「全くもう、人を馬《ば》鹿《か》にしてるわ!」
聡子はプンプンである。
「そう怒《おこ》らないの。犬なんだから」
「それにしたって……。ドン・ファンとはよくつけたもんね」
当のドン・ファンは涼《すず》しい顔で、寝《ね》そべっていた。
「聡子、あなたは何してたの、こんな暗い所で?」
「亜由美が来るのが遅《おそ》いんだもの、昼《ひる》寝《ね》してたのよ」
「こんな夕方に?」
「疲《つか》れたから横になってたの、その椅《い》子《す》並《なら》べて。そしたら、いつの間にか眠《ねむ》っちゃってたわけ」
「呑《のん》気《き》ねえ。——ま、遅《おく》れたのは悪い。で、何の話なの?」
「あ、そうだった。忘《わす》れてたわ」
大体が太目、大《おお》柄《がら》な聡子である。見かけ通りに大らかで呑気なのだ。
「桜井さんが殺されたときのことで、何か気が付いたって言ったじゃない」
「それくらい憶《おぼ》えてるわよ!——あのね、この前色々話したでしょ、ここから廊《ろう》下《か》を見てれば誰《だれ》もあの部屋へ入れなかったはずだって」
「うん」
「それに絶《ぜつ》対《たい》間《ま》違《ちが》いないと思うの。だから、桜井さんは、私たちが行く直前に殺されたんじゃないかと思うのね」
「直前って言っても、私たち、階《かい》段《だん》で会って、そのまま上って行ったのよ」
「だからさ、犯《はん》人《にん》が私たちの中にいるとしたら? それしか考えられないじゃない!」
「……私たち?」
亜由美はポカンとして、「つまり——私と聡子のこと?」
「いやあね、どうして私が桜井さん殺さなきゃなんないの?」
「じゃ、誰《だれ》のこと、『私たち』って?」
「この部屋にいた連中よ。社会科学部のメンバー」
亜由美は目をパチクリさせた。
「聡子! 大《だい》胆《たん》なこと言うわねえ」
「論《ろん》理《り》的《てき》帰《き》結《けつ》よ」
と、言い慣《な》れない言葉に舌《した》をもつれさせながら、
「つまり、ここにいた連中には、桜井さんが誰《だれ》かを待ってることが分ってたはずでしょ。それを見て、桜井さんがあなたと会ったらまずいと思ったかもしれない」
「でも、どうやって殺すの?」
と、亜由美が言った。「誰も席を立たなかったって、あなた言ったじゃないの」
「そうよ。だけど、帰《ヽ》り《ヽ》際《ヽ》にならできるんじゃない?」
「帰り際《ぎわ》——」
「ね、みんなゾロゾロとここを出る。階《かい》段《だん》を降《お》りて行くでしょ。そのとき、わざと少し遅《おく》れて部屋を出て、歴史部の部屋まで走り、桜井さんを刺《さ》して、また階段へと駆《か》け戻《もど》る。みんなノロノロ降りてるもの。追いつけると思うわ」
亜由美はしばらく考え込《こ》んだ。——確《たし》かに、かなり離《はな》れ技《わざ》ではあるが、不《ふ》可《か》能《のう》ではなさそうだ。
「どうかしら?」
と、聡子は目を輝《かがや》かせている。
殺《さつ》人《じん》事《じ》件《けん》が楽《たの》しくて仕方ない、などと言っては叱《しか》られそうだが、何しろ好《こう》奇《き》心《しん》の強い年代なのである。
「一つ、やってみようか?」
と、聡子が言った。
「そうね」
亜由美は肯《うなず》いた。「じゃ、私の方が身軽だから、犯《はん》人《にん》の役をやってみる」
「何よ、私がよっぽど重たいみたいじゃないの」
と、聡子はちょっとむくれて、「ま、軽《ヽ》い《ヽ》とは言いませんけどね」
「文《もん》句《く》言わないで。ね?——じゃ、あなたが先に出る。私はその後。あなたが階《かい》段《だん》を降《お》り始めたら、走るわ」
「OK。おしゃべりしながらだから、かなりゆっくりよ」
「じゃ、いい?——出て」
聡子がヨッコラショという感じで廊《ろう》下《か》へ出て、階段を降り始める。亜由美は一気に歴史部の部屋へと走った。ドアを開け、衝《つい》立《たて》を回って、桜井みどりの立っていた窓《まど》際《ぎわ》に行き、すぐに引き返した。廊下へ出て、階段へと走る。
聡子はもう二階に着いていた。
「——だめだ。こんなに早くできないわよ」
息を弾《はず》ませながら、亜由美は言った。
「そうかなあ。亜由美、動作が鈍《にぶ》いんじゃない?」
「失礼ね! だって、考えてみなさいよ、桜井さんを刺《さ》して、そのまますぐ戻《もど》ってこれる?」
「待って!」
と聡子は言った。「ね、亜由美と会ったの、この辺だっけ?」
「ええと——私は二階から三階へ上りかけてたわ」
「そうよ! そしてここでちょっと立ち話して、あなたが上りかけた」
「それを聡子が呼《よ》び止めて追いかけて来たわ」
「それなら時間はあったかもしれないわよ。私たち、しゃべりながら三階へ上ったでしょ。入れかわりに降りて来る人がいても、気が付かなかったんじゃない?」
「気が付いたわよ、きっと」
「でも、社会科学部の人なら、降りて来て当り前だもの」
「じゃ……聡子憶《おぼ》えてる?」
「分んないわ」
と聡子は首を振《ふ》った。「でも一人だけ、誰《だれ》かが遅《おく》れて来たのよ。きっとそうだわ」
亜由美は考え込《こ》んだ。確《たし》かに、聡子の言う通りかもしれない。それ以外に可《か》能《のう》性《せい》はないだろうか?
「——でも、聡子が言う通りだとすると、犯人が社会科学部の人間だってことよ」 「それらしき人、いるの?」
「さあ、分んないけど、別に犯《はん》人《にん》になっていけないってこともないでしょ」
「聡子も凄《すご》いこと言うわね、割《わり》と」
亜由美は苦笑した。「もし本当だったら、大変じゃないの」
「でも他に考えられないじゃないの」
「ウーン」
亜由美は考え込んだ。「——で、これからどうするの?」
聡子は肩《かた》をすくめた。
「そこまで考えてないわ」
「じゃ、こうしましょう。まだ、今、この考えを警《けい》察《さつ》へ話すのは早すぎるって気がするの」
「そうね」
「あのとき、一《いつ》緒《しよ》にいた人たち——社会科学部のメンバーの名前、書いてみてくれる?」
「いいわよ。それをどうするの?」
「さあ、どうしようかしら。ともかく、私に任《まか》せて。何か考えるから」
「了《りよう》解《かい》」
聡子は社会科学部の部屋に戻《もど》ると、メモ用紙に、名前と学年を書きつけた。
「——これで誰《だれ》も落ちてないと思うわ」
「じゃ、もらっとくわ。聡子、帰らないの?」
「私、ちょっとやらなきゃいけないことがあるの。明日までに会合の資《し》料《りよう》作んないと」
「じゃ、先に帰るわよ」
「どうぞ」
「——ほら、ドン・ファン、行くわよ」
と、亜由美が呼《よ》びかけると、床《ゆか》に寝《ね》そべっていたドン・ファンが、大きな欠伸《あくび》をしながら、立ち上った。
「ねえ、これが助手で大丈夫なの?」
と、聡子が笑《わら》いながら言った。
亜由美がドン・ファンを連れて行くと、聡子もつられたのか、大欠伸をした。
「やあだ……」
と、呟《つぶや》いて、「さて、やっちまわないと……」
と、雑《ざつ》然《ぜん》としている机《つくえ》に向った。
「この資料の……こことここ……。これはコピーを付ける、と。この次には……これが来るのか?」
階《かい》段《だん》を、亜由美の足音が遠ざかって行く。ドアが、少し開いたままになっていた。
聡子はあまり器用な方ではない。せっせと切《き》り貼《ば》りしているのだが、巧《うま》く切れなかったり、貼ったのが歪《ゆが》んだり、なかなか巧くできないのである。
「苛《いら》々《いら》しちゃうな、もう!」
と、グチった。
ドアがキーッと鳴った。ちょうど、微《び》妙《みよう》な貼《は》りつけ作業中だった聡子は、振《ふ》り向かずに、
「亜由美なの?」
と訊《き》いた。
返事はなかった。ドアが閉《し》まった。聡子が振り向くと同時に、明りが消えて、部屋の中は、真っ暗になった。
「誰《だれ》?……誰なのよ?」
聡子は声をかけた。「いたずらするの、やめてよ。——ねえ、誰なの?」
ゴトン、と音がした。椅《い》子《す》が動いた音だ。そして、引きずるような足音が近付いて来る。
聡子は、全身から血が失われていくような気がした。——誰《だれ》かが襲《おそ》おうとしている。
落ち着いて、落ち着いて。
一対一なんだからね。聡子は、机《つくえ》の上を手で探《さぐ》った。ハサミが触《ふ》れる。聡子はそれを握《にぎ》りしめた。
コトン、とまた何かにぶつかった音。相手は、少しずつ近付いて来ている。
逃《に》げなきゃ、と思った。このままここにいては、やられてしまう。
こっちも見えないが、向うだって見えないはずだ。——そうだ、部屋の中の様子なら、こっちの方が詳《くわ》しい。
聡子は、そっと横へ動いた。テーブルにぶつかるはずだ。——よし、これだ。
これを引っくり返せば、かなり凄《すご》い音がする。向うも混《こん》乱《らん》するはずだ。
ドアは真正面のはずである。左手の壁《かべ》に沿《そ》って行けば、着ける。
聡子はテーブルの端《はし》に手をかけた。
亜由美は、すっかり暗くなった大学の構《こう》内《ない》を歩いていた。
「早くおいで、ドン・ファン」
と振《ふ》り向く。
何しろ、ドン・ファンがいつにも増《ま》して、のんびりペースでやって来るのである。
「何やってるの?」
ドン・ファンは、じっと立ち止って、今出て来た棟《むね》の方を振《ふ》り向いている。
「——どうしたの?」
と、亜由美が戻《もど》って行くと、やおらドン・ファンが今来た方へと走り出した。亜由美はびっくりして、
「こら! ドン・ファン!」
と駆《か》け出した。「どこに行くのよ!——待ちなさい!」
あの犬、聡子のスカートの中が忘《わす》れられないのかしら、と思った。
「待って!——ドン・ファン!」
いかに短足のドン・ファンでも、本気になって駆けると、かなり早い。亜由美はフウフウ息を切らして、足を緩《ゆる》めると、
「勝手にしなさい!」
と怒《ど》鳴《な》る。
ドン・ファンが、クラブの棟《とう》の前に着くと、振《ふ》り向いて、ワンワンと吠《ほ》え立てた。
「何なのよ?」
と、歩いて来て、亜由美は言った。「何か忘れもの?」
そのとき、ドシン、と何かが倒《たお》れる音がして、
「キャーッ!」
と悲鳴が響《ひび》き渡《わた》った。
「聡子だわ! おいで!」
亜由美も夢《む》中《ちゆう》で階《かい》段《だん》を駆け上った。もちろんドン・ファンも続いたが、とても亜由美と一《いつ》緒《しよ》には上れない。
「聡子!——聡子!」
亜由美が社会科学部のドアを開けると、廊《ろう》下《か》の光が射《さ》し込《こ》んで、聡子が、ひっくり返った机《つくえ》や椅《い》子《す》の間に倒れているのが目に入った。
「聡子——」
と足を踏《ふ》み入れたとたん、亜由美は後頭部を一《いち》撃《げき》されて、そのまま闇《やみ》の中へ放り出されてしまった。
——何やら、冷たいタオルで顔をこすられているような感じがして、亜由美は目を開いた。目の前にドン・ファンの顔がある。
「——あんたがなめてたの?」
と言いながら、体を起こそうとすると、頭がズキッと痛《いた》んで、あ、と顔をしかめる。
どうなったんだろう? ここは?
周囲は暗かった。そして廊《ろう》下《か》の光が洩《も》れて来る。
そうだ。ここは社会科学部の部室で……聡子が……。
「聡子!」
亜由美は、痛む頭をかかえつつ、立ち上ると、ドアの方へよろけながら歩いて行き、明りをつけた。
聡子が、床《ゆか》に倒《たお》れている。駆《か》け寄《よ》ると、額から血が一《ひと》筋《すじ》、顎《あご》へ流れ落ちていた。
「聡子! しっかりして!」
亜由美が抱《だ》き起こすと、聡子はウーン、と呻《うめ》いた。
「生きてるんだわ! 良かった!」
亜由美もかなりあわてていた。
「ドン・ファン、早く救《きゆう》急《きゆう》車《しや》を呼《よ》んで!」
と叫《さけ》んでいたのである。
「——そうなの。私もちょっとけがしてね」
と、電話で亜由美が言うと、母親の方は、
「あら、入院?」
と訊《き》き返して来た。
「ううん、そんな大けがじゃない。簡《かん》単《たん》に手当すればいいみたい」
「じゃ、今夜、帰るのね?」
「分んないわ。聡子の具合次第。もうしばらくは病院にいる」
「分ったわ。今夜、出かけようと思ってたから。そういうことなら、しばらく帰らないわね。じゃ、お友達に家へ来ていただきましょ」
呑《のん》気《き》なことを言っている母親にムッとして、
「娘《むすめ》がけがしたんだから、少し心配しなさいよ」
と文句を言った。
「だって、けがは顔じゃないんだろ? それなら、お見合いには差《さ》し支《つか》えないから」
——母の発想にはついて行けない。
亜由美が電話を切って、聡子の病室の方へ戻《もど》って行くと、見たことのある男が、医者としゃべっていた。
「殿永さん!」
「やあ、災《さい》難《なん》でしたね」
殿永部《ぶ》長《ちよう》刑《けい》事《じ》は、いつもと変らぬ微《び》笑《しよう》を浮《う》かべている。
「よく分りましたね!」
「あの大学でまた事《じ》件《けん》、というのが耳に入ったんです。けがしたとか?」
「殴《なぐ》られたんです、頭を」
「災難でしたねえ」
「私より聡子の方が心配です」
「ああ、今、医者と話しました。命に別《べつ》状《じよう》はないそうですよ」
「よかったわ!」
亜由美は胸《むね》を撫《な》でおろした。
「強く頭を打ってるそうですが、レントゲンの結《けつ》果《か》、ひびも入っていないということです。他にも特《とく》に後《こう》遺《い》症《しよう》は出ないだろうという話でしたよ」
「聡子、石頭だから。良かったわ、でも」
「一体何があったんです?」
と、殿永が訊《き》いた。
亜由美は、ちょっと迷《まよ》ったが、しかし、誰《だれ》かが聡子を襲《おそ》ったことは間《ま》違《ちが》いないのだ。特に、亜由美が社会科学部の部室を出てすぐにそれが起っている。
つまり聡子を襲った人間は、亜由美と聡子の話を聞いていたのだろう。そして聡子が一人になったとき、襲いかかった……。
それは、聡子の言った推《すい》理《り》が正しいということではないだろうか。——断《だん》言《げん》できないまでも、少なくともその可《か》能《のう》性《せい》はある。
「実は、私たち、桜井さんが殺された事件について、ちょっと考えがあって——」 殿永は興《きよう》味《み》を示《しめ》した。
亜由美は、聡子の説明を、そのまま殿永を相手にくり返した。
「——もちろん、いずれにしても、かなりギリギリの離《はな》れ技《わざ》なんですけど、でもやってみるとできないこともないみたいなんです」
「しかし、危《あぶ》ないですねえ」
と殿永は苦《く》笑《しよう》しながら言った。「あなた方も、まあ軽いけがだから良かったようなものの、これが命でも落としたら、私が責《せき》任《にん》を感じますからね。何かやろうと思ったら、ぜひ私に知らせて下さい」
「はあ……」
そう言われると、亜由美としても、一言もない。しかも、実《じつ》際《さい》には、もっと危《あぶ》ないことをやっているのだから。
「その、社会科学部のメンバーのメモはお持ちですか?」
「ええ。——これです」
殿永はメモを受け取ると、
「預《あず》かっておきましょう」
とポケットへ入れて、「ああ、田村さんという方が、見付かったそうですね」
「ええ、そうらしいです。良かったわ、本当に」
「三、四日の内には帰国するでしょう。となれば、今度の事《じ》件《けん》の真相も、明らかになるかもしれません」
「そうですね。そうなってくれるとありがたいんだけど……」
と、亜由美は、独《ひと》り言のように呟《つぶや》いた。
「お宅《たく》までパトカーで送らせましょうか?」
と殿永が言った。
「あ——いえ、私、もう少し聡子のそばについています」
「意《い》識《しき》が戻《もど》ったら、事《じ》情《じよう》を訊《き》きに来ます」
「はい。あ、そうだわ。あの——」
「何ですか?」
「犬を一《いつ》匹《ぴき》、家へ連れてっていただけません?」
殿永が目を丸《まる》くした。