「おい、寝《ね》るなよ」
有賀につつかれて、亜由美は目を開いた。
「あ——ごめん、つい、ね……」
亜由美は目をこすりながら、「今、どこ走ってるの?」
と車の外を見た。
山の中の道である。といって、そんな山《やま》奥《おく》ではなさそうだ。
「奥《おく》多《た》摩《ま》の辺りだな」
と、有賀は言った。
「じゃ、昔《むかし》ハイキングなんかに来た所ね」
——良く晴れて、快《こころよ》い日和《ひより》だった。
増口淑子からの迎《むか》えの車は、十時ぴったりにやって来た。ベンツで、見るからに高級車の貫《かん》禄《ろく》。母の清美が、目を丸くしていた。
有賀とドン・ファンを従《したが》えて乗り込《こ》み、走り出すと、さすが大型車で、滑《なめ》らかな走りと乗り心地の良さ。ついつい、眠《ねむ》気《け》がさして来て、という次第であった。
「ゆうべ夜ふかししてたんだろ」
と有賀が言った。
「まあね」
亜由美は欠伸《あくび》しながら、「何しろベッドに侵《しん》入《にゆう》して来る不《ふ》届《とど》き者がいて……」
「何だって?」
有賀が顔色を変えて、「そ、それは誰《だれ》だい?」
「ドン・ファンよ。——もう、追い出しても追い出しても入って来るんだもの。参っちゃう」
「何だ、そうか」
と有賀が笑《わら》いながら言った。「きっと、美女は分るんだぜ」
「それは確《たし》かなようね」
亜由美は澄《す》まして言った。「——まだ大分かかるのかしら?」
「もう間もなくですよ」
と、運転手が言った。
「どうも……」
亜由美は、その運転手を見たとき、何だか、どこかで見たような人だ、と思った。しかし、どこで見たのかは思い出せないのだが……。
若《わか》くて、まだせいぜい三十くらいだろう。なかなか知的な容《よう》貌《ぼう》の男だった。ベンツのような高級車を運転するにふさわしく、きちんと背《せ》広《びろ》にネクタイ、白《しろ》手《て》袋《ぶくろ》だ。
たぶん、結《けつ》婚《こん》式《しき》のときにでも見かけたのだろう、と亜由美は思ったが、それでも、どこか引っかかるものが残っていた……。
車は、林の間の細い砂《じや》利《り》道《みち》へと入って行った。
「この奥《おく》です」
と運転手が言った。
「静かな所ね」
と、亜由美が言い終らない内に、白い、山小屋風に造《つく》られた、洒落《しやれ》た山荘が現《あらわ》れた。
「——素《す》敵《てき》!」
思わず、亜由美は呟《つぶや》いていた。
ベンツが入口のドアの前に横づけになる。運転手は急いで表に出ると、後ろのドアを開けてくれた。
亜由美と有賀が降《お》り立つと、ドン・ファンもヒョイと出て来て、ここには慣《な》れているのか、尻尾《しつぽ》を振《ふ》りながら、別《べつ》荘《そう》のわきの方へと走り出した。
「あ、こら! ドン・ファン!」
と亜由美は追いかけようとしたが、ドアが開いて、
「よくいらして下さったわね」
と、淑子が姿《すがた》を見せたので、足を止め、
「どうもお招《まね》きいただいて——」
と、頭を下げた。「こちらは私の友だちなんです。あの——有賀君といって、同じ大学にいます」
亜由美は、淑子の表情をじっとうかがっていたが、そこには、迷《めい》惑《わく》そうな気配は、全く見られなかった。
「ようこそ。どうぞお入りになって」
と、微《ほほ》笑《え》んで見せる。
「し、失礼します」
有賀の方が少し緊《きん》張《ちよう》している。
亜由美が、ドン・ファンの走って行った方を気にしていると、
「どうかしまして?」
と、淑子が訊《き》いた。
「あ——いえ、別に。静かでいい所だな、と思ってたんです」
「その点だけは、ね。でも、静かすぎて、墓《はか》場《ば》のようですよ」
新《しん》婚《こん》早《そう》々《そう》、夫を失った女《じよ》性《せい》にしては、〈墓場〉とは大《だい》胆《たん》なことを言うもんだわ、と亜由美は思った。
「どうぞ中へ——」
と、淑子が促《うなが》した。
広々とした居間のソファで寛《くつろ》ぎながら、
「突《とつ》然《ぜん》、こんな風にお呼《よ》び立てしてごめんなさいね」
と、淑子は言った。
——この別《べつ》荘《そう》には、もちろん淑子一人でいるわけではない。手伝いの女性が二人、一人は中年の太ったおばさん風、もう一人は、まだ若《わか》い——たぶん亜由美より若いくらいの娘《むすめ》だった。
若い娘が、淑子と亜由美、有賀に、紅《こう》茶《ちや》を出した。
「色々大変でしたわね」
と、亜由美は言った。
「ええ。もう二度と外国なんか行きたくありませんわ」
「当然でしょうね」
と、亜由美は肯《うなず》いた。「それで……あの……お話というのは?」
「田村さんのことなんです」
と言ってから、淑子は、ちょっと照れたように、
「——変ですね、結《けつ》婚《こん》したんだから、『夫』とか『主人』と言えばいいのに、つい田村さんと呼《よ》んでしまいますわ」
「私も心配しているんですけど」と、亜由美は言った。「どうでしょう? 田村さんは生きていると思われますか?」
淑子がどう答えるか、亜由美は興《きよう》味《み》があった。
「生きています」
淑子は、あっさりと言った。
「確《たし》か……ですか?」
亜由美は、念を押《お》した。
「証《しよう》拠《こ》を出せと言われれば、何もありません。でも、あの人がそんな目に遭《あ》うということが考えられないんです」
「つまり——」
「あの人は危《あぶ》ない所へ行くような人じゃないと思うんです。——そんなに長くお付合いしたわけじゃありませんけれど、その程《てい》度《ど》のことは分ります」
「同感ですわ」
と、亜由美は肯いた。
「ありがとう。そうおっしゃっていただけると嬉《うれ》しいわ」
「田村さんは、何か好きなことのためなら、本当に我《われ》を忘《わす》れちゃうんですけど、それ以外なら、とても慎《しん》重《ちよう》な——というか、気の弱い人だと思います」
「本当にそうね。ああいう、ちょっと世《せ》間《けん》離《ばな》れしたところにひかれたんだけど……」
全く、田村という人間は浮《うき》世《よ》離れしたところがあるのだ。
「じゃ、田村さんはどうなったんでしょうか?」
と、亜由美は言った。
「私には見当もつきません」
と、淑子は首を振《ふ》って、「あなたに、何か考えはあります?」
「さあ……」
亜由美は、偽《にせ》物《もの》かもしれない淑子へ、あれこれ打ち明けるわけにもいかないので、曖《あい》昧《まい》に首をかしげて見せた。
「実は、今日わざわざ来ていただいたのは、わけがあるんです」
と、淑子は立ち上ると、飾《かざ》り棚《だな》についた小さな引出しを開けに行った。
亜由美は、そっと有賀と視《し》線《せん》を合わせた。——ドン・ファンのことが気にかかっていた。
どこへ行ったんだろう? 肝《かん》心《じん》なときなのに……。
「これを見て下さい」
と、淑子が差し出したのは、一枚《まい》の絵葉書だった。
「まあ、この字は——」
「彼《かれ》の字でしょう?」
「ええ、そう思えます」
宛《あて》名《な》は〈田《ヽ》村《ヽ》淑子様〉となっていた。
差出人の名前はない。
そして、通《つう》信《しん》欄《らん》も空白のままである。ただ、宛名だけが書かれているのだ。
「どういう意味だと思いますか?」
と、淑子は訊《き》いた。
「分りませんけど……。消印は——」
「よく見えないんですけど、何とか解《かい》読《どく》しました。ハンブルクなんです」
「じゃ、田村さんが行方不明になった所ですね」
「ただ日付は読み取れないんです」
「いつこちらへ着いたんですか?」
「ここへ着いたわけじゃありません。新《しん》婚《こん》旅行から帰った後、私たちが住むことになっていたマンションに届《とど》いていたんです。昨日、あれこれと必要な品も置いてあるので、行ってみると、それが郵《ゆう》便《びん》受《うけ》に入っていました」
「じゃ、いつ配達されたかは分らないわけですね」
「そうなんです。でも——あの人は、ハンブルクに着いて、その日の夜に失《しつ》踪《そう》したんですから、絵葉書を——それも自分の妻《つま》宛《あて》に出すなんておかしいと思いませんか?」
淑子の様子は、今までのところ、ごく自然だった。偽《にせ》物《もの》なら、本物らしく見せるために、却《かえ》ってわざとそれらしく振《ふ》る舞《ま》うのではないかという気がしたが、少なくとも、亜由美の目には、そんな印象はなかった。
淑子は、ごく地味なワンピース姿《すがた》で、いかにも、いい育ちの令《れい》嬢《じよう》という様子だった。あの結《けつ》婚《こん》式《しき》のときの、冷ややかな印象は薄《うす》れている。
あれは、濃《こ》い化《け》粧《しよう》と、緊《きん》張《ちよう》感《かん》のせいだったのだろうか。
「つまり——田村さんは、失踪した後《ヽ》で《ヽ》、これを出した、と?」
「他に考えられませんわ。そうじゃありません?」
「でも、何も書いてないのはどうしてなんでしょう?」
「分りません。書けなかったのか、それともわざと書かずに出したのか……。ただ、自分が生きていることを私に知らせるために出したのかもしれません」
「向うで何をしているにせよ、生きていれば、何か連《れん》絡《らく》があるんじゃないでしょうか。連絡できる状《じよう》態《たい》ならば」
「私もそう思うんです」
淑子は肯いて、「何か、とんでもない犯《はん》罪《ざい》にでも巻《ま》き込《こ》まれたのかも……。ヨーロッパはあれこれと、密《みつ》輸《ゆ》だの何だの、犯《はん》罪《ざい》者《しや》がいるでしょう。特《とく》にハンブルクは港町ですから……」
確《たし》かに、まるで小説のような、荒《こう》唐《とう》無《む》稽《けい》に思える話だが、そういう事《じ》件《けん》が実《じつ》際《さい》に起りうるのがヨーロッパという所らしい。
「じゃ、田村さんも、何かを見てしまったりして、捕《つか》まったのかもしれませんね」
と、亜由美は言った。
「それが心配なんです。そんな夢《ゆめ》を見て、うなされてしまうのもしばしばですわ」
と淑子は言った。
亜由美は、絵葉書を裏《うら》返《がえ》してみた。古《こ》城《じよう》の写真だ。
城《しろ》といっても、戦《せん》闘《とう》用の武《ぶ》骨《こつ》なものではなく、貴《き》族《ぞく》の館というような建物だ。
どこだろう? ドイツではなさそうだ。——コーダー。コーダー?
どこかで聞いた名前だ、と思った。
「妙《みよう》でしょう?」
と、淑子が言った。「ハンブルクの消印なのに、写真はイギリスのお城なんですもの」
「コーダーですね。どこかで聞いたことのある名前だわ」
そこへ、有賀が口を挟《はさ》んだ。
「〈マクベス〉だ」
「え?」
「コーダーの領《りよう》主《しゆ》だよ。シェークスピアの〈マクベス〉がコーダーを舞《ぶ》台《たい》にしている」
「まあ、そうだわ、気が付かなかった」
と、淑子が言った。「良くご存《ぞん》知《じ》ね」
「いえ、まあ……」
などと、有賀は照れて口ごもっている。
シェークスピア! またしてもシェークスピアなのだ。
一通だけが、淑子の所へ届《とど》いている。これは何の意味なのだろうか?
「——失礼します」
お手伝いの若《わか》い娘《むすめ》が入って来た。「お嬢《じよう》様《さま》、神岡さんが——」
「何かしら?」
「ちょっとお話があるそうですけど」
「じゃ、ここへ入ってもらって」
「はい」
「それから、『奥《おく》様《さま》』って呼《よ》んでね、分った?」
「はい、すみません」
淑子は、亜由美の方へ、
「神岡さんって、あなた方を乗せて来た運転手さん」
と、説明した。「若いけど、腕《うで》のいい人なんですよ。——ああ、どうかしたの?」
あの運転手が入って来ると、
「失礼します。実は犬のことで——」
「犬? 何のこと?」
「あの——」
と、亜由美は言った。「実は、お父様から頼《たの》まれて、犬のドン・ファンを連れて来たんですの」
「まあ! ドン・ファンが来てるなんて……」
淑子は嬉《うれ》しそうに手を打った。「神岡さん、すぐ連れて来て」
「はあ、それが逃《に》げてしまいまして」
「逃げた? ドン・ファンが?」
「さようです。車から出ると林の中へ飛び込《こ》んで行ってしまって」
「それじゃきっと、骨《ほね》か何かを埋《う》めてある所へ行ったのよ。思い出したんでしょ」
「戻《もど》ってくるのを待っていたのですが……」
「何かあったの?」
「突《とつ》然《ぜん》、林の中でキャンキャンと激《はげ》しく吠《ほ》える声がして、それきりバッタリと——」
「ドン・ファンの声?」
「そうだと思います」
「いやだわ。何かに襲《おそ》われたのかしら」
と、淑子は心配そうに言った。
「この辺に、そんな大きな動物はいないと思いますが」
「捜《さが》してみましょう」
淑子は立ち上った。「あの、すみませんけど、ちょっと失礼しますわ」
「私たちもお手伝いします」
「でも——申《もう》し訳《わけ》ないわ」
「いいえ。ねえ、有賀君?」
「う、うん。——もちろん一《いつ》緒《しよ》に捜《さが》しますよ」
「すみません。じゃ、行ってみましょう」
神岡という運転手を先頭に、四人は、別《べつ》荘《そう》の表に出た。
「あっちで声がしたようでした」
と、神岡が指さしたのは、さっきドン・ファンが駆《か》けて行った方向である。
「じゃ、少し離《はな》れて歩いてみましょう。あれは頭のいい犬ですから、呼《よ》べば返事をしてくれます」
——かくて、ダックスフントを求めて、四人の声が林の中を、『ドン・ファン!』『ドン・ファン!』と響《ひび》き渡ったのである。