「すみません、どうも……」
亜由美はそう言って、殿永の顔を上目づかいに見た。
殿永は、いつもながらのおっとりした表《ひよう》情《じよう》で、何やらせっせと手帳にメモをしていた。
「あの……今まで隠《かく》していて、すみませんでした」
殿永があんまり黙《だま》っているので、亜由美はもう一度謝《あやま》った。
「え?」
と殿永が顔を上げて、「ああ、もういいんですよ。済《す》んでしまったことはしかたありません」
と手を振《ふ》った。
その手ぶりが大きかったせいか、レストランのウエイトレスがやって来て、
「追加のご注文ですか?」
と訊《き》いた。
「え?——あ、いや——それじゃ、アイスクリームを」
殿永は注文してから苦《く》笑《しよう》して、「ああいうときに、何でもないと断《ことわ》るのが悪いような気がしてね」
「気が弱いんですね」
亜由美は少し気持がほぐれて微《ほほ》笑《え》んだ。
「さて、一《いち》応《おう》、問題点を整理してみたんです」
と殿永は言った。「まず、田村淑子——増口淑子と言うべきかな、彼女が偽《にせ》物《もの》かどうかという点」
「田村さんはそう言っています」
「そう。それに父親も良く分らないと言っている。服のサイズが合わない。田村さんが帰国すると、彼女《かのじよ》の方は姿《すがた》を消した。一《いつ》緒《しよ》に行ったとみられる運転手は殺された。——これらの点を並《なら》べてみると、どうやら彼女が偽物らしいという結《けつ》論《ろん》が出ますね」
亜由美は肯《うなず》いた。
「でも、目的は何でしょう? 財《ざい》産《さん》かしら?」
「それしか考えられませんね。しかし、私が気になっているのは、そこじゃないんです」
と殿永は言った。
「というと?」
「——まあ、それは置くとして、次の問題は、あのハンバーガーチェーンの店にトラックが突《つ》っ込《こ》んだ一《いつ》件《けん》です」
「武居さんが狙《ねら》われた……」
「故《こ》意《い》か偶《ぐう》然《ぜん》かという問題が一つ。故意の犯行だとすれば、武居さんが狙われたのはなぜか」
「ただの事故ってことも、考えられないことはありませんね」
「そうでしょう? さて、次の問題は——」
「桜井みどりさんが殺された件」
「そうです。彼女《かのじよ》の一件については、分らないことだらけですよ。な《ヽ》ぜ《ヽ》殺されたのか? どうやって殺されたのか? 誰《だれ》に殺されたのか……」
「なぜ、という点はあんまり考えませんでしたわ。あの状《じよう》況《きよう》にばっかり気を取られていて」
「無《む》理《り》ありませんよ」
「彼女は何かを知っていたわけですね。——武居さんに近付かない方がいい、と言いましたけど、武居さんに何か秘《ひ》密《みつ》があるんでしょうか」
「そこなんですよ」
と殿永は言った。「あなたの話では、桜井さんが、武居に近付かない方がいい、と言ったということですが」
「ええ」
「桜井さんは、『武居に近付くな』と言ったのですか? 名前をあげて?」
亜由美は、思い出してみた。——あのキャンパスの芝《しば》生《ふ》で、桜井みどりと話をしていたのだった……。
「いいえ……確《たし》か……」
と、亜由美はゆっくりと言った。「武居さんに、とは言いませんでした。『あの男には』と言いましたわ」
「確かですね?」
「ええ。——でも、話の流れというか、それまで武居さんの話をしていたんで、当然武居さんのことだと……。彼女が別の男のことを言っていたとおっしゃるんですか?」
「可《か》能《のう》性《せい》の問題ですよ。どうですか、その場に他の男がいたとか、そんなことはありませんでしたか」
「いいえ、誰《だれ》も。——たぶん、桜井さんは武居さんのことを言っていたんだと思いますけど」
「分りました。すると、武居さんが怪《あや》しいとも考えられますね」
「でも、そんなことが……」
「一つ妙《みよう》なことがあります」
と、殿永は言った。「桜井みどりがあなたと話をした。そして、その後、講《こう》義《ぎ》中にあなたは呼《よ》び出された。それはお母さんが事《じ》故《こ》に遭《あ》われたという偽《にせ》の電話だったわけです」
「ええ」
「その偽電話の目的は何でしょう?」
「それは……」
亜由美は少し間を置いて、「桜井さんと会うのを遅《おく》らせるためです」
「そうでしょう。その間に犯《はん》人《にん》は桜井みどりを殺す決心をし、実行した。あなたを偽電話でおびき出したのは、その時《じ》間《かん》稼《かせ》ぎだった」
「それはそうでしょうね」
「では、犯人はなぜ、桜井みどりがあなたと会うことになっているのを知っていたんでしょう?」
亜由美は言葉が出て来なかった。——本当にそうだ! どうして今までそれを考えなかったのだろう?
「桜井みどりがあなたに会いたいと言ったのは、お昼休みですね」
「そうです」
「その後、午後の講義中にあなたは電話で呼び出された。つまり、その間に、犯人は、あなたが桜井みどりと会うことになっているのを知っていたことになります。その短い時間に、ですよ」
「すると……どういうことになるんでしょう?」
「分りません。しかし、武居に、それを知る機会があったとは考えにくい。そうじゃありませんか?」
亜由美は肯《うなず》いた。
「桜井みどりの事《じ》件《けん》については、もちろん、誰《だれ》が、どうやって殺したのかの問題が残っています。方法については、神田聡子さんが言ったようなやり方だったのか。その可《か》能《のう》性《せい》はありますが、いずれにしろ、かなりの離《はな》れ技《わざ》でした。それを敢《あ》えてやったのは、犯人側にとっても、かなり危《あぶ》ない瀬《せ》戸《と》際《ぎわ》に追いつめられていたからでしょう」
「何が何だか分りませんわ、もう……」
と亜由美はため息をついた。
「ともかく、桜井みどりの件《けん》にしても、それだけ分らないことがあるわけです」
「まだあるんですか?」
と、亜由美は少々くたびれて来て、言った。
「ええ。もう一人殺されていますからね」
「運転手の神岡ですね」
「そうです。彼《かれ》はなぜ殺されたのか」
「車ごと崖《がけ》から落として、事《じ》故《こ》と見せかけるつもりで——」
「事故と見せかけようとして、刺《さ》し殺す人間はいませんよ」
「そうですね。すぐに分ってしまう」
「田村淑子が、彼を殺したのか? それならば何のために? これも難《むずか》しいところです」
亜由美は考え込《こ》んでしまった。——この手の話が好《す》きな亜由美としても、現《げん》実《じつ》の事《じ》件《けん》となると、とても手に負えない。
「手がかりはいくつかあります」
と、殿永は言った。
「何ですか?」
「まず田村さんです。今はまだ話を聞いていませんが、田村さんから直《ちよく》接《せつ》話を聞くことができれば、いくらか真相は明らかになりそうですよ」
「そうですね。私も会いたいわ」
「それから、増口氏」
「淑子さんの父親ですね。あの人も何だかおかしいわ」
と亜由美は言った。「いくら何でも娘が本物かどうか分らないなんて——」
「いや、それはむしろありうることだと思いますよ」
と、殿永は言った。
「だって——」
「金持の生活というのは、我《われ》々《われ》には想《そう》像《ぞう》もつかないようなところがありますからね。まるで作り話としか思えない実話には事《こと》欠《か》きません」
「それじゃ、本当に増口さんは淑子さんのことを疑《うたが》っているんでしょうか?」
「私《わたくし》が興《きよう》味《み》があるのは、増口さんが、なぜ娘《むすめ》さんのことを偽《にせ》物《もの》かもしれないと思うようになったか、ということです」
と殿永は言った。
「そう言えば……そのことは何も言っていませんでしたわ」
「だから一つ訊《き》いてみたいんですよ」
殿永は腕《うで》時《ど》計《けい》を見ると、「実はこれから増口氏に会う約《やく》束《そく》になっているんです。一《いつ》緒《しよ》に行ってみますか?」
「よろしいんですか?」
と、亜由美は胸《むね》をときめかした。
「構《かま》いませんよ。もうあなたはこの事《じ》件《けん》に、いわば首までつかっているんですからね」
殿永の言葉は、亜由美には、何となく嬉《うれ》しいような、恐《おそ》ろしいような、複《ふく》雑《ざつ》な想いを引き起した……。