまったと言うんで、びっくりして」
「何か、置手紙のようなものは?」
「ええ。寝室にありました。走り書きで、〈他の男と一緒に暮します〉とあるだけで……。でも、きっと、あの田代のところに違いないんです」
「それで追って来られたんですね」
「まあ、そんなところです」
と、木戸は、のんびり言った。
女房をとられて、嫉《しつ》妬《と》に狂うというのも、あまりみっともいいものじゃないかもしれないけれど、こんな風に落ち着いているというのも妙なものだ。
「で、これからどうなさるの?」
「今夜はすみませんが泊めてもらえませんか?」
「いいですよ。でも──」
「田代の家は、ちゃんと分ってるんです。明日でも行って、ゆっくり話し合って来ようと思ってます」
「はあ」
ゆっくり話し合って?──一体この人は、奥さんが逃げ出したことを、どう思っているのかしら、と思った。
「ねえ、木戸さん」
と私は言った。「子供さんたちは?」
「ええ、近所の親しい奥さんが預かって下さってるんで」
「それはいいけど……。奥さんをともかく連れ戻さなきゃ仕方ないでしょう」
「ええ。ですが、こういうことは、無理にやっても……。一応話し合いをしようと思って」
これじゃ、郁子さんが戻るわけはない、と思った。郁子さんに戻ってほしいのなら、今夜これからだって──そんなに遅い時間じゃないのだ──田代の家へ駆けつければいいのだ。
もちろん、そこにはもう誰もいないが。
「──それに、郁子、金を引き出して行ってるんです」
と、木戸が言った。
「貯金を?」
「ええ。三百万です。きっと田代とどこかへ逃げる気なんでしょう」
「じゃ、それこそ大変じゃありませんか? 今からでも行ってみれば?」
「いや、もう暗いですからね」
と、木戸は腕時計を見て言った。「住所は分るけど、捜して行くのは大変だ。明日にしますよ」
私は何を言う気も失せた。
「じゃ、お風呂でも沸かしますわ」
「すみませんね」
木戸は、ネクタイを外して、新聞を見始めた。──郁子さんが、他の男に走るのも、分るような気がした。
もっとも、夫だって私の浮気を、薄々気付いていたのだろうが、何も言わなかった。しかし私が家を出たりすれば、決してこんな風に呑気にはしていなかっただろう。
いや、私が家を出はしないことを、知っていたのだと思う。
──まだ実感がなかった。
郁子さんが、家を出て、子供まで捨てて……。何だか、そんなことは、TVの中でしか起こらない、と思っていたのに……。
お風呂にお湯を入れて、居間に戻って来ると、電話が鳴り出していた。
「はい河谷です」
しばらくは、何も聞こえなかった。「もしもし?」
息づかいのようなもの。
「どなた?」
「あの……」
と、震える声が、伝わって来た。「柏木幸子です」
「幸子さん。──どうしたの? どこにいるの?」
と、私は訊いた。
すすり泣く声が、低く、流れて来る。