「じゃ、増口淑子の方から、別《べつ》荘《そう》へ招《しよう》待《たい》して来たのかい?」
と、有賀が目を輝《かがや》かせた。「ついてるじゃないか! これこそ、飛んで火に入る夏の虫ってやつだ」
「ちょっと場《ば》違《ちが》いじゃない?」
と、亜由美は言った。「こういう場合は、渡《わた》りに船って言うのよ」
「どっちだって大して変んないよ。三百万円はもうこっちのもんだぞ!」
「慎《しん》重《ちよう》にしろって言っといて、自分の方がよっぽど浮《う》かれてるじゃないの」
と、亜由美は冷やかした。
「いつ出かけるんだい?」
「明日。迎《むか》えの車が来るんですって」
「明日?——月曜日だぜ。大学、どうするんだ?」
「休むわ。しかたないじゃない。有賀君、行ったら?」
「三百万円、ふいにできるか!」
有賀は断《だん》固《こ》として言った。
「でも……何の用で呼《よ》ぶのかしら?」
「何か言わなかったのかい?」
「ただ話がしたい、って……」
実《じつ》際《さい》、ちょっと奇《き》妙《みよう》な感じではあった。
亜由美の方には、淑子と会いたい理由がある。しかし、淑子の方には何の理由もないような気がするのである。
もし、淑子が偽《にせ》物《もの》だとすると、わざわざ人を招《まね》いたりするまいとも思えた。では、淑子は正《しよう》真《しん》正《しよう》銘《めい》の本物なのだろうか?
「早速、このワン公の出番だ」
と有賀が、亜由美のベッドに寝そべっている茶色い円《えん》筒《とう》形《けい》の(?)ダックスフントの頭を指先でつついた。ダックスフントはちょっと頭を上げて、クゥーンと悲しげな声を上げた。
「よしなさいよ、そんなことするの」
と亜由美は有賀に言って、「これが頼《たよ》りなんだから」
と、そっと頭を撫《な》でてやった。むろん、有賀の頭ではなく、犬の頭を、である。
「そういえば、こいつの名前、聞いてなかったな」
「あ、そうだ。——どうしよう? 電話で訊《き》こうかしら」
「適《てき》当《とう》につけたら?」
「そういうわけには行かないわよ」
「じゃ、ダックス、とでもしようよ」
「単《たん》純《じゆん》ねえ。毛《け》並《なみ》の良さそうな犬じゃないの。もっと上品な名前よ、きっと」
「ハイセイコーにするか」
「冗《じよう》談《だん》ばっかり言って!」
と、亜由美は有賀をにらみつけた。
電話が鳴って、取ってみると、
「増口さんって方だよ」
と母親の声。
「——亜由美です」
「やあ、増口だ。さっきはすまん」
淑子かと思ったら父親の方である。
「忘《わす》れていたことがあってな。その犬の名前を教えなかったろう」
「まあ、ちょうど良かった。今お電話してうかがおうと思ってたんです」
「そうか。その犬はドン・ファンと言うんだ」
「ドン・ファン?」
「そう。なかなか乙な名前だろう」
「はあ……。あんまり犬らしくありませんね」
「いや、そいつにはピッタリの名前なんだ。その内分る。じゃ、よろしく頼《たの》む」
「あの——」
「ああ、それから、食べ物はかなりぜいたくしとるから、大体人《にん》間《げん》並《なみ》に扱《あつか》ってやればよろしい。食後は紅《こう》茶《ちや》を一《いつ》杯《ぱい》やってくれ」
「紅茶を……」
「そう。ウイスキーを一《いつ》滴《てき》落とすともっと喜ぶ。では、忙しいので、これで失礼する」
「あ、増口さん、あの——」
淑子の方から招《しよう》待《たい》の電話があったことを伝えようとしたが、もう電話は切れてしまっていた。
「——へえ、お前、ドン・ファンなの」
有賀がダックスフントの鼻先をチョイとつついた。
「俺《おれ》の彼女《かのじよ》、取るなよ」
亜由美はいやに難しい顔で考え込んでいる。
「おい、どうしたんだ?」
と有賀は声をかけた。
「うん……。どうも気になって来たのよ」
「何が?」
「増口さんのこと。——娘《むすめ》の夫が行方《ゆくえ》不明、娘は別《べつ》荘《そう》へ引きこもってる。そこへ娘が偽《にせ》物《もの》かもしれないという疑《ぎ》惑《わく》が起る。それはどういう意味だと思う?」
「意味って?」
「つまり——偽物が娘になりすましているとしたら、本《ヽ》当《ヽ》の《ヽ》娘はどうなったのか、それが親としては心配になるでしょう」
「そりゃそうだろうな」
「ところが、増口さんは、その調《ちよう》査《さ》を人《ひと》任《まか》せにしてるわ。武居さんはともかく、私のような、見ず知らずと言っていい娘に任せるなんて、無《む》茶《ちや》じゃない?」
「なるほどね」
「他の女が娘になりすましているということは、本物の娘は、もしかしたら殺されているかもしれない。それぐらいのこと、あの増口さんが分らないわけがないのよね」
亜由美は名《めい》探《たん》偵《てい》よろしく、じっと眉《まゆ》を寄《よ》せて考え込《こ》んだ。「それなのに、あんな呑《のん》気《き》なことを言って……。何かあるのよ。きっとそうだわ」
「何かある……ってどういうこと?」
「つまり——私たちに話したのと別の事《じ》情《じよう》が——もしくは、それ以外の何かがあるんだと思うわ」
「どんなことが?」
「そんなもの分るわけないでしょ」
と、亜由美はちょっと苛《いら》立《だ》って、「有賀君も少し考えてよ」
「僕《ぼく》はボディガードだぜ。頭を働かす方は任《まか》せるよ」
と、有賀はてんで頼《たよ》りない。
亜由美は、ベッドに長々と——正に、ダックスフントは長々という感じである——寝《ね》そべっている〈ドン・ファン〉と、有賀を交《こう》互《ご》に眺《なが》めて、ため息をついた。何だか心細いトリオだこと。
「どうしたんだい?」
有賀が不思議そうに訊《き》いた。
「いえね、あなた方、そうやって寝そべってると良く似《に》てるから、ひょっとして、従兄弟《いとこ》同《どう》士《し》か何かかと思ったの」
と亜由美は言った。
「——そうなんです。淑子さんの方から、ご招《しよう》待《たい》いただいて」
夜、もう寝ようかと思っているところへ、武居から電話が入った。亜由美が事情を話すと、
「それはいいチャンスだね」
と武居は言った。「僕も一《いつ》緒《しよ》に行きたいがそれでは向うも警《けい》戒《かい》するかもしれない」
「ええ、大丈夫ですわ」
「まあ、無《む》理《り》をしないで、充《じゆう》分《ぶん》に気を付けてね。もし何か危《あぶ》なそうだと思ったら、ホテルへ電話してくれ。いいね?」
「よろしく」
——亜由美は電話を切った。どうも、色々考えて、明日、淑子と会うのが怖《こわ》くなっていたのだが、武居の声を耳にして、大分落ち着いた。
居《い》間《ま》へ戻《もど》ると、母親の清美が、
「本当に紅《こう》茶《ちや》をおいしそうに飲んだわよ、この犬!」
と言いながら入って来た。
亜由美はつい笑《わら》い出した。清美の腕《うで》の中で、ドン・ファンが、何とも窮《きゆう》屈《くつ》そうな迷《めい》惑《わく》顔《がお》をしていたからだ。
「おいで、ドン・ファン」
と亜由美が声をかけると、清美の腕からスルリと脱《だつ》出《しゆつ》したしなやかな茶色の体が、トットと床《ゆか》を滑《すべ》って、亜由美の膝《ひざ》の上に飛び上った。
「わあ、重たい。あったかくって、面白いわね、お前は」
「明日、どこかに行くの?」
「ちょっと知り合いの人の別《べつ》荘《そう》にね」
「へえ。泊《とま》って来るのかい?」
「大学あるもの。もし泊るなんてことになったら、電話するわ」
「立《りつ》派《ぱ》な所なのかね」
「だと思うけど」
「——一泊いくらだって?」
と清美は真面目な顔で訊《き》いた。
亜由美はドン・ファンをかかえて、二階の部屋へ上った。
風《ふ》呂《ろ》を済《す》ませて、さて寝《ね》るか、と伸《の》びをする。
しかし、本当に妙《みよう》なことが続くものだ。
田村の失《しつ》踪《そう》、血のついた上《うわ》衣《ぎ》。武居を襲《おそ》ったトラックの謎《なぞ》。大金持の娘《むすめ》の、身《み》替《がわ》りの疑《ぎ》惑《わく》、それに対する父親の奇《き》妙《みよう》な態《たい》度《ど》。
そして——そう、桜井みどりが殺されたこと。消えるはずのない状《じよう》況《きよう》で、犯《はん》人《にん》はどうやって逃《に》げたのか?
みどりが、殺される前に、『武居に近付くな』と言ったのはなぜなのだろう?
それに、殿永刑《けい》事《じ》のこともある。桜井みどりの件《けん》で、取り調べがいとも簡《かん》単《たん》に終ってしまったのはなぜなのか。何か特《とく》別《べつ》な理由でもあったのかどうか……。
考え出すと、分らないことばかりである。
考えながら、ゆっくりと服を脱《ぬ》いでいると、何となく、足下に何かあるのを感じて、ヒョイと目を下へ向けた。
ドン・ファンが目の前にチョコンと座《すわ》って、じっと亜由美を見ている。
「まあ、失礼ね! レディが着《き》替《が》えをしてるところを見るなんて、お前も趣《しゆ》味《み》が悪いわよ」
手早くパジャマを着る。——明日は、増口淑子の別《べつ》荘《そう》だ。
早く眠《ねむ》って、殺《さつ》人《じん》犯《はん》と取っ組み合っても負けないようにしなくちゃ——というのは、もちろん空想の上での話である。
しかし、実《じつ》際《さい》、桜井みどりを殺した犯人がいるのだから、その危《き》険《けん》も、全くないとは言えない。
「ま、いいや」
と呟《つぶや》いて、亜由美は明りを消し、ベッドへスルリと潜《もぐ》り込んだ。
しかし、どうにも目が冴《さ》えてしかたないのだ。一《いつ》旦《たん》、人殺しなどということを考え始めると、桜井みどりの死体を見付けたときのショックがよみがえって来る。そして、講《こう》義《ぎ》中の居《い》眠《ねむ》りで見た、あの、死んだ田村が迫《せま》って来る、恐《おそ》ろしい夢《ゆめ》。
そうだ、謎《なぞ》といえば、もう一つの、田村からの、絵葉書のことがある。
そっけない文面と、裏《うら》の写真が、どれもシェークスピアと関《かかわ》りのある地のものであること……。あれは何の意味なのだろう?
亜由美の知っている限《かぎ》り、田村は、シェークスピアを、それほど愛読してはいなかった。もちろん、勉強家の田村である。読んでいないはずはないが、シェークスピアについて話すのを聞いた憶《おぼ》えはないのである。
そうなると、あの葉書には、何か隠《かく》された意味があるのだろうか?
だが、それをなぜ、亜《ヽ》由《ヽ》美《ヽ》へ《ヽ》出しているのか。そして、行方不明になったあ《ヽ》と《ヽ》で《ヽ》立ち寄《よ》るはずだったミュンヘンから、投《とう》函《かん》されているのはなぜか?
田村が実は生きていて、自らポストへ入れたのか、それとも誰《だれ》かが、田村が生きていると見せかけるために入れたのか。
考え出せば出すほど、謎《なぞ》が深まり、出口がない迷《めい》路《ろ》をさまよっているような気さえするのだ……。
こんなことしてちゃ、朝まで眠《ねむ》れないわ、と亜由美は目をつぶって眠ろうとした。眠れそうもない、と心配しながら、いつしか眠りに引きずり込《こ》まれて……。
ドアが開いた。
あ、また夢《ゆめ》だわ、と亜由美は思った。ドアの外は、青白い光が満《み》ち満《み》ちて、真暗な室内にその光が流れ込《こ》んで来る。
誰《だれ》かが入って来る。——田村さんかしら?
しかし、光を背《せ》に受けたシルエットは、どことなく田村らしくなかった。武居さん?
それとも——増口ではなさそうだ。あのずんぐり、丸っこい体型とは、大分違《ちが》っている。
「誰なの?」
ベッドの中から、亜由美は声をかけた。その人《ひと》影《かげ》は、まるで宙《ちゆう》を浮《う》いているかのように、音もなく近付いて来て、ベッドの足下の方へ立った。
「誰? 返事してよ」
と、亜由美は呼《よ》びかけた。「——やめて!」
と叫《さけ》んだのは、その男が、ベッドの毛布をめくったからだ。
「何するのよ、失礼ね!」
亜由美は起き上ろうとして、愕《がく》然《ぜん》とした。体が動かないのだ。手も足も、指一本動かせない。——男は毛布の中へ頭を突《つ》っ込《こ》むと、亜由美の足の間へ、潜《もぐ》り込んで来た。
「やめて! やめてよ! 出てって! やめて!」
男の体重が、亜由美の上を進んで来て、脚《あし》の膨《ふくら》みを圧《あつ》迫《ぱく》した。
「重いわ、苦しい……。どいて……向うへ行ってよ!」
亜由美は身をよじろうとした。辛《かろ》うじて、少しずつ体が動くようになって来る。
「やめて! 何するのよ!」
その男の頭が、パジャマの下へ、潜り込んで来たのだ。「いやよ!——やめて!」
と亜由美は叫《さけ》んだ。
男が悲しげな声を出した。
「クゥーン……」
——亜由美はハッとベッドに起き上った。胸《むね》が苦しいのも当り前だ。上に、あのドン・ファンが、のっかっているのである。
「こら! どきなさい!」
と手で押《お》しやると、ダックスフントは、床《ゆか》へストンと降《お》りて、亜由美の方を見上げ、クゥーンとまた声を上げた。
「ああびっくりした……」
亜由美は胸までまくれていたパジャマをあわてて引きずりおろした。どうやら、あの犬がベッドの足の方から潜り込んで来たらしいのだ。
「お前……どういう趣《しゆ》味《み》の持主なの?」
亜由美は呆《あき》れて言った。「——あ、そうか、それで、ね」
きっとこのダックスフント、女の子のベッドに潜り込むのが好《す》きなのだろう。なるほど、それで〈ドン・ファン〉か。
増口が言った言葉の意味が、やっと分った。