「ごめんごめん」
亜由美は珍《めずら》しく平《ひら》謝《あやま》りである。
「いいよ、もう」
と、有賀はふくれっつらのままで、
「僕《ぼく》のことをケロッと忘《わす》れてたなんて。いくら何でも——」
「だから謝ってるじゃないの」
「もう遅《おそ》いや」
と、有賀は言って、カーペットに寝《ね》転《ころ》んだ。
日曜日。——亜由美の部屋である。
明るい陽《ひ》射《ざ》しが、部屋に溢《あふ》れていた。
「そんなに有賀君が必死で追って来てるなんて思わなかったのよ」
「君らが高級イタリア料理を食ってる間、こっちは立ち食いハンバーガーで飢《う》えをしのいでたんだぞ」
「オーバーねえ。——ともかくおかげで無《ぶ》事《じ》生《せい》還《かん》しました」
有賀は苦《く》笑《しよう》して、
「女は得《とく》だよ」
と言った。
「まだすねてる」
亜由美は、寝《ね》転《ころ》がった有賀の上にかがみ込《こ》むと、キスした。有賀が面食らった。——まだキス一つしたことのない仲《なか》だったからだ。
ドアが開いて、母の清美が入って来た。二人はあわてて起き上った。
「あら、有賀さん」
「ど、どうも……」
「だめですよ」
「すみません」
「カーペットに寝てそんなことしたら、糸くずが付きます。ちゃんとベッドの上でやらなきゃ。——さ、紅《こう》茶《ちや》。ごゆっくり」
清美が出て行くと、
「君のお母さん、ユニークな人だね」
と、有賀は笑《わら》いながら言った。
「さすがに私の母親って言いたいんでしょ」
「当り」
二人は一《いつ》緒《しよ》に笑った。
「——じゃ、あの後、増口の屋《や》敷《しき》に行ったのかい?」
「うん。凄《すご》い邸《てい》宅《たく》よ。一部屋分でこんな家一《いつ》軒《けん》建つんじゃないかって感じ」
「何の話だったの?」
「それがね——」
と、亜由美が言いかけたとき、またドアが開いて、清美が顔を出した。
「亜由美、葉書よ」
「はい。——お母さん、ノックぐらいしてちょうだい」
「はいはい。まずいときは札《ふだ》でもかけといてちょうだい」
と清美はドアを閉めた。
「全くもう——」
と言いかけて、亜由美は愕《がく》然《ぜん》とした。
「どうしたんだい?」
「まさか……こんなことが……」
「どうしたのさ?」
「見て!——田村さんからの絵葉書よ!」
〈ミュンヘンは風が強い。のんびりとぶらつくにも時間がない。もうあまり時間は残っていないんだ、僕《ぼく》らには。ではまた。 田村〉
亜由美は、消印を読み取ろうとしたが、どうしても分らない。
「行方不明になる前に投《とう》函《かん》したんだよ、きっと」
「もう半月以上よ! そんなにかかる?」
「たまたま遅《おく》れたんだろう」
と有賀が言った。
「ミュンヘン、ね……。あの二人の行《こう》程《てい》はどうなってたのかしら」
「しかし、まさか幽《ゆう》霊《れい》が出しちゃ来ないさ」
と有賀は言った。
「それとも生きてるのか……」
「それにしちゃ、呑《のん》気《き》な文じゃないか」
「そうね。でも、意味が良く分らないわ。旅の便りって感じじゃないわよ」
「そりゃそうだな」
と、有賀は裏《うら》の写真を見て、「——ミュンヘンだって? でも、写真は違《ちが》うよ」
「どこになってる?」
「デンマークだ」
いつもそうだ。文中に必ず都市の名はあるが、裏《うら》の写真は別の場所なのだ。
一度や二度ならともかく、三度となると、わざとそうしているのかと思えて来る。
「待って。前の二枚《まい》を出すわ」
亜由美は、田村から来た二枚の絵葉書を引き出して来た。
「——一枚目はロンドンから。でも、写真はヴェニス。二枚目はパリから。写真はヴェローナ。そして三枚目がミュンヘンで、写真はデンマーク……」
「めちゃくちゃだな」
「待って」
と亜由美は言った。「——ヴェニス。ヴェローナ。デンマーク。何か思いつかない?」
二人はしばらく黙《だま》っていた。
「——シェークスピアだ」
と、有賀は言った。
「そうよ! 『ヴェニスの商人』、『ロミオとジュリエット』がヴェローナ、『ハムレット』がデンマーク」
「偶《ぐう》然《ぜん》かな」
「そんなはずないわ! 何か意味があるのよ、きっと!」
亜由美は興《こう》奮《ふん》して歩き回った。そして電話に飛び付くと、
「確《たし》かめてみましょ」
とダイヤルを回した。
「何を?」
「あの二人の新《しん》婚《こん》旅《りよ》行《こう》のコースよ」
と、亜由美は言った。
しばらく捜《さが》してもらって、やっと武居が出た。
「やあ、ゆうべはご苦労様」
「武居さん、一つ教えていただきたいんですけど」
「何だい?」
「田村さんたちのハネムーンのコースに、ミュンヘンは入っていましたか?」
「ええと……入ってたね、確《たし》か」
「ハンブルクで行方不明になる前に、行ってるんですか?」
「いや、ミュンヘンはもっと後だ。僕《ぼく》が自分でミュンヘンのホテルをキャンセルしたからね。確かだよ」
「ありがとうございます」
「何かあったの?」
亜由美はちょっとためらって、
「今度会ったときに説明します」
と電話を切った。
「——またあいつと会うのかい?」
と有賀は面白くなさそうである。
「もう監《かん》視《し》はいいの」
「でも、何の用なんだい?」
「ゆうべ、増口さんにね、依《い》頼《らい》されたのよ、仕事を」
「仕事?」
「そう。——果《はた》して淑子さんが本物かどうか、調べてくれってね」
「淑子は偽《にせ》物《もの》かもしれん」
と増口はブランデーのグラスを手の中であたためながら言った。
広い居《い》間《ま》のソファで、亜由美と武居は顔を見合わせた。
「そうびっくりした顔でもないな」
と増口は言った。「察していたのかね?」
「私は……その……」
と、口ごもりながら、武居は、例の、『フィアンセが死んだ』という怪《かい》電《でん》話《わ》のことを説明した。
「君は?」
増口の視《し》線《せん》が移《うつ》って来ると、亜由美は、しらを切り通すことができなかった。
「実は、田村さんが、囁《ささや》いて行ったんです、あのときに……」
亜由美はそう言って、田村の謎《なぞ》の一言を、初めて口にした。
「——すみません。でも、あのときは、どうしていいものか分らなくって……」
「当然だよ」
と増口は肯《うなず》いた。「よく話してくれた」
「するとやはり淑子さんは……」
「うむ。——親の私に分らんというのは、全くもって情《なさけ》ないが、しかたない。何しろ顔を見るのが月に一度あるかどうかだ。髪《かみ》型《がた》でも変れば、もう別の女かと思う」
増口はブランデーをあけた。
「で、社長、どうなさいます?」
「事は秘《ひ》密《みつ》を要する」
「はい」
「人知れず、真相を探《さぐ》り、突《つ》き止め、解《かい》決《けつ》し、片《かた》付《づ》けてしまわねばならん。分るだろう、君には」
「分ります」
「警《けい》察《さつ》沙《ざ》汰《た》にはしたくない。そこで……君たちに、淑子が果《はた》して偽《にせ》物《もの》かどうか、調べてもらいたいんだ」
亜由美は唖《あ》然《ぜん》とした。
「どうして私が……」
「淑子は女だ。いくら武居君が優《ゆう》秀《しゆう》な探《たん》偵《てい》になったとしても、しょせん、男は男でしかない」
亜由美とて、増口の言うことが分らないではない。しかし……。
「でも、私にはそんな経《けい》験《けん》も知《ち》識《しき》もありません」
「大丈夫。すべては素《そ》質《しつ》だよ」
と、増口は言った。「私は長年の社長生活で、それを悟《さと》った。素質のある人間は、初めての重大な任《にん》にも、充《じゆう》分《ぶん》堪《た》えられるものだよ」
「素質だって、私……」
「私の目に狂《くる》いはない」
頭の方にあるんじゃないですか、と言いたいのを、亜由美はぐっと抑《おさ》えた。
「で、引き受けて来ちゃったのか? 無《む》茶《ちや》だなあ!」
と有賀が呆《あき》れたように言った。
「仕方ないじゃないの。どうしたって断《ことわ》れないんだもの」
亜由美はベッドにゴロリと横になって、「それにね、やっぱり田村さんのこと心配だしさ」
「自分だって好《す》きなんだろ、そういうことが?」
「え?——まあね。勉強よりは面白そうじゃない」
「でも、よく考えろよ。いいか、殺人まで起ってんだぞ」
「分ってるって」
「分ってないよ。いつ命狙《ねら》われるか分んないんだ。遊びじゃないんだぞ」
「遊びだなんて誰が言った?」
「じゃ何だ?」
「仕事よ。れっきとした」
「じゃ、報《ほう》酬《しゆう》もあるの?」
「もちろん」
亜由美は、寝《ね》たまま手をのばして、机《つくえ》の上のバッグを取ると、中から何かを取り出して、有賀の方へ投げた。
「こ、これ……」
と言ったきり、有賀の目がギョロッと開いて、動かなくなった。
有賀の膝《ひざ》に落ちたのは、一万円札《さつ》の束《たば》だった。
「百万円あるわ。本物よ。それが前金。解《かい》決《けつ》したら、あとで二百万円」
「三百……万?」
「良くできました」
「ねえ、僕《ぼく》がボディガードになるよ」
と、有賀の目の色が変っている。
「そう頼《たの》むつもりだったの」
と、亜由美はクスクス笑って言った。
「でも、お金もらったからには、ちゃんとやらないとね」
「まずいかなあ、こんな金……」
「いいんじゃない? あの人にとっちゃ、一日の食費ぐらいにしか思えないんだもの」
「凄《すご》いなあ! これだけバイトで稼《かせ》ごうと思ったら……」
「他にも助手がいるのよ」
「誰《だれ》?」
「分んないの。今日、うちへ訪《たず》ねて来ることになってるんだけど」
——少し興《こう》奮《ふん》がおさまると、
「どうとりかかるか考えなきゃ」
と、有賀が言い出した。
「まず直《ちよく》接《せつ》彼女《かのじよ》に会うことよ」
と亜由美は言った。
「君、知らないんだろ」
「でも、それしか手はないわ。それに、田村さんのことで、と言えば理由はつくし」
「どこにいるんだい?」
「別《べつ》荘《そう》。——場所は聞いて来たわ」
「乗り込《こ》んで、『素《す》直《なお》に白《はく》状《じよう》しろ』ってやってやるか?」
「それで済《す》みゃ簡《かん》単《たん》だけどね」
「三百万じゃ、もう少し手間がかかるだろうなあ……」
と、有賀は言った。
「ともかく、あの武居さんとも、うまく連《れん》絡《らく》を取ってやらないとね」
「あいつかあ」
と、有賀は顔をしかめたが、「ま、いいや、三百万、三百万」
「現《げん》金《きん》ね、正に」
亜由美が笑《わら》った。
ドアがトントンとノックされて、
「亜由美、お客様よ」
と母の声。
「来たようね」
二人は階《かい》段《だん》を降《お》りて行った。玄《げん》関《かん》に、昨日の運転手が立っている。
「増口様の使いで参りました」
「どうも。あの……」
「増口様から、優《ゆう》秀《しゆう》な助手なので、信《しん》頼《らい》してくれ、とおことづけで」
「あなたが?」
「いえ、とんでもない!」
と運転手は言って、表の方へ「さ、入りなさい。照れないで」
と声をかけた。
おずおずと、〈助手〉が入って来た。
つややかな茶色の肌《はだ》をした、ダックスフントだった。
「——その犬はね、淑子が可愛《かわい》がっていたんだ」
と、電話口の向うで、増口の声は笑っていた。
「でも犬が……」
「結《けつ》婚《こん》式《しき》の少し前に、ちょっと具合を悪くして入院していたんだよ。だから、本物かどうか、かぎ分けてくれるんじゃないかと思ってね」
「分りました」
亜由美は受話器を戻《もど》すと、「——淑子さんの犬なんだって」
と、言った。
「なるほど。でも……ちょっと頼《たよ》りない感じするけど」
有賀が言うのも道理で、今、かのダックスフントは、亜由美のベッドの上で長々とのびて眠《ねむ》っていた。
「番犬にはなりそうもないわね」
と、亜由美は肯《うなず》いた。
「一発で、偽《にせ》物《もの》かどうか分りゃ、楽《らく》勝《しよう》じゃないか」
と、有賀はもう三百万円、手に入れたような顔をして言う。
しかし、亜由美には、そう物事が簡《かん》単《たん》に運ぶとは思えなかった。
電話が鳴った。
「——亜由美、女の方から電話。つなぐよ」
と清美の声がして、
「——もしもし」
あまり表《ひよう》情《じよう》のない声が聞こえて来た。
「塚川亜由美ですが」
「私、増口淑子です」
亜由美はギョッとした。
「は……あの……どうも……」
「その節はどうも」
「こ、こちらこそ」
「色々とあわただしくて、一度お電話しようと思っていたんですけど」
「あの——何か?」
「一度ゆっくりお話したいんです」
と、淑子が言った。「私のいる別《べつ》荘《そう》へ、おいでになりませんか?」