翌朝——と言っても昼近くだが、起き出して来た亜由美は、朝《ちよう》刊《かん》を広げて、目を見《み》張《は》った。
武居のつかませた何万円かは、どうやらむだになったようだ。
〈花《はな》嫁《よめ》は偽《にせ》物《もの》?〉
〈帰国した田村氏の発言とも符《ふ》合《ごう》〉
といった見出しが、派《は》手《で》に躍《おど》っている。
おまけに、邦代の写真まで、ちゃんと出ていて、サイズの合わない服……といった談話が掲《けい》載《さい》されていた。きっと大分謝《しや》礼《れい》をもらったのだろう。
これは大変だ。
もう週《しゆう》刊《かん》誌《し》あたりが動いているに違《ちが》いないし、田村の居《い》場《ば》所《しよ》を必死で捜《さが》しているだろう。
騒《さわ》ぎになる前に、一度田村と話したかったのだが……。
「——亜由美、電話よ」
と清美が顔を出す。
「はあい」
武居さんかな。昨夜《ゆうべ》のキスは、まだ何となく余《よ》韻《いん》が残っている。
「亜由美です」
「あ、塚川亜由美さんですか」
「そうですが……」
「〈週刊××〉ですが、田村さんの結《けつ》婚《こん》式《しき》に出席されましたね。そのときの花《はな》嫁《よめ》の印象などを一言——」
「失礼します!」
亜由美は叩《たた》きつけるように電話を切った。またすぐに電話が鳴る。
取ってみると、
「ええと、〈女性××〉ですが——」
「失礼」
と切ると、また鳴る。
頭へ来た亜由美は、受話器を上げると、
「いい加《か》減《げん》にしてよ!」
と怒《ど》鳴《な》った。
「ああびっくりした。どうしたんだい?」
「あ、有賀君か、ごめん。ちょっとね——」
亜由美が事《じ》情《じよう》を説明すると、
「何だ、そっちにも電話行ってるのか」
「そっちにも?」
「大学で待ち構《かま》えてるのが何人かいるぜ。それを教えてやろうと思ってさ」
「大学に? 呆《あき》れた!」
「今日は出て来ない方が良さそうだよ」
「そうね……」
いつもなら、出て来ない方がいいと言われりゃ飛びつくのだが、こういうときは反《はん》抗《こう》的《てき》になって、却《かえ》って出て行きたくなる。
「私、行くわ」
「ええ? 大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》かい?」
「頑《がん》として口を開かないから。——もし私に触《ふ》れる者がいたら、ボディガード、頼《たの》んだわよ」
「これは別口じゃないの?」
「いいから! じゃ、後でね!」
と電話を切って、「お母さん、もう電話出なくていいからね」
と言った。
「どうしたの?」
「週《しゆう》刊《かん》誌《し》がやかましいのよ」
「へえ」
清美はまじまじと亜由美を見て、「お前も週刊誌で取り上げられるようになったのかい?」
と言った。
大学へ行くと頑《がん》張《ば》ったものの、もうお昼である。あまり午後は授《じゆ》業《ぎよう》もない。
「やめとこうかな」
と呟《つぶや》いたが、とにかく、有賀へ行くと言ってしまった。
亜由美は、服を着《き》替《か》えて、家を出ようとした。その間にも、電話が五、六回は鳴った。
「じゃ行って来る」
と、家を出ようとすると、また電話が鳴った。「放っといていいよ」
「いいや、この電話は特《とく》別《べつ》だよ」
と、清美が電話を取った。「——ほら、亜由美、殿永って刑《けい》事《じ》さんよ」
亜由美は、母親の〈超《ちよう》能《のう》力《りよく》〉に仰《ぎよう》天《てん》した。
「やあ、塚川さん」
「あの——記事のことなんですけど……」
「いやびっくりしましたね。ともかく、まだ田村さんは眠《ねむ》り続けていて、話のできる状《じよう》態《たい》じゃないことを伝えようと思いましてね」
「どうもご親切に」
「こちらも困ってるんです。淑子さんも行方不明だし……」
殿永は、少し間を置いて、「淑子さんが偽《にせ》物《もの》じゃないかということは、あなたもご存《ぞん》知《じ》だったんですね?」
と訊《き》いて来た。
亜由美としては、どう返事をしていいものやら、迷《まよ》うところである。
「あの実は——」
と言いかけたとき、向うで、
「待って下さい」
と、言った。「——何だって?」
殿永の驚《おどろ》きの声が聞こえて来る。
「どこだ?——よし、すぐに行く!」
何か、かなりの緊《きん》急《きゆう》事《じ》態《たい》らしい。まさか、今度の事《じ》件《けん》のことでは、と思った。
「塚川さん、今、電話がありましてね」
「何か?」
「淑子さんの車が、海に転落しているのが発見されたそうです」
クレーンがきしむ。
「よーし、上げろ!」
と叫《さけ》ぶ声。
モーターが唸《うな》り、ワイヤーが、巻《ま》き取られて行く。ピーンと張《は》りつめたワイヤーが、少しずつ上って行くと、淑子のベンツが、水中から姿《すがた》を現《あらわ》した。
亜由美は、その光景に、どこかぞっとするものを感じた。
「あの中に淑子さんが?」
「それはまだ何とも」
と、殿永は言った。
ベンツの車体が水から完全に持ち上げられると、海水が、車体のあちこちから、滝《たき》のように流れ落ちる。
「もう少し上げろ。——OK。道路の上に回せ!」
クレーンが、ゆっくりと回転して、ベンツはまだ水をしたたらせながら、亜由美たちがいる、道の上に運ばれて来た。
「よーし、降《お》ろせ。——静かに。——静かに。——OK!」
ちょっと弾《はず》みがついて、ベンツは、ドシンと音をたてて路面に置かれた。そのとたん、ドアが、ガタンと音をたてて開いた。
「キャッ!」
亜由美は思わず声を上げる。
殿永が車へと駆《か》け寄《よ》った。
運転席に、神岡の死体があった。それが、ドアが開くと、外へ倒《たお》れて来たのである。
「あの……淑子さんは?」
と、亜由美は、恐《おそ》る恐る訊《き》いた。
「いません」
「じゃ……」
「海へ投げ出されたのか、それとも、もともと乗っていなかったのか……」
と、殿永は言った。
「死んだと見せかけるために?」
「かもしれません」
「でも……なぜ神岡さんが……」
「自殺する気ではなかったようですよ」
「というと?」
「刺《さ》し傷《きず》があります。背《せ》中《なか》です」
「刺し傷?」
「致《ち》命《めい》傷《しよう》かどうか分りませんけどね、ともかく、神岡を刺して、その上で車を海へジャンプさせた」
「淑子さんかしら? そんな恐ろしいことを——」
「偽《にせ》物《もの》なら、やりかねないかもしれませんよ。どうです?」
「ええ……」
亜由美は、もう水が流れ出てしまって、また今にも走り出しそうに見えるベンツを眺《なが》めた。
「一度ゆっくりお話しなくてはね」
と、殿永は言った。
亜由美は、殿永が考える時間を与《あた》えてくれたのが、嬉《うれ》しかった。
クレーンが、まだギシギシと音をたてて、外されたワイヤーが、空を横切って行った。