——奇《き》妙《みよう》だわ。
眠《ねむ》いはずなのに、一向に眠りは亜由美を訪《おとず》れては来なかった。
亜由美は、暗い天《てん》井《じよう》をじっと眺《なが》めた。
増口淑子。いや、今はまだ田村淑子と言うべきか。
——そのイメージが、あまりにバラバラなのだ。
田村の葉書に涙《なみだ》ぐむし、田村のことをあれこれ知りたがり、彼が死んだとは信じたくないらしい。その一方で、有賀のベッドへ入り込《こ》もうとする。
本物らしいかと思えば、偽《にせ》物《もの》らしい。
一体どれが本当の淑子なのだろうか?
しかし、ここまでのところでは、どうも、別人の可《か》能《のう》性《せい》の方が高いような気がする。もちろん、確《たし》かな証《しよう》拠《こ》があるわけではないにしても。
ともかく、いくつかの事実はつかんだのだから、これを武居に話して、今後のことを相談してみよう。
「さて、寝《ね》なきゃ……」
亜由美は目をつぶった。そう眠くはないがじっと目を閉《と》じていれば眠れるだろう。
そう言えば、ゆうべは、あのドン・ファンがベッドに入り込《こ》んで来て、一晩中ろくに寝てないのだ。——ドン・ファンか。一体どこへ行ったんだろう?
「クゥーン」
——亜由美はベッドに起き上った。今の声は……ドン・ファンだ!
「ドン・ファン?——ドン・ファン、どこなの?」
どこから聞こえて来たのか、はっきりしない。しかし、そう遠くでもなさそうである。
「ドン・ファン!——どこにいるの?」
返事はなかった。亜由美はベッドから出て、部屋の明りを点《つ》けると、服を急いで着た。
廊《ろう》下《か》にいるような声だったけど……。
廊下へ出てみる。——犬も人も、影《かげ》も形もなかった。
「ドン・ファン。——ドン・ファン?」
低い声で、囁《ささや》くように呼《よ》びながら、亜由美は廊下をゆっくりと歩いて行った。
しかし、ドン・ファンの姿《すがた》はどこにもない。
「空耳かしら」
いや、そんなことはない! 確《たし》かに聞こえたのだ。
あれは、ドン・ファンの声に違《ちが》いない。
すると、この別《べつ》荘《そう》のどこかにいるのだ。なぜ、林の中から、ここへ来られたのだろう?
——廊下の端《はし》まで来て、亜由美は諦《あきら》めて戻《もど》ろうとした。
不意に、目の前のドアが開いて来た。亜由美はあわてて壁《かべ》にピタリと身を寄《よ》せた。
幸い、ドアが亜由美の側へ開いて来たので、気付かれずに済《す》んだようだ。
出て来た男が、
「じゃ、お嬢《じよう》さん、おやすみなさい」
と挨《あい》拶《さつ》した。
神岡である!——さっきは邦代で、今度は淑子か。忙《いそが》しいことだ。
いや、たぶん、淑子に呼《よ》ばれて来たのではないか。有賀の所で、思いを果《はた》せなかった淑子が、いわば「代役」として、神岡を呼んだのだろう。
「おやすみ」
と淑子の声がした。
神岡が階《かい》段《だん》の方へ歩いて行く。淑子はずっと見送っているらしかった。——神岡が見えなくなったのだろう、淑子はドアを少し閉《と》じかけてから、
「塚川さん、おやすみなさい」
と言ってドアを閉《し》めた。
亜由美は、返事もできずに、ポカンとして、閉じたドアを見つめていた……。
自分の部屋へ戻《もど》って、亜由美はかけ金をかけた。
やれやれ、気付かれちゃったのか。しかし、何も好《この》んで立ち聞きしていたわけではない。ちゃんと、訊《き》かれれば事《じ》情《じよう》は説明できるのだが。
だが、淑子が、田村のことを案じながら、他の男に抱《だ》かれるという神《しん》経《けい》が、亜由美には分らない。
田村のことを心配していたのも口先だけのことか、と、不《ふ》愉《ゆ》快《かい》になって、早々にベッドへ潜《もぐ》り込んだ。
目を閉じて——眠《ねむ》れるな、と思った。
ふと、足の先がムズムズする。
「ん?」
足をのばしてみる。何やら柔《やわ》らかくて、あったかいものに触《ふ》れた。
もしかすると……。
「ドン・ファン?」
亜由美は毛布をめくった。
「クゥーン」
という声がして、ドン・ファンが亜由美の胸《むね》の上にのって来た。
「ちょっと——重いわよ。どいてったら……いやだ、ほら——」
ペロペロと舌《した》で顔をなめられて、亜由美は笑《わら》い出してしまった。
「ドン・ファン……どこに行ってたの? いやね、心配させて!」
ドン・ファンは、亜由美にぴったり寄《よ》り添《そ》って、快《こころよ》さそうに鼻声でないた。
「甘《あま》えちゃって——こいつ」
こうもベタベタくっつかれては、怒《おこ》るに怒れない。
「さ、今夜はもう寝《ね》るわよ」
と、亜由美は言った。
しかし、よくこの部屋にまで入って来れたものだ、と亜由美は思った。どこをどう通って、外から入って来たのか。
「お前に口がきけたらね」
と、亜由美は言った。「おやすみ、ドン・ファン」
「クゥーン」
と、ドン・ファンは応《おう》じた。
今日こそは。
亜由美は、ドン・ファンを抱《だ》いて、朝食の席へと降《お》りて行った。
ドン・ファンが、淑子にどういう態《たい》度《ど》を取るか、それが大きな決め手になる。
「おはよう」
と、食堂へ入って行くと、もう有賀が席について、せっせとオムレツを食べていた。
「早いのねえ」
「うん。腹《はら》減《へ》ってね。それに、家じゃこんな朝飯、食えないからね。——おい、その犬——」
「ゆうべ見付けたの。——ねえ、淑子さんは?」
「さあ、まだ見ないよ」
そこへ、邦代が入って来た。
「おはようございます。卵《たまご》はどうしますか?」
「あの——淑子さんは?」
「お出かけになりました」
「出かけた?」
亜由美は訊《き》き返した。
「ええ、今朝、ずいぶん早く起きて来られて、急に思い立って、出かけるから、とおっしゃって……」
「どこへ?」
「さあ。何もおっしゃいませんでした」
と、邦代は言った。「——卵の方は?」
「え?——あ、あの——スクランブルに……」
淑子が出かけてしまった。——あまりに突《とつ》然《ぜん》ではないか。
ゆうべの、神岡とのことを知られているので、亜由美と顔を合わせたくなかったのだろうか?
それとも、このドン・ファンのせいか。
「残念だわ。せっかく、この犬と対面できると思ったのに」
「帰りを待つか?」
「そんなことできないわ。今日中に帰るかどうかも分らないのに」
「あ、そうか」
「また出直して来る他、ないようね」
——朝食を終えると、ドン・ファンにも少し紅《こう》茶《ちや》を飲ませた。
邦代がすっかり面白がって、あれこれと食べ物をやっていた。
「じゃ、神岡さんも、淑子さんと一《いつ》緒《しよ》に?」
と、亜由美は訊《き》いた。
「ええ、もちろん神岡さんの車で」
と邦代は言って、「あ、そうそう。お客様の分は、ハイヤーを呼べと言われています。お帰りのときはおっしゃって下さい」
「——豪《ごう》勢《せい》だなあ」
有賀がため息をつく。
「そんなことより、ゆうべ、あの後は大丈夫だった?」
「うん。ぐっすり眠《ねむ》った。ちゃんとかけ金をかけて、ドアを押《おさ》えといたんだ」
「オーバーね」
と、亜由美は笑《わら》った。
「これからどうする?」
「一《いつ》旦《たん》家へ帰らないと。このドン・ファン君を連れちゃいけないでしょ」
「そうか。僕《ぼく》は大学へ直《ちよく》接《せつ》行くかな」
「珍《めずら》しい。勉強したくなったの?」
「おい、珍しいはないだろ」
「私、今日は休《きゆう》講《こう》にする」
「何するんだい?」
「武居さんに会うわ。この報《ほう》告《こく》もしなきゃならないからね」
「あいつか」
と、有賀はいい顔をしない。「僕《ぼく》も行くよ。ボディガードだもの」
「もっと危《あぶ》ない所へついて来てよ」
と、亜由美は言った。「武居さんなら安心よ」
「分るもんか」
と、有賀は腕《うで》を組んだ。
「やあ!」
ホテルのロビーへ入ると、武居がすぐに二人を見付けてやって来た。
「お仕事中にすみません」
「いいんだよ。この時間はまだ比《ひ》較《かく》的《てき》楽《らく》なんだ」
「淑子さん、どこか他の別《べつ》荘《そう》あたりへ移《うつ》ったようですわ」
「本当かい? 初耳だな」
「おかげで、ドン・ファンに会わせる機会がなかったの」
「まだチャンスはあるよ」
と武居は言った。
亜由美が昨日の一部始終を聞かせると、武居は肯《うなず》いていたが、
「大分核《かく》心《しん》に迫《せま》ったね」
と、微《ほほ》笑《え》んだ。
「でも、もうお手上げ。これ以上は調べられないわ」
「そうだね。無《む》理《り》しちゃいけない。また何かあったら——」
ウエイターがやって来た。
「武居様、お電話が入っております」
「ありがとう。——誰《だれ》かは分らないか」
「男の方で、ドイツからだとか」
「ドイツ?」
「はい。——あ、田《ヽ》村《ヽ》というお名前でした、確《たし》かに」
とウエイターは言った。