有賀におやすみを言って、一人になると、亜由美は時計を見た。
十時半だ。まだ宵《よい》の口、とは行かないにしても、寝《ね》るには早い。
「そうだ。家へ電話しておこう」
と呟《つぶや》く。
さすがにホテルではないから、各室に電話までは付いていない。インターホン式のものがあるが、外へかけられるような電話はないのである。
「確《たし》か二階にも、廊《ろう》下《か》にあったような——」
部屋を出て、廊下を見《み》渡《わた》すと、あったあった。——受話器を上げてみると発信音も聞こえる。
早速自《じ》宅《たく》へかける。
「はい、塚川です」
「あ、お母さん、私よ。今夜は、こちらの別《べつ》荘《そう》にお世話になるからね」
「そう、ついでに二、三日泊《と》めていただいたら?」
「まさか。明日は帰るから」
「分ったよ」
と清美は言って、「有賀君も一《いつ》緒《しよ》なんだね?」
「そうよ」
「じゃ、まあ巧《うま》くやりなさい」
「——巧くって?」
「妊《にん》娠《しん》しないように気を付けなさい。それじゃ」
「あの……」
電話は切れていた。亜由美は、呆《あき》れ顔で受話器を戻《もど》した。
物分りのいい母親、と感《かん》謝《しや》すべきなのかどうか……。
カチリ、とドアの閉《しま》る音がした。亜由美はギクリとして振《ふ》り向いた。
廊《ろう》下《か》に人《ひと》影《かげ》はなく、どのドアも閉《と》ざされていた。そのどれがカチリと鳴ったのか、亜由美には見当もつかない。
誰《だれ》かが、ドアを開けて、亜由美の電話を聞いていたのだ。しかし、誰が?
亜由美は、急に寒々としたものに捉《とら》えられて、部屋に戻《もど》った。
まだ、あの邦代という娘《むすめ》の所へ行くのは早いだろう。その前にシャワーでも浴びてしまおうか。
亜由美はドアのかけ金をかけて、それからベッドのわきに服を脱《ぬ》いだ。
裸《はだか》になってシャワールームへ入り、カーテンを引く。コックをひねると、ちょうど少し熱めの、快《かい》適《てき》な雨が降《ふ》り注いで来る。
手早く浴びるつもりが、気持いいので、つい手間取って、バスタオルを体に巻《ま》いてシャワールームから出たときは、少しのぼせ気味ですらあった。
「——さあ、服を着て、と……」
亜由美は、時々、やらなくてはならないことを口に出して言ってみて、自分を動かす、ということをやる。そうしないとなかなか動かない、怠《たい》惰《だ》人《にん》間《げん》なのかもしれない。
服を着て、バスタオルを戻《もど》そうとしてベッドの上から取った。そして——手が止った。
ベッドの上に、一枚の絵葉書があった。
取り上げる手が震《ふる》えた。間《ま》違《ちが》いない。コーダーの城《しろ》の写真。表の宛《あて》名《な》だけの筆《ひつ》跡《せき》。
それは、淑子が失くなったと言っていた、田村からの絵葉書であった。
事の意外さに、亜由美はしばらくその場に突《つ》っ立《た》っていた。そこに絵葉書があったことそのことも驚《おどろ》きだったが、自分がシャワーを浴びている間に、誰かがここへ入って来たのだということも、亜由美を不安にさせていたのだ……。
一体誰《だれ》が、こんなことをしたのだろう? 何のために?
亜由美には、見当もつかなかった……。
しかし、一体、この絵葉書、どうしたものだろう?
亜由美はベッドに座《すわ》って考え込《こ》んでいた。淑子の所へ返しに行っても、どう説明しよう?
シャワーを浴びて出て来たら、ベッドの上にのっていた。——そんなことを信用してくれるとは思えない。
実《じつ》際《さい》、確《たし》かめたのだが、ドアのかけ金は、ちゃんとかけてある。誰かが入って来たという形《けい》跡《せき》はないのだ。
淑子に妙《みよう》な疑《ぎ》惑《わく》を持たれるよりは、黙《だま》っていよう、と亜由美は決めた。絵葉書を、バッグにしまい込む。
さて、もう十一時過《す》ぎだ。そろそろいいだろう。
亜由美は部屋を出て、一階へ降《お》りて行った。居《い》間《ま》の方から、光が洩《も》れている。
まだ淑子は起きているのだろうか? そうなると、ちょっとまずいのだが。
ドアが細く開いているので、覗《のぞ》いてみようと思った。そっと近付き、隙《すき》間《ま》に目を当てる。
——人の姿《すがた》は見えなかった。
いないのか。それとも、死角になったところにいるのかな……。
不意に、クスクス笑《わら》う声がして、亜由美はギョッとした。中から聞こえて来るのだ。
少しドアを開いて、頭を入れてみた。
声はするのだが、どこにも姿は——と、思うと、ソファの、背《せ》の向うから、ピョコンと女の足が出て来た。——男の笑い声、女のクスクス笑い……。
事《じ》情《じよう》はピンと来た。そのとき、ドアがキーッと音を立てたので、ソファの向うは、急に静まり返ってしまった。
恐《おそ》る恐る、ソファの背《せ》から覗《のぞ》いた顔は、運転手の神岡……そして、相手は邦代であった。
「あ——どうも」
神岡があわてて立ち上る。邦代も、はだけたブラウスの胸《むね》のボタンをせっせととめていた。
「おやすみなさい」
神岡は、そそくさと出て行ってしまった。
邦代の方は、ちょっとすねたように、亜由美を見て、
「ご用ですか。私の仕事時間は十時までなんですけど。後はどうしようと勝手でしょ」
「邪《じや》魔《ま》してごめん。でも、何もこんな所で……。どこか他のお部屋でしたらいいのに」
「ここが一番スリルがあって面白いって、神岡さん、言うんだもの」
邦代は、屈《くつ》託《たく》なく笑《わら》った。
「負けそう、って感じね」
「彼《かれ》氏《し》のところに行かないんですかあ」
「彼氏? ああ、有賀君? 彼は、ただのお友達よ」
「じゃ、まだ一《いつ》緒《しよ》に寝《ね》てないんですか?」
まさか、という顔。亜由美は何とも言いようがない。
「遅《おく》れてんのかな、私。まだ未《み》経《けい》験《けん》組《ぐみ》なんだもの」
「嘘《うそ》! そんな人いるんですか?」
変に小《こ》馬《ば》鹿《か》にしたように言われると腹《はら》が立つものだが、邦代の言い方は、子《こ》供《ども》っぽいほど素《す》直《なお》なので、却《かえ》って怒《おこ》る気にもなれないのだ。
「週《しゆう》刊《かん》誌《し》に出てるほど進んでないのよ、実《じつ》態《たい》は」
と、亜由美は言った。「ねえ、ちょうどいいわ。あなたにちょっと訊《き》きたいことがあったの」
「何ですか?」
「淑子さんのことなんだけど」
「お嬢《じよう》さんの?」
「あなたはいつからここで働いてるの?」
「まだほんの一か月くらいです。この別《べつ》荘《そう》では」
「というと……前は?」
「やっぱり、増口さんの、他の別荘にいたんです」
「じゃ、こっちへ移《うつ》って来たわけ」
「そうです。お嬢《じよう》さんのご希望だったそうですよ」
「淑子さんの?」
「おばさんもです」
「おばさんって、もう一人の——」
「ええ。やっぱり他の別荘から、私と同じ頃《ころ》、こっちへ来たんです」
「じゃ、それまでこの別荘は使ってなかったの?」
「いいえ。でも他の人が働いてたんです。その人たちは、どこかよその——確《たし》か軽井沢の方へ移ったそうですよ」
「どうしてそんな面《めん》倒《どう》なことをしたのかしら?」
「さあ、お金持って、大体気まぐれでしょ」
「それにしても……。よほど、淑子さんは、あなたを気に入ったのね、きっと」
「いいえ。だって、私、ここへ来る前は、お嬢さんにお会いしたことないんですもの」
「え? じゃ、ここで初めて?」
「そうです。おばさんもですよ」
つまり、結《けつ》婚《こん》する前の淑子を、二人とも知らないというわけだ。
「——淑子さんのご主人の事《じ》件《けん》、知ってるでしょ」
「ええ」
「じゃ、ご主人にも会ったことないわけね」
「私は一度、見かけたことがありますよ」
「どこで?」
「増口さんに何か物を届《とど》ける用で、会社まで行ったんです。そのときに、お二人が出て来られるのを見ました」
「二人……。つまり、田村さんと、淑子さんね?」
「そうです」
「じゃ、一《いち》応《おう》、淑子さんの顔もそのときに見たわけね」
「チラッとですけど」
それでは、とても、良く似《に》た別人かどうか判《はん》断《だん》はつくまい。
しかし、考えてみれば妙《みよう》な話である。夫が行方不明で、傷《しよう》心《しん》の花《はな》嫁《よめ》さんが別《べつ》荘《そう》にこもるのは分るとしても、身の回りの世話をさせるのに、わざわざ、全くなじみのない者を選ぶというのは、おかしい。むしろ、気心の知れた人間の方が、心が休まるのではないか。
「どうして、お手伝いの人を替《か》えたのか、知ってる?」
と亜由美は訊《き》いてみた。
邦代は黙《だま》って肩《かた》をすくめただけだった。
「——どうもありがとう」
と、亜由美は言った。「淑子さん、気落ちしてるでしょう。よく面《めん》倒《どう》みてあげないと」
「そうですね。でも——」
と邦代がクスッと笑う。
「どうしたの?」
「いいえ、ご主人が姿《すがた》くらまして、殺されたらしいっていうんでしょ? その割《わり》には、お嬢《じよう》さん、太ってるんですもの」
「太ってる?」
「ええ。本当はご主人いなくなってホッとしてんじゃないのかな」
「太ってるって、どうして分るの?」
「洋服が合わないんですよ」
と、邦代は言った。「——この別荘の洋服ダンスに入ってる服、あれこれ合わせてみてるんだけど、どれも、ちょっときついんです。だから、全部新しく買い直さなきゃなんないみたい。いくつかは私、もらって自分用に直しちゃおうと思って。お金持は、新しく作っちゃうんでしょうけど、私たちは、そんなお金ありませんものね」
洋服が合わない。——女《じよ》性《せい》の服は、ちょっとサイズが違《ちが》っても着られない。
別人ならば、着られなくて当然だろう。
これは、淑子にとってはマイナスの材料である。そして、お手伝いに、知らない者を入れたこと。
淑子を本物だと信じかけていた亜由美だったが、どうも、形勢は逆《ぎやく》転《てん》しつつあるようだ。
「でも、どうしてそんなこと訊《き》くんです?」
と、邦代が言った。
「いいえ、別に。——ただ、淑子さんのことが心配でね。いなくなったご主人を知ってたものだから」
「そうですか。私、ああいうダサイ人って好《す》きなんだな」
ダサイ、か。——亜由美は苦《く》笑《しよう》した。
二階へ上って、自分の部屋のドアを開ける。まあ、収《しゆう》穫《かく》ゼロでもなかった。
「——おい」
急に声をかけられ、キャッと飛び上りそうになった。
「有賀君!」
有賀が、シャツとパンツのスタイルで、ドアの陰《かげ》に立っていた。「——何してるのよ! 出てって! 私のことを——」
「違うんだ! 落ち着いてくれよ」
有賀は必死の形《ぎよう》相《そう》で、「廊《ろう》下《か》に誰《だれ》かいなかった?」
「いないわよ。どうして?」
「じゃ、諦《あきら》めたのか……」
有賀がホッと息をつく。
「何かあったの?」
「いや……びっくりしたぜ。ぐっすり眠《ねむ》ってたんだ。そしたら——何だか気配ってやつだな。誰《だれ》かいるな、と思った」
「部屋の中に?」
「うん。別にこっちは鍵《かぎ》なんてかけてないしさ。目を少し開けると、何か白いものが立ってて——」
「まさかお化けじゃ……」
「違《ちが》うよ。暗いから、ぼんやりしか見えないんだ」
「よかった!」
亜由美は胸《むね》を撫《な》でおろした。危《あぶ》ないことが好《す》きなくせに、幽《ゆう》霊《れい》とか、その手の話には弱いのである。
「見てると、女らしい。てっきり君だと思った」
「私が行くわけないでしょ」
「だって他に思い当らないじゃないか」
と、有賀はベッドに腰《こし》をかけた。「スルッと音がして、女がネグリジェを脱《ぬ》いだらしい。僕《ぼく》のベッドの方へ近《ちか》寄《よ》って来て、毛布の中へ入って来るんだ」
「そこで目が覚めたとか言うんじゃないでしょうね」
「まぜっ返すなよ。女の顔が間近に来て、目を開くと——」
と、一息ついて、「増口淑子じゃないか」
「淑子さん?」
亜由美は目を丸《まる》くした。「嘘《うそ》でしょ!」
「本当だよ。こっちはびっくり仰《ぎよう》天《てん》、ベッドから這《は》い出した。そしたら、彼女《かのじよ》、裸《はだか》で追って来るんだ。で、廊《ろう》下《か》へ飛び出して、君の部屋へ逃《に》げ込《こ》んだってわけさ」
「そんなことって……。あの淑子さんが!」
「きっと、すぐ旦《だん》那《な》がいなくなって、欲《よつ》求《きゆう》不《ふ》満《まん》なんだな」
「でも、だからって、むやみやたらと男の人のベッドに潜《もぐ》り込《こ》むなんて……」
「二《に》枚《まい》目《め》だからじゃない?」
「誰《だれ》が?」
と亜由美が訊《き》いた。
「傷《きず》つくな、僕は」
「どうでもいいから、もう部屋へ戻《もど》ってよ」
「今夜だけここにいてもいいだろ? 何もしないからさ」
「だめだめだめーっ!」
「分ったよ! そんなかみつきそうな顔すんなってば」
有賀はあわてて、亜由美の部屋を出て行った。