「参ったよ……」
武居が言った。
ホテルのロビーである。
記者会見した成田のホテルではなく、武居のホテルへ戻《もど》って来ていた。
もう夜になっている。武居は、大きくため息をついて、亜由美を見た。
「——どうだい、お腹《なか》空《す》かない?」
「そう言われてみれば、多少……」
「一《いつ》緒《しよ》に食べよう。こっちも今日は食事どころじゃなかったものな」
全く、その点は、亜由美も同感だった。
二人は、フランス料理の店に入って、奥《おく》まった席に着いた。
「いいか、ここに電話があっても、絶《ぜつ》対《たい》に俺《おれ》はいないからと言えよ」
武居はウエイターに言った。「たとえ友人だと言ってもだ」
「分りました」
武居はメニューを広げて、
「記者だというと出てくれないから、大学のときの友人で、とか言うんだよね。全く、大した連中だ」
亜由美が軽《かる》目《め》に魚料理を頼《たの》んだのに対して、武居は、ステーキを注文して、
「苛《いら》々《いら》してると腹《はら》が減《へ》るんだ」
と言った。
真《ま》面《じ》目《め》な顔で言うのがおかしくて、亜由美はつい笑《わら》ってしまった。武居もつられたのか、一《いつ》緒《しよ》に笑った。
「——田村さん、どこへ行ったんですか?」
「都《と》内《ない》某《ぼう》所《しよ》さ」
「私にも教えてくれないんですか」
と、亜由美は武居をにらんだ。
「まあ勘《かん》弁《べん》してくれ。彼《かれ》はまだ入院治《ち》療《りよう》が必要な患《かん》者《じや》なんだ。話ができるまでに回《かい》復《ふく》したら、必ず会わせてあげるよ」
「信用しますわ」
「ありがとう。——さ、ワインが来た。乾《かん》杯《ぱい》といくか!」
景気をつけるように、武居は大げさな声を上げた。
「肝《かん》心《じん》の淑子さんはどこにいるんでしょう?」
「さあね。何しろ、別《べつ》荘《そう》はあちこちにあるし、しかも僕《ぼく》なんかの知らないのもいくつかあるはずだ」
「増口さんはご存《ぞん》知《じ》なんですか?」
「知らないと思うよ。知ってれば言うだろうからね」
「でも妙《みよう》な話ですね。娘《むすめ》がどこにいるのか分らない。しかも、偽《にせ》物《もの》かもしれないっていうのに、気にもしないなんて」
「あれが増口さん流の子育てなのかもしれないよ」
「それにしても——」
亜由美は、スープが来たので、言葉を切った。今は事《じ》件《けん》より、食《しよく》欲《よく》の方が重要であった……。
メインの料理が来て、ナイフを入れていると、ウエイターがやって来た。
「お電話でございます」
「おい、いないと言えって——」
と武居が言いかけると、
「いえ、こちらの方にでございます」
と、ウエイターは、亜由美の方へ微《ほほ》笑《え》みかけた。
「私に?——誰《だれ》かしら?」
「邦代、と言ってくれれば分る、と……」
「まあ、邦代さん?」
亜由美は急いで席を立った。
「もしもし、塚川亜由美です」
「あ、邦代です」
「何か?」
「お嬢《じよう》様《さま》が、ここへみえたようなんです」
「淑子さんが?」
「ええ、多分。お屋《や》敷《しき》の方から、至《し》急《きゆう》来るようにって電話があったんです。それで行ってみると、呼《よ》んでなんかいないって」
「じゃ、偽《にせ》の電話だったのね」
「そうらしいです。で、さっき、別《べつ》荘《そう》の方へ戻《もど》ってきたんですけど——」
「ご覧《らん》の通りです」
と、邦代は言った。
亜由美は、淑子の部屋の中を見回した。
洋服ダンスの扉《とびら》は開いて、中には一着の服もない。引出しも全部引出されて、空になっている。
「徹《てつ》底《てい》的《てき》ねえ」
と、亜由美は感心して言った。
「頭に来ちゃいますわ、私」
と、邦代はプンプン怒《おこ》りながら、「少し古い服をもらおうと思ってたのに」
そこへ、武居も上って来た。
「やあ、こりゃひどい」
「お宅《たく》の方では?」
「いや、何も知らないと言ってる。もちろん、ここのお手伝いさんたちを呼《よ》んだこともないそうだ」
「じゃ、やっぱり淑子さんが——」
「電話して来たのは、男? 女?」
と、武居が邦代へ訊《き》いた。
「男の声でしたよ」
「すると淑子さんじゃない。一体、誰《だれ》だろう?」
亜由美は首をひねった。——邦代がエヘンと咳《せき》払《ばら》いして、
「あの……もう一つあるんです」
と言い出した。
「何が?」
「運転手の神岡さん。あの人も、行方が分らないんです」
「ということは——つまり、神岡さんの運転するベンツで、淑子さんはどこかへ行っちゃったというわけね」
「そうらしいです」
「車自体は、そうそうめったやたらと走ってるわけじゃないからね。遠からず見つかるとは思うけど——」
「どこへ行くつもりなんでしょう?」
「見当がつかないわ」
「でも、失《しつ》踪《そう》にしても、変だと思いませんか?」
「何が?」
「これです」
亜由美は、空っぽの戸《と》棚《だな》やタンスを手で示《しめ》して、
「いくらひんぱんに着《き》替《か》える人でも、人目につかないように逃《に》げようというのに、何から何まで着るものを持って行こうっていうのは、おかしくありませんか」
「なるほどね」
「私も変だと思いましたわ」
と、邦代が言った。「だって、夏物、冬物、構《かま》わず持ち出してるんですもの」
「ねえ、邦代さん」
と、亜由美がふと思い付いた様子で、
「あなたに電話して来た男って、もしかしたら、神岡さんじゃなかった?」
「まさか!」
と、邦代は言った。「それなら分りますよ」
「でも作り声とか——」
「分りますよ。だって……」
と言いかけて、邦代はちょっと照れたように頭をかく。
そう言えば、彼女は神岡と「いい仲」なのだ。恋《こい》人《びと》の声なら、間《ま》違《ちが》えはしないだろう。
「それじゃ、やっぱり別の男……」
「一体誰《だれ》なんだ?」
と、武居がブツクサ言って、「ともかく、彼女《かのじよ》の行方を捜《さが》さなきゃ」
だが、亜由美の方は、なぜ淑子が、棚《たな》を空にしてまで、総《すべ》ての服を持って行ったのだろうか、という点に心が動いた。
そう小さな荷物ではないはずだ。そんなにまでして、なぜ運んだのか。
「——身体《からだ》に合わないのを知られないように、か」
と、武居が言った。
「それしか考えられませんね」
と亜由美も肯《うなず》く。「でも、理論的に考えると、やっぱり変です」
「何が?」
「こんなことしたら、それこそ、自分が偽《にせ》物《もの》だと白《はく》状《じよう》してるようなもんです」
「それはそうだけど……」
「私、何か別のわ《ヽ》け《ヽ》があったんじゃないかと思うんです」 「まだ分りません」
亜由美は首を振《ふ》った。「何だか頭の中がこんがらがって来て……」
「果《はた》してあの淑子さんは本物かどうか……」
二人が考え込んでいると、
「へえ、面《おも》白《しろ》い話ですね」
と邦代が言った。
亜由美と武居がハッとして、顔を見合わせた。しゃべってはいけないことを、邦代の前で、つい口にしてしまったのだ。
「じゃ、あのお嬢《じよう》様《さま》は、他の女なんですか?」
武居は渋《しぶ》々《しぶ》言った。
「かもしれないってことなんだ。——いいかい、この話は誰《だれ》にもしちゃいけない。分ったか?」
「分りました」
と、あっさり邦代は肯《うなず》いたが、武居はどうにも不安らしい。
仕方なく、一万円札《さつ》を何枚《まい》か、邦代の手に押《お》し付けて、やっと安心したようだった。
別《べつ》荘《そう》から、武居の車で送ってもらうと、亜由美が家へ着いたのは、もう夜中過《す》ぎであった。
「じゃ、田村さんと話ができるようになったら——」
「連《れん》絡《らく》する。約《やく》束《そく》するよ」
「お願いします」
車を出て、亜由美が家の方へ歩きかけると、
「ねえ、ちょっと」
と武居も車を出て来た。
「何ですか?」
振《ふ》り向いた亜由美に、武居はいきなりキスした。——とっさのことで、亜由美は何が何やら分らなかった。
「おやすみ」
武居は、そう言って車に戻《もど》った。
武居の車が走って行くのを、亜由美はポカンとして見送っていた。
家へ入ると、驚《おどろ》いたことに、母の清美がまだソファに座《すわ》っている。
「待っててくれたの?」
へえ、多少は母親らしいところもあるんだね、と居《い》間《ま》へ入って、つい笑《わら》ってしまった。
清美は、ソファでいとも気持良さそうに眠《ねむ》っている。TVが、とっくに放《ほう》映《えい》を終って、白い画面になっていた。