「——亜由美、どこかに出かけるの?」
玄《げん》関《かん》で亜由美が靴《くつ》をはいていると、清美が声をかけて来た。
「今日は月曜日よ。大学あるの」
「ああ、そうだったわね」
と、清美は呑《のん》気《き》に肯《うなず》いた。
だが亜由美の方もいい気なもので、大学へ行く気はまるでないのである。
出がけに郵《ゆう》便《びん》受《うけ》を覗《のぞ》いてみると、絵葉書らしきもの。
出してみると、田村からである。亜由美はびっくりした。一枚《まい》よこしただけでも大したことなのに、こんなにすぐ、二枚目が来るなんて……。
〈塚川君。
今はパリにいる。ごみごみしていて、あまり面《おも》白《しろ》くはない。疲《つか》れる。しかし、こちらはしょせん旅行客だ。たった一日二日の滞《たい》在《ざい》で、そんな判《はん》断《だん》を下すのは、不当かもしれない。では。 田村〉
相変らず、ハネムーンの便りとは思えない。一体田村さんは何をしに行ったんだろう?
裏《うら》を見ると、パリからだというのに、イタリアのヴェローナの風景が映《うつ》っていた。
亜由美はそれをバッグへしまうと、表通りへと歩いて行った。
よく晴れて、少し涼《すず》しい風も吹《ふ》いているようだ。
ホテルのロビーをぶらつきながら、亜由美は、結《けつ》婚《こん》披《ひ》露《ろう》宴《えん》の客らしい人々を眺《なが》めていた。
毎日、毎日、よくまあ結婚する人がいるもんだわ、と思った。自分もその内の一人になるのだろうか。いつかは……。
「——やあ、どうも」
声に振《ふ》り向くと、武居が、軽く右足を引きずるようにしてやって来た。
「武居さん、大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なんですか?」
「おかげでね。どうもありがとう。君が引《ひ》っ張《ぱ》り出してくれたんだって?」
「そんなこと……」
と、亜由美は、ちょっと柄《がら》にもなく照れた。
「でもびっくりしました。病院に行ったら、もう退《たい》院《いん》したって聞かされて」
「もう二、三日は、って言われたんだけどね、そうそう仕事も休めないし」
「ちょっとがっかりだわ」
「がっかり?」
「そんなにモーレツサラリーマンだとは思わなかったの」
武居は笑《わら》って、
「そんなことはないさ。こうやって抜《ぬ》け出して来たじゃないか」
「今はいいんですか?」
「うん。ちょっとそこでコーヒーでも飲まないか」
ロビーのわきにあるコーヒーハウスで、亜由美は武居と向い合って席についた。
「昨日のこと、警《けい》察《さつ》に訊《き》かれました?」
「もちろん。しかし、電話中っていうのは、結《けつ》構《こう》他に気の回らないものでね。特《とく》に手帳を見ながら話をしていたので、トラックが突《つ》っ込《こ》んで来るのに全く気が付かなくて……」
「良く助かりましたね」
「電話台の下になったのが、かえって良かったみたいだね。台が真四角じゃなかったんで、隙《すき》間《ま》ができて、そこへちょっと入り込む形になったらしい」
「原《げん》因《いん》、分らないんでしょ?」
「そうらしいね。全くふざけた話だ」
と、武居は首を振《ふ》った。
亜由美にコーヒー、武居にはアイスミルクが来た。
「ミルク党《とう》ですか」
「仕事で、やたらにコーヒーを飲むもんでね。いい加《か》減《げん》うんざりだよ」
と、武居は苦《く》笑《しよう》した。
「ところで、あの話の続きをうかがいたくて——」
「あの話?」
武居は訊き返して、「あ、そうか! 例の電話のことだね」
「そうです」
「ええと……あれは木曜日のことだな。ホテルの事《じ》務《む》所《しよ》へ電話がかかって来た」
「夜っておっしゃいませんでした?」
「夜も帰りは十時以《い》降《こう》になるからね。あれは九時ごろだったかな」
「どんな話だったんですか?」
「男の声だった。変にこもっていて……。きっと何か、声が分らないようにしていたんだろう。『あなたに教えておきたいことがある』と言うんだ」
「何と言いました?」
「『彼女《かのじよ》は死んだよ』と言った」
「死んだ……。彼女というのは——」
「僕も訊《き》き返した。一体誰《だれ》のことだ、とね」
「で、向うは?」
「『あなたのフィアンセのことですよ』と言った」
「つまり——淑子さん?」
「僕《ぼく》は他に婚《こん》約《やく》したことはない」
「その他には?」
「誰なのか訊いたが、名乗らなかった。そして、『嘘《うそ》だと思ったら、塚川亜由美に訊いてみろ』と言うんだ」
「私に?」
亜由美は目を丸《まる》くした。
「そうなんだ。君は何か知らないか」
「私は——」
亜由美はためらった。あのことを話すべきだろうか?
この男——武居は信用できるだろうか?
もし、本当にあのトラックで殺されかけたのだとしたら、武居にも、それを知る権《けん》利《り》はあるかもしれないが……。
「あの電話が誰《だれ》からかかって来たにせよ、君の名前を知っていたというのは——」
「わけが分りません」
と、亜由美は言った。
「しかし、何か知ってるんじゃないか?」
武居が、じっと亜由美を見つめる。
亜由美が口を開こうとしたとき、
「失礼します」
と、ウエイターがやって来た。「武居様、国《こく》際《さい》電《でん》話《わ》が入っております」
「そうか。分った」
武居が席を立つ。
「社長のお嬢《じよう》様《さま》からです」
「淑子さんから?」
武居と亜由美は目を見交わした。
武居が急いでカウンターの電話へと走る。——亜由美も座《すわ》っていられず、立ち上ると、電話の方へ歩いて行く。
「もしもし。——淑子さん? 今どこだい?——もしもし、どうしたんだ?」
武居の声が急に不安げに鋭《するど》くなった。
「——何だって?——よし、分った。今はどこのホテル?——すぐに人を行かせる。フランクフルトに誰かいるはずだ。——心配しなくて大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》だよ。——落ち着くんだ!」
亜由美は膨《ふく》れ上って来る不安をじっと押《おさ》えながら、武居の顔を見ていた。武居が、やっと受話器を置く。
「一体どうしたんです?」
武居は、もう一度受話器を上げると、ダイヤルを回してから、亜由美の方へ向って言った。
「淑子さんだ。ドイツで、田村君が行方《ゆくえ》不《ふ》明《めい》になったらしい。——あ、社長ですか? 武居です。お嬢《じよう》さんがドイツから電話を。——そうです、実は——」
亜由美は、もう武居の声が耳に入らなかった。急いで席に戻《もど》ると、冷たい水を一気に飲み干《ほ》した。
「行方不明……」
と呟《つぶや》く。
田村さんが……行方不明。そんなことが……。
いつの間にか、武居が戻って来ていた。座《すわ》らずに、立ったままで、
「聞いた通りだ。しかし、彼女《かのじよ》もかなり神《しん》経《けい》がたかぶっている。事《じ》情《じよう》は良く分らないんだよ」
「行方不明って……」
「ホテルを昨日出たまま帰らないらしいんだ。今、地元の警《けい》察《さつ》へ手配してもらっている」
「田村さんなら……きっと迷《まい》子《ご》になったんだわ」
「そう願いたいね。幸い近くにうちの駐《ちゆう》在《ざい》員《いん》がいる。連《れん》絡《らく》して直行させる」
「心配だわ……」
「そうだね。僕も気になる」
「武居さん」
と、呼《よ》ぶ声がした。「社長です」
「今行く。——じゃ、何か分ったら連絡するから」
「お願いします」
武居が足早に行ってしまうと、亜由美は急に力が抜《ぬ》けたようで、しばらくそこに座ったまま動けなかった。
「あの……コーヒーをおつぎしましょうか?」
ウエイターの声で、やっと我《われ》に返った。
「い、いえ、結《けつ》構《こう》です」
立ち上ってお金を払《はら》おうとすると、
「これは公用ですから」
と、言われた。
なるほど、武居といたせいだろう。
「どうも」
ピョコンと頭を下げてロビーに出る。こんなときなのに、コーヒー代、助かった、などと考えていた。
ロビーの奥《おく》の方で、武居が、増口と話をしている。淑子の父親だ。
娘《むすめ》がヨーロッパで立ち往《おう》生《じよう》しているのだから、もっと心配してもいいようなものだが、見たところは、至《いた》って落ち着き払っているらしい。
亜由美は、ホテルを出ると、駅の方へ向って歩き出した。
「——田村さん、心配だね」
と、母親が言った。
亜由美は、TVのニュースに、じっと見入って、返事をしなかった。
しかし、何度ニュースを見ても、新しい事実は分っていないらしかった。
はっきりしているのは、ただ一つ、田村が行方不明になったということだけである。
ハンブルクは大都会だから、場所によっては危《き》険《けん》な所もある。しかし、ドイツの治《ち》安《あん》は、かなりいい方であり、特《とく》に、多少ドイツ語もできる田村は、迷《まい》子《ご》になるとも思えなかった。
それに、田村は、歓《かん》楽《らく》街《がい》などへ足を向ける男ではない。それもハネムーンだというのに!
「どこへ行っちまったのかしらねえ」
と、清美がため息をつく。「お前は新《しん》婚《こん》旅《りよ》行《こう》、国内にしておくのよ。やっぱり安全第一だからね」
「相手もいないのに、旅行のことまで考えられないわよ」
と、亜由美は母をにらんだ。
玄《げん》関《かん》のチャイムが鳴って、清美が出て行ったが、すぐに戻《もど》って来ると、
「亜由美、お客様」
「私に?」
「警《けい》察《さつ》の方よ」
——入って来たのは、大分、亜由美の抱《いだ》いていた刑《けい》事《じ》のイメージと違《ちが》う、肥《ひ》満《まん》体《たい》の中年男だった。
「どうも……。殿《との》永《なが》部長刑事です」
四十歳《さい》ぐらいか、背《せ》もあって、かつ太目というので、いかにも巨《きよ》漢《かん》に見える。
「あの……ご用は?」
「はあ。その前にちょっと水をいただけませんか」
えらく汗《あせ》をかくらしく、ハンカチで額《ひたい》をせっせと拭《ぬぐ》っている。
清美が手回し良く、冷たいお茶を運んで来ると、大きなグラス一《いつ》杯《ぱい》、あっという間に飲み干《ほ》して、
「いやどうも……。すみませんがもう一杯」
体が大きいと、水分も大量に必要とするらしい。
「——実は、例のハンバーガーショップの事《じ》件《けん》について調べていましてね」
と、殿永という、肥満刑事は言った。
「何か分りまして?」
「残念ながらまだです。で、目下、現《げん》場《ば》に居《い》合《あわ》せた方から一人一人お話をうかがっているんですよ」
「そうですか」
亜由美は、ちょっとがっかりした。
「あのときは、救助に大分ご協力いただいてありがとうございました」
「いいえ。——けがも、みなさん大したことがなくて良かったですね」
「全くです。あの状《じよう》況《きよう》では死人が出てもおかしくなかったんですが。ところで、あなたはあの店に良く行かれましたか」
「ええ。三日に一度は」
「じゃ、店内の様子を良くご存《ぞん》知《じ》でしょう。ちょっと図面を描《か》いていただけますか?」
「ええ」
亜由美は、広告の裏《うら》に、ボールペンで、大体の見取り図を描いた。
「この子は昔《むかし》から絵が上手で」
と、清美が余《よ》計《けい》なことを言い出す。
「学校でも美《び》術《じゆつ》の時間はいっつも賞められていたんですよ」
「お母さん、あっちに行っててよ」
「はいはい」
亜由美はそっと殿永刑事の顔を盗《ぬす》み見《み》た。しかし、別に笑《わら》ってもいないようだ。
「——こんなもんだと思いますけど」
と、亜由美は言った。
「なるほど。——これは正《せい》確《かく》に描けてますなあ」
「これが何か?」
「いや、どうもあの一件は事《じ》故《こ》でなく、故意に誰《だれ》かがトラックで突《つ》っ込《こ》んだものと思われているんです」
「知っています」
「すると、何か目的があるはずですね。まあ、発作的な無《む》差《さ》別《べつ》殺《さつ》人《じん》未《み》遂《すい》という可《か》能《のう》性《せい》もあるが」
「そうですね」
「もし、誰かを狙《ねら》ったものだとしたら、その目標は誰だったのか? しかも、なぜ、そんな非《ひ》常《じよう》手《しゆ》段《だん》に訴《うつた》えて、殺そうとしたのでしょう?」
亜由美は黙《だま》って肩《かた》をすくめた。殿永刑事は続けて、
「一つ疑《ぎ》問《もん》なのは、この全面がガラスばりだったのに、なぜ犯《はん》人《にん》に中が見えたか、ということです」
「え?」
と亜由美は訊《き》き返した。「でも——ガラスばりだから見えたんじゃありませんか?」
「しかし、外は明るかった。外より中の方が明るかったとは思えません。よく晴れていたんですからね」
「ええ、確《たし》かに——」
「つまり、外から見ると、ガラスには、外の風景が映《うつ》っていて、中はとても見にくかったはずなんです」
「分りました」
亜由美もやっとそれに気付いて、「じゃ、犯《はん》人《にん》は、目当ての人間がどこにいるか、分らなかったはずだとおっしゃるんですね?」
「いや、全く見えなかったということはないでしょう。ガラスにかなりくっついて立っていた人は、目に入っただろうと思うのです」
「つまり……」
「電話をかけていた人ですね」
殿永は、そう言って、少し間を置き、
「あの、あなたが助け出した男性——名前は武居だったかな。ご存《ぞん》知《じ》の方だったんですか?」
「あの……そうです。といって、良く知ってるわけじゃなくて……」
「どういうご関係です?」
「それは……」
亜由美は、どう話していいものやら、迷《まよ》ってしまった。話し出せば、全部しゃべらなくては分ってもらえまい。しかし、それでは、ますます話がややこしくなりそうだ。
「この間、ある人の結《けつ》婚《こん》式《しき》で一《いつ》緒《しよ》になって……それで、何か話があるというんで、あそこで会っていたんです」
これなら嘘《うそ》ではない。多少省《しよう》略《りやく》しすぎた気味はあるが。
「どこへ電話をかけていたか、ご存知ですか?」
「いいえ。仕事の話でしょう。ポケットベルが鳴って、かけに行ったんですから」
「ポケットベルがね。——そうですか」
「どうして、本人に直《ちよく》接《せつ》お訊《き》きにならないんですか?」
「訊きますよ、もちろん。しかし、常《つね》に、証《しよう》言《げん》には『裏《うら》を取る』ということが必要でしてね」
殿永は、刑《けい》事《じ》らしからぬ、おっとりした口《く》調《ちよう》で言った。「他の人の証言とぴったり合うか、食い違《ちが》うか。——そこを見るんですよ、我《われ》々《われ》は」
何となく、腹《はら》の立てられない相手である。
「もう武居さんと話したんですか?」
「いや、これからです。病院の方へ今日行ってみると、もう自分で退《たい》院《いん》して行かれたとかでね」
殿永はニヤリと笑《わら》って、「私なら、できるだけ長く入院してさぼりますがね。エリートは辛《つら》いもんですな」
と言った。
電話が鳴って、亜由美は立って行って取った。
「武居です」
「あら。——今どこから?」
「成田空港です」
「どこかへお発《た》ちですか」
「ドイツへ行きます。淑子さんを一人では帰せないでしょう」
「それじゃ……田村さんは?」
「これはまだ未《み》確《かく》認《にん》情《じよう》報《ほう》ですが」
と、武居は少し声を低くした。「ハンブルクの、かなりいかがわしい場所で、田村君の上《うわ》衣《ぎ》が見付かったらしいです」
「まさか!」
思わず声が高くなっていた。
「まだ断《だん》定《てい》はできませんがね。——上衣には血がついていたということです」
亜由美は受話器を握《にぎ》りしめた。
「じゃ、田村さんは……殺された?」
「その可《か》能《のう》性《せい》はあります。——あ、もう行かなくては。では、これで」
「気を付けて。あの——」
もう電話は切れていた。
「——何事です?」
殿永が言った。「殺されたとかいうのは……」
「あの——」
と言いかけて、亜由美は、ちょっとめまいがして、よろけた。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか?」
「ええ……。すみません」
殿永に支《ささ》えられて、亜由美はソファに落ち着いた。こんなことで動じる亜由美ではないはずなのだが、やはり、刑事と話をしているという緊《きん》張《ちよう》感《かん》のせいだろうか。
「田村さんというのは?」
「あの……今、ドイツで行方不明になっているんです」
「ああ、あれですか。——ご存《ぞん》知《じ》なんですか?」
「ええ。大学の先《せん》輩《ぱい》で」
「そりゃご心配ですね。いや、悪いときには悪いことが重なりますよ」
刑事は、田村の件《けん》が、武居と関係があるとは思っていない様子で、早々に引き上げて行った。亜由美も、あえて引き止めなかった。
居《い》間《ま》に戻《もど》って、ソファに座《すわ》っていると、清美が顔を出して、
「どうしたの? 何のお話?」
「大したことじゃないわ」
「お前、顔色が悪いね」
「今、ちょっとめまいがしてね」
「まあ」
清美は亜由美に近付くと、声をひそめて、
「つ《ヽ》わ《ヽ》り《ヽ》じゃないだろうね?」
と言った。
亜由美は、思い切り母親をにらみつけてやった。