幕《まく》間《あい》のロビーは、着《き》飾《かざ》った人々でごった返していた。
それでも、NHKホールは文化会館より大分ましである。寛《くつろ》ぐという場所はないが、一《いち》応《おう》広いから、立ち話ぐらいはできる。
「——退《たい》屈《くつ》じゃない?」
と、武居が粋《いき》なスーツ姿《すがた》で立っている。
「いいえ、ちっとも」
多少は正直なところで、亜由美はそう答えた。亜由美とて〈白鳥の湖〉ぐらいは知っている。
「——色々話はある」
と、武居は言った。「しかし、今はやめとこう。場所にふさわしい話っていうものがあるからね」
「そうですね」
亜由美も、今日はちょっと気取って、思い切り上等なスタイルでやって来た。
もちろん中にはジーパンスタイルの女の子もいる。
「最近はヨーロッパのオペラ劇《げき》場《じよう》なんかも、同じようなものさ」
と武居は言った。「日本人が固まって座《すわ》っている。居《い》眠《ねむ》りする奴《やつ》もいる。アメリカ人は客席で平気でフラッシュをたく……。しかし、そういう客が全部いなくなったら、それこそオペラは潰《つぶ》れちまう」
「本当に好《す》きな人には、苦《にが》々《にが》しいでしょうねえ」
「たぶんね。——日本はその点気が楽《らく》さ」
「来て良かったわ」
と、亜由美はバッグを持った手を後ろに組んで、ゆっくりとロビーを歩いた。
「そう言ってもらえると嬉《うれ》しいね」
「いやなことが続き過《す》ぎるんですもの」
「ああ、そうだ」
と、武居は思い付いた様子で、「君の通っている大学で人殺しがあったんだねえ」
「ええ。クラブの先《せん》輩《ぱい》なんです」
「へえ。身近にそんなことがね……」
「武居さんもご存《ぞん》知《じ》のはずですよ」
「僕《ぼく》が?」
「あの披《ひ》露《ろう》宴《えん》に出ていたんです」
「じゃ、君にひっぱたかれたとき、隣《となり》に座《すわ》ってた……。あの子かい? それは知らなかったなあ」
もしこれが演《えん》技《ぎ》なら、武居は名《めい》優《ゆう》に違《ちが》いない。反《はん》応《のう》はごく自然だった。
「犯人はまだ捕《つか》まらないんだね」
「ええ。そうらしいです」
「大学の中で殺人か。キャンパスも平和じゃなくなったね」
亜由美は、表《おもて》玄《げん》関《かん》の近くまで来て足を止めた。——外で、有賀君、待っていてくれるかしら?
「デートなのよ、明日」
大学の帰り道、亜由美はスパゲッティの店で、有賀に会っていた。
「へえ。僕なら時間あるぜ」
「良かった!」
「じゃ、どこに行く?」
「間《ま》違《ちが》えないで。相手は武居さん」
「あのにやけた野《や》郎《ろう》かい?」
有賀はつまらなそうな顔になった。
「そうむくれないでよ」
と、亜由美は笑《わら》って、「田村さんのことが気になるじゃない。会って話を聞きたいのよ。新聞や週《しゆう》刊《かん》誌《し》じゃ、どこまで正《せい》確《かく》な話か分らないもの」
「話だけかい?」
「食事ぐらいするかもね」
「何食べるんだ?」
「そんなことまで分るわけないでしょ」
「せいぜいスパゲッティぐらいでやめとけよな」
有賀は、やけになってスパゲッティを大量に口へ放り込み、目を白黒させた。
「ねえ、有賀君、もう一度頼《たの》まれてくれない?」
「何を? また見《み》張《は》りはいやだよ」
「見張りなんて頼まないわよ」
「じゃ何だ?」
「監《かん》視《し》よ」
「同じじゃないか!」
有賀は、笑《わら》い転《ころ》げる亜由美をにらみつけていたが、その内、一《いつ》緒《しよ》になって笑い出してしまった。
「参ったよ、塚川君には」
「じゃやってくれる? ありがとう。——あの人、桜井さんの事《じ》件《けん》にも関係してるかもしれないのよ」
「どういう意味?」
亜由美は、桜井みどりが武居のことを口にしていたことを教えてやった。
「そしてあのいたずら電話。——ね? どうも怪《あや》しいでしょ?」
「武居が犯《はん》人《にん》だよ、決ってる!」
「待ってよ。あわてないで。だからこそ、監視を頼んでるんじゃないの」
「そういうことなら」
と有賀は腕《うで》まくりする真《ま》似《ね》をして、
「任《まか》せといてくれ! 危《あぶな》いときは逃《に》げ出すから」
どこまで真《ま》面《じ》目《め》なのかよく分らないのが、亜由美の世代なのである。
「塚川さん、ここでしたか」
聞き憶《おぼ》えのある声にびっくりして顔を上げると、殿永部長刑《けい》事《じ》の、大きな体が立っていた。大きいくせに、なぜか目立たないというか、控《ひか》え目《め》な存《そん》在《ざい》なのである。
「殿永さん。——私にご用なんですか?」
「ええ。大学へ行ったら、もう帰ったところだということで、歩いて来るとあなたの顔が外から見えたものですからね」
殿永は、席につくと、スパゲッティの大《おお》盛《もり》を頼《たの》んで、「少し減《げん》量《りよう》せんといかんので、一日三食に減《へ》らしとるんです」
と言った。
「以前は何食だったんですか?」
「五食ぐらいでしたかね、平《へい》均《きん》すると」
太るはずだ。——亜由美は、
「何か分りましたか?」
と訊《き》いてみた。
「どうもねえ……。あのハンバーガーショップに突《つ》っ込《こ》んだトラックの一《いつ》件《けん》はさっぱりです。現《げん》場《ば》の混《こん》乱《らん》で、誰《だれ》も運転していた人間を見ていない」
「エンジンキーは?」
「運転手が持っていたんです。しかし、どうやったか、ちゃんとエンジンをかけている」
殿永は水をコップ一《いつ》杯《ぱい》、一気に飲み干《ほ》すと、「武居さんが狙《ねら》われたとして、どんな動機が考えられるでしょう?——そこで、例の、あなたの先《せん》輩《ぱい》の一件が気になりましてね」
「先輩の……」
「田村さんが行方不明になった件です。向うへ問い合せてみましたが、新しい事実は出ていないようですよ」
「上《うわ》衣《ぎ》の血は?」
「田村さんのものかどうか、判《はん》別《べつ》できなかったそうです。何しろ、かなりひどく汚《よご》れていたらしいので」
「じゃ、死んだとも限《かぎ》らないんですね?」
「死んだものと向うの警《けい》察《さつ》はみています。だから、これからもあまり新しい発見は期待できませんね」
「そして今度の——」
「そうです。桜井みどりさんが殺された」
スパゲッティがやって来た。殿永は、豪《ごう》快《かい》な食べっぷりを見せながら、
「食べながらで……失礼します。桜井さんの身辺、あれこれ調べてみましたが、どうも殺意を抱《いだ》くほど恨《うら》んでいた人間はいないらしいのです」
「私もそう思います」
「彼女《かのじよ》は、田村さんの結《けつ》婚《こん》式《しき》に出ていたそうですね」
「ええ、一《いつ》緒《しよ》に出ました」
「この三つの事《じ》件《けん》。田村さんの失《しつ》踪《そう》、武居さんが殺されかけ、桜井みどりさんが殺された。——何か関連がありそうですね」
「どんな関連が?」
「それは分りません」
と、殿永は首を振《ふ》った。
大《おお》盛《もり》のスパゲッティは、もう半分以上、消えて失くなっていた。
「しかし、三つの事件が偶《ぐう》然《ぜん》にこうたて続けに起るというのは妙《みよう》だと思いませんか。やはり関連があるとしか思えない」
「私もそう思います」
「塚川さん、武居という人と、個《こ》人《じん》的なお付合いはおありですか?」
「あ、あの——それは——」
と亜由美はためらったが、あまり隠《かく》しておくのもどうかと思った。「明日からある予定なんです」
亜由美はそう答えた。
「さあ、第三幕《まく》だ」
と、チャイムが鳴り渡《わた》るのを聞いて、武居は言った。「一番華《はな》やかなところだよ」
「楽《たの》しみだわ。あんまり詳《くわ》しくはないんですけど」
と、亜由美は一緒に席の方へ戻《もど》りながら言った。
「確《たし》か黒鳥の踊《おど》りがあるんでしたね」
「うん。一番の見せ場でね。同じ人が踊《おど》るんだけど、衣《い》裳《しよう》が白から黒になると、急に雰《ふん》囲《い》気《き》が変る」
席について、広いホールの中を見《み》渡《わた》す。客がゾロゾロと戻《もど》り始めていた。
「白鳥とそっくりな黒鳥に、王子がだまされる……」
亜由美は呟《つぶや》いた。
「何か言った?」
「いいえ、別に」
——あの花《はな》嫁《よめ》は、そっくりな別の女だ。
白鳥と黒鳥のように、か。
「淑子さんはもう大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》なんですか?」
と、亜由美は訊《き》いてみた。
「淑子さん? ああ、もう大分元気になったようだ。と言っても、ショックで寝《ね》込《こ》んでいたのが、起き出して来たということだがね」
「今、どこに?」
「別《べつ》荘《そう》だ。何しろ、新《しん》婚《こん》旅行で夫が失《しつ》踪《そう》、しかも大《だい》企《き》業《ぎよう》の社長令《れい》嬢《じよう》と来てる。週《しゆう》刊《かん》誌《し》などには、絶《ぜつ》好《こう》のネタだからね」
「いいですね、隠《かく》れる別荘がある人は」
「全くだな」
と、武居は笑《わら》った。「確《たし》か増口さんは、十何か所か、別荘を持っているはずだよ。一つ一つ歩いても、当分は姿《すがた》を隠していられるからね」
「一つぐらい分けてくれないかな」
と、亜由美は冗《じよう》談《だん》めかして言った。「武居さん、淑子さんとゆっくり話しました?」
「いや、連れて帰る間は、ほとんど口もきかなかったからね。——家へ入ってしまってからは、一度会ったきりだ。それも、ちょっと挨《あい》拶《さつ》を交わしたくらいでね」
本当に、あの花嫁は別の女なのか。増口淑子と良く似《に》た誰《ヽ》か《ヽ》なのだろうか?
——華《はな》やかに、舞《ぶ》踏《とう》会《かい》の幕《まく》が上った。
ギターを鳴らしながら、イタリア人が、亜由美たちのテーブルへやって来た。
亜由美のよく知らない、甘《あま》いメロディのカンツォーネを歌うと、武居が千円札《さつ》を小さくたたんで、ギターの中へ入れた。
「——ワインはどう?」
「もう結《けつ》構《こう》です。酔《よ》っ払《ぱら》っちゃいそう」
亜由美は、息をついた。肝《かん》心《じん》の話が終らないうちに、酔ってしまっては困る。
「武居さんはどう思います?」
と亜由美は訊《き》いた。
「どうって?」
「田村さんは死んだんでしょうか?」
「何とも言えないね」
と、武居は首を振《ふ》った。「ヨーロッパは地続きで、それこそ、色々な犯《はん》罪《ざい》組《そ》織《しき》が動き回っている。日本人の旅行者は無《む》邪《じや》気《き》だからね、よく簡《かん》単《たん》に引っかかって、行方不明になるんだよ」
「でも、男の人が——」
「金を持ってるとね。しかし、そう金を持って出たとも思えないが」
「田村さんは、たとえお金を持って出ても、それを見せびらかす人じゃありませんよ」
「そうだね。僕《ぼく》も同感だ」
「およそ狙《ねら》われるタイプじゃないと思うんだけどなあ」
「あれが偶《ぐう》発《はつ》的《てき》な事《じ》件《けん》じゃないとしたら? どう思う?」
「理由があって、田村さんが殺された、っていうことですか?」
「うん。——あの怪《かい》電《でん》話《わ》が気になってしかたないんだ」
「フィアンセが死んだ、という……」
「そう、まさかと思うが、もし本当に淑子さんが……」
その先は、武居は口にしなかった。
「もし、淑子さんと見分けがつかないくらいそっくりな人がいたとして、入れ替《かわ》ったら、騙《だま》し通せるでしょうか?」
と亜由美は言った。
「大《だい》胆《たん》な仮《か》定《てい》だね」
武居は、苦《く》笑《しよう》しながら言ったが、意外そうな様子は全く見せなかった。ということは、おそらく武居自身もそう考えたことがあるのだろう、と亜由美は思った。
「まず不《ふ》可《か》能《のう》だね」
しばらく間を置いてから、武居は言った。「普《ふ》通《つう》なら」
「普通なら、ということは…‥あの増口家では?」
「あの家は普通じゃない」
と武居は言った。「ただ金持だというだけでなく、変ってるんだ。増口さんは金持に珍《めずら》しく、あまり女を作るとか、囲うとかいうことをしない。要するに、そんなことのために金を使う気がしないんだな」
「じゃ、真《ま》面《じ》目《め》人間なんですか、あの人?」
「あの人の愛人は仕事だね」
と、武居は言った。「ベッドに入っていても、食べていても風《ふ》呂《ろ》につかっていても、仕事のことを考えている」
「そんな風にも思えませんわ」
「自分がコマネズミのように働くというわけじゃない。しかし頭の中は仕事のことだけで一《いつ》杯《ぱい》さ」
と武居は言って、「——これがどういう結《けつ》果《か》を招《まね》くか分るだろう」
と、亜由美の顔を見た。
「奥《おく》さんのノイローゼ」
「そう。いや、ノイローゼだったのは、ほんの一年くらいでね。夫が『仕事』という好《す》きなことをしてるのなら、私も好きなことをします、というわけで、遊び狂《くる》ったんだ」
「というと……」
「初めの内は、旅行、買物くらいだったのが、その内、お定まりのコースで……」
「男ですか」
「まあ同《どう》情《じよう》すべき余《よ》地《ち》もあるけどね、あのご主人では。——いや、増口さんは、そりゃ経《けい》営《えい》者《しや》としては一流だよ。しかし、夫としてはね」
「で、家を放ったらかしっていうわけですね」
「むしろ、たまに家へ帰って来るんじゃないかな」
「分りました」
と亜由美は肯《うなず》いた。「つまり、ご両親のどっちも、めったに娘《むすめ》の淑子さんと顔を合せなかったというわけですね」
「そうなんだ。普通の家庭では、とても考えられないことだがね」
「じゃ、たとえば入れ替《かわ》っても分らないとか——」
「それはどうかな。可《か》能《のう》性《せい》として、ないことはない。しかし、現《げん》実《じつ》には、大勢使用人もいて、毎日淑子さんの顔を見てるわけだからね。そう簡《かん》単《たん》にはいくまい」
「それに、そんなに淑子さんと似《に》た人を見付け出すのが大変でしょう。美人ですものね」
「それに、目的だ。なぜそんなことをする必要があるのか」
「財《ざい》産《さん》とか……」
「相続となれば色々大変だよ。それに増口さんは奥さんも元気で、死にそうもないからねえ」
「じゃ、やっぱり怪《かい》電《でん》話《わ》はただのいたずらで——」
「その可能性は強い。しかし、ごくわずかだが、そうでない可能性もあるということだ」
亜由美は、ちょっと考え込んでから、言った。
「武居さん。殺された桜井みどりさんと会って話をしたことはありません?」
「僕《ぼく》が? いいや」
武居は目を見開いて、「どうしてそんなことを?」
と訊《き》き返して来た。
「いえ……。彼女《かのじよ》が、ちょっと武居さんを知っているようなことを言ったんで」
「それは妙《みよう》だね。——僕は全然知らないよ」
武居はワイングラスを取り上げた。そのグラスは空だった。そのあわてた様子は、何となく武居に似《に》合《あ》わない、と亜由美は思った。
「おい、武居じゃないか」
と声がかかった。同《どう》年《ねん》輩《ぱい》の、やはりサラリーマンらしい男が、店へ入って来たところだった。
「何だ、またお前か」
武居は、ちょっと顔をしかめた。
「よく会うな。ええ?」
少しアルコールの入っているらしい、その男は愉《ゆ》快《かい》そうに、「相変らず来てるね。今度はまたこの間と違《ちが》う子じゃないか」
「そんなんじゃないんだ」
「隠《かく》すなよ。——お嬢《じよう》さん、気を付けなさいよ。こいつは若《わか》い娘《むすめ》が趣《しゆ》味《み》だからね」
「おい——」
と武居が少し気《け》色《しき》ばむ。
「冗《じよう》談《だん》だよ。じゃ、また会おうぜ」
と、奥《おく》の席へと歩いて行く。
「お友達ですか」
と、亜由美は言った。
「大学時代の悪友でね。——出ましょうか」
武居は立ち上った。
何だかあわてている、と亜由美は思った。
武居がカードで支《し》払《はら》いを済《す》ませている間に、亜由美は店の表に出た。
この間と違う子、とあの男の人は言った。武居は、同じくらいの年《ねん》齢《れい》の娘を連れて来ていたのだろうか。
もしかして——桜井みどりとか……。
「やあ、待たせたね」
武居が出て来た。
「ごちそうになりまして」
「いや、そんなこといいんだ。——どう、ちょっと一《いつ》杯《ぱい》やっていかないか?」
「でも、もう帰らないと……」
「ちゃんと車で送るから。三十分だけ。いいだろう?」
誘《さそ》い方は巧《たく》みで、強《ごう》引《いん》に思えぬ強引さだった。断《ことわ》る余《よ》裕《ゆう》を与《あた》えない、というのであろうか。
「タクシーを拾おう」
と、武居が道の端《はし》に立った。そのとき、大きな外車が、どこから走って来たのか、武居の前に停《とま》った。
「社長!」
武居が声を上げた。
車の後ろの窓《まど》から顔を出しているのは増口だった。
「用がある、乗れ」
と、増口が言った。
「はい」
否《いや》応《おう》なしに、武居がドアを開けて乗り込《こ》む。
「じゃ、私、これで……」
と、亜由美が言いかけると、
「君もだ」
と、増口が遮《さえぎ》った。
「私ですか?」
「君にも用がある。乗ってくれ」
運転手が出て来て、ドアを開けてくれる。こうなっては、しかたない。亜由美は意を決して、その外車に乗り込んだ。
「どこへ行くんですか?」
と、亜由美が言った。
「私の家だ。家の一つ、というところかな」
増口は、ちょっと愉《ゆ》快《かい》そうに言った。