駆け寄って、抱き起こしてみると、まだ呼吸はしている。私がガス栓をしめられたくらいだから、まだガスを大して吸っていないのだろう。
郁子さんの額には、どこかで打ったような傷があった。ともかく、私は風が抜けるようにドアを開け、救急車を呼ぶべく、電話へと手をのばした。
受話器を取ろうとした手を、突然誰かが押えた。ハッと顔を向けると、銀色に光るナイフが、目の前にあった。
「電話されちゃ困るんです」
と、木戸が言った。「あんたは、いつも邪魔ばかりする!」
私はよろけて、後ずさりした。
「木戸さん……」
「そうですよ」
木戸は、いつも通りの愛想の良さを見せながら、言った。「僕がご主人を殺したんです」
「──どうして?」
「もともとは田代が悪いんですよ」
と、木戸が言った。「あいつが僕を賭《か》け事に引きずり込んだ。僕は田代を通して、高い金利の金を借りていたんです。もちろん返せなくなる。郁子には話せない。仕方なく、会社の金を、ほんのしばらく、というつもりで流用したんです」
「馬鹿なことを!」
「そうですとも。でもね、そういう気持ってのは、その立場にならなきゃ分りゃしませんよ」
「それでなぜ夫を──」
「どうにもならなくなって、僕はご主人にお金を何とか都合してくれと泣きつきました。一度は工面してくれたんですよ。三百万ほどでした。あなたが割合にお金にもルーズな人なので知られずに済んだけど」
「三百万も?」
「二年くらい前でしたね。そのとき、僕は二度と賭け事に手を出さないと誓ったんです。ご主人にね」
「それをまた……」
「やめられるもんじゃありませんよ」
と、木戸は首を振った。「それでも、一年半前に、田代が大阪を出て行ったんで、僕も少し賭け事から遠のいたんです。でも、やはり長くは続かなかった。──借金、返済のための借金、またその返済のための借金。くり返しで、たちまち三百万近くになってしまった」
「それで主人に──」
「いや、会社の金に、また手を付けたんです。一発当てて返すつもりでしたが、それもオジャンで、またご主人に頼むしかなくなったんです」
「じゃ、あの日……」
「僕は、その日の新幹線でここへ来ました。そしてご主人と会ったんです」
「それで主人は早く帰って来たのね」
「ところが、そう甘くはなかったですよ」
と、木戸は苦笑した。「ご主人は、僕のためだ、と言って、今のあなたのように電話へ近づきました。僕の会社へ電話して、総てを話す、というんです。──僕は、やめてくれと哀願しましたよ。でも、ご主人は、妹を、そんな無責任な男に任せておけない、と言ってね。受話器を上げました。僕はそれをもぎ取ろうとした。もみ合っている内、ご主人が倒れて、弾みで机の角に頭をぶつけて、気を失ったんです」
私はチラリと郁子さんの方を見た。苦しげな息は、大分おさまっている。
「僕は考えました。このままご主人が意識を取り戻したら、どうしたって僕は無事には済まない。ご主人をソファへ寝かせて、僕はガス栓を開けた。自殺か事故か。──いずれにしたって、大人なら、自殺しておかしくないくらいの、悩みの一つや二つ、持ってるもんですからね。それからカーテンを引いた。ところが──」
と、木戸は一息入れて、「あなたが急いで帰って来るのが、見えたんですよ。これですっかりあわててしまった。そのまま逃げればご主人は必ず助かる。仕方ない。──僕は、ナイフでご主人を刺した」
木戸は、ちょっと上目づかいになって、
「そんな目で僕を見ないで下さいよ。カーッとなって、何だか分らなかったんだから。──そしてあわててガスを止めました。こんな工作をしたのが分ったら、強盗や何かの犯行とは思われないでしょうからね。しかし、ガスの匂いがする。それで、カーテンは閉めたまま、戸を開けて、せっせとガスの匂いを外へ出したんです。そこへあなたが帰って来る音がした。危機一髪ですよ。靴を持って、そこから庭へ出て、表に逃げたんです。そしてその日の夕方の新幹線で帰りました」
「じゃ、郁子さんのことは……」
「ああ、田代とはいい仲になってたんですよ、大阪でね。もっとも、僕がろくに構ってやらなかったから、当然のようなもんでしたがね。僕は好きなようにさせておきました」
「なぜ?」
「何かに利用できると思ったんです。二人の一緒のところを写真に撮って、それを種に、田代をゆすろうかと思っていると、田代が東京へ行っちまった」
「じゃ……あなたが郁子さんに、印鑑を使わせて……」
「そうです。田代との写真を見せて、離婚訴訟を起こすと言ってやったんですよ。子供と離されるのが怖いんでしょう、郁子は言う通りにした。ところが、お葬式に田代がやって来た。郁子は、ご主人の友達と言って、ごまかしたようですが」
「あのとき、田代は、『そんなことまで』と言ったわ。なぜ?」
「田代は、ご主人が僕の借金を肩代りしてそのせいで、貸した側に殺されたと思ったんですよ。もちろん、ご主人を殺したのが僕だってことは、田代も郁子も知りゃしません」
「それで、田代に金を取らせようと……」
「僕が貸したことにするのも妙でしょう。だから郁子に言って、田代が貸したことにさせたわけです」
「じゃ、郁子さんが持って来た三百万円っていうのは?」
「また会った後で、郁子と田代はよりを戻したんです。だから、郁子は、うちの物をあれこれ売って金を作り、家を出ちまったわけですよ」
「それであなたが追って来たわけね」
「当り前でしょ。借金はまるまる残ってるのに、女房に家財を売り払われて逃げられちゃね」
「でも──どうしてあんなにのんびりしてたの?」
「あいつがここへ来ると分ってたからですよ」
「どうして?」
「田代にとっちゃ、金だけが目当てです。郁子が金を持っているとなれば、それを巻き上げて、おさらばに決ってますよ。ご主人の方の三百万をうまく手にしたら、二割やると言ってあったんですがね」
「じゃ、田代は──」
「聞きましたよ、郁子から。あいつの借金を払って、パアになったとかで、田代は逃げてしまったそうです」
私は郁子さんを見た。少しずつ意識を取り戻しているのか、頭をかすかに動かしている。
「どうしてこんなことを……。郁子さんを殺す必要はないじゃないの!」
「僕が最初、ご主人に金を貸したことにしようとしたので、田代は僕がご主人を殺したらしいと察していたらしいんですよ。で、郁子にそれを言ったんですね。ここへやって来て、家を出たのを謝るどころか、僕を問い詰めたんです。──こっちも面倒になって殴ってしまいました。そしたら、ご主人のときと同じように、頭を打って気を失ったんです。──それで、あのときやりそこなったことをもう一度やってみようと思いましてね」
「自分の奥さんを!」
「自殺する理由は正に充分でしょう。家を出て、男に捨てられた。誰でも自殺と思いますよ。ところが──」
と、木戸は首を振った。「あのときの通り、あなたがまた帰って来てしまったわけでね」
「どうするの? 私は自殺する理由なんかありませんよ」
「それを今、考えてるんですよ」
と、木戸はナイフを手に近づいて来た。
「大声を出すわよ」
「どうぞ。その前に喉《のど》が裂けてますよ」
「気狂い!」
「自分の身が大事なだけです。誰だってそうでしょう」
木戸は、ちょっと笑った。
そのとき、玄関のドアが開く音がした。
ハッとした瞬間、木戸が私を壁へ押しつけると、喉にナイフを突きつけた。
「静かにしろ!」
と押し殺した声で言う。「声を出すと殺すぞ!」
玄関の方で、
「こんにちは」
と声がした。
山田知子だ! そして、
「おばちゃん」
と、亜里の声。
私は、汗が背筋を伝うのを感じた。あの子にもしものことがあったら……。
それだけは避けなくてはならない!
「──お留守なのよ」
「でも靴がある」
「そうね。お庭にでもいるのかな」
「おばちゃん!」
亜里の声が、家の中を駆けめぐるような気がした。
「畜生……」
と、木戸が呟《つぶや》いた。
木戸の方も、額に汗が浮かんでいる。
「ちょっとご用で表に行ったのかもね」
と知子が言っている。「また来ましょうよ」
「捜して来る!」
「いいわよ。外で待ってましょ」
「じゃ、中を捜す!」
「亜里ちゃん! 勝手に上っちゃだめよ」
小さな足音がトントンと廊下に響いた。
いけない。ここへ来たら──。
「危ない!」
私は叫んでいた。「来ちゃだめ!」
ナイフの刃が喉へ食い込むかと思ったとき、木戸が、
「ワーッ!」
と叫んで、離れた。
郁子さんが、木戸の足にかみついたのだ! 木戸は、郁子さんをけって、振り切ると、痛みでよろけた。
知子が飛び込んで来る。
「そいつが犯人なのよ!」
と私は叫んだ。
私は、だから逃げろ、亜里を連れて逃げろ、というつもりで言ったのである。
だが、知子は、ちょっと誤解したらしかった。やっと立ち直りかけた木戸へダダッと駆け寄ると、拳《こぶし》を固めて、
「エイッ!」
とかけ声もろとも、ぶちかましたのであった。
木戸は大の字になって、のびてしまった。知子は、自分でもびっくりしたように、木戸を見下ろしている。
「先生、強い!」
ドアの所で、亜里が手を叩いた。
「──ご苦労様でした」
落合刑事が、言った。
居間は、やっと静かになっていた。
木戸が連行され、郁子さんは、二階で手当を受けている。
知子が、お茶を淹《い》れて来てくれた。
「やあ、どうも」
と落合が言った。「あなたには、きっと警視総監賞が出ますよ」
「まあ、困りますわ」
と、知子が赤くなって、「犯人をノックアウトしたなんて分ったら、子供たちが何て言うか……」
「いいじゃないの。金一封ぐらい出るかもしれないわ」
と私は言った。
「そうですね。それでみんなの靴ぐらい買えるかもしれないわ! じゃ、いただきます!」
「こりゃ、万一出なかったら大変だ」
と落合が笑った。
知子が出て行くと、私と落合は、何となく、少し黙り込んだ。
「──柏木幸子が、杉崎殺しを自供しましたよ」
と落合が言った。「志村の件と引きかえに、体を要求されたんだそうです」
「そうですか……」
「これで、全部、終ったわけですね」
終った。──その通りだ。
私がここにいる理由も、もうなくなった。
「ご実家へ戻られるんですか」
と訊かれて、私は、反射的に、
「いいえ」
と答えていた。
「すると、ここに?」
「ええ。──今、決心がつきました。ここで、やり直しますわ」
「なるほど」
「人間って……分らないものですね」
と、私は言った。「この事件がなかったら、私、きっと主人のことを、ろくに知らないで、過していたかもしれません。それでもずっと一緒に暮して、それなりに、夫婦らしくはなっていたかもしれないけど……。でも、主人が死んで、思いもかけなかった主人の顔がいくつも見えて来て……。今になって、主人がどんなに素晴らしい人だったのか、分るんです」
落合は、ゆっくり肯《うなず》いた。
「ねえ、変でしょう? 未亡人になって、死んだ夫に恋をするなんて。──でも、本当にそんな気持なんですの。もっと前に分っていれば、と残念ですけど」
「幸せな方だ。あなたも、ご主人もです」
落合の言葉に、私は微笑んだ。
落合は立ち上った。
「さて、それでは……。色々とご面倒なことでしたね」
「いいえ。お世話になって。──あなたがいて下さらなかったら、とてもここまで、やれませんでしたわ」
「そうおっしゃっていただくと嬉《うれ》しいですよ」
私は、玄関まで、落合を送りに出た。
「一度お食事を付き合っていただけませんか」
「ありがとうございます。ぜひ──」
「やあ、そりゃ嬉しいな」
と落合は言った。「ご主人と張り合う気はありませんからね。勝目はなさそうだ」
二階から、郁子さんが降りて来た。
「大丈夫?」
と私が訊くと、肯いた。
「すみません、本当に。償いは必ず──」
「あなたのことを悪く思ってなんかいないわよ。二人の子供さんを、しっかりみてあげなきゃ」
「はい。私が働いて、必ず……」
と、郁子さんは顔を伏せた。
「もし具合が良ければ──」
と落合が言った。「お話をうかがえませんか」
「はい。一緒に参ります」
「じゃ、僕の車に。──では、奥さん、失礼します」
二人が出て行くのを見送ってから、私は居間に戻った。
何だか、この何日間かは、七年間の結婚生活より長かったみたいな気がする。
ホッとしたようで、気が抜けたような、虚《むな》しさ。もちろん、あんな事件に二度と出会いたくはないが、夫の顔を見つけ出す代償としてなら、高くない経験だった。
あなたは、本当に無口で、何を考えているのか分らない人だった。でも、結局、こんなにいい人だったのだから、私の目に狂いはなかったことになる。
もっとも、それが私の自慢になるかどうかは別問題だが。
夫。──そうね。あなたは〈良人〉と書くのが、本当にふさわしい人だった。
そのあなたを、色々な人が裏切った。志村も、柏木幸子も、平石も、そして私も。
それを考えると、本当に気の毒な人だ、と思うけれど、たとえあなたが生きていて、それを知っても、相変らず、あなたは人を信じ続けたに違いない……。
「これで、あなたの顔は全部なんでしょうね?」
と私は、声に出して呟《つぶや》いた。
あ、そういえば、死に際の「ゆきこ」という名前のことがあった。柏木幸子のことか、それとも、遠い初恋の人でも思い出していたのか。
ま、いいや。それぐらいは許してあげる。
「──帰ったんですか、刑事さん」
と、知子が入って来る。
「ええ、さっきね」
「大変でしたね」
「あなたにお礼を言わなきゃ」
「とんでもない!」
「ねえ、かけて」
と、私は、知子をソファへ坐らせた。「あなた、私とここで暮さない?」
「え?」
「アパートで暮すんだったら、同じでしょ。私、ここで頑張るつもりなの。あなたが一緒にいてくれたらありがたいんだけど」
「そりゃ……私は別に……」
「いいの? じゃ、早速ね!──でも、もちろんあなたが結婚するときは出て行ってもらいますからね」
「奥さんだって──」
「私はだめよ。もう、あの人以上の亭主なんているわけないと思ってるの」
「まあ、凄《すご》いですね」
「こら、冷やかすな! もう男なんて近づけない……かどうか分らないけど」
と私は首をかしげて、「そりゃ時には寂しくなったらね。でも、それだけのことよ」
「そのときは私、このソファで寝るのかしら」
私たちは一緒に笑った。
それから、私は真顔になって、
「実はもう一人、同居させたいの」
と言った。「亜里ちゃんを引き取れないかしら。それが主人の希望だったとも思うし……」
「すてきですね」
「でも──大丈夫かしら? 私は、自分の子供もいなくて──」
と、私は言い淀《よど》んだ。
「さっき、奥さんは、殺されそうになるのも構わずに、亜里ちゃんを助けたじゃありませんか」
と、知子は言った。「立派に親の資格があると思います」
「そう言ってもらって、ホッとしたわ」
私は、知子の手を握った。
「でも、大変ですよ。子供は病気もするし、けがもする。口ごたえもすれば、泣きわめきもしますもの」
「少しずつ勉強していく他ないわね。母親一年生として」
「それに──亜里ちゃんの気持が第一ですわ」
「ああそうか。肝心なことを……。どこにいるの?」
「お二階で昼寝してますよ」
「覗《のぞ》いて来ようかな。どう?」
「一人で行って下さい」
私は微笑んで、肯いた。
そっと階段を上って、寝室を、覗いてみる。
ベッドで、亜里が眠っていた。少し口を開いて、元気の良い寝息をたてている。
腕には、夫があげたという、あの何の変哲もない人形を抱いていた。
私は、胸がいっぱいになって、そっとベッドに坐り、亜里の顔にかかった髪を払ってやった。──亜里の目が開いた。
「あら、起こしちゃった? ごめんね」
亜里は、目をパチパチとやって、
「ここ、おじちゃんの部屋だったの?」
と訊いた。
「おじちゃんとおばちゃんのね」
「ふーん」
亜里は欠伸《あくび》をした。
「まだ眠かったら、寝てていいのよ」
「だって……」
「ねえ亜里ちゃん」
「うん?」
「おばちゃんのうちに来ない?」
「今来てるよ」
私は笑ってしまった。子供には、率直に言わなくては。
「おばちゃんの子供になって、一緒に暮さない?」
亜里が、大きな目でじっとこっちを見つめる。初恋を打ちあけるときのように、どきどきした。
「先生に訊いてみなきゃ」
と亜里が言った。
「先生がいいって言ったら?」
「じゃ、いいや」
私は、亜里の頭を抱き寄せた。
「──苦しいよ」
「ごめんなさい」
と、私は笑いながら言った。
「この子も一緒でいい?」
と亜里がお人形を見せる。
「いいわよ。仲良しだものね」
「うん!」
「お人形さん、お名前、あるの?」
「あるよ」
と亜里は言った。「ゆきこ」