何だか、まだ息が切れてるみたい。
亜由美は披《ひ》露《ろう》宴《えん》の席についても、しばらくは料理に手がつけられなかった。
洋食のフルコースなので、それまでに出た、オードブルだのスープだのが、目の前に並《なら》べられている。猛《もう》スピードで着《き》替《が》えをして、タクシーを飛ばして来たので、辛《かろ》うじて一時間ほどの遅《おく》れで駆けつけることができた。
それにしても……どうしてこうあわてん坊《ぼう》なのかしら、私は、と亜由美は我《われ》ながら感心している。普《ふ》通《つう》、女の子なら結《けつ》婚《こん》式《しき》に出るというのは大《だい》好《す》きで、何日も前から、あのドレスにしようか、この振《ふり》袖《そで》にしようか、と楽《たの》しく思い悩《なや》むものなのに、こともあろうに当日になってケロリと忘《わす》れてしまうなんて……。
お母さんだって、一言注意してくれりゃいいんだわ、本当に! 亜由美は八つ当りした。
亜由美の母、塚川清《きよ》美《み》は至《いた》って社交的な性《せい》格《かく》で、大体昼間家にいたためしがないのだから、苦《く》情《じよう》を言ったところで仕方ないのだが。
「——どうしたのよ?」
と、隣《となり》の席にいるクラブの三年生、桜《さくら》井《い》みどりに訊《き》かれて、
「ちょっと電車の事《じ》故《こ》で」
と、亜由美は言《い》い訳《わけ》した。
運良く、披《ひ》露《ろう》宴《えん》は新《しん》郎《ろう》新《しん》婦《ぷ》がお色直しで中《ちゆう》座《ざ》しているため、もっぱら食事をしながら雑《ざつ》談《だん》という状《じよう》態《たい》であった。
少し息切れも直って、冷めたスープを飲んでいると、
「ねえ、花《はな》嫁《よめ》さん、見たことある?」
と、桜井みどりが声をかけて来た。
「いいえ。今日が初めて」
「美人よ。ちょっと田村さんにはもったいないくらい」
「まあ、悪いわ」
と、亜由美は笑《わら》った。
「だって本当なんだもの。でも何か——こう、イメージ違《ちが》うのね。田村さんが選ぶのなら、全然別のタイプの人かと思った」
田村久哉は、亜由美の所《しよ》属《ぞく》している〈西洋の中世史研究会〉の先《せん》輩《ぱい》である。
今年、学部を卒業して就《しゆう》職《しよく》したので、三年先輩ということになるが、年《ねん》齢《れい》的には一《いち》浪《ろう》組なので四つ上の二十三歳《さい》である。
部長をやっていて、新入生の面《めん》倒《どう》を良くみてくれるので、女《じよ》性《せい》部員にも人気があった。しかしそれは男性としての田村に人気があったということではない。ずんぐり型の体型、いかにも人《ひと》柄《がら》を表わしている穏《おだ》やかな丸《まる》顔《がお》、極度の近《きん》視《し》で、度の強いメガネをかけている、という外見からは、女《じよ》性《せい》にもてるプレイボーイとは正反対の印象しか与《あた》えられない。
女性にとっては、「絶《ぜつ》対《たい》安《あん》全《ぜん》、人《じん》畜《ちく》無《む》害《がい》」という意味で、何かと頼《たよ》りにされていたのである。亜由美のように、ちょっと男っぽいところのある娘《むすめ》にとっては、魅《み》力《りよく》を感じるところまではいかなくとも、妙《みよう》にキザったらしいプレイボーイタイプの二枚《まい》目《め》よりはよほど付き合いやすかった。
「どこで知り合ったのかしら」
と、亜由美が言うと、桜井みどりは、口《く》惜《や》しそうに、
「それが全然分らないのよねえ」
と首を振《ふ》った。
亜由美は笑《わら》いをかみ殺した。桜井みどりはゴシップにかけては絶対に他人にひけを取らないと自負する情《じよう》報《ほう》通《つう》で、それでいて田村の結《けつ》婚《こん》相《あい》手《て》のことが良く分らないというのは、正に屈《くつ》辱《じよく》以外の何ものでもないのだろう。
「ただ、急に決ったことだけは確《たし》かよ」
と、桜井みどりは言った。「前もって全然噂《うわさ》も聞かなかったんだから」
それは確かだろう。亜由美も招《しよう》待《たい》状《じよう》を見て初めて田村の結婚を知ったのだから。
「何か複《ふく》雑《ざつ》な事《じ》情《じよう》がありそうよ」
というみどりの言葉は、たぶんみどりの希《き》望《ぼう》的《てき》観《かん》測《そく》だろうが。
それに、田村の両親は確か学校の教《きよう》師《し》のはずだ。それにしては豪《ごう》華《か》な——いや、いささか派《は》手《で》に過ぎるような披《ひ》露《ろう》宴《えん》である。
ホテルの広間で、客の数も百人は下るまい。かなりの費用がかかっている。今年就《しゆう》職《しよく》したばかりの田村に、とても負《ふ》担《たん》できるはずはない。——花《はな》嫁《よめ》がよほどの資《し》産《さん》家《か》なのか。
招《しよう》待《たい》状《じよう》では、花《はな》嫁《よめ》の名は増《ます》口《ぐち》淑《よし》子《こ》とあった。もちろん、名前だけでは何一つ分らないけれど。
会場にエレクトーンの響《ひび》きが鳴り渡《わた》って、プロらしい司会者が、新《しん》郎《ろう》新《しん》婦《ぷ》の入場を告げると、照明が暗くなった。広間に並《なら》んだ丸《まる》テーブルの中央に、それぞれ色とりどりの、太いローソクが立てられている。
恒《こう》例《れい》のキャンドルサービスだろう。——スポットライトが入口へ当ると、白ずくめの新郎新婦がその中に浮《う》かび上った。
まだ遠くて、よく分らなかったけれど、白のタキシードの田村なんて、想《そう》像《ぞう》しただけで亜由美は吹《ふ》き出しそうになった。
エレクトーンが少々やかましいほど鳴り渡る中を、一つ、一つ、テーブルを回って、花嫁と花《はな》婿《むこ》が近付いて来る。
遠くからは白に見えた花嫁のドレスは、淡《あわ》いピンクの真《しん》珠《じゆ》色とでもいうのか、見るからに目を奪《うば》う豪《ごう》華《か》さであった。そして、確《たし》かに桜井みどりの言葉は何の誇《こ》張《ちよう》でもないことが、亜由美にも分った。
多少、年《と》齢《し》は行っているのかもしれない。二十四、五かな、という気はした。しかし、正に女《じよ》優《ゆう》にしたくなるような美女である。
いささか表《ひよう》情《じよう》に乏《とぼ》しい、というのか、濃《こ》い化《け》粧《しよう》を割《わ》り引いても、やや冷ややかな印象を与《あた》える。しかし、それは美人の宿命かもしれない。
田村と花《はな》嫁《よめ》——淑子が、亜由美のいるテーブルへ移《うつ》って来る。亜由美が手を叩《たた》いた。スポットライトがまともに当って、亜由美は目を細めた。
田村は、額《ひたい》に玉のような汗《あせ》をかいている。具合でも悪いのかしら、と亜由美は思った。田村が亜由美に気付いて、ホッとしたように、こわばった表《ひよう》情《じよう》が緩《ゆる》んだ。亜由美が微《ほほ》笑《え》み返すと、田村は急に目をそらした。
ローソクに火が点《つ》いて、新《しん》郎《ろう》新《しん》婦《ぷ》が次のテーブルに移《うつ》って行くのを目で追って行くと、花《はな》嫁《よめ》が振《ふ》り向いた。一《いつ》瞬《しゆん》、冷ややかな視《し》線《せん》に亜由美は射《い》すくめられた。
拍《はく》手《しゆ》していた手が止まった。——亜由美は、何か寒《さむ》々《ざむ》とした思いで、冷《さ》めた料理に視線を戻《もど》した。
桜井みどりが、そんなことには一向に気付かない様子で、言った。
「どう? 美人でしょ?」
「そうね」
とだけ、亜由美は言った。
ワイングラスを取り上げて口をつける。いいワインだったが、さっぱりおいしく感じられなかった。
確《たし》かに、みどりの言葉ではないが、田村の結《けつ》婚《こん》相《あい》手《て》としては、イメージの違《ちが》う女《じよ》性《せい》である。もう少し、あたたか味のあるというか、おっとりした女性の方が、田村には似《に》合《あ》っているような気がした。
何を考えてるの、人の結婚相手のことなんか! 亜由美はグラスのワインを一気に喉《のど》へ流し込《こ》んだ。
何か、ちょっとした騒《さわ》ぎが起っているらしかった。ざわついた雰《ふん》囲《い》気《き》に気付いて振《ふ》り向くと、どうやらどこかのテーブルで、ローソクにうまく火が点《つ》かないらしいのである。
「しめってんじゃないの」
と、桜井みどりが愉《ゆ》快《かい》そうに囁《ささや》いた。
亜由美はあまりそういうことを面白がるという趣《しゆ》味《み》はなかった。ホテルの係があわてて代りのローソクを手に駆《か》けつけ、ようやく事《じ》態《たい》はおさまったのだが……。
場内が明るくなって、正面の席に新《しん》郎《ろう》新《しん》婦《ぷ》が落ち着くと、再《ふたた》び披《ひ》露《ろう》宴《えん》はスムーズに進行し始めた。
何しろプロの司会者である。その間も巧《たく》みに、席をもたせて行くが、逆《ぎやく》にそのあまりの巧《こう》妙《みよう》さが、いかにも作り物らしくて、亜由美はすっかりしらけた気分になってしまった。
あんなことなら、ただの友達がやった方が、どんなに下《へ》手《た》でも、まだ心を打つものがあったろう。
歌だの、踊《おど》りだの、詩の朗《ろう》読《どく》だのをいかにもバランス良く並《なら》べた宴《うたげ》は、まるでバラエティーショーのようだ。
亜由美は席を立って、廊《ろう》下《か》へ出た。化《け》粧《しよう》室《しつ》へ行こうとして、ふと足を止めた。
「——分りませんよ、どういうことなんだか!」
「しかし実《じつ》際《さい》にこのローソクが立ててあったんだぞ!」
言い合う声に振《ふ》り向くと、廊下の隅《すみ》で、会場の主《しゆ》任《にん》らしい、黒のタキシードの男が、部下の若《わか》い男とやり合っているのだ。
「これだけ違《ちが》うメーカーだなんて、見ただけじゃ分りませんよ」
白のタキシードの、若い方の男は、自分の責《せき》任《にん》と言われて心外な様子だった。
「しかし、どこで紛《まぎ》れ込《こ》んだんだ? 見ろ、中の芯《しん》がボロボロに切れてる。これじゃ、まともに火が点《つ》くはずがない」
「ちゃんとケースから一本ずつ出して、立てて行ったんですから。最初からケースに紛れ込んでたとしか思えません」
「まずいぞ、全く。——よりによって、あのテーブルは、新《しん》婦《ぷ》側《がわ》の親族の席だ。いやな目でにらんでたぞ」
「こっちのせいじゃないですよ」
「怒《おこ》られるのは俺《おれ》だ。——ま、いい。ともかく業者によく言っとけ。二度とこんなことのないように、ってな」
「はい」
若い方の男は、不服そうな様子で、渋《しぶ》々《しぶ》肯《うなず》いた。
火の点《つ》かないローソク。——他のメーカーの粗《そ》悪《あく》品《ひん》が、どうして新品のケースの中へ紛れ込んでいたのだろう。化粧室へと歩きながら、亜由美は何だか悪いことが起りそうな気がした。
——席に戻《もど》ってみると、食事はデザートに入っていた。友人代表の何人かが、スピーチの最中だった。
もちろん、亜由美は何も頼《たの》まれていないから気《き》楽《らく》なものである。
「——何だか変よ」
と、桜井みどりがそっと囁《ささや》く。
「え? 何が?」
「友人代表って、新《しん》婦《ぷ》側《がわ》ばかりなの。田村さんの方は、誰《だれ》も立たないの。こんなことってある?」
なるほど、それは妙《みよう》である。今、立って、何だか歯の浮《う》くようなお世辞を並《なら》べているのは、新婦のピアノの教《きよう》師《し》だという中年の派《は》手《で》な感じの女《じよ》性《せい》だった。
亜由美がデザートのシャーベットを食べていると、ウエイターの一人が、傍《そば》へやって来て、
「これを」
と、折りたたんだ紙を差し出した。
開いてみると、走り書きで、
〈塚川君。突《とつ》然《ぜん》で悪いけど、一言スピーチを頼《たの》む。僕《ぼく》にとって、信《しん》頼《らい》できる友人といえば、君だけしかいないんだ。どうかよろしく頼む。田村〉
とある。亜由美は戸《と》惑《まど》った。
いや——急にスピーチを頼まれるのも困《こま》るが、それだけではない。たかがスピーチを頼むにしても、〈信頼できる友人〉が〈君だけしかいない〉という言い方は、いささかオーバーに思えた。
冗《じよう》談《だん》半《はん》分《ぶん》でそう言っているのならともかくも、田村は、そういう冗談を言うタイプではないのだ。——何となく、亜由美は落ち着かない気分で、そのメモ用紙を、捨《す》てる気にもなれず、ハンドバッグの中へ、しまい込んだ。
とたんに、
「塚川亜由美さんに、一言、お祝《いわ》いの言葉をいただきたいと存《ぞん》じます」
という司会者の声が耳へ飛び込《こ》んで来て、気が付くと、マイクを握《にぎ》らされて突《つ》っ立っていた。拍《はく》手《しゆ》が静まる。何か言わなくちゃならないのだ。——亜由美はゴクリと唾《つば》を飲み込《こ》んだ……。
ああ、疲《つか》れた。
ホテルのロビーへ降《お》りて来ると、亜由美はぐったりとソファにへたり込んだ。
きらびやかにシャンデリアの下がった、広いロビーの空間には、人々の話し声のざわめきが反《はん》響《きよう》し合い、混《ま》じり合って、絶《た》え間ない海鳴りのように揺《ゆ》れている。
他にも式があったとみえて、盛《せい》装《そう》したグループがそこここに見える。
亜由美は、重たい引出物の包みを下へ置いて、やれやれ、とため息をついた。妙《みよう》な疲《つか》れ方である。
亜由美とて、結《けつ》婚《こん》式《しき》に出て、ウエディングドレスを見たり、同席した女《じよ》性《せい》たちの衣《い》裳《しよう》に目をこらすことも嫌《きら》いではない。だから、普《ふ》通《つう》の披《ひ》露《ろう》宴《えん》ならば、こんなに疲れるはずがないのである。
どこかが、ぎくしゃくしていたのだ。何か不自然で、無《む》理《り》なところがあった。
どこが、と指《し》摘《てき》することはできないが、ともかく、何か亜由美を疲れさせるものが、あの披露宴の中にはあったのである……。
何だか、亜由美には、田村のことがひどく気になった。
「——ここにいたの」
と、桜井みどりがやって来て、隣《となり》にデンと腰《こし》を据《す》える。
亜由美としては、あまりみどりの相手をする気分ではなかった。
「——聞いて来ちゃった」
と、みどりが言った。
「え?」
「奥《おく》さんの実家ね、増口家って、このホテルチェーンの持主なんだって」
「このホテルの?」
と、亜由美は思わず訊《き》き返していた。
「そう。もちろんホテルチェーンだけじゃなくて、他にもスーパーとか、色々持ってるみたいよ。凄《すご》い金持なのね」
「その家の娘《むすめ》さんと田村さんがどうして——」
「そこまでは分らないわよ」
と、みどりは肩《かた》をすくめた。「でも、必ず調べ出してやるから」
私《し》立《りつ》探《たん》偵《てい》か何かのつもりでいるらしい。亜由美は苦《く》笑《しよう》した。
「田村さんうまくやったわね」
と、みどりが言った。「これで将《しよう》来《らい》はどこかのホテルの総《そう》支《し》配《はい》人《にん》とか、行く行くは社長の椅《い》子《す》かな」
「さあ……。でも、田村さんにそんな役が合ってるとも思えないけど」
「そうね、何となく貧《びん》乏《ぼう》性《しよう》の顔してるし」
みどりは遠《えん》慮《りよ》というものを、あまりしない性《せい》質《しつ》なのである。
そのとき、二人のそばを、ダブルのスーツ姿《すがた》の紳《しん》士《し》が通りかかった。でっぷりと腹《はら》が出て、転がしたくなるような球型の体つきをしている。亜由美は、どこかで見たような人だな、と思った。
向うの方で、亜由美に気付いたらしい。ツルリと禿《は》げ上った額《ひたい》を、ちょっとなでて、
「田村君のお友だちの方ですな」
と声をかけて来る。
「はい」
あわてて亜由美は立ち上った。
「淑子の父です。どうもていねいなご祝《しゆく》辞《じ》をいただいて——」
「いいえ——そんな、とんでもございませんわ」
「田村君とは大学で?」
「はい。同じクラブの先《せん》輩《ぱい》なんです」
「どういうクラブに入っとったのかな? 私は忙《いそが》しくて、田村君とあまり話したことがないのですよ」
童顔で、いかにも愛想の良い笑《え》顔《がお》だった。ただ、その笑《わら》い方は、「営《えい》業《ぎよう》用《よう》」というか、永《なが》年《ねん》の仕事で身につけたもの、という印象を与《あた》える。
「西洋の中世の民《みん》衆《しゆう》の生活とか、伝説とか、そういったものを研究するグループなんです」
「ほう。ずいぶん難《むずか》しいことをやっとるんですな。私は商業学校しか出とらんので、いわゆる学問の喜びなどというものはさっぱり分らんのですが……。まあ、私たちの一族にも多少は知的な血を入れなくてはね。田村君も見かけはちょっとぼんやりしておるが、なかなかの秀《しゆう》才《さい》らしい」
「とても優《ゆう》秀《しゆう》な人です」
「それは結《けつ》構《こう》。まあ、娘《むすめ》夫《ふう》婦《ふ》のところへも、遊びに行ってやって下さい」
「ええ、ぜひ……」
「ではこれで」
と、増口は軽く一礼して、歩いて行った。同《どう》年《ねん》輩《ぱい》ぐらいの、たぶん同業者らしい男たちが集まった一角へと増口が近付いて行くと、その男たちが一《いつ》斉《せい》に立ち上って頭を下げる。
どうやら増口というのは、かなりの実力者らしい。
「——本当の大物って、そう見えないもんらしいけど、あれもその口ね」
と、桜井みどりが言った。
「そのようね」
と、亜由美は肯《うなず》いた。
しかし、妙《みよう》なものだ、と思った。あんな大物が、自分の娘を結《けつ》婚《こん》させるのに、相手のことをろくに知らないなんてことが、あり得《う》るのだろうか?
いや、実《じつ》際《さい》には、そんなものなのかもしれない。何しろ、ああいう人間たちは、普《ふ》通《つう》のサラリーマン家庭などが想《そう》像《ぞう》もつかないような生活をしているのだろうから。
「——まだ降《お》りて来ないのかしら」
と、みどりがロビーを見回した。
もちろん、田村と、その花《はな》嫁《よめ》を待っているのである。
「結《けつ》婚《こん》する人って大勢いるのねえ」
みどりはロビーを見回した。日がいいのか、目につくだけでも、二組の新《しん》婚《こん》らしい男女が、友人たちに取り囲まれている。
「あの内一つは離《り》婚《こん》するわよ、きっと」
みどりが不《ふ》謹《きん》慎《しん》なことを言い出した。
「ねえ、君——」
若《わか》い男の声がした。「君だよ、そこの澄《す》まし屋《や》さん!」
亜由美は振《ふ》り向いて、
「私のことですか?」
と言った。
いい加《か》減《げん》酔《よ》っ払《ぱら》っているらしい、背《せ》広《びろ》姿《すがた》の青年——二十六、七というところか、色の浅黒い、スポーツマンタイプの男《だん》性《せい》である。
「そう! 君はあの田村なんとかのガールフレンドだったんだろう?」
どうやら、同じ披《ひ》露《ろう》宴《えん》に出ていたらしい。
「クラブの後《こう》輩《はい》です」
「ただの仲《なか》じゃないと僕はにらんでいるんだがね。——正直に言えよ、彼《かれ》とは愛人関係だった?」
亜由美は、直《ちよく》接《せつ》行動を信《しん》条《じよう》としている。従《したが》って、失礼ね、と怒《おこ》るより早く、平手でその男の頬《ほお》を打った。
大して力を入れなかったつもりなのに、派《は》手《で》な音がして、周囲の視《し》線《せん》が一《いつ》斉《せい》に亜由美の方へ集まった。
相手の男の方は、痛《いた》いよりも面食らった様子で、
「いや……こりゃどうも……」
と頭をかきかき、「冗《じよう》談《だん》だよ、ほんの冗談……」
と呟《つぶや》きながら、照れくさそうに歩いて行ってしまう。
「——塚川さん、やるじゃない!」
みどりとしては大喜びである。これで話の種が一つ増《ふ》えたわけだ。
「だって、あんまりひどいことを言うんだもの……」
亜由美も多少頬《ほお》を赤らめながら、ソファに座《すわ》り直した。
ロビーがちょっとざわめいた。田村と、その妻《つま》、淑子が腕《うで》を組んで現《あらわ》れたのだ。
田村は、何だかあまりしっくり来ない高級スーツ姿《すがた》で、淑子の方は花が開いたように見える鮮《あざ》やかな赤のワンピースだった。
「悪いけど、およそアンバランス」
と、みどりが言った。
司会者の言葉によれば、二人はここから成《なり》田《た》へ行って、そこのホテルで一《いつ》泊《ぱく》。明日の飛行機でヨーロッパへ飛び立つはずである。
「田村さんがヨーロッパかあ」
と、みどりはため息をついて、「私、北極にでも行かなきゃ」
「どういう意味?」
と、亜由美は笑《わら》いながら言った。
田村は、妻《つま》の両親や、親類への挨《あい》拶《さつ》に忙《いそが》しくて、亜由美たちに気付かない様子だった。
田村の両親はどこにいるのだろう? 亜由美はふと思い付いて、ロビーを捜《さが》した。
しかし、どこにもそれらしい姿はない。亜由美も、よく顔を知っているというわけではないのだが、さっき披《ひ》露《ろう》宴《えん》での、花《はな》束《たば》贈《ぞう》呈《てい》のときには見ている。
花《はな》嫁《よめ》の淑子は、同年代の、たぶん学生時代の友人たちに取り囲まれて、にぎやかに談《だん》笑《しよう》していた。
「ああいう名門じゃ、大変でしょうね」
と、みどりが言った。
本当に、みどりではないが、なぜ田村がこんな結《けつ》婚《こん》をしたのか、亜由美にも不《ふ》可《か》解《かい》だった。——しかし、そんなことは、何も他人が口を挟《はさ》むことではない。
「ほら、運転手よ」
とみどりがつつく。
「え?」
「あの男。こっちへ歩いて来る、紺《こん》の制《せい》服《ふく》の。——凄《すご》い外車を運転してるの。今日早く来てたから、見ちゃったんだ」
がっしりした体つきの、運転手というよりは用《よう》心《じん》棒《ぼう》みたいな男が、増口の方へと歩いて行って、何か声をかけた。
「おい、淑子、車の用意ができたそうだ」
と、増口が娘《むすめ》に声をかける。「もう出かけなさい。成田は遠い」
淑子が友人たちに別れを告げて、父親の方へ行く。
「塚川君」
急に田村に声をかけられ、亜由美はびっくりした。淑子の方ばかりを見ていたので、田村が近くへ来たのに気付かなかったのだ。
「あ……田村さん」
おめでとうございます、と言おうとして、なぜかためらった。言葉がつかえて、出て来ない。
「今日はありがとう」
「すてきな奥《おく》様《さま》ね、田村さん」
と、みどりが口を挟《はさ》む。
「どうも。——桜井君も悪かったね、忙《いそが》しいのに」
「どういたしまして。結婚と離《り》婚《こん》の話なら、三度の食事を四度にしても駆《か》けつけて来るわよ」
みどりがソファに置いていた引出物の包みが、置き方が悪かったのか、滑《すべ》り落ちた。
「あら、いやだわ」
みどりが急いで拾いに行く。——そのときだった。
田村の顔から、照れたような微《ほほ》笑《え》みがかき消すようになくなった。そして素《す》早《ばや》く亜由美の耳元へ口を寄《よ》せると、
「聞いてくれ!」
と、切《せつ》迫《ぱく》した口調で囁《ささや》いた。
「え?」
「あの女はぼくの妻《つま》じゃない」
「何を——」
「そっくりだが別《ヽ》の《ヽ》女《ヽ》だ」
亜由美は耳を疑《うたが》った。
「田村さん……」
そこへ、
「——スピーチして下さった方ね」
淑子が、やって来た。
「紹《しよう》介《かい》するよ。塚川亜由美君だ」
田村は、またいつもの呑《のん》気《き》そうな笑《え》顔《がお》に戻《もど》っていた。
「素《す》敵《てき》な方ね」
と、淑子は亜由美に微《ほほ》笑《え》みかけながら、
「あなたに取られなくて良かったわ」
「そんなこと……」
亜由美は、曖《あい》昧《まい》に言った。
「ね、もう出かけないと」
淑子が夫の腕《うで》に自分の腕を絡《から》ませる。
「そうだな。——じゃ、塚川君。これで失礼するよ」
「どうぞ——お幸せに」
ほとんど無《む》意《い》識《しき》に、亜由美はそう言っていた。
ホテルの正面に、黒光りする大型車の車体が横づけされて、二人を待っている。客たちが、二人を見送りに、車《くるま》寄《よ》せへと出て行く。
「塚川さん、行こうよ!」
とみどりが声をかけて、小走りに行ってしまった。
しかし、亜由美はその場から動かなかった。
あれは本当だろうか? 田村は本当に、そう言ったのか?
「あれは別の女だ」
と。——だが——だが、そんなことがあるだろうか?
もしそうだとしても、なぜ田村は亜由美だけに、そっとそのことを告げて行ったのか。
亜由美は、一《いつ》瞬《しゆん》夢《ゆめ》にでも浮《う》かされていたような気がして、ソファの前に立ったまま、歓《かん》声《せい》の中を静かに滑《すべ》り出して行く、田村たちを乗せた車を、遠く見送っていた……。