三十分近く、四人は林の中をぐるぐると歩き回った。
「——ああ疲《つか》れた」
日《ひ》頃《ごろ》から運動不足である。亜由美も少々へばって来て、淑子たちと少し離《はな》れたので、木にもたれて休んだ。
それにしても、あのドン・ファン、どこへ行ってしまったのだろう? 何かに襲《おそ》われたとしても……いや、〈何か〉ではなく、〈誰《だれ》か〉かもしれない。
ドン・ファンが淑子に会ってはまずいと思った誰かが、ドン・ファンを殺して……。
いや、そこまではちょっと考え過《す》ぎだろう。——まさか淑子がドン・ファンを殺させたなどとは……。
突《とつ》然《ぜん》、手がのびて来て、亜由美の肩《かた》に置かれた。
「キャッ!」
亜由美は飛び上った。
「びっくりした?」
立っているのは、有賀だった。
「何よ、もう!」
亜由美は有賀をにらみつけてやった。
「さぼっちゃだめじゃないか」
「そっちだってさぼってんでしょ。私は考えてたのよ」
「何を?」
「決ってるじゃない。あの人が本当の——」
「しっ! 聞こえたらどうすんだよ」
「あ、そうか」
亜由美はチョイと舌《した》を出した。「——でも、今のところごく自然ね。そう思わない?」
「うん……。美人だな」
「何を考えてんのよ!——ともかく、ドン・ファンが見付からない以上、私たちで探《さぐ》る他はないわ」
「どうやって? 大体さ、考えてみると無《む》茶《ちや》なんだよな。こっちは、本物も何も、全然増口淑子ってのを知らないわけだろ? 比《くら》べようがないものな、もし偽《にせ》物《もの》だとしても」
「それはその通りね」
「それなのに、三百万も出すなんて、やっぱり増口って、どこかおかしいんだよ」
「分ってるのよ、きっと。分らないはずはないわ」
「それでも僕らを行かせようとする。なぜだい?」
亜由美は首を振《ふ》った。そして、ふと、思い付いた様子で、
「そうだ! どうして気付かなかったのかしら」
と拳《こぶし》でコンと自分の頭をつついた。
「何を?」
「使用人よ! あの運転手とか、お手伝いの人——あの女の子がいいわ。一番、淑子さんの身近にいるわけじゃない」
「そうか。おかしなことがあれば気が付くはずだな」
「もちろん、誰《だれ》かが淑子さんになりすましてるとしたら、充《じゆう》分《ぶん》に詳《くわ》しく淑子さんのことを調べてると思うわ。だけど、毎日の習《しゆう》慣《かん》やく《ヽ》せ《ヽ》までは、とても真《ま》似《ね》できっこないわ」
「そうだな、毎朝起きてから、顔洗《あら》うのが先か便所に行くのが先かとか——」
「もうちょっとましな例が出て来ないの?」
と、亜由美は顔をしかめた。
「ごめん」
「ともかく、その辺を訊《き》いてみましょ。あの若《わか》い方のお手伝いさんなら、きっと話ができるわ」
「何なら僕《ぼく》が迫《せま》ってみようか、この二《に》枚《まい》目《め》の魅《み》力《りよく》で」
「三枚目のホットケーキみたいな顔して何言ってんの。ここは私に任《まか》せてよ」
と亜由美は言って、「さて、また少しドン・ファンを捜《さが》してみる? 淑子さんたちの声、ずいぶん遠くなっちゃったわね」
「あっちに任《まか》せて、僕らは休んでようよ」
「怠《たい》惰《だ》ねえ」
「くたびれるんだよ、こういう所歩くのは」
「だらしない」
と、亜由美は笑《わら》って、「じゃ、一つ元気づけてあげるわ」
と言うと、有賀にヒョイとキスした。
「もう一度、ゆっくりしてくれると、元気が出るんだけど」
「残念でした。腹《はら》八分目よ。それじゃ——」
と言いかけて、亜由美はギョッとした。
背《はい》後《ご》の茂《しげ》みの奥《おく》で、ガサッと何かが音を立てて動いたのだ。
二人は、顔を見合わせた。
「今の……」
「誰《だれ》かいる」
「ど、どこだった?」
「あの辺だ。動いたからな。——犬じゃないぞ」
「そうね。あの犬ならもっと低い所で音がするわ」
亜由美は、有賀の背《せ》中《なか》をつついた。
「ほら……ボディガードでしょ」
「え……うん、分ってるよ」
有賀は、あまり気の進まない様子で、こわごわ、その茂みの方へ足を進めて行った。
「こ……こら……誰かいるのか?」
声が少々震《ふる》えている。あんまり頼《たよ》りにはならない。
「——有賀君、気を付けて」
と亜由美が声をかけた。「殺《さつ》人《じん》犯《はん》かもしれないわ。中からいきなりナイフが出て来るかも……」
こういうときは、ついおどかしてみたくなるのが、亜由美の悪いくせである。
「よ、よせよ……。おい、出て来い! 誰《だれ》かいるんだろ! いないのか?」
「ぐっと踏《ふ》み込《こ》んで捕《つか》まえてよ」
「人のことだと思って気《き》楽《らく》に言うない」
と、有賀は文《もん》句《く》を言いながら、茂《しげ》みの方へ頭を突《つ》き出し、「おい……出といでよ。いい子だから……」
「迫《はく》力《りよく》ないなあ」
と、亜由美はため息をついた。——と、突《とつ》然《ぜん》、
「ワッ!」
と悲鳴を上げて、有賀が茂みの中へ吸《す》い込《こ》まれるように消えた。そして、
「この野《や》郎《ろう》! 何するんだ!」
と、有賀の声がして、「いてえ!」
ドサッと倒《たお》れる音。
「有賀君!」
と亜由美は呼《よ》んだ。「しっかりして!」
ザザッと音がして、
「どうしました?」
と、駆《か》けつけて来たのは、運転手の神岡だった。
「あ、あの——そこの茂みに何かいて、有賀君が——」
神岡が茂みを飛び越《こ》えようとして、
「——大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですか!」
とかがみ込んだ。「倒れてますよ」
「まあ!——有賀君!」
亜由美が茂みをかき分けて行くと、有賀が頭をかかえながら、起き上るところだった。
「どうしたの? 大丈夫?」
「うん……。何だかいきなり後ろから取っ捕まってコツン、と……。ああいてて……」
有賀は顔をしかめた。
「相手は?」
「さあ。全然見えなかったよ。でも、あの犬じゃないことだけは確《たし》かだ」
「逃げたようですね、何もいない」
神岡は有賀を支《ささ》えて立たせた。「この辺に浮《ふ》浪《ろう》者《しや》が出るって話も聞かないけど、一《いち》応《おう》用心した方がいいですね。おけがは?」
「いいえ、どこも。——ちょっと頭にコブができたくらいかな」
「手当しといた方がいいですよ。もう中へ入りましょう。お嬢《じよう》様《さま》も、ドン・ファンを捜《さが》すのを諦《あきら》めたようです」
「結局見つからずに?」
「どこへ行っちまったんでしょうかね」
と、神岡は首を振った。「別に死体もないし、血の跡《あと》があるわけでもないし……」
「心配ですね」
と、亜由美は言った。
「こっちのこともちょっとは心配しろよ」
有賀がふくれっつらで言った。
「——じゃ、泊《と》めていただけるんですか?」
と、亜由美はナイフを止めて言った。
といって、別にナイフを突《つ》きつけていたわけではない。まるで都内の一流レストランが引《ひつ》越《こ》して来たような、みごとな夕食の最中だったのである。
「ええ、もちろん。よろしいんでしょう?」
「それはもう……。うちには別《べつ》荘《そう》なんてものはありませんから、一度泊ってみたかったんです」
「よろしかったら、いつまででも」
と淑子が微《ほほ》笑《え》む。
「それじゃ大学を退《たい》学《がく》させられます」
と、亜由美は笑顔で言った。
「もちろん有賀さんもご一《いつ》緒《しよ》に、ね」
淑子に言われて、貪《むさぼ》るように食べていた有賀は、あわてて水をガブ飲みした。
「——ど、どうもありがとうございます」
と、やっとの思いで言う。「しかし、おいしいですね、この肉は」
「よろしかったら、おかわりなさって下さい」
「いいんですか?」
と、目を輝《かがや》かせる。
亜由美は、ちょっと横目で有賀をにらんだ。——そんなに食べて、苦しくて動けなくなっても知らないからね!
——食事の後、あの若《わか》いお手伝いの娘《むすめ》が、コーヒーポットを運んで来た。
「ああ、邦代さん」
と、淑子が呼《よ》びかける。「今夜、お二人ともお泊《とま》りだから。お部屋の仕《し》度《たく》をね」
「かしこまりました」
と、邦代と呼ばれたその娘は、コーヒーを注ぎながら、「お二人、一《いつ》緒《しよ》のお部屋でよろしいんですか」
と訊《き》いた。
「どうします?」
「もちろん別々にして下さい!」
と、亜由美は断《だん》固《こ》として言った。「この人は押《おし》入《い》れでも構《かま》いません」
「面白いわ。お二人とも」
淑子は屈《くつ》託《たく》なく笑《わら》った。「じゃ、お隣《となり》同《どう》士《し》の部屋を用意しますわ。それならいいんでしょ?」
「鍵《かぎ》はかかります?」
と、亜由美は真顔で訊《き》いた。
食事の後、居《い》間《ま》へ移《うつ》ると、淑子は、亜由美に、大学での田村のことを何でもいいから話してくれ、と言い出した。
「あの人のことを少しでも知りたいの。きっと帰って来ると信じてるから」
と淑子は言った。
亜由美は、とりとめのない、エピソードを思い出すままに話したが、淑子の方は、じっと、身を乗り出すようにして聞いている。
そして、亜由美は、淑子の目に涙《なみだ》が光っているのに気付いた。——これはきっと本物の淑子なんだ、と思った。
偽《にせ》物《もの》が、なりすましているのなら、できるだけボロがでないように、田村の知り合いの人間に、泊《とま》って行けとすすめたり、あれこれ訊《き》いたりはしないだろう。
これが演《えん》技《ぎ》なら、正に名演である。
「——淑子さん」
と、亜由美は言った。「実は、私のところにも、絵葉書が来ているんです」
「え?」
淑子は、ちょっと意味をつかみかねているようだったが、すぐに、頬《ほお》を紅《こう》潮《ちよう》させた。
「一《いち》応《おう》、文章も書いてあります。でも、あんまり意味はない内《ない》容《よう》ですけど」
「どういう内容ですか」
亜由美は記《き》憶《おく》を頼《たよ》りに、大体のところを説明した。
——しゃべってはいけなかったかな、と思ったのは、話し終った後で、それは、大体があわて者の亜由美としては、いつものことであった。
しかし、口から出てしまったものを、もう取り戻《もど》すことはできない。チラッと有賀の方へ目をやると、肝《かん》心《じん》のボディガードは、満《まん》腹《ぷく》になったせいか、スヤスヤと眠《ねむ》っていた。
「やっぱり生きてるんだわ、あの人は」
と、淑子は声を弾《はず》ませる。「今度、その葉書を見せて下さいな」
「ええ、もちろん。でも、一つ分らないのは、なぜ、シェークスピアが出て来るのかっていうことです」
「本当ね。ええと——ヴェニスとデンマークと……」
「ヴェローナです。そして淑子さんのところへ来た、コーダー」
「『マクベス』『ハムレット』『ヴェニスの商人』『ロミオとジュリエット』ね。——あんまり内容的な関連はないわね。悲《ひ》劇《げき》も喜劇もあるし……」
「ともかく、田村さんが出していることだけは確《たし》かですね」
淑子は深々とため息をついて、
「あの人は何をしてるのかしら」
と呟《つぶや》いた。
「——失礼します」
邦代という娘《むすめ》が入って来る。
「ああ、もう片《かた》付《づ》けてちょうだい」
「はい、お部屋の方は仕度しました」
「どうもありがとう。ご案内してあげて」
淑子は立ち上ると、「じゃ、どうぞごゆっくりなさって下さい。まだお休みにならないようでしたら、どうぞこの部屋を自由にお使いになって構《かま》いませんから」
亜由美と、やっと目を覚ました有賀は礼を言って、邦代という娘について居《い》間《ま》を出た。
「お二階です」
と、邦代が、先に立って階《かい》段《だん》を上って行く。
「——あなたは住み込《こ》みなの?」
と、亜由美は訊《き》いてみた。
「ええ。一階の奥《おく》の部屋で休みます」
「大変ね」
「いいえ、却《かえ》って、朝早く出て来るより楽ですし。お金の節約にもなりますもの」
見かけによらず、がっちりした現《げん》代《だい》っ子らしい。
二階の廊《ろう》下《か》を挟《はさ》んで、いくつかドアが並《なら》んでいる。
「ずいぶん部屋があるのね」
「お客様を、十人までお泊《と》めできるそうです」
「十人ね!」
まだ眠《ねむ》そうな有賀は、頭を振《ふ》って、
「うちは客なんて一人も泊る余《よ》裕《ゆう》がないぜ。せいぜい軒《のき》下《した》で野《の》良《ら》猫《ねこ》一《いつ》匹《ぴき》だな」
と言った。
「——こちらが塚川様。あちらが有賀様の部屋です」
「ありがとう」
「失礼します」
邦代が行ってしまうと、亜由美はドアを開けた。——客間としては立《りつ》派《ぱ》なものだ。超《ちよう》一流ホテル並《な》みとはいかないにしても、なまじのペンションやビジネスホテルより、よほどゆったりして、ベッドも広い。ちゃんとトイレとシャワーまで付いている。
「——同じ造《つく》りか」
と、有賀が入って来る。「ただ、左右対《たい》称《しよう》だな」
「何よ、レディの部屋へ入るときはノックしなさい」
「まだ裸《はだか》でもないんだからいいじゃないか」
「当り前よ。——後であの邦代さんって子の所へ行ってみるわ。何か聞き出せるかもしれない」
「気を付けろよ。こんな目に遭《あ》わないようにね」
有賀は頭のコブを撫《な》でて見せた。
「——ドン・ファンがいなくなったのは気になるわね。それに、あなたを殴《なぐ》った人間……」
「今夜は用心した方がいいぞ」
「何よ、そのためにボディガードがついて来たんでしょ」
「今夜はだめ。たらふく食ったら、もう眠《ねむ》くて眠くて……」
「ひどいなあ。朝になったら、私が殺されてた、なんてことになったって知らないわよ」
「そしたら泣《な》いて悔《くや》むよ」
「それだけ?」
「香《こう》典《でん》も出す」
亜由美はつい笑《わら》ってしまった。——ドアをノックする音。
「塚川さん。いいかしら?」
淑子の声だ。ドアを開けると、有賀に気付いて、
「あら、お邪《じや》魔《ま》したかしら?」
「いいえ、とんでもない」
「あの——ちょっと妙《みよう》なことを訊《き》くようですけど、さっきの田村さんからの葉書、どこへ行ったかご存《ぞん》知《じ》ありません?」
亜由美と有賀は顔を見合わせた。
「——ないんですか」
「ええ。いざ、しまっておこうと思って、捜《さが》したんですけど、見当らなくて。引出しも調べましたし、邦代さんに手伝ってもらって、居《い》間《ま》の中をくまなく捜したんです。でも、どこにも……」
「変ですね。有賀君、知ってる?」
「いいや。全然、分らない」
「そう……」
淑子は、ちょっと落ち着かない様子で、
「何だかいやなことでも起りそうだわ」
と独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。
「淑子さん——」
「いいえ、きっとどこかから出て来るわ。ごめんなさいね、お邪《じや》魔《ま》して」
と、淑子は会《え》釈《しやく》して出て行った。
亜由美と有賀はしばらく黙《だま》り込《こ》んでいた。
「誰《だれ》かが盗《と》ったのかしら?」
「さあ……。ともかく、彼女、ずいぶん気落ちしてる様子じゃないか」
「そうね。本当に田村さんのことを愛してるのよ。——私、そう思うわ」
亜由美は、自分に言い聞かせるような口《く》調《ちよう》で、そう言った。