「はい、亜由美」
母親が、目の前に風《ふ》呂《ろ》敷《しき》包みを置いた。
「なあに、これ?」
亜由美は、コーヒーカップを皿《さら》へ戻《もど》して、包みを開けてみた。台紙に貼《は》って、厚《あつ》紙《がみ》のケースにおさまった写真が、ざっと三十枚《まい》。
「今、来てるお話なの。二十八件《けん》あるわ」
夕食後の、めいめいが好《す》き勝《かつ》手《て》に新聞を広げたり、TVを見たりする時間である。
今日は珍《めずら》しく母の清美が家にいて、夕食を作ったので、親子三人が居《い》間《ま》に揃《そろ》っていた。
「お話って……」
「もちろんお見合いじゃないの」
「これ全部——見合写真?」
亜由美は唖《あ》然《ぜん》とした。
「おい、まだ早いんじゃないのか」
父親の塚川貞《さだ》夫《お》がTVから目を離《はな》さずに言った。
亜由美は、母親似《に》の顔立ちで、母親の方も、外出好《ず》きで若々しいから、ますます似て見えるらしい。父親の方は、一見インテリ風の技《ぎ》術《じゆつ》者《しや》であるが、TVはアニメ一《いつ》辺《ぺん》倒《とう》で、スポーツ中《ちゆう》継《けい》などには一《いつ》切《さい》興《きよう》味《み》を示《しめ》さないという変り者だった。
「早くなんかないわよ」
と、清美が切り返す。「いい相手は今の内からツバをつけておかなくちゃ」
「不《ふ》真《ま》面《じ》目《め》ねえ」
と亜由美は苦《く》笑《しよう》した。
「結《けつ》婚《こん》は現《げん》実《じつ》ですよ。夢《ゆめ》を追うのは十八まで。十九になったら現実に直面しなきゃ」
これが清美の哲《てつ》学《がく》である。
「二十八件《けん》も? 良くため込んだもんね、こんなに!」
「どうせなら、きりがいいから三十件集まるまで待とうかと思ったんだけどね。ここ一週間ばかり話がないから、ここで一区切り、と思ったの」
「抽《ちゆう》選《せん》で十名様に記念品って感じね」
「そんなことばっかり言ってないで、見てごらんなさいよ」
急に父親がゲラゲラ笑《わら》い出した。TVの子《こ》供《ども》向けアニメを見ているのである。清美が、それを見て、
「——ああいう人を選ばないように気を付けてね」
と言った。
亜由美は笑いながら、その気もなしに写真を眺《なが》めて行った。そして、ふと手を止めると、
「——今日、何日?」
と訊《き》いた。
「二十四日よ」
「二十四日か……」
田村の結《けつ》婚《こん》式《しき》から、ちょうど一週間がたったわけだ。もちろん、まだヨーロッパから、田村たちは戻《もど》っていないだろう。
今《いま》頃《ごろ》田村たちはどの辺だろう? パリかローマか、ロンドンか。それともヴェニスでゴンドラにでも揺《ゆ》られているのだろうか。
いずれにしても、田村には似《に》つかわしくない光景に思える。
亜由美は、見合写真を一つずつ見ながら、あのときの田村の言葉を思い出していた。
「あれは、そっくりな別《ヽ》の女《ヽ》だ……」
ずっと、その言葉が亜由美の脳《のう》裏《り》を去ったことはない。しかし、亜由美に何ができようか?
あの淑子の父親のところや、田村の両親の家へ行って、いきなりこの話を持ち出せば、とてもまともに取り合ってはもらえまい。といって、友人——特《とく》に桜井みどりなどにこの話をするなど、とんでもないことである。
たちまち、その噂《うわさ》は方々へ広まってしまうだろう。
亜由美としては、田村がハネムーンから戻《もど》るのを待つ以外、どうすることもできなかったのだ。
「——どう、亜由美?」
と、母が訊《き》いた。「会ってみたいっていう人がいた?」
「えっ?——ああ、これ?」
亜由美は見終えた写真の山を見て、
「よく見なかったわ」
と言った。
呆《あつ》気《け》に取られている清美を尻《しり》目《め》に、亜由美は居《い》間《ま》を出て、二階の自分の部屋へ行った。
明りを点《つ》けると、あまり女の子っぽくない——ということは、つまりゴテゴテと飾りつけていない部屋が目に映《うつ》る。すっきりしたのが、大《だい》好《す》きなのである。
亜由美はベッドに弾《はず》みをつけて転がり込《こ》んだ。
「あーあ」
と、声を絞《しぼ》り出しながら伸《の》びをした。
ふと、机《つくえ》の上に、何か置いてあったような気がして、起き上る。——絵《え》葉《は》書《がき》だ。
「田村さん……」
見覚えのある、田村のユニークな筆《ひつ》跡《せき》であった。
〈塚川君。
今はロンドンに来ています。天気はあまり良くない。しかし、歴史的には興《きよう》味《み》のある街《まち》です。少し古本屋を探《さが》して歩くつもりですが、時間があるかどうか。
ではこれで。 田村〉
「田村さんらしいわ」
と、亜由美が笑《わら》いながら呟《つぶや》いたのは、ハネムーンのときまで、古本屋へ寄《よ》ろうというあたり、それに、一体何のために絵葉書をくれたのか分らないような文面について、でもあった。
裏《うら》の写真を見て、もう一度亜由美は笑ってしまった。——ロンドンから出しているというのに、絵葉書は、ヴェニスのそれだったからである。
亜由美は却《かえ》って安心した。これでこそ田村さんだわ、と思ったのである。
もし、〈今、僕たちはハネムーンを楽しんでいます〉などという文面だったら、むしろ心配したに違《ちが》いない。
しかし、この調子なら、まあ心配することもないだろう。——もっとも、花《はな》嫁《よめ》の方が腹《はら》を立てて、帰国したら即《そく》離《り》婚《こん》なんてことにならなければ、の話だが……。
亜由美の机の上の電話が鳴った。
「——亜由美、電話よ」
と母の声。「男の人から」
「誰《だれ》?」
「知らないわよ。つなぐからね」
清美がつなぐと、三回に一回は電話が切れてしまう。しかし、今度はうまくつながった。
「もしもし」
若《わか》い男の声である。聞き憶《おぼ》えはなかった。
「亜由美ですけど……」
「やあ、先日はどうも」
と、相手はいやになれなれしい。
「どなたですか?」
「忘《わす》れちゃったかな。ホテルのロビーで君にノックアウトされた男さ」
「あ——」
亜由美に酔《よ》って声をかけて来た男だ。
「何かご用ですか?」
と亜由美は無《ぶ》愛《あい》想《そう》な声で言った。「第二ラウンドがご希望ですか?」
「まあ勘《かん》弁《べん》してくれよ」
と男は笑《わら》って、「あのときは少々酔ってたしね。それに振《ふ》られて、やけにもなってたんだ」
「振られて?」
「自《じ》己《こ》紹《しよう》介《かい》するよ。僕《ぼく》は武《たけ》居《い》俊《とし》彦《ひこ》というんだ。君は塚川亜由美さんだね」
「知ってりゃ訊《き》くことないでしょ」
「僕は彼女《かのじよ》の婚《こん》約《やく》者《しや》だったんだ」
「彼女って——」
「増口淑子さ」
「でも……」
「振った男を披《ひ》露《ろう》宴《えん》に招《よ》ぶなんて残《ざん》酷《こく》だろう? あの増口って一族には、そういう血が流れてるんだ」
「あなたの一族には、そういう招《しよう》待《たい》にのこのこ出かけて行くような血が流れてるの」
と亜由美が言うと、武居と名乗った男は声を上げて笑った。
「いや……君は面白い人だなあ。君のことは忘れられないよ」
「それより何の用ですか?」
「ちょっと会って話をしたいんだ」
「私に?」
「そう。——明日は土曜日だ。どうかな、時間はある?」
「時間があるかどうかより、用があるのかどうかが問題じゃないんですか?」
「気になることがあってね」
真《ま》面《じ》目《め》な口調になった。
「気になること?」
「そう。君はあの田村って人が彼女と結《けつ》婚《こん》するようになった事《じ》情《じよう》を知ってる?」
「いいえ」
「式の前に彼女に会ったことは?」
「ありません」
「じゃ、やっぱり何も知らないわけだね」
「そんな気をもたせるような言い方、やめて下さい」
「失礼。そんなつもりじゃないんだよ。——ともかく、電話じゃ話にならない。明日、会ってもらえないか」
亜由美は迷《まよ》った。しかし、田村の言葉の意味が、それで分るかもしれない、と思い付くと、
「分りました」
と、ためらわずに承《しよう》知《ち》した。
「夕食でも一《いつ》緒《しよ》にどう? この間のお詫《わ》びに、おごらせてもらうよ」
「夜はデートがありますので」
と、亜由美は出まかせを言った。「昼食なら結《けつ》構《こう》です」
「分った。どこかご希望の店はあるかな」
「ええ」
と亜由美は即《そく》座《ざ》に言った。
「なるほど、なかなか旨《うま》いもんだね」
武居俊彦はハンバーガーにかみつきながら言った。
「食べたことないんですか、マクドナルド」
「うん。この手の店は、頭から無《む》視《し》してかかっていたからね」
「そういうのを、愚《おろ》かというんです」
「手《て》厳《きび》しいね」
と武居は笑《わら》った。
今日は、この間の酔《よ》っ払《ぱら》っていたときに比《くら》べると、大分イメージも変っていた。いかにも一流のビジネスマンという印象で、背《せ》広《びろ》も亜由美の父の物より高級であることは一目で分った。
二人は、ハンバーガーショップの二階のテーブルについていた。亜由美は、少し離《はな》れて座《すわ》っている有賀雄一郎の方へ、そっと目を向けた。有賀もそれに気付いて、ウインクして見せる。
「武居さんは、増口さんの会社に勤《つと》めてるんでしょう?」
「うん。ホテルチェーンの部門で、結《けつ》構《こう》、責《せき》任《にん》ある地位にいるんだよ」
「で、社長の娘《むすめ》を射《い》止《と》めようとしたんですね?」
「まあ——外から見るとそういうことになるかね。しかし、欲《よく》得《とく》ずくで彼女に近付いたわけでは決してないんだ。信じてくれるかどうか分らないが」
「信じたとして、話を進めて下さい」
「僕《ぼく》は淑子さんと婚《こん》約《やく》していた。もう一年くらい前になる。別に社長に押《お》し付けられたわけでもなく、こっちも無《む》理《り》に彼女《かのじよ》へ近付いたわけではない。色々とパーティで顔を合わせたり、テニスコートで一《いつ》緒《しよ》になったりという機会が重なって……まあ、熱《ねつ》烈《れつ》な恋《れん》愛《あい》というわけでもなかったが、一《いち》応《おう》結婚の約《やく》束《そく》をするまでになった」
「両親の反対は?」
「増口社長? いや、全くなかった。僕は、こう言っちゃ何だが、かなり増口さんには気に入られている。増口さんも、僕《ぼく》が淑子さんと結《けつ》婚《こん》するのを喜んでくれているはずだ」
「それはあなたがそう思っているだけでしょう?」
「だが、あの人はそうそう表面を取りつくろうことのうまい人ではないよ。内心面《おも》白《しろ》くなければ、必ず表《ひよう》情《じよう》に出る。——もう何年もあの人の下で働いて来たんだ。それぐらいのことは分る」
「なるほどね」
と、亜由美はミルクシェークを飲みながら、
「で、その話がなぜ破《は》談《だん》になったんですか?」
と訊《き》いた。
「突《とつ》然《ぜん》、理由もなくだよ」
と、武居は両手を軽く広げて見せた。
「理由もなしで?」
「僕は、六月に、増口社長から、ヨーロッパのホテルチェーンを視《し》察《さつ》して来て、うちのホテルと提《てい》携《けい》できないか打《だ》診《しん》して来てくれと言われた。六月の半《なか》ばに日本を発《た》って、僕はフランス、ドイツ、スペイン、イタリア……。ヨーロッパ中のホテルを泊《とま》り歩いた」
「会社のお金ででしょ?羨《うらやま》しい!」
と、亜由美はため息をついた。
「仕事となるとね。色々辛《つら》いこともあるよ」
と、武居は苦《く》笑《しよう》した。「設《せつ》備《び》、待《たい》遇《ぐう》、食事、立《りつ》地《ち》条《じよう》件《けん》。あらゆる点をチェックして、これはと思うホテルをリストアップした。直《ちよく》接《せつ》支《し》配《はい》人《にん》とも話をした。——まあ、大変ではあったが、二か月間、楽《たの》しい仕事でもあった」
「一人で行ったんですか?」
「もちろん。——それで、帰国したのが八月の二十日過《す》ぎだった。ところが……」
武居は言葉を切った。
「——ところが?」
「前もって手紙を出しておいたのに、成田に、淑子さんの姿《すがた》はなかった。まあ、何か用があったんだろうと思って、そう気にもせず、ともかく、会社へ直行した。——社長室へ入ると、増口社長は僕《ぼく》を笑《え》顔《がお》で迎《むか》えて、労をねぎらってくれた。そして……そこにいた男を、淑子の婚《こん》約《やく》者《しや》だと紹《しよう》介《かい》してくれたのさ」
「田村さんですね」
「そう。——僕の受けたショックは、君にだって分るだろう」
「そういう経《けい》験《けん》ありませんけど、想《そう》像《ぞう》はつきます」
と亜由美は肯《うなず》いた。「で、増口さんはどう説明したんですか?」
「何も」
「何も?」
「そう。何も、だ。もちろん僕にもプライドというものがある。当の、淑子さんの婚約者を前にして、増口さんと争いたくはない。だから、その場では、動《どう》揺《よう》を隠《かく》して、田村という男と挨《あい》拶《さつ》をしたよ。そして、後で増口さんと二人になったとき、僕は一体、これはどういうことなのか、訊《き》こうとした。だが、増口さんは、僕が何も言わない内に、
『何も訊かないでくれ』
と、僕の肩を叩《たた》いたんだ。『君には済《す》まないなと思う。しかし、他に方法がなかったんだよ』とね」
他に方法が……。亜由美は頭の中で、その言葉をくり返した。
「で、あなたもそれ以上、訊かなかったんですか?」
「そうさ。もちろん、僕は淑子さんが心変りしたんだと思った。当然そう思うだろう?」
「そうでしょうね」
「それをくどくど言うのも男らしくない。そう思って何も言わなかったんだ。ただ、いくら、心変りしたからといって、結《けつ》婚《こん》式《しき》が早過《す》ぎるような気はしたがね」
「で、披《ひ》露《ろう》宴《えん》でやけ酒ってわけですか」
「まあ君には失礼なことを言ったが、そんなわけだったんで、勘《かん》弁《べん》してくれ」
「それはまあ……」
亜由美としては、平手打ちまで食らわしたのだから、あまり偉《えら》そうなことは言えない。
「しかし、僕《ぼく》もあの後、田村君という人とは多少会う機会もあったんだが、淑子さんがなぜ、あんなにも急いで田村君と結《けつ》婚《こん》したのか、どうしても分らないんだ」
「私もです」
「ほう、君も?」
武居は亜由美を見つめた。「それはどういう意味?」
「何て言うか……田村さんらしくない相手だと……。そんなに田村さんのこと、良く知ってたわけじゃないし、男女の仲《なか》なんて、ほかの人間には分らないもんだと思いますけど……でも、それでもよく分らないんです。もし田村さんがあの人と恋《こい》に落ちたとしても、あんな派《は》手《で》な式をやったりするかしら、と……」
亜由美は肩《かた》をすくめて、「何だか巧《うま》く説明できませんけど……」
「いや、よく分るよ」
武居は肯《うなず》いて、「僕も田村君という人は、いい人だと思う。最初はどうしても、この野《や》郎《ろう》、という気持でいたが、ともかく、話をしてみると、憎《にく》めない人だね。だから、まあこの男になら、彼女《かのじよ》を取られても仕方ない、くらいには考えていたんだよ」
亜由美は、初めて、好《こう》感《かん》を持って、この男を眺《なが》めた。——なかなか分ってるじゃないの、この人。
ふと、あのことを話してみようか、と亜由美は思った。田村が亜由美に囁《ささや》いて行った謎《なぞ》めいた言葉を。
「実は、今日君を呼《よ》び出したりしたのはね」
と、武居が続けた。「ちょっと妙《みよう》な電話があったからなんだよ」
「どういう……」
「一昨日の夜なんだが——」
と、武居が言いかけたとき、ピーッ、ピーッと笛《ふえ》がつぶれたような、変な音がした。
「おっと。ポケットベルだ」
武居は上衣の内ポケットに手を入れて、音を止めると、
「ちょっと電話をかけて来るよ。失礼」
と、席を立って、一階のカウンターのフロアへと階《かい》段《だん》を降《お》りて行った。
有賀が立ち上ってやって来る。
「——何かキザな奴《やつ》だなあ」
「でも、そう悪い人でもないみたい。わざわざ見《み》張《は》ってもらって悪いけど」
「そういう油《ゆ》断《だん》が怖《こわ》い。きっと君をどこかのホテルへ連れ込《こ》む気だぞ」
「やめてよ」
と、亜由美は苦《く》笑《しよう》した。「それに、田村さんの結《けつ》婚《こん》、どうも気になることがあるの。あの人の話が、その辺に関係してるかもしれないわ」
「気になることって?」
「うん……。ちょっとね」
亜由美は、有賀にも、もちろんあの田村の言葉については、何も言っていないのだ。
「ともかく、時間あるから、僕はそこに座《すわ》ってるよ」
「悪いわね。何か用があるなら——」
と言いかけたとき、ドーンと凄《すご》い音がして、足下が揺《ゆ》らいだ。テーブルの上でグラスが音を立てて動いた。
「何、今の?」
と腰《こし》を浮《う》かす。
「キャーッ!」
「誰《だれ》か!」
「助けて!」
下の階から悲鳴が上った。亜由美は階段を一気に駆《か》け降《お》りた。有賀もあわてて後につづく。
「——ひどい!」
一階へ降り立った亜由美は、思わず立ちすくんだ。
通りへ面して、一階はガラスばりになっている。そこへ、小型トラックが突《つ》っ込《こ》んでいた。
ガラスを突き破《やぶ》って、車体はほとんど店の中へ、入り込《こ》んでいた。立ち食い用のテーブルが一つひっくり返って、その周囲で、けがをした女の子たちが泣《な》き出している。
「——有賀君! 早く助けなきゃ!」
「う、うん」
亜由美と有賀は、けがをした女の子を、抱《だ》き起して、店の奥《おく》へと運んで行った。
呆《ぼう》然《ぜん》としていた店員たちも、やっと我《われ》に返った様子で、一一九番へ電話したり、救《きゆう》急《きゆう》箱《ばこ》を持って来たりし始める。
「何て運転手だ」
と、有賀が腹《はら》立《だ》たしげに言った。
「そうだわ。運転手は? けがしてるんじゃない?」
「見て来る」
有賀は、トラックのドアを開けた。
「——どう?」
「誰《だれ》もいないよ」
「まさか!」
「見てみろよ」
と、有賀が亜由美を手《て》招《まね》きした。
なるほど、運転席は空っぽである。
「じゃ、どうして突《つ》っ込《こ》んだわけ?」
「知らないよ。どうなってるんだ?」
亜由美は、ふと武居のことを思い出した。そうだ。下で電話をかけているはずだった。
「武居さん!——武居さん!」
と亜由美が呼《よ》ぶ。
「おい、あれ——」
と、有賀が亜由美の腕《うで》を引《ひ》っ張《ぱ》った。
「え?」
有賀の指さす方へ目をやって、亜由美は目を見《み》張《は》った。赤電話の台が押《お》し倒《たお》されていて、その下から、受話器をつかんだ手が、のびていた。
「引《ひ》っ張《ぱ》り出さなきゃ! 早く!」
亜由美と有賀はあわてて駆《か》け寄《よ》った。
「——全くもう、何事かと思ったわ」
母の清美が、亜由美の服を広げて見ながら、言った。「こんなに汚《よご》して、血までついてるんだもの」
「仕方ないでしょ。人助けしたんだから」
ソファへ寝《ね》転《ころ》がって、亜由美は言った。
「本当なんでしょうね、その話?」
と、清美が言った。
「どういう意味?」
「もしかして……お前、どこかで強《ごう》姦《かん》されたんじゃないの?」
「凄《すご》いこと言ってくれるわね!」
亜由美は呆《あき》れて、「ニュースを見なさいよ、ちゃんとTVに映《うつ》ってるから!」
とかみつきそうな顔で言った。
「分ったわよ……」
清美は肩《かた》をすくめて、「で、その何とかさんって人、死んだの?」
「武居さん? いいえ、奇《き》跡《せき》的に軽いけがで済《す》んだの。一《いち》応《おう》入院してるけどね」
「ふーん。で、お前に何の用だったの?」
「ええと……まあ大した用じゃないのよ」
玄《げん》関《かん》でチャイムが鳴ったのを幸い、亜由美は逃《に》げ出した。玄関へ出て、ドアを開けると、父親が飛び込《こ》んで来た。
「馬《ば》鹿《か》! 早く開けんか!」
と、靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ捨《す》て、居《い》間《ま》へと駆《か》け込《こ》んで行く。
「どうしたの?」
びっくりした亜由美がついて行ってみると、父親はTVをつけて、
「電車が遅《おく》れたんだ。危《あや》うく見《み》逃《のが》すところだった!」
と息を弾《はず》ませた。
少女向けアニメ番組がスタートしたところで、にぎやかなテーマソングが流れて来た。
——二階の部屋で、亜由美が珍《めずら》しく(?)勉強していると、電話が鳴った。
「有賀さんよ」
と母の声。有賀のことは知っているのである。
「——おい、ニュース見た?」
出るなり、有賀はいきなりそう言った。
「見てないわよ。我《わ》が家のチャンネル権《けん》は、父が握《にぎ》ってんだから」
「あ、そうだったな」
「どうしたの?」
「例の事件さ。さっきNHK見たら、君も映《うつ》ってたぜ」
「美人にとれてた?」
亜由美は呑《のん》気《き》なことを訊《き》いた。
「そんなことよりさ、警《けい》察《さつ》の調べじゃ、あのトラックは誰《だれ》かが運転して、わざと突《つ》っ込《こ》んだらしいってんだ」
「わざと?」
「あの車の運転手は、近くのソバ屋で昼飯食べてたんだってさ。ちゃんとエンジンも切ってあったし、ハンドブレーキもかけてあった。誰かが乗り込んで、トラックを走らせたんじゃないかっていうんだ」
「ひどいことするのね! 誰がやったか、分らないの?」
「目《もく》撃《げき》者《しや》捜《さが》してるけど、分んないみたいだぜ、まだ」
「でも……そんなに簡《かん》単《たん》に動く?」
「だから、これはただのいたずらとか、そんなもんじゃないだろうって言うんだ。もっと具体的に誰《だれ》かを狙《ねら》ったとか……」
「警《けい》察《さつ》でそう言ってるの?」
「いや、こりゃ僕《ぼく》の推《すい》理《り》」
「何だ」
「何だ、ってことないだろ」
「ごめん、ごめん。——じゃ、もしかしたら、あの武居さんって人が狙《ねら》われたのかもね」
「考えられるよ。だって、他にけがしたの、中学生とか高校生ばっかりだよ」
「そうか。——電話台はあのガラスの方に面してたわね。車で突《つ》っ込《こ》めば真正面、てわけか」
「電話してるところが、表から見えたはずなんだよな」
「じゃ……本当に武居さんが狙われたのかしら?」
「分んないけど、ま、あんまり近付かない方がいいんじゃない?」
亜由美はちょっと考え込《こ》んで、
「——わざわざありがとう」
と、電話を切った。
田村の言葉、そして淑子の元の婚《こん》約《やく》者《しや》だった武居が狙《ねら》われかけたこと……。
加えて、なぜ淑子が急に武居から田村へ乗り換《か》えたのかという謎《なぞ》。
「何かありそうだわ……」
大体が、この手のTVや小説の大《だい》好《す》きな亜由美である。ちょっと胸《むね》をわくわくさせながら、そう呟《つぶや》いた。
「ニュース、ニュース!」
今夜は父親をけちらしてもニュースを見てやろう、と亜由美は決心して、部屋を飛び出して行った。